大事ななにか「こんな余分な損害出したの誰だよもう……って僕かぁ」
机の上に広げた書類を眺め、ラウリィ・ヒュランデル大佐そのひとは大きな溜め息を吐いた。
数字はラウリィを悩ませこそすれ責めることはない。死も生も数字になってしまえば、それは彼の見慣れた、損得勘定の対象でしかない。
先日の作戦で出した被害の後始末を行うラウリィとその部下たちは、よくも悪くも普段通りだった。物資の再手配など、仕事に追われ多少ぴりぴりとしてはいるが悲愴感はない。
「そういえば大尉は引退するそうですよ」
「だろうね。もう潮時だよ」
書類から目は離さないが、口を動かす余裕はある。とん、と判子を押して、処理を終えた申請書を箱へ放り込む。
「最近コ、……フラナガン一等兵見ないね、お休み?」
珍しいな、と言いながらまたペンを動かすラウリィに、部下は書類の処理をしながら淡々とした口調で答えた。
「一等兵なら怪我の療養中ですよ」
「……怪我?」
筆記を止めた手が、何故だか一度震えた。虫の知らせとでもいおうか、わけもなく胸の奥が冷える。
「ええ。この間の補給戦、で……」
言いかけた途中で、しまった、と言いそうな顔で部下が言葉を切った。ねえ、待って、とラウリィの声が震える。
「僕の、この間、……あの日の」
――参加していたのか!
あのとき率いた部隊は、ひとりひとり名前を確認出来る人数ではなかった。バディとはいえ所属は違うから、参加している作戦をいちいち把握してもいない。そもそもラウリィは普段戦場になど出ないのだからなおさらだ。
椅子を引っくり返さんばかりの勢いで立ち上がったラウリィの手元でインク壺が倒れ、書きかけの書類と新調したばかりの軍服の袖口が汚れたが、それを気にする風もなく(もしかしたら気付いていないのかもしれない)部屋の出口へ向かう。
「大佐!」
「後よろしく」
ほとんど走るように、ラウリィは部屋を後にした。
肩で息をしながらもラウリィが勢いよく医務室の扉を開くと、当直の衛生兵がぎょっとしたように振り返った。階級章を見て、慌てて敬礼する。
「なにかご用でしょうか、大佐」
「僕の相棒は?」
「……は」
「コナー・フラナガン一等兵はどこにいるのかって訊いてるの」
大股に詰め寄って早口に詰問するラウリィへ、兵士はしどろもどろに答えようとしたが埒があかない。苛々と眉を寄せ更に言葉を重ねようとしたその時、聞き覚えのある声がラウリィの耳に届いた。
「あれ、どうしてこちらに」
ひょいと衝立の向こうから現れ、白衣の裾を蹴るようにして歩み寄ってきた青年の姿に、僅かに表情を緩める。
「ゴドウィン上級大尉」
にっこりと人好きのする笑みを浮かべた青年に、ラウリィはどこかほっとしたように語調をやわらげた。が、すぐに焦りの兆した表情に戻り、今度は青年に詰め寄った。
「コナーくんは?」
「ここではなくて、外の病院にいますよ。……ご存じなかったんですか?」
「なんか秘密にされてたみたい」
ぱちくりと瞬きをしてから、それはよくないですね、と言いやる青年。手元の紙の端をちぎると、さらさらと何かを書き付けてラウリィへ寄越す。
「病院の住所と、部屋の番号です。行ってあげて下さい」
「! ありがとう!」
礼もそこそこに部屋を飛び出していったラウリィを、カルテを抱いたまま青年……カイル・ゴドウィン上級大尉は見送った。
病院へ到着したラウリィは、教えられた病室へまっすぐに向かい、居合わせた看護婦と共に入室を許され中へ入ると息を飲んだ。ゆっくりとベッドに歩み寄り、横に置かれていた椅子に座り込む。
「もう峠は越えたのですが、頭を強く打ったらしく意識が戻らなくて」
一瞬黙ってから、そう、と空気にとけて消えそうな声で相槌を打つラウリィ。じっと見下ろす先には、眠っている彼の相棒。その目がこちらを見ないのが、なんとなく落ち着かなくてラウリィは少し身動ぎした。
……それから数分後、ラウリィは院長室にいた。
「フラナガン一等兵の部屋を個室に移してほしいんだ」
「……は、ですが、部屋はいくらあっても足りない状況で」
「僕のお願い、きいてくれないの?」
言外に、軍の財布係を敵に回したらどうなるかわかってるんだろうな、と普段であれば考えられないくらい露骨に滲ませて、小首を傾げてみせる。
とはいえ院長もそう易々とうなずくわけにもいかず、しばらく押し問答が続いたところで苛立ちがピークに達したらしい。
「部屋代なら倍出すって言ってるんだよ、僕の言うことがきけないのか!」
声を荒らげた男に、院長は驚愕して言葉を失った。男が激昂するところなど初めて見たし、軽率に自分の要求を通そうとすることなどまずあり得ない。ラウリィ自身も自分の言動に戸惑ったらしく、咳払いをひとつした。
「……重傷者を追い出せって言ってるわけじゃないんだ。軽傷のくせ、大騒ぎして個室を占領してる子がいるでしょ」
――話は僕がつけるから。
そうして結局ラウリィの我が儘は通ってしまったのだ。
速やかに彼を個室に移した次の日、その部屋には簡素な(それでも病室にあるようなものに比べればはるかに上等な)机と椅子が運び込まれ、ラウリィは仕事の三分の一ほどをそこで行うようになった。勿論、外部に持ち出せないような機密に関わる仕事は基地で行っているが、通常の業務は早めに切り上げこの病室へ続きを持ち込んでいた。
とばっちりを受けたのはラウリィの部下である。基地と病室との往復を繰り返させられる部下が、我々が交代で付き添いに入って何かあればすぐに連絡すると申し出ても、ラウリィはこの我が儘を押し通した。
仕事上の無茶は言っても私的な我が儘を仕事に影響させたことはない彼のその様子に部下たちは違和感を覚えたが、仕事自体が普段に比べて滞るといったことはなかったため、表立って文句を言う者はいなかった。
意識がいつ戻るかもわからない己の相棒を待っているといえば美談には違いないのだが、今まで公私問わず犬のように扱ってきた相手への態度にしては奇妙である。だがそのおかしさにラウリィ自身は気付いていない。
気付いていない。
一月近くが経った頃、机で書類に目を通していたラウリィは、「それ」に気付かなかった。インク壺にペン先を入れるために視線を動かし、そこでようやく違和感に気付く。
ベッドに横たわっていた彼が、目を開けていた。
「コナーくん!? ……先生呼んできて!」
「はい!」
走っていく部下を背に慌ててベッドへ駆け寄るラウリィ。枕元にしゃがみ、相棒である少年の顔を覗き込んだ。恐る恐る伸ばした手が、指が少年の髪をすく。
「ああ……よかった」
「……大佐……?」
少年はまだ意識がはっきりしていないのか、伸ばされた手が遠慮なくラウリィの頬に触れた。
「どうして……泣いてるんですか」
「……え、」
虚を突かれたような声をもらしたラウリィは、少年の手を追うように自分の頬に触れ、指先が濡れたのに目をみはった。
「えっ、あれ、なんでだろ……」
困惑して身を引こうとしたその頬を、少年の親指が拭う。ラウリィの目が泳ぎ、それから相手を見た。
「……と、とにかく良かったよ。ごめんね、僕が、」
思わず謝ったラウリィは途中で言葉を切り、あの戦場を思い出してしまい拳を握り込む。
謝るな。顔を上げろ。……だが。
ここは戦場ではなく、部下も医者を呼びに行ったためいない。ぱちぱちと瞬きをすれば睫毛が涙をふるい落とした。
――涙を流して泣いたのはいつぶりだろう。ラウリィはぼんやりとそんなことを考えた。
「……君がいないとね、困る」
こまるんだ、と独り言のように、譫言のように呟いたラウリィを、緑色の目が見上げている。
「君が一番、君が……僕の、」
言い表すことの出来ない何かが喉に詰まってうまく喋ることが困難になり、ラウリィは口をつぐんだ。
――愛ではない。友誼でもない。執着、に近い気がする。これはなんだろう?
「……俺が、大佐の……一番?」
「うん、そう、みたいだ」
断言することには迷い曖昧に肯定するラウリィを見上げる少年の目が、眩しげに細められた。
「……そうですか」
そうですか、と繰り返してから長く息を吐き、少年は瞼を下ろす。ラウリィが、あ、となにか言いかけたその時、慌ただしい空気が廊下を近付いてくる。
小走りに部屋へ駆け込んできた医者と看護婦に押し退けられ、部屋の隅で手持ちぶさたにしているラウリィへ部下が声をかけた。
「大佐、後はお任せしましょう」
「……あ、ああ、うん」
部屋の外へ連れ出されながらラウリィは一度振り返ったが、医者たちの体に遮られて彼の姿は見えなかった。
その後、速やかに病室から仕事道具は撤去され、平常通りの仕事風景が戻ってきた。ラウリィは相変わらず数字の羅列を愛でているし、部下たちもそれに従っている。
少年は……コナー・フラナガン一等兵はまだ仕事への復帰は遠いが(強硬に退院したがるようならベッドへ縛り付けても構わないと伝えている)、ラウリィは特に見舞いへ行ったりはしていない。昏睡中の態度とはまったく違う様子に戸惑う者もいたが、むしろこちらの方が平時の彼らしくはあったため、大半の人間は違和感を覚えなかった。
ただ時おり、病室へはマーサという名のメイドがよこされ、様子を確認しているようだった。それは当然ラウリィの指示であるし、結局はとても気にかけているということだ。それがどういう感情に由来するものかは少年もメイドもラウリィ自身ですらもわかっておらず、なんとも言い難い気持ちで吐かれる溜め息が寿命をどれほど削っているかは定かではない。