二組のバディ コナー・ラウリィとエルジョ編 ……虚飾のドレスと灯りとさんざめく人々。その中でゲストの相手をし続けるのも辛い。舞踏会での立ち居振舞いは爺様に叩き込まれているとはいえ、疲れるものは疲れるのだ。特に、接待ともなれば。
知り合いに挨拶へ回ってくる、といって一旦辞したのがついさっきのこと。コナーくんを連れて会場をうろついていると、ふと一人の人物が目に留まった。
……やや小柄で、褪せた色の癖毛。立ち居振舞いの雰囲気。近付いていくにつれその正体に確信が持てたので、声をかけることに決めた。
「ジョエル」
呼び掛けると一瞬言葉が途切れたから気付いた筈なのに、また何事もなかったかのように話し続けるあたりずいぶん嫌われたものだ。その話し相手も、一瞬こちらを意識したようだがジョエルに倣って無視するあたり、肝がすわっている。
「聞こえてるんでしょ、ほら、僕一応きみより階級上なんだから敬って」
しつこく声をかけると振り向いたその表情は仮面で見えないが、渋面だろうことは想像に難くない。
「ああ……すみません、話に夢中になっていて」
その一歩後ろで軽く会釈をした青年は、ああ、ジョエルのバディだろうか。淡い色の髪が灯りに揺れたのを視界の端へ追いやり、改めてジョエルに向き直る。
「顔を合わせるのは久し振りだね、元気?」
「ええ、おかげさまで」
好意も敬意も感じられない、社交辞令です!と言わんばかりの語調。僕の斜め後ろでコナーくんが怪訝そうな、というか不機嫌そうな雰囲気になったのがわかる。
「今回は来ないんじゃないかと思ってたけど」
「部下に息抜きを勧められまして」
「へえ、いい部下だね」
「はい」
――この話題を膨らませる気の皆無さ!
淡々と受け答えするジョエルの後ろに控えている青年も特に口を出すつもりはないらしく、少し俯いて黙っている。階級差や年齢差は把握していないが、上司を立てる従順な部下、先輩を立てる素直な後輩、……いっそ貞淑な妻にさえ見える。顔も見えないのにこの雰囲気はなんだろう。
「……俺の連れになにか?」
少し視線を後ろへ向けすぎていたらしく、ジョエルの声に険が増した。さりげなく視線を遮るように体を移動させている、
「いや……なんでもない」
これは下手を打ったかもしれない。適当なところで退散した方がよさそうだ、と意識を逸らしながら当たり障りのない言葉を選ぼうとしたのがまずかった。
「君も大変だろうから、なにか困ったことがあったら僕に相談して、」
――しまった。
言った瞬間彼のまとう空気が変わり、片手が不意に動いてテーブルの上のグラスを掴む。あ、これは、と思ったのだが、
「ジョエル」
青年の声がしたのと同時、ジョエルの手からグラスが落ちた。正確には、僕の足元へ向けて、投げ付けられた。
ガラスの割れる高い音。周囲の人間が僕たちを見る。さっと顔色を変えジョエルへ詰め寄ろうとしたコナーくんを片手で控えさせながら、自然と口角が上がるのがわかった。
ジョエルの気質からすれば、恐らく今のはシャンパンを僕に浴びせようとしたのだろう。顔か胸かはわからないが、とにかく正面から思いきり。だが結局シャンパンは靴のつま先を濡らすにとどまった。……それは恐らく、「彼」の呼び掛けによって。
「……失敬、手が滑りました」
「お前……ッ」
「いいんだコナーくん、今のは僕が悪い」
噛みつかんばかりの様子のまま黙り込んだコナーくんはあとでフォローしよう。問題は目の前で白々しく謝罪しながら怒りを隠そうともしないジョエルと、その後ろで黙って僕を見ている青年だ。
さっきの流れで僕の台詞だけ聞けば、ジョエルがいきなりなんの脈絡もなく癇癪を起こしたように見えるだろう。だが、ただ名前を呼ぶだけでジョエルを(見た目に反して苛烈な彼を)思い止まらせるくらいに信頼関係が出来上がっているなら、彼がそこまで激したという事実を証拠として僕に不信感を抱いてもおかしくはない。
――嫌われちゃったかなあ。
仮面越しでもわかるくらい、唇を引き結び拳を握って怒りを発露しているジョエルと、仮面越しとはいえまったく表情筋を動かさず手元にも感情の動きがあらわれてはいない青年は対照的だ。この二人は周囲からの評価が高い方のバディだが、こうして作戦外で直接会ってみると、友人として親しくなるような組み合わせには見えない。……が。先程、僕が声をかける前、彼と歓談していたジョエルの空気はとても、
「靴が濡れてしまいましたね。早く手入れした方がよろしいのでは?」
思考はジョエルの声で中断させられた。言外に、さっさと失せろ、という意図を感じたのは気のせいではないだろう。
「ああ、そうするよ。……行こう」
コナーくんを促しその場を辞する直前に一瞬感じた視線は、恐らく、ジョエルのものではない。
……中庭の隅、人気のない場所にあるベンチへ腰かけ、溜め息を吐く。足を組んで爪先を差し出せば、コナーくんはむすっとした表情のまま僕の前に屈んでハンカチを取り出した。
「ん、ありがとう」
「いえ。……何なんですか、あいつ。大佐への態度じゃないですよ」
僕の靴を拭いながら不満げな様子を隠しきれていない彼の頭を撫でる。
「まあ、今回は思いっきり地雷踏んだ僕が悪いからなあ……」
支援の類いについては持ち出すべきではなかった。あそこまで一瞬で激するとは思わなかったが。……磨かれていく靴のつま先を眺めながらぼんやりと思考を巡らせるが、まとまらない。コナーくんが手を止め、立ち上がったのを見やる。
「それにしたって無礼です、ラウリィ大佐に対してあんな」
――僕はとても幸運だ、と思う。
自分の代わりに憤ってくれる人というのは、僕のような人間にとって得難い財産だろう。どうして彼がここまで僕に尽くしてくれるのかはわからないが、彼の献身が偽物でないことはわかる。
愛だとか恋だとかそういうものとは違う、切実で熱量の多いなにかが僕に捧げられている。最後に泣いたのは、怒ったのはいつだったかすら思い出せない僕はそれをもてあましてしまうのだけれど。
「コナーくん」
「はい」
「好きだよ」
「……は、」
い? と語尾を上げた彼に笑ってみせて、おいで、と隣を示す。素直にベンチへ腰掛けたのへもたれかかると一瞬体が強張り、肩へ頭を預けると怪訝そうに名前を呼ばれた。
「ちょっと目閉じるから、十分たったら教えて」
構わず目を閉じて完全に体重をかけると、結局は特に文句も言わず受け入れるコナーくん。大丈夫かな、僕甘やかされすぎじゃないかな、しかも自分の半分しか年のいっていない子供に。
「……ラウリィ大佐」
頭になにか触れたな、と思いながら、僕は意識を投げ出した。
※ ※ ※
「……悪い、助かった」
「いえ」
頭を掻こうとして、髪のセットにかけた時間を思い出して手を下げる。
いくらあの男が無神経な人格破綻者でも、大佐なのには変わりない。シャンパンをぶちまけたところであの男自身が俺を罰したり叱ったりはしないだろうが、弱味を握らせてしまうことになるのが心情的に嫌だ。
――なにより、あの「番犬」の目!
飼い主がリードを引いたから止まっただけであって、でなければ噛み付かれていただろう。あの大佐が犬を飼っているというのは情報としては知っていたが、百聞は一見にしかずというのはまさにこのことで、あれを敵には回したくないと思った。
まあ、既に敵に回しただろうが。自然と溜め息が出た。
「……ジョエル、人の少ないところへ行きませんか? 少し休みましょう」
気遣わしげにひそめられた声に、思考を中断する。……心配をかけてしまったという申し訳なさと同時に、喜びを感じてしまうのだから本当に俺は浅ましい。エルウィンが自分のことを見てくれているということが、何かあれば引き留めてくれるということが、こんなにも俺を安心させる。
周囲のざわめきも聞こえなくなり、視界も狭まったあの状況で、彼の声は聞こえた。だったら何も怖くない。
小さく笑う。どうしました、と問う声になんでもないと頭を振って足を進めた。
……会場を出て少し歩いたところにある大階段脇で、手すりにもたれた。ここなら構うまいと仮面を外すと、エルウィンも俺に倣う。
静かに凪いだ目が、もの言いたげにこちらを見ている気がする。仮面を手で弄びながら、俺はぽつりぽつりと話し始めた。
「俺の名前は父親が考えたらしい。女ならノエル、男ならジョエル」
筋道立てて話すつもりのあまりないそれを、エルウィンは黙って聞いている。彼の淡い色の髪が、ちらちらと瞬く灯りに透けている。
「……父さんと母さんは身を削って俺を育ててくれた。俺はあのひとたちの子に生まれたことを不幸だと思ったことは一度もないし、俺が俺自身の力で成功することが一番の親孝行になると思ってる」
仮面を握る指が白いのは、力をこめすぎているせいだ。
俺がここにいるのは俺自身の力によるもので……あのひとたちの息子として、ここにいるのだ。よりにもよってあの男に、ヒュランデル家の御曹司に、俺が援助されることなんてあってはならない。
「あの男に憐れまれる筋合いはない……!」
――あいつらはどこまで俺を馬鹿にするつもりだ!
力を入れすぎて震える指先に、そっと誰かの(誰か、なんてわかりきっている)指が触れる。顔を上げると、エルウィンが僅かに首を傾げるようにして俺の顔を覗き込んでいた。
「ジョエル」
あおい、あおい目がこちらを見詰めている。冷たい色なのに、氷のように煌めいているのに、……なにより声高に俺への愛を叫んでいるそれ。
名前を呼んだきりエルウィンはなにも言わなかったが、手を握るでもなく触れているだけの指がじんわりと温かい。ふへ、と息を吐いて、俺は笑った(と思う、もしかしたら泣きそうだったかもしれない)。
「……ジョエル、いまとても貴方にキスがしたいです」
「駄目だ」
「抱き締めるのは」
「駄目だ」
色気付いた意図はなく、ただ俺を慰めるための衝動だろうに、いちいち許可を取ってくるのがいじらしくて愛しくてどうしてくれようか。ここが外でなければいくらだって触れられたいし触れたいのに。
「キスも、抱き締めるのも、……帰ったら沢山してくれ」
少し迷ってからそう言えば、俺の手に触れていた指がぴくりと動いた。それからゆるゆると離れていくその熱に少しだけ寂しさを覚えたが、
「……はい」
どこか面映ゆげな、柔らかく細められた目に、それを上回る幸福を感じた。
「……そろそろ戻ろう」
崩れそうな表情を隠すために仮面をつけ直しながら、会場方向へ歩き出す。自然と早くなる足は多分に照れ隠しで、エルウィンはきっとそれに気付いているだろうに何も言わず、隣でごそごそと仮面をつけ直している。
「ジョエル」
「ん?」
「今日は早めに帰りませんか」
甘くねだるような声。そう聞こえてしまうのは恐らく惚れた弱みだろう。囁くようなそれに逆らえないのも、きっと。
「……そうだな」
俺は意味もなくタイを締め直しながら、返事をした。