どうかとどめを とどめを刺すべきだと、思ったのだ。
「どこにいても貴方は目立つから、すぐに見付けられますね」
と微笑まれたり(自分で言うのもなんだが私は地味だ)、
「お前みたいな弟がいれば良かったのにな」
「……弟、ですか。……光栄です」
彼の気質を考えれば喜んで然るべき言葉への反応がどこか苦しそうな、絞り出すような声だったりしたとき、流石にこれはいけないと思った。自覚し始めたばかりのようだが、これは……。
私は差別主義者ではないつもりだし、同性愛というものが存在していることについてどうこう言うつもりもないが、理解は出来ない。一般的に忌避されるものであり、普通でないことだというのに異論も無い。その普通でない、あえて強い言葉を使うなら「異常」な感情が彼の中に芽生え始めているのだとすれば、これ以上育ててはいけない。
……そうして彼を避けるようになってからどれくらいになっただろう。最初の頃こそ、どうしてだ、自分は何かしただろうか、と食い下がってきた彼が今ではもうなにも言わない。
仕事中、平常心を保とうとしているのだろう彼の強張った横顔を見るのは辛かった。その目が、真っ直ぐ私を見てくれていた翠が、暗く澱んでいるのが悲しかった。
決定的に、これはもう駄目だ、と思ったのは彼が仕事中にミスをしたときだ。有り得べからざることに青ざめる彼を見て、これ以上の日和見は互いを滅ぼすだけだと思った。
……話があるから仕事が終わった後に部屋へ来るように、と言ったとき、彼の表情が凍り付いたのを覚えている。
私の部屋を訪れた彼は思い詰めた様子で、やはり私の目を見ようとはしなかった。招き入れて椅子に座らせ、紅茶をいれたが、手をつけようともしない。
ぎゅっと膝の上で拳を握っている彼を見ると、ずきり、と心臓のあたりが痛んだ。これから自分が彼に与えるだろう傷を考えると、もういいじゃないかこのままでも、と思いたくなる。
だがそれでは駄目なのだ。
――思い出せ、どれだけの苦労をしてここまで来たか。舐めたくもない靴を舐め、あらゆる手段でかき集めた金貨を積み、血反吐を吐くような思いで狭き門に手をかけて這い上がったものを、台無しにしてはいけない。男同士で、なんて、普通の色恋よりたちが悪い。露呈すればどうなることか。
彼にしたってそうだ。彼は真面目で優秀な、将来有望な青年だ。少し融通のきかないきらいがあるが、それは年齢を重ねれば解決していくだろう。きっと私より早く上へ駆け上がるし、彼なら私も妬みはしない。その彼が、こんなことで足元を掬われるべきではないのだ。彼はまだ若いのだからこれから沢山の人間に出会うだろうし、その中にはきっと彼に相応しい女性もいる。
――そう、だからこれは、私のためだけではなく彼のためでもある。自分に言い聞かせながら、私は口を開いた。
「エルウィン」
「……はい」
「何の話をするか、わかるな」
いつもなら、いや、以前なら彼は私の話を聞くときは必ず私の顔を見たのに、今は目を伏せている。縦とも横ともつかないくらいに僅かだけ頭が動いた。
なるべく平易に、感情的にならないように、説得する。男同士でそういった想いを抱くなんて普通ではないし、まだ若く恋愛経験のない彼が軍隊という閉じた環境で起こした錯覚である可能性もあるということ。錯覚でなかったとしても、結局のところ表沙汰には出来ないような感情で、足枷にしかならないということ。
彼は私の話を聞いている間、ずっと唇を噛んでいた。話が終わってからも、しばらくの間黙っていた。それから顔を上げ、私を見た彼が出した声は、哀れなくらいか細かった。
「……キスを、してくれませんか」
不安げに瞳が揺れているのを見ていられないのに目が逸らせない。
「一度だけでいいんです、そうしたら……諦めますから」
断るべきだ、というのはわかっていた。余計な情けは彼を傷つけるだけだとも。だが、私は彼の目が、翠のその瞳が、私を見ているというだけで目眩がした。救いを求めるように私を見る彼に、わかった、と思わず答えていた。
「……目を閉じてくれ」
素直に瞼をおろした彼の、睫毛が震えている。椅子から降りて彼に歩み寄り、そっと肩に手を置くと体が強張った。もう片方の手で少し彼を仰向かせ、おとがいに手をかけ、そして、恐る恐る唇を寄せる。口付けなんて何年ぶりかも思い出せない。触れるだけの児戯のようなそれを終え、そっと目を開けると、きらりと何かが光るのが見えた。
それは涙だった。透き通るように美しい翠の目が、ただただ水を溢れさせている。悲しみと苦しみで濡れている。……私は、こんな彼の目が見たかったわけではない!
背筋を打った雷に、もう誤魔化しなんてきかなかった。気付いた時には、噛み付くように彼へと口付けていた。びく、と彼は一瞬体を強張らせたが、状況を理解するとそっと私の背に手を回した。
「ジョエル、ジョエル……好きです、貴方が好きです、どうしようもないくらい、ジョエル……」
「ああ、わかってる」
ぽろぽろと零れ続ける涙が美しいのに悲しくて、瞼に口付ける。それから目尻、頬、また唇、と唇で触れればまた涙が零れるものだからきりがない。小さく苦笑すると、彼が瞬きをして睫毛から涙がふるい落とされた。
「ごめんなさい、ぼく……ぼくはいつも、貴方を困らせてばかりだ……」
「もういい、いいんだ」
放っておけば何度でも謝罪の言葉を繰り返しそうな唇を塞ぐ。両手で彼の頭を引き寄せ、食むように。口付けの合間に彼の名を呼ぶと、私の腰へ回された腕に力が入った。
「あなたがすきです、ねえ、好きなんです……」
すがり付くように私を抱き締める彼の背を軽く叩いて、流石に腰を曲げたままの体勢が辛くなってきたためベッドへ腰掛ける。
ぎ、と揺れたな、と思った瞬間バランスを崩してシーツの上へ倒れ込んだ。私に覆い被さるような体勢になった彼の目から、最後のひとつふたつ、落ちた涙が私の頬を濡らす。
「ジョエル」
好きです、ともう何度目かもわからない言葉を絞り出してから彼は私をかき抱いた。
――今日、一線を越えてしまうのだろうか。男同士で何をどうするのかは知らないが。ぼんやりとそんなことを考える私の肩口にぐりぐりと頭が押し付けられ、もう一度、好きですと囁かれた言葉は少し響きが違うように聞こえた。
「……エルウィン?」
胸を押し顔を上げさせると、こちらを見た瞳が一瞬揺れた。なにかを言いかけるように唇を動かし、結局なにも言わずに伏せた睫毛が震えている。
何かが私の胸を内側から突いた。彼が求めているものが、わかったような気がした。
「エルウィン、大丈夫だ」
両手でその頬を覆い、目を覗き込む。それからゆっくりと、一言一言はっきりと、宣言する。
「俺も、お前が好きだ。同情でも誤魔化しでもない。お前が俺を好きなように、俺もお前が好きだよ」
彼が息を呑んだのがわかった。それからくしゃくしゃと表情を歪め、私の唇へと口付けた。割れ物にでも触れるような、優しい口付けだった。
結局のところ、それ以上のことは起こらなかった。彼はしゃくりあげながら私の名を呼び、好きだと繰り返し、何度も口付けを交わして、そのうち泣き疲れたのか眠ってしまったのである。
――真面目で、高潔で、不器用な彼を好きになってしまっていたのがいつからかはわからない。彼を遠ざけようと思った時には既に予感があったのかもしれない。愚かな私は彼を傷付けてまで無意識に保身をはかったのだ。なんて不誠実な男だ!
眠る彼の髪に触れ、目元に残る涙の跡を親指で撫でる。薄く目を開けた彼が何かを探すように目線を動かしたのを見て、ここにいる、と囁くと安心したようにまた目が閉じられた。
そっと抱き寄せるとあたたかい。色々と考えるべきことはあるし、めでたしめでたしとはとても言えないが、今は取り敢えず眠ろう。
きみが、いとしいから。