とある少尉の罪悪感、あるいは愛に見返りは必要か否か 雨の音がする。二脚ある(最近増やした)椅子のうちひとつに腰掛けて、彼は本を読んでいる。私はといえば持ち帰った書類に目を通していて、その癖よそ事を考えていた。
「今度の休み、何か予定あるか?」
とん、とん、と机を指で叩きながら、私はそう口火を切る。
「特にありませんが」
本から視線を上げてこちらを見た彼の、エルウィンのあおい目。何故だか胸がざわついて目を逸らした。
「俺もその日は休みで、実家に顔を出そうと思ってるんだが……お前も来ないか」
私はそのとき彼の表情の変化を目にすることはなかったため、彼が何を思ったのか知らない。少しだけ間を置いて、いいんですか、と問う声だけを聞いた。
「お前のことを話したら、ぜひ遊びに来てもらえと言われてな」
「そういうことなら喜んで。……ぼくのことは……」
「……かわいい後輩で、信頼できる相棒だと」
目線を戻すと、彼は感情の読めない表情でこちらを見ていた。今度は向こうが先に目を逸らす。
「わかりました」
失礼のないようにしないといけませんね、と言う彼の声が、雨音のカーテンに遮られて聞こえるような気がした。
休日、基地の前で待ち合わせた相手は当然ながら私服で、なんとなく新鮮な感じがした。朝日に照らされるシルバーブロンドが眩しいような気がして目を細めると、彼がほんのわずかに首を傾げた。
「いや、なんでもない。行くか」
頭を振ってからバス乗り場へ向かう。……基地から実家まではバスで数時間かかる。硬い椅子の上で身体を小さくしての旅はけして快適ではないし、年頃の娘二人でもないのだから話が弾むわけでもない。普段より言葉が少ないような気さえした。
ただ家に後輩を連れて行くだけだ、緊張する必要はない。だというのに妙に後ろめたいのは何故だろう――何故? そんなことはわかりきっている、私の惰弱さがすべての――。
「……ジョエル? もう降りる場所では?」
エルウィンの声に思考が中断させられる。見慣れた街並みが窓の外に見えており、私は慌てて荷物を掴んで席を立った。
……バス停から少し歩いたところにあるタウンハウス。そこが私の家族が住んでいる場所だ。けして大きくはなく、築年数もそこそこ経っているが、子供の頃住んでいた場所よりははるかに上等である。もっと私の収入が増えたら戸建を買おうと思っている。
「お帰りなさい!」
その玄関ポーチで笑顔で私を出迎えた女性が、私の母である。似ているとよく言われるし、自分でも似ていると思う。……付け加えるなら、この癖毛は似なくてもよかったと思う。
「あら、この子が……?」
俺の隣を見て瞬きをした彼女に、緩く頷いてみせる。
「ああ。……彼がエルウィン、俺のバディだ」
「はじめまして。エルウィン・クライネルトといいます」
会釈をするエルウィンをまじまじと見詰めてから、母は改めてにっこりと笑った。
「ようこそ、エルウィンくん。ジョエルの母です」
さあさあ上がって上がって、とエルウィンを招き入れる様子がなんだか微笑ましくて小さく笑うと、彼が怪訝そうに振り返る。頭を振ってから俺もその後ろに続いた。
通されたリビングの机の上には既に食事が用意されていた。が。
「……多くないか……?」
「そうかしら? 若い子だからたくさん食べるかと思って」
母は悪びれる様子もなくそう言うと、エルウィンに椅子をすすめた。ちらりとこっちを見た彼に笑いながら頷くと、素直に着席する。
テーブルの上に並べられているのは、母の得意料理である豆と鶏肉の煮込みと、マッシュポテト、ミートパイ……いややはりどう考えても多いだろうこれは。肉料理がかぶっているし。そっとエルウィンの様子をうかがってみるが特に顔色は変わらず、どう感じているのかはわからない。
「お父さんは仕事が長引いてるみたいだから、先に食べましょうか。遠慮なくめしあがって頂戴ね!」
「はい、いただきます」
「……いただきます」
最初のうちは緊張と遠慮の両方からか食の進みが遅かったエルウィンだったが、そのうち緊張も解けたようでペースが上がってくる。
「エルウィン、無理はしなくていいからな」
「無理だなんて。とても美味しいです、……もう少しおかわりを頂いても?」
「勿論! たくさん食べてね!」
嬉しそうに取り皿へ料理を追加してゆく母は、私が止めるまで止まりそうにない。エルウィンの方はと見ると無理をしている様子はなく、本当に美味しく食べているようだったのでほっとする。愛しいようなくすぐったいような気持ちで眺めていると視線に気付いたのかこちらを見たので、黙って微笑み返せば、彼も少しだけ笑ったようだった。
……食事を終えた後、軽く歓談しながら父の帰宅を待っていたのだが、なかなか帰ってこない。どうしたのだろうと思い始めたところで電話がかかってきて、それに出た母が困ったように眉を下げて私を見た。
「ジョエル、お父さんを迎えに行ってあげてくれない?」
「ん、どうした?」
「仕事中に腰をやっちゃったらしくて」
タイミングの悪いことだ、あの人は本当に運が悪い。椅子から腰を上げかけて、はたと気付いてエルウィンを見る。
「……悪いエルウィン、父さんを迎えに行ってくる」
「ええ、お気をつけて」
「母さん、エルウィンに迷惑かけるなよ」
「そんなことしないわよ!」
頬を膨らませる母に念の為もう一度釘を刺してから、私は隣の住人に車を借りに向かった。
※ ※ ※
「エルウィンくん、ちょっと私とお話しましょ」
ジョエルの母に手招きされテーブルについたエルウィンは、勧められるまま紅茶の入ったカップを手に取った。にこにことエルウィンを見ている彼女は、嬉しくて仕方がないといた様子である。
「ふふ。あの子が友達を連れてくるなんて久し振りだから騒ぎすぎちゃったわね、疲れていない?」
「大丈夫です」
短く答えたエルウィンは、少し迷うように唇を閉じかけてから、
「……ぼくも楽しかったです」
と付け加えた。対する彼女はほっとしたように息を吐いて、スプーンで紅茶をかき混ぜる。
「それなら良かった。……あのねエルウィンくん、もし良ければ、」
――あの子が軍隊でどんな様子なのか、教えてくれないかしら?
どこか遠慮気味な語調に、エルウィンは軽く小首を傾げてからこともなげに、いいですよ、と答える。胸を撫で下ろした様子でカップに口をつけた彼女は、少しだけ眉を下げた。
「あの子、家では仕事のこと話してくれないから。真面目な子だから仕事はきちんとしていると思うけれど……無理をしていないか心配で」
「先輩は優秀な軍人ですし、部下からも慕われていて、勤務に何の問題もありません。無理もしていないと思います、休みはきちんと取っているみたいですし」
誇らしげにすら聞こえる調子で述べるエルウィンに、ジョエルの母は面映ゆげに笑った。
……それからしばらくの間二人は他愛のない会話を(小学校にあがるまでジョエルがおねしょをしていただのと、本人に知られればただではすまないだろう話を)し、紅茶がすっかり冷めた頃、彼女がそっとカップを置いた。そしておもむろに口を開く。
「……エルウィンくん」
「はい」
カップから目線を上げて彼女の顔を見たエルウィンは、一瞬息を止めた。
真っ直ぐエルウィンを見ている目は、色こそ違えど彼に……ジョエルに似ていた。けして鮮やかな色ではない、けれど奥に強く揺るぎない熱を抱いた目。
「エルウィンくんは、あの子のことが好き?」
――それはごく単純な問い。
素直に肯定して構わない筈のその問いにエルウィンは少しの間黙り込み、じっと彼女の目を見てから静かに口を開く。
「……ええ」
あおい目が静かな光を湛えている。たった一言、肯定の意だけを持った言葉。それ以外の意味など内包しようのない二音。それを聞いて、彼女はふっと唇を緩めた。
「……あの子はいつだって私たちのことを第一に考えてくれるから、自分のことを二の次にするから、心配していたんだけれど……貴方みたいな子がそばにいてくれるなら、大丈夫ね」
柔らかく目を細めて笑う仕草は、やはりジョエルに似ている。
――貴女は。
気付いているんですか、と訊ねることも出来ずそちらを見返すエルウィンの心中を知るすべもなく、椅子から腰をあげた彼女は机の上を片付け始める。エルウィンが手伝おうとするとやんわりと断り、彼が手持ち無沙汰に窓の方を眺めたところで車のエンジン音が聞こえてきた。
「あら、帰ってきたみたいね」
※ ※ ※
帰宅してから父にもエルウィンを紹介がてら軽く酒を飲み、夜も更けたところで客間へと案内する。
「狭いが我慢してくれ、俺の部屋は隣だからなにかあったら呼んでくれれば……」
「ジョエル」
……不意に私を呼んだ彼の声の響きに違和感を覚える。顔を見ると、エルウィンはひどく真剣な表情でこちらを見ていた。
「……どうした? 母さんに何か言われたか?」
「いえ。……ああ、ある意味そうなんでしょうか……」
少し悩んだ様子で言葉を切ったエルウィンは、だが、私が言葉を促すように黙っているのを受けて再び口を開く。
「……ぼくたちのこと、いつまでも隠しておけるとは思えません」
息が止まる。エルウィンは明るい星を抱く目で私を見ていて、その光の強さと美しさに溺れそうになる。
――ひどく恐ろしい。
「ご両親はジョエルのことをとても大事に思っているようですし、きちんと見ておられます。遠からず露呈するなら、きちんとこちらから話した方が……」
「……無理だ」
恐怖が口を突いて出た。思いの外冷たい声だった。エルウィンがどこか痛みを耐えるように目を細めたのが見えたのに、一度零れ出たものは止まらなかった。社会一般の常識に逆らう恐怖、身内に拒絶される恐怖、経歴に傷をつけさせてしまう恐怖……それらの恐怖が、普段理性で押さえ付けている私の惰弱さを表面まで引き上げる。
「俺には無理だ、エルウィン……こわいんだよ。母さんたちに拒絶されるのも、世間に後ろ指差されるのも、」
握った拳が震える。もう彼の顔を見ていられなくて目を逸らし、一度唇を噛んだ。
「……そうなったとき、お前が俺を愛していてくれることに罪悪感を覚えてしまいそうな自分が一番恐ろしい」
「……ジョエル、」
「お前を愛してる……! 嘘じゃない、愛してるんだ、お前以外を愛せる日が来るなんて思わない、それなのに……!」
――俺はお前以外のものをすべて捨ててまでお前のために生きられない!
言うまいと思っていたことまで口にしてしまった私を、いきなりエルウィンが抱き寄せた。
「いいんです、ジョエル。ぼくは貴方のそういうところも含めて好きになった」
「だけど、エルウィン、俺は」
「ぼくのことを愛してくれているんでしょう? 貴方がぼくを愛してくれている、ぼくが貴方を愛している、それ以上何が必要だっていうんですか」
いいのだろうか、それで。彼は私を全身全霊で愛してくれているのに、私は後ろめたさを抱えたままその愛を享受するなんて、不誠実この上ないのではないだろうか。それでも、許されるのだろうか。
「……お前が俺を愛してくれているのが、とても、嬉しくて。なのに時々、苦しくて、後ろめたくて。俺はお前にきちんと返せているんだろうかって、そんなことを考えてしまう時がある」
「そうですか」
短い相槌は、だがけして冷たいそれではない。恐る恐る彼の背に手を回すと、強く抱き返された。エルウィン、と名を呼ぶ声が震える。はい、と優しく返事をされて視界が滲んだ。女々しい自分を縊り殺したい。
「愛してる。愛してるんだ、エルウィン。俺はどうしたらいい……?」
「……なにも。貴方はそのままでいい、ジョエル……ぼくの愛しいジョエル」
――ああ。
とうとう限界を迎え嗚咽をあげ始めた私を、彼はいつまでも抱き締めていた。