囚われのお姫様 ※男「……ッ!」
日当たりの悪い部屋に、鈍い打音と呻き声が響いた。生活感のない、薄汚れた床とガラスのない窓。その部屋の中央で青年がひとり、椅子に縛り付けられている。先程の呻き声は、その眼前に立つ男に顔を殴られた彼のものである。
「お偉い士官様もこうなりゃ形無しだな」
乱れた髪を引いて顎を上げさせられた青年、エルウィン・クライネルト少尉は、怯えの欠片もない冷たいあおい目をしていた。整った顔には暴行の跡がひどく不似合いで、痛々しさよりも違和感の方が強い。
「……ぼくにこんなことをして、意味があるとは思えないが」
「はッ! 意味なんて俺たちがすっきりすりゃそれでいいんだよ」
鼻で笑った男の後ろで、数人の男たちがにやつく。エルウィンは緩く瞬きをすると腫れたまぶたの痛みに一瞬顔をしかめ、また感情を払い落とした顔で相手を見た。
「軍人に恨みがあるのなら、デモでも暴動でも起こせばいい。その気概もない癖に適当な士官を痛め付けて、後始末もろくに考えていないんだろう。浅慮としか言い様が、……!」
腹に蹴りを入れられ椅子ごと後ろへ倒れたエルウィンは当然受け身などとれる筈もなく、したたかに床へ打ち付けられ衝撃に息を止めた。すぐに引き起こされ、淡い色の髪が揺れて頬を撫でる。
「言葉には気を付けろよ……!」
咳き込むエルウィンはその言葉を聞いているのかいないのか、ひゅう、と喉を鳴らしてから顔を上げ、……僅かに眉を寄せた。なにかの気配を感じた気がしたのだ。なにか、近付いてくるような……。
ぎい、と、部屋の扉が軋みながら開いた。そこから室内へ無造作に足を踏み入れたのは、片手に歪んだ鉄パイプを提げた、地味でぱっとしない風体の青年だった。
「おいお前、さっさと出ていけ」
「エルウィン、こんな界隈を軍服で歩くなんて不用意な、」
男たちの警告を無視して部屋の奥を――つまるところエルウィンの姿を――見た闖入者は、言葉を途中で切って目を見張る。……次の瞬間細められた目の奥で揺れた熱、炎が何に由来するものか感じ取れない人間などいないだろう。それほど明確に、彼は。
「……お前ら」
様子の変わった闖入者に一人の男が近付き、肩を掴もうとした瞬間、……一切の躊躇も手加減もなく鉄パイプが振り抜かれ男の頭を割った。
「うちのエルウィンに何してくれてやがる!」
――彼は、激怒していた。
立ち上がることさえ出来ずに頭から血を流し呻く男を無視し、ようやく状況を理解したらしい男たちへ襲いかかる。
……先程は不意打ちだったため一瞬で致命的な一撃を与えられたが、彼はけして戦闘術に長けた人間ではない。だが喧嘩慣れはしているようで、訓練された人間のそれとは思えない荒っぽい動きではあるが、複数人相手でもなんとか立ち回れてはいるようだった。が。
「動くな!」
突然の声に乱闘は一時中断し、声の主を見た闖入者の青年は苦虫を噛み潰したような顔をした。拘束されたままのエルウィンの首筋に、ナイフが押し当てられている。
「武器を捨てておとなしくしろ!」
「駄目ですジョエル、こんな相手の言うことなんて……」
黙らせるようにナイフに力がこめられ、皮一枚切れたのかエルウィンの喉に血が僅かに滲んだ。
それを見た瞬間、闖入者は鉄パイプを床へ放り投げた。がらん、と思いの外大きな音がする。間髪いれず殴り付けられた彼は数歩よろめいたが、その唇には笑みが刻まれていた。
そのとき窓から何者かが飛び込み、男に掴みかかった。捻り上げた手からナイフが床に落ち、先程よりはるかに小さい音がする。そのまま壁に顔面を叩きつけられ崩れ落ちた相手を見下ろした大柄なその男、リノ・エリサルデ少佐は、顔を上げると不意に声をあげた。
「おいジョエル!」
捨てた鉄パイプを拾って振りかぶる男に背を向けている彼。振り返ろうとしたが到底間に合うタイミングではない。咄嗟に目を閉じた直後、……銃声が響いた。
「突入が早いんだよ! 尻拭いさせられる方の身にもなれ!」
「仕方ねーだろ! いいじゃねえか上手くいったんだからよ」
部屋の入り口に、銃を構えた青年と、腕を押さえてもがく男。もがく男の背を踏んで動きを封じてからその青年……グレンリヒト・ヒグリオン中尉が先に窓から乱入したリノと言い争い始めるそれをよそに、最初の闖入者はエルウィンへ駆け寄って拘束を外した。
「大丈夫かエルウィン、……歯が折れたりはしていないようだな。骨や内臓は?」
「問題ありません」
青年の顔に手を這わせ、怪我の具合を確認してから、ほっと息を吐いてその肩に額をつける。
「あまり心配させないでくれ……」
「……すみません。……ですがジョエル、貴方もあまり無茶をしないでください。今回はぼくのせいではあるのですが」
「馬鹿。……馬鹿かお前は」
頭を持ち上げ、エルウィンのあおい目を覗き込んだ青年の目は、どこか濡れたような濃い蜜色をしていた。
「お前のために無茶しないで、他に何のために無茶しろって言うんだ」
「……ジョエル」
彼の……愛しいひと、ジョエル・ランツそのひとの手に指を絡ませて何か言おうとしたエルウィンに向かって、ジョエルは極めて優しげに微笑んだ。
「帰ったら夜まで説教コースだからな」
「えっ」
それだけ言うと他の二人と一緒に男たちの捕縛を始めたジョエルの背を追おうとしたエルウィンは、お前は座ってろ!と叱り飛ばされ、心底困りきった様子で――その表情を見分けられたのはジョエルだけだっただろうが――立ち尽くしたのだった。