非常時にならないとわからないこと ラウリィ・ヒュランデル。彼に与えられている階級は「大佐」である、まともに戦場で指揮などとったことがなくても、隊を率いる資格はある。
――だからって、ねえ。
指揮官らしい冷徹さも戦士のような勇猛さも持ち合わせていない、戦場より応接室の方が似合う優男(ラウリィ)は内心溜め息を吐いた。
資材の運搬任務。指揮官に置くべき妥当な階級の人間が軒並み都合がつかず、こうして軍人としての矜持など持ち合わせていないラウリィが引っ張り出される羽目になっていた。とはいえあくまで名目上の指揮官であり、実際の指揮は副官であるベテラン大尉がやることになっていた。
「大佐、許可を」
「はいはい、……うん、いいと思うよ」
やる事といえば、方針の確認と許可。一応地図を見ながら通信に耳を傾けてはいるし、学校では優秀な成績をおさめたわけだから戦についてまったくの無知というわけでもないが、積極的に口を出すつもりはないらしい。
今回の作戦は特に問題なく終わるものと予想されている。敵軍がこの地域に着目しているという情報はなく、向かう先も重要部隊などではないから、交戦の可能性は極めて低い。あったとしても、そう大量の人数が割かれることはないだろう。
だからこそ、名前、というか階級を貸しているだけのラウリィも現地入りすることが出来ていた。激戦が予想されるなら、こんな男が従軍など許されるものか。
目的地までは片道二日の予定だった。何事もなく終わる筈だった。
話は変わるが、大尉は御年五十も目前、その経歴たるやあのステュクスの戦いで生還したくらいの大ベテランである。佐官にこそならなかったものの、上司からのおぼえめでたく、部下からも信頼されている。
閑話休題。その大尉が倒れた。持病の発作と思われ、すぐに医療班が対応したため大事には至らなかったものの、とても立てる状態ではなくなった。本来ならこういった場合副官が代理に立つべきだろうが、そもそも今回は大尉自身が副官であり、つまるところ……逆転現象が起こった。
倒れた副官の代わりに、本来の指揮官が采配を握る、という。
――冗談だろう、と思いはしたが、ラウリィはそこまで悲観視はしていなかった。それは周囲の人間も同じで(でなければ、階級が低すぎて資格自体はないにしろ、他の人間が無理にでも采配を奪い取っただろう)、大尉のとっていた方針のまま進み続ければ問題はないだろうと考えられていた。……二日目の朝、斥候が敵対勢力発見の旨を携え戻ってくるまでは。
ラウリィは迂回を指示したが、避けきれず交戦状態へ突入することとなった。とはいえ十分突破できる戦力差であり、学校で提示される戦況より甘いくらいである。学んだ事に忠実に、よほどの悪手を打たない限りは大丈夫だろうと彼は特に動揺もせず周囲に指示をしていた。
進行方向に兵が伏せられている、という報告があったのは昼前だ。だが、前線が足を緩めて資材に近い場所での戦闘になるのを嫌ったラウリィは、進行速度を上げる指示を出した。……その指示に違和感を覚えた人間は確かにいた。いたが、彼らはラウリィに比べて若いだけでなく階級もはるかに下で、口を出すことはなかった。
つまるところこれは、様々な事象が重なったことによる、不幸な事故だった。
ベテラン大尉の急病、不馴れな指揮官に若い補佐、信頼関係の希薄さ。一方の相手側では、最前線への武器補給部隊が移動しているという微妙に外れた情報を得ており、こちらの部隊の規模に対して過剰な戦力が投入されていた。
……前線が伏せられた兵へ接触し突破するより、大規模な乱戦が発生する方が早かった。
淡々と回されていた報告や申請が、途端に錯綜し始める。ラウリィの判断が必要なことが増える。銃より通信機よりペンを持つことの方が多い彼に、そのすべてを適切に処理しろだなどというのは、どだい無理な話だった。
幸いな点があるとすれば、ラウリィという男は極めて面の皮が厚かったため、周囲に内心の焦躁を(いっそ逃げ出したいくらいの動揺を)悟られるのは避けられたことくらいである。
「大佐! ラーゲルブラード班から持ち場を離脱する許可を求められています!」
通信機を片手に見上げられ、ああ、とラウリィは曖昧な返事をする。焦れったそうに眉を寄せ、通信兵はその手に直接通信機を握らせた。
『大佐ですか? ラーゲルブラード班、遊撃に回ります。許可を』
ラウリィが口ごもっていると、物理的にははるか遠くにいるというのに相手の苛立ちが如実に伝わってきた。
『俺の班がフォローに回るっつってんだよ、許可を寄越せ!』
「! ……あ、ああ、問題ない。許可しよう。君の判断に任せるよ」
――ようやく視界に色がついた心地がした。そう、そもそも彼は自らの力のみで物事を成すタイプではない。
ラウリィはそれから各部隊の状況を確認すると、それぞれの裁量で判断させることにした。丸投げとも言える(というか丸投げ以外のなにものでもない)が、自分がぐずぐず手綱を引くよりは余程ましに思えたのだ。どうしようもなくなっている部隊については自分でどうにかせざるを得なかったが、大量の情報を処理するのに比べればはるかに現実的な方針といえた。
とはいえ、ラウリィの処理能力が劇的に上がるわけではない。なんとかその場を切り抜けた時、部隊の受けた損害は、この規模の交戦から想定されるものよりもかなり大きかった。
……既に日は橙色をおびている。
一時休憩と状況整理のために待機している部隊の様子を見たラウリィの顔色は悪く、目も所在なげに伏せられていた。負傷者の治療や物資の確認、慌ただしくぴりぴりとした空気に気圧されて、一歩、後ずさろうとする。
不意に、その腕を誰かが掴んだ。
「顔を上げろ」
小さく肩を跳ねさせたラウリィの隣で、その手の主は不機嫌そうに眉間へ皺を寄せていた。
「平気な顔してろ、アンタそういうの得意だろ」
少佐、と溜め息を吐くようにもらしたラウリィを、鮮やかなあおい目が見やる。ノア。ノア・ラーゲルブラード少佐。その着ている軍服は土埃に汚れ、あちらこちらが傷んでいる。
「僕、」
「嘆くのも詫びるのも将の仕事じゃねェんだよ、アンタは『大佐』なんだ、実際の能力がどうあれな。……大体、優秀なアジテーターでもなけりゃ、現場からの信頼だってこれっぽっちもないアンタが、この空気どうにかするのは無理だ。それくらいわかってんだろ。例え手ェついて詫びたところで満足するのは手前の罪悪感だけだ」
――泣きたきゃ一人で泣け。
ひゅう、とラウリィは息を吸った。数度、瞬きをして、それから少佐を見る。ようやく表情が動き、困ったように眉が下がった。
「後でゼフを報告に行かせる。顔見知りの方がやりやすいだろ」
「……僕はいいけど、准尉にとっては嫌がらせじゃないかな」
僕嫌われてる気がするんだよね、気のせいかなあ、と苦笑する様は普段と変わらない鉄面皮を取り戻したように見える。少佐はふんと鼻を鳴らすと、ラウリィの腕から手を離した。
「じゃあ僕、向こう行ってるよ。……さすがにね、針のむしろだし」
「ああ」
踵を返したラウリィの背を眺めてから、少佐は片手に提げていた太刀を、とん、と蹴り上げて肩へ担いだ。あおい目はただ冷たい色をしていて、その内心を推し量ることは出来なかった。