誕生日おめでとう ……日ごとに風が冷たくなってきていて、そろそろマフラーを出すかと考えていた。戦場帰りのある夕暮れのことである。
シャワールームからさあさあと雨の降る音がする。脱いだ服は丁寧に畳まれており、洗い場へ持っていってやるかと持ち上げようとして、その上へ無造作に置かれた認識票がきらりと光ったのに気付き、何気なくそこへ打刻された文字を眺める。「Erwin Kreinert」。何度呼んだかもわからない、今更確認するまでもない名。あとは血液型と宗教、生年月日……生年月日?
思わずその数字を指でなぞった。それからカレンダーを一回、ふたたび認識票を一回、見る。
――困ったな。
小さく溜め息を吐いてから、シャワールームの雨が止んだことに気付いてその場を後にする。
――困った。本当に困った。
準備期間がたった三日で、どうやって誕生日を祝えばいいだろう。
しかし、と、次の朝考える(その日の晩に考えられなかったのが何故かは察してほしい)。子供でも、ましてや年頃の娘でもあるまいし、誕生日を盛大に祝う必要などあるのだろうか。むしろひかれたりはしないだろうか。
私は誕生日についてはささやかながら毎年家族に祝われているが、これが一般的かどうかと問われると自信を持って肯定することは出来ない。
だが、彼の誕生日を祝いたいと思った。彼と出会えたことを、彼と想いあえるこの幸福を、感謝したいと思った。たとえ誰にも祝福されることがない関係だろうと、それが私たちの想いを毀損するとは思いたくなかった。これはきっと私のエゴだ。
……その醜いものから目を逸らすように、私は彼を祝うことについて考えを巡らせた。
そして彼の誕生日を迎える。
「来ていたんですね」
「ああ、お帰り」
夕刻、彼の部屋で彼を出迎えても特に驚いた様子はない。合鍵を貰っているのだから当たり前ではあるが、互いのプライベートに足を踏み入れることが不快ではないというのは、得難いさいわいであると思う。
「……いい匂いがしますね、夕食を用意してくれたんですか? ありがとうございます」
上着を脱ぎ、なにか手伝いましょうか、とキッチンへ足を踏み入れようとした彼を追い返す。座っていろと言えば素直に従ったが、どこか怪訝そうに眉を寄せたように見えた。
出来立てを振る舞いたかったから作り置きは出来なかったが、彼の帰宅時間に合わせて下準備はしておいた。そう長い時間待たせずに完成したものをテーブルへと並べ始めると、彼がはっきりと怪訝な顔をする。
「ずいぶんご馳走ですね」
――その感想が出てくれないと困ってしまったところだ。
いつもより手間をかけた豆のスープ、じゃが芋と玉ねぎをベースに小魚の塩漬けをアクセントにしたグラタン、大ぶりのコルヴ。……後で出すつもりの、ベリーパイもある。
「なにか良いことでもあったんですか?」
「そうだな、」
手招きをすると素直に寄ってきた彼の手を引いて、指先に口付ける。
「誕生日おめでとう、エルウィン」
一瞬言葉を失った彼は、カレンダーを確認し、それから僅かに眉を下げた。
「ありがとうございます。……すっかり忘れていました」
困っているような、喜んでいるような。どちらかというと後者に寄っている(と、私は嬉しい)雰囲気で再度礼を言う彼を、椅子へと座らせる。それから自分もテーブルの反対側へかけ、目で促せば、いただきますと彼が目礼した。
彼がまずはスープをひとさじ口へ運んで、その表情が一瞬固まった後に緩んだのを見て安堵する。
「……おいしいです」
溜め息を吐くような台詞にうそいつわりは感じられない。それならよかった、と自分も食事を始めながら彼の様子を窺えば、食の進みは滞りなく、普段に比べて少し速いくらいだった。
私は料理が趣味なわけではないし、別段料理自体が好きというわけでもないが、こうして誰かが美味しそうに食べているところを見るのは好きだ。それが大事なひとであればなおのこと。
デザートのパイも含めぺろりと料理をたいらげた彼はまた、ありがとうございます、と微笑む。機嫌がよさそうに見えるのは気のせいではない、だろう。それを見ていると胸が締め付けられるようだ。彼を祝っている筈なのに私の方がよほど幸せを感じている。
……そして手早く食器を片づけて、ベッドに並んで腰掛け彼の手を握りながら口火を切る。
「プレゼントなんだが、俺はセンスもよくないし、趣味に合わないものを贈ってしまったら申し訳ないと思ってな」
「貴方からもらえるならなんでも嬉しいです」
「うん、そう言うと思った。……だからだな、物じゃなくて、」
――今の俺はおかしな顔をしていないだろうか。目が泳いでしまっているのはわかる。
そっと手を握り直す。今度は、指と指を絡めるように。
「……今日の俺を。今夜は、『俺が』『お前を』……良くするから」
一瞬意味がわからなかったのか呼吸を止めた彼は、直ぐに動揺から立ち直ったらしくその指先に力をこめた。口を開きかけては閉じ、を何度か繰り返した後、私の目を覗き込む。あおい目が、炎のように揺れている。
「ジョエル、あの、」
ベッドへ引き倒すと抵抗はされなかった。まだ戸惑いが残っているらしいその唇から断り文句が出る前に、塞いでしまう。唇を割って舌を差し込み、上顎をざらりと舐める。くぐもった声を無視して、
「……いいから、な、大人しくしてろ」
最後に一度唇を舐めてから解放すると、その身体からは完全に抵抗の意思は抜け落ちたようだった。