そういう二人 基地の外れ、訓練用のちょっとした空き地で、兵士たちが土まみれになりながら作業をしている。
その中に、コナー・フラナガン一等兵の姿があった。周囲の若い兵士がうんざりした様子で腕を動かしているのとは違い、特に不満そうでもかといって充実している様子でもなく黙々とスコップを振るっている。
「困ります! 彼は兵站班ではなく現場執行班の人間です、勤務時間中にいきなり連れていかれては……」
「許可なら後で取るから!」
「後からじゃ許可になりません!」
そこへ響いた言い争う声に、コナーは塹壕を掘っていた動きを止めて顔を上げた。聞き間違える筈のない、声。
――ラウリィ・ヒュランデル。虚飾の大佐、金庫番、そしてコナーのバディであり、唯一絶対の存在。
「急いでるの! いいから呼んでよ、僕の、」
周囲を見回したラウリィの目が、コナーの姿を捉える。
「コナーく、フラナガン一等兵!」
おいで、と手を振られた瞬間コナーは持っていたスコップを他の兵士に押し付け、ラウリィへと駆け寄った。
「じゃあ借りてくね!」
「待って下さい! 待っ、コナー! お前も戻ってこい、こら!」
制止の声を無視して走り出したのに随伴し、コナーは言葉ではなく、指示を待つ犬のような目でラウリィに問うた。
「急にお得意様から呼び出しがあってね、他の子に声かける余裕なかったから」
ラウリィは車に乗り込みながらそう端的に説明し、出して、と運転手へ告げてすぐに発進する。それから席に置いてあった服とタオルをコナーへ投げ渡して、
「これに着替えて。顔と手足は拭いて……汗は香水でごまかそう」
と、鞄を探る。素直に身支度を整えながら(投げ渡されたのは恐らくそれなりの値段がするスーツ一式である)、ふとコナーは瞬きをした。
「今日は軍服なんですね」
商談の際は背広や私服を着ていることの多いラウリィが、珍しく軍服を着ている。濃紺のそれは、褪せた銀髪と合わさるとひどく寒々しく見えた。
「婦人が、軍服着た男が好きなんだよ。なんか、ストイックな衣装に身を包んだ男がふと見せる雄の顔がたまらないんだって」
「では俺も軍服を着た方が良かったのでは」
「君まで気に入られて、三人で楽しみましょう、みたいなことになったら君連れてきた意味ないでしょ」
「はあ……」
曖昧な返事をしたコナーの顔を一瞬見詰めてから、ラウリィはしみじみと、こういうことの勘繰りが出来ない君のままでいてね、と言った。
……着替え終わったコナーに軽く香水をふり、顔を寄せて匂いを確認してからひとつ頷く。それから鞄の中を確認していたラウリィは、不意に焦ったように鞄の中を引っ掻き回し、そして青ざめた。
「……忘れた……急に呼び出すからだ、どうしよう……今から取りに……駄目だ間に合わない」
焦燥した様子でぶつぶつと呟くラウリィの顔を、コナーが覗き込んだ。心配げに眉が下がっている。
「大佐、何か問題でも? 俺に出来ることがあったらなんでも命令して下さい」
はたとラウリィの目がコナーを見た。僅かにその目の光が瞬く。
「……そっか。君がいるんだ。僕には今、君が」
目を細め、それから内緒話のように声をひそめて、ラウリィはコナーへと囁いた。
「僕が婦人とお話してる間、君には部屋の前で待機してもらうけど……一時間半待って僕が出てこなかったら先に帰って、僕のデスクの三段目の引き出しに入ってる書類、全部燃やしてくれる?」
そっと伸ばされた手がコナーの手を握る。家事も力仕事もほぼしない柔らかでしなやかな指が、武器を握り敵を殺すごつごつとした手を覆った。
「これ、鍵ね」
小さな銀色の鍵。なんの変哲もない、だが、ラウリィがけして手放すことのないもの。それが初めて他人の手に渡っていた。
「わかりました、必ず。……ですが、大佐は大丈夫なんですか」
「うん?」
「部屋から出てこなかった時、というのは、まさか……」
きょとんとしてから、ラウリィは笑った。手を伸ばしてコナーの頭を無造作に撫でる。
「そういうんじゃないよ。もし命に関わりのあるようなことなら、ちゃんと呼ぶから。そしたら助けてね」
「……はい!」
撫でられながら少し面映ゆげに眉を下げていたコナーは、きりりと表情を引き締めて返事をした。
……車で暫く走ると、目的地に到着した。大きな屋敷である、兵卒寮一棟程度はあるだろうか。家令に出迎えられて邸内へ入り、案内されるがまま到着したのは上質な飾り彫りの施された扉の前だ。
家令が、奥様、と声をかけると内側から扉が開き、妙齢の女性が現れる。その女性はラウリィの姿をみとめ、柔らかく笑った。優雅で、どこか艶っぽい笑みだった。
「いらっしゃい、大佐。急にお呼びだてしてごめんなさい」
「いいえ、マダム。貴女が僕を呼ぶなら、例え千里も一飛びで馳せ参じますよ」
「相変わらずお上手だこと」
口元を押さえて笑った彼女は、ラウリィの態度の変わりように圧倒されて立ち尽くすコナーをふと見やった。
「あの子は?」
「僕の部下です。まだ駆け出しの新兵で……気になりますか? ……少し妬けますね」
指を絡めるようにして手をとり、吐息混じりに囁くラウリィの目はまるで熟れ落ちる寸前の葡萄だ。そのおぞましさに誰も気付かない。
「僕だけじゃご不満ですか?」
「まさか」
そうして彼女の腰へ手を回し、部屋の中へ消える直前。ラウリィはコナーの方を一瞬だけ見て、目配せをひとつした。
……そして一時間半後。ラウリィは戻ってこなかった。少し扉を眺めた後、コナーは踵を返してその屋敷から駆け出したのだった。
基地内にあるラウリィの仕事部屋へ入ったコナーは、まず暖炉に火を入れた。それから真っ直ぐデスクに歩み寄ると、鍵を使って引き出しを開け、書類を手に取った、そのとき。ノックの音が飛び込んできた。
「ヒュランデル大佐はご在室ですか」
「……大佐でしたら今は外出中で、」
扉を開きながらコナーが言いかけた瞬間、扉が乱暴に開けられ男が入ってくる。男はコナーを押し退けるようにしてデスクへと直行し、片っ端から引き出しを開けて中を漁り始めた。
「!? 何をしてるんですか、困ります!」
コナーが制止するよりも早く、引き出しがひとつ空であることを確認した男は苛々した様子で顔を上げ、……コナーの手を見た。正確には、その手に握られている書類を、見た。
「……君、それを少し見せてくれ」
えっ、と虚を突かれたような声をもらしたコナーは、手元の書類と男とを見比べ、それから迷わず暖炉へと書類を放り込んだ。
「な……!」
慌てて暖炉へ駆け寄った男は書類に手を伸ばしたが、その手首をコナーが掴む。
「やけどしますよ」
「貴様ッ」
炎に舐められ反り返る紙を見て男は歯噛みし、なんとかその手を振り払おうとしたがびくともしない。
「あの男の犬め……!」
男が、掴まれていない側の腕を振り上げたその時。
「あれー?」
間延びした、緊張感の欠片もない声が響いた。ぱっとコナーの表情が明るくなる。
「僕の部屋でなにしてるんですか、大佐」
……開けた扉の内側へもたれかかりながら、本来のこの部屋の主がのたもうた。男は忌々しげに顔を歪めてラウリィを睨む。
「なにをぬけぬけと……! 自分に内通の疑いがかけられていることを知らぬわけがないだろう!」
「疑ってるのは主に大佐じゃないですか」
不満そうにラウリィが頬を膨らませると、ますます男の表情が険しくなる。コナーに片腕を押さえられた状態で、ぎり、と歯噛みの音がした。
「白々しい、この売国奴が……!」
ぴくりとコナーが反応したが、緩くラウリィに頭を振られて大人しく男の腕を押さえただけの体勢にとどまる。
「……証拠は」
困ったように首を傾げてはいるが、さほど堪えた様子もなくラウリィは言葉を続けた。
「証拠はあるんですか? さすがにそこまで言われて証拠もないとなると、看過出来ないレベルの侮辱だと思いますけど」
「今貴様がそこの犬に処分させただろう!」
きょとん、と。子供がイタズラでもしらばっくれるような顔で、ラウリィは男の指差す先、ぱちぱちと炎の燃えている暖炉を見た。もう書類は原型をとどめていない。
「ああ、それですか? 機密保護の関係上、定期的に破棄しないといけない書類があるんですけど忘れてたので、彼に頼んだんです。……そうだよね、フラナガン一等兵」
「はい」
素直に頷いたコナーと、あくまで余裕の崩れないラウリィ。
「まだまだ新米で、融通がきかずにご迷惑をおかけしたみたいですね。ごめんなさい。……フラナガン一等兵、手を離しなさい」
ようやく解放された男の手首には、くっきりと指の跡が残っている。ラウリィはそれを見て眉を下げ、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「本当にすみません、早く医務室へ行かれた方が良いのでは? 送らせましょうか」
「結構だ!」
足音も荒く部屋を突っ切り、すれ違い様に思いきりラウリィを睨んでから、男は部屋を立ち去った。その男を見送ってからそっと扉を閉め、……ずるずるとしゃがみこむラウリィ。大きく深呼吸をする。
「はあ……門からここまで全速力で走ったのとか初めてかもしれない……きつい……」
「どうぞ」
「ありがと」
水差しからグラスに水を注いだものを差し出され、受け取ったラウリィは一息にそれを飲み干した。はふ、と息を吐く。
「今日あたり来るとは思ってたんだけど、あの婦人の呼び出し蹴ったら今までの苦労が水の泡だからね……」
ああ、と暖炉で灰になった紙を見やる沈痛な面持ち。
「大佐に押さえられるくらいなら処分するしかなかったんだけど……あああもったいない……持ち出し忘れてなければ……僕のばか……」
落ち込んだ様子で項垂れたラウリィは、しかし、僅かに顔を上げてコナーを見ると苦笑した。
「でも君がいてくれて本当によかったよ、ありがとう」
片手で招き寄せ、頭を撫でる。嬉しそうに頬を上気させたコナーは、ほんのわずか、わかるかわからないか程度にラウリィの手へ頭をすり寄せた。
「大佐」
「ん?」
「俺は何があっても貴方の味方です」
「うん? ありがと……ってああ安心して、内通なんてしてないよ。あれは大佐の勘違い」
ラウリィは苦笑いをしながらひらひらと片手を振る。その表情に嘘の気配は見えない。
「燃やしてもらった書類も別件。思い込みで地雷踏むところだったんだから、大佐もある意味勘が鋭いよね」
よいしょ、と立ち上がり服の埃を払うラウリィ。その拍子に、ふわりと香水と化粧の香りが舞い、コナーは一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わなかった。ラウリィはそんなコナーの表情に気付いたのか気付かなかったのか、人差し指を立てて教師のような口ぶりで言葉を続ける。
「でもコナーくん、嬉しいけど『何があっても』とか言うもんじゃないよ。僕に言質とられるとろくなことにならないんだから」
ね? とその顔を覗き込んでから、踵を返して暖炉へと向かったラウリィは、火かき棒を手にとった。
「……さて、訓練には間に合わないにしても班長には謝っておいで。僕からも言っておくけど、君からも言った方がいい。大佐には逆らえないんです、って神妙な顔しておけばそんなには怒られないよ」
「ラウリィ、さん」
火かき棒で暖炉の中を探って完全に書類が燃えきっているかを確認しているラウリィへ、コナーが声をかける。振り返ったラウリィは、彼の目を見て何も言えなくなった。
真っ直ぐな、たとえ毒杯であっても迷いなく飲み干しそうな意志の光を抱いた、真剣な目。
「俺はほんとうに、貴方のためになれればそれで良いんです。貴方に必要とされる、それだけで生きていける」
――だから。
「……『何があっても』、俺は貴方の味方です」
いけませんか、と問うたコナーに、ラウリィはかぶりを振ることしか出来なかった。