シフォンケーキ 平和である。執務室で数字の羅列を追うのは落ち着く作業であり、室内にいるのは従順な「犬」のみ。勤務時間外の呼び出しだけならまだしも、労働だろうが文句ひとつ言わず(むしろ喜んで)行う彼はとてもかわいらしい。
少し休憩でも入れようかと顔を上げたその時、
「失礼しますよっと」
無造作に扉が開かれるまで気配ひとつしなかった。深くフードを被って顔を隠した男は足音もなく部屋へ滑り込んで、部屋の主である僕へと片手を挙げた。
「……困ります、入室の許可を得る前に、」
「この人はいいんだ。……ま、座って」
僕の犬……バディを嗜め、机の前から立って回り込みながら来客用のソファを示すと男は無造作にそこへ座った。こちらが座るより先に、である。……部屋の主であり大佐でありなにより己の敬愛するひとであるひとを軽んじられたと感じたのか、それを見ていたバディこと犬ことコナー・フラナガン一等兵はぐいと眉を寄せたが、先ほどの言を思い出したらしく何も言わなかった。
「そうだ、あれ持ってきて。今朝のやつ」
「はい」
そうして言われるままその場を辞した彼を見送ってから口角を上げる。それから足を組んで小首を傾げ、男を……クレイグ大尉(その名前にしたって本名だかわかったもんじゃない!)を見やった。
「で、どうなったの」
「俺を誰だと思ってる。ほら」
大尉はコートの内ポケットから縦長の封筒を取り出し、テーブルに置く。封蝋で閉じられたそれに手を伸ばせば遮られて、怪訝に思って視線を上げると目の前に手を差し出された。
「……はいはい」
こちらもまた封蝋で閉じられた封筒を机に置いて、すいと二つを入れ換える。毎度、とわざとらしく口元だけで笑みを浮かべた大尉に眉が下がった。
「言うまでもないけど、使い方は」
「国の不利益にさえならなきゃいいんでしょう?」
しつこく言われなくてもわかってる、と封筒を懐に仕舞い込むのを胡乱げに眺めていると、なにか?とでも言いたげに眉を上げられた。
――どうして僕の周りはこうもこちらを敬ってくれない人間ばかりなんだろう。
まあいいんだけど。いいんだけどね。と内心拗ねながら手遊びをしているうち、コナーくんが戻ってきた。クロッシュの伏せられた皿、の乗せられたトレーを持ってきた姿を見て怪訝そうにした(ように見えた)大尉に向かって、微笑みかけてみせる。
「甘いもの、嫌いじゃなかったよね」
更に加えて二枚の皿とフォーク、紅茶の入ったポットとカップ。テーブルの上に並べられていくものはまるでティータイムの風情。そして持ち上げられたクロッシュの下から現れたのは、きつね色に焼き上げられたシフォンケーキである。
「せっかくだから食べていきなよ。うちのメイドが焼いたんだ、おいしいよ?」
ホイップクリームはないけどね、と付け加えれば、大尉は少し笑ったようだった。
……うちのメイドの得意料理はミートパイだが、もちろん他のパイも、クッキーも、ケーキだって見事に焼き上げる。ご多分に漏れずこのシフォンも絶品で、表情こそわかりにくいが、大尉も満足しているようだった。
「次のお仕事頼んでもいい?」
「手当てによるな。アンタのオーダー面倒なんだよ」
は、と。食器を下げる準備をしていたコナーくんが息を飲む音が聞こえた。何を考えたのかは想像に易く、何を言おうとしているのかも同様である。大尉の言い草は昨日今日に始まったことではないが、この二人が出くわすことは初めてだった。相性は良くないようだ。
「コナー・フラナガン」
呼ばわると、彼は小さく肩を跳ねさせた。一度だけ僕の顔を確認し、それから再び大尉を見やり、軽く黙礼してから食器を持って下がる。
「犬にはリードをつけておいた方がいいんじゃないか。いつ飛びかかられるかたまったもんじゃない」
わざとらしい身震いと軽口(本人がすぐそこにいるというのに!)を、思わず鼻で笑う。
「リードなんてつけてたら、いざって時に相手の喉笛食い千切れないでしょ」
――ステイは出来るんだから放し飼いでいいよ。
僕が軽く首を傾げてカップに口をつけるのを見て、大尉は肩を竦める。その表情の変化は、丁度陰になって見えなかった。