生まれ落ちた日 日常はじわりじわりと異変に侵食され、やがて世界は飲み込まれる。
世界は変わった。蘇った死者が生者を襲って食らうようになった。そして食われた者も蘇って人を襲うようになり、生き残った者たちは追われるように放浪の旅に出た。
生き残った一人であるニーガンという男の旅は打ち捨てられた病院から始まった。世界が歩く屍で溢れたせいで人命を救うための病院は機能しなくなり、医師や看護師は一部の患者を連れて逃げていった。残されたのは助かる見込みのない患者だ。
ニーガンの妻はガンを患い、その命は残り少ないものだった。そんな妻を置いて逃げる気持ちは微塵もないため脱出の誘いを断って病院に残り、息を引き取るのを見守った後は人を食らう怪物として蘇った妻を残して病室を去った。愛する妻が人間ではなくなっても自らの手で殺すことはできず、偶然出会った若者に処置を頼んで当てのない旅に出た。
厳しい旅だ。水道が使えない。電気が通らない。ガスがない。その他にもありとあらゆるものが不足するため使えるものを探し、工夫を重ねながら旅を続けるしかなかった。
過酷な旅の中でも歩く死者の存在は悩みだ。痛覚も疲労もなく、休みなく活動し続ける奴らにあるのは食欲のみ。人間も動物も全てが怪物の好物であり、少しも油断できない。
歩く死者たちを倒したり避けながら進むうちに生存者と出会うこともあった。
しかし、彼や彼女は弱かった。怪物に怯えて戦うこともできずにニーガンの後を付いてくるだけなのだ。
それでもニーガンは自分を頼る者たちを守るために戦った。その結末が自らを守れずに死者の餌食になる人々を見つめるだけなのだとしても。
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ニーガンは初めて訪れる街の通りを歩きながら周囲に視線を巡らせる。今のところは近くで死人の姿を見かけないが、どこかに固まって留まっている可能性があることを頭の片隅に置いておかなければならない。ニーガンは顎全体を覆う髭を無意識に撫で、それから気を引き締めるようにベースボールバットを握り直した。
ニーガンはベースボールバットを亡き妻の名前である「ルシール」と呼んでいる。この「ルシール」を手にするだけで力を得られるような気がするのだ。ちなみにバットの元持ち主は屍に食い殺された。
しばらく歩いていると前方に軍用の車両やヘリコプター、複数のテントが見えてきた。その後方に大きな病院が建っていることから歩く死人に対応するための軍の拠点だったのだと考えられる。
自分以外の気配に注意しながら車やテントの群れに足を踏み入れると惨状が目に飛び込んできた。様々な書類や物資が散乱する中に紛れているのは血痕だ。訓練された兵士たちも異形の存在にひどく混乱したのは間違いなく、防衛ラインは突破されてしまったのだろう。この場所と同じことがアメリカ全土──いや、世界中で起きたはず。人類は「元人間の怪物」に敗北したのだ。
ニーガンは顔色一つ変えることなく足を動かして病院へ向かう。運が良ければ医薬品が見つかるかもしれないので病院に立ち寄らないという選択は有り得ない。
病院の敷地に一歩入れば広がっていたのは地獄のような光景だった。
死体、死体、死体。コンクリート製の地面を死体が埋め尽くしている。数えるのが嫌になるほどの数の死体はシートに包まれていて、車の荷台に積まれているものもあった。どこかへ移送する準備の途中だったのだろう。
ニーガンは目の前の光景を見つめながら、これまでの旅で出会った人々を思い出していた。
ニーガンが行動を共にした人々は全員死んだ。それは彼らが弱かったからだ。
歩く死人に怯えて戦おうとせず自身を守ることができない者。
大切な人を救うための行動をしなかったのにその死を嘆く者。
戦う手段を持ちながら混乱して適切な判断ができない者。
彼や彼女は弱かったから死んだのだ。ニーガンがどれだけ必死に守ろうとしても本人が弱くて何もできなければ守り抜くことはできない。誰も彼も己の弱さのせいで死んだ。
自分を守ることができない人々に何度歯痒い思いをしたのだろう?弱い人間ばかりが生き残ったのではないかと疑ったこともある。強い人間は自分一人しかいないのではないか、と。
ニーガンは深く息を吐いて体の力を抜き、再び足を動かし始めた。ここに留まっていても仕方がない。
そして建物の方に足を向けながら考える。
(弱い奴しか生き残ってないなら強い奴が導いてやらなきゃならないのかもな)
力があって賢い人間の指示に従えば弱い人間も生き残りやすくなるかもしれない。弱い人間の中でもマシな者たちを兵士として鍛え、どうしようもなく弱い者たちを守らせるのも良い案だ。
本気で誰かを守ろうとするのなら自分は導く者になるべきなのではないか?
ニーガンは頭に過った考えに苦笑を浮かべる。
「救世主の真似事?ガキみたいだな。」
ルシールなら呆れるだろうか、と妻の顔を思い浮かべるうちに病院の玄関に辿り着く。玄関ドアは開け放たれていた。
ニーガンは病院の玄関前に立って中の様子を観察した。見える範囲だけでも中が荒れていることがわかり、屍が彷徨いているだけでなく誰かが探索している可能性も考えられた。
ニーガンは油断なく視線を動かしながら自身に言い聞かせる。
(問題ない。何が、誰が現れても対処するだけだ。俺にはその能力がある)
ニーガンは心の中で呟いてからベースボールバットを目の前に掲げる。
「俺なら問題ない。そうだろう、ルシール?」
こうして「彼女」に語りかけるだけで体中に力が行き渡るような気がした。
ニーガンは己のバットを愛おしげに撫でてから静まり返った病院へ足を踏み入れた。
病院の中は玄関周りだけでなく全体が荒れていた。物が散乱している様子からパニック状態だったことがわかる。
パニックの原因は恐らく軍隊だろう。廊下や病室の至るところに銃撃の痕があり、死人によって食い荒らされた死体を数多く見かけたからだ。死人に噛まれたのに転化していないのは脳を破壊されたからであり、それを行ったのは軍隊としか考えられない。防衛ラインを維持できなくなった軍隊は守るべきはずの市民にまで銃口を向けたのだ。
無力な人間への慈悲だったのか、足手まといを始末したのか、どんな理由があったのかはわからない。それでも病院という命を救う場で虐殺が行われたのは事実だ。
ニーガンは目の前に横たわる悲劇に感情を揺さぶられないように心がけながら歩みを進める。
廊下を進んでいくと「開けるな。死人がいる」と大きく書かれた扉があった。鎖と木の板で封鎖された扉の向こうから唸り声が聞こえたが、扉にチラリと視線を送るだけに留めて足を止めることなく歩いていった。
使えそうな物資を探しながら廊下を進むニーガンは視界に映ったものに引っかかりを覚えた。それは病室の前に置かれたストレッチャーだ。
ストレッチャーそのものが特別なわけではない。そのストレッチャーが病室のドアを塞ぐように置かれていることが妙に気になったのだ。ニーガンはそれが偶然ではなく明確な意思を持って置かれたように思えてならなかった。
部屋の中にいる誰かを閉じ込めることが目的なのだろうか?そうであれば死人である可能性が高いので放置すべきだろう。
しかし、ニーガンには部屋の中にいる誰かを守るための処置に思えて仕方ない。
「……気になっちまったんだから仕方ないか。」
中に誰かがいたとして、転化しているならば永遠に眠らせてやればいい。そう考えたニーガンは口の端だけを上げて笑い、ストレッチャーを静かに移動させる。
そしてバットを構えながらゆっくりとドアノブを握った。
ニーガンは警戒しながらドアを開け、部屋の中を見て動きを止める。中にあったベッドに釘付けになったからだ。
ベッドには男が仰向けで眠っていた。眠る男の腹部には大きなガーゼが貼られている。その肉体には干乾びたり腐っている様子はなく、肌の色も普通の人間そのものだった。まるで生きているように見える。
ニーガンはしばらくの間ぼうっと男を眺めていたが、我に返るとバットを構えたままベッドに近づいた。間近で見下ろしてみると男が端正な顔立ちをしていることに気づく。手入れされず伸びたままの髭に覆われているが、髭を剃れば女好みのきれいな顔になるだろう。年齢は三十代後半といったところだろうか?家族がいてもおかしくないが、この部屋に他の人間はいない。
ニーガンは部屋の中を見回して誰かが寝泊まりしている様子が見られないと判断し、ベッドの上の男は取り残されたのだと断じた。ただ、ストレッチャーは彼を守るために置かれたのだと信じたい。
もしストレッチャーが安らかな眠りを誰にも邪魔させないために置かれたのだとしたら、最後に彼の傍にいた者は彼を心から愛していたのだろう。
「感傷的になり過ぎだな。」
ニーガンはベッドに横たわる男が守られたのだと信じたがる自分に向けて苦笑した。
そして目の前の男の着衣の乱れを直してから部屋を出ようと思い、無防備に晒された胸に触れた。
「──嘘だろ?」
思わず漏れた声は驚きのもので、ニーガンは目を見開いて男を見下ろす。
触れた指先が感じたのは確かな温もりだった。温かな血の通う生者の体温。
ニーガンは動揺を抑えきれないまま男の頬に手を伸ばして触れてみる。
「温かい。死んだばかりか?」
そう呟いたものの、頭では男が生きている可能性があることを考え始めていた。
髭の伸び具合や花瓶の花の様子から考えて男は長期間放置されているはず。医療機器が使えず、世話をする人間がいない状況で生きているとすれば奇跡だ。
ニーガンは男の頬から手を離し、次は首の頸動脈の辺りに指を添える。肌の温もりと共に感じるのは鼓動だ。一定のリズムで感じる鼓動は心臓が動いている証拠。目の前の男は生きている。
ニーガンは男の首から手を離し、その手で己の口元を覆った。驚くべき現実を前に言葉が出ない。
ここで一つの事実に気づいたニーガンは頭を抱える。触れても反応を示さないのは彼が昏睡状態に陥っているからだと思い至ったのだ。会話をしたこともない他人のためにニーガンが危険で不便な場所に留まる理由はなく、だからといって目を覚まさない人間を連れて移動することはできない。理性で考えるならば見捨てるのが賢明だ。
しかし、穏やかな顔で眠り続ける男を放っておくことができず、ニーガンは彼の頬を軽く叩きながら声をかける。
「おい、眠り姫。いい加減に起きろ。世界は変わっちまった。起きなきゃお前は死ぬだけだぞ。」
死人を呼び寄せる危険があるため大きな声は出せないが、普通であれば目覚めさせるには十分な大きさの声だ。
だが、彼は相変わらず目を閉じたままでいる。それに焦れたニーガンは「聞けよ」と更に呼びかける。
「俺はここに留まれない。お前が目を覚まさないなら置いていくしかない。それでもいいのか?こんなところで惨めに死にたいのか?心残りは?おい、答えろよ眠り姫。」
ニーガン自身、なぜ自分がこんなにも必死になるのか不思議だった。相手は完全な他人で、意識がないのだから見捨てられてもニーガンを恨むこともない。それを理解していても簡単に見捨てることはできなかった。
ニーガンは男の肩を掴んで軽く揺さぶる。
「起きろ。俺は二回も誰かを置き去りにするのは嫌だぞ。」
頭で考えぬままに飛び出した言葉に驚きながらも納得する。
ニーガンの中には妻を救えなかったことに対する罪悪感があった。怪物として蘇った妻をきちんと眠らせてやることができず病室に置き去りにして、本当の意味での最期を他者に託すしかなかった。今まで気づかなかったが、置き去りにしたことへの罪悪感が心の底にこびり付いていたのだ。
この見知らぬ誰かを置き去りにしたくないのは妻への罪悪感を軽くしたいだけなのかもしれない。目の前の男を見捨てないことで自身が救われたいだけなのかもしれない。そうであっても構わない。これ以上罪悪感を重ねるのは嫌だ。
ニーガンは繰り返し「起きろ」と男の肩を揺さぶった。それでも目覚める気配のない男を前にして諦めの気持ちが芽生えかける。
その時、男の目蓋が微かに動いたように見えた。ニーガンはもっとよく反応を見るために男の顔を覗き込む。
やがて男の長いまつ毛が震え、ゆっくりと目蓋が持ち上げられていく。
遂に目覚めた男の目は青色だった。空か海を思わせる色にニーガンの視線は吸い寄せられる。
目覚めたばかりでボンヤリとしている男がゆっくりと瞬きをした。そして周囲を見渡してから自分の体を見下ろす。初めて目にするものに驚いているように見え、あどけなさを感じる。
この時、ニーガンは唐突に悟った。目の前にいる男はこの世界に生まれ落ちたのだ、と。以前の世界で眠りに落ちた男は全てが一変した世界に生まれ落ち、自分は彼の誕生の瞬間に立ち会ったのだと思った。
ニーガンが男の顔を凝視していると、男の唇が小さく動いて「誰だ?」と問う。その声はひどく掠れていて、喉が痛むらしく彼は顔をしかめた。その時点でニーガンは男が長期に渡って何も飲んでいないことに思い至り、急いで飲み水の入ったペットボトルを取り出す。蓋を開けて飲み口を唇に添えてやると彼はゆっくりと水を飲み始めた。
ニーガンは男の喉が上下する様子を感慨深げに見つめる。昏睡状態でありながら奇跡的に生き延びた人間が目を覚まし、そして水を飲んでいるということが人間のたくましさを証明しているように思えたのだ。
満足するまで水を飲んだ男はペットボトルから口を離して感謝の言葉を口にする。
「ありがとう、助かった。一つ聞きたいんだが、あんたとは初対面のはずだ。なぜここに?」
妥当な質問にニーガンは頷き、背負っていたリュックサックを床に下ろしてからベッドの縁に腰かける。
そして真っ直ぐに見つめてくる男の目に視線を返しながら口を開く。
「俺は偶然お前を見つけただけの他人だ。知り合いでも何でもない。……そうだ、名乗ってなかったな。俺はニーガン。そっちは?」
「リックだ。他人の病室に入るだなんて、一体何を考えている?」
言外に「非常識だ」と訴えているのを察し、ニーガンは溜め息を吐く。
リックは過去に取り残された人間だ。病室の外の世界は以前と変わらない日常が存在すると思っている。そんな相手に現実を教えるのは難しい。
ニーガンはどうやって説明したらいいのか考えながら乾いた唇を舐めた。
「いいか、リック。俺が今から話すことは映画かドラマのネタにしか思えないだろう。からかわれてると感じるかもな。だが、嘘は言わない。だから最後まで話を聞け。」
ニーガンの真剣さが伝わったようで、リックはしっかりと首を縦に振った。
「何ヶ月前になるのか……謎の感染症が流行り出して死者が毎日増えていった。そのうちに感染症で死んだ奴が蘇って他の人間を襲い始めた。それを聞いた時は冗談だと思ったぜ。……だが、違った。」
「本当にそんなことが起きたのか?」
目を丸くしているリックにニーガンは頷いてみせた。
「ああ、そうだ。俺の住んでた地域でも発生して病院も警察も消防も機能しなくなって、市民の大半が死人に殺された。アメリカだけじゃなく世界中で同じことが起きたらしい。その証拠に他の国から助けが来ない。」
「その……蘇った人間が他の人間を襲う理由は?」
「食うためさ。奴らは痛みも疲れも感じないし眠ることもない。死んでるからな。だが、食欲だけは残ってる。人間や動物を襲って食い殺すんだ。」
「さっき『感染症で死んだ人間が蘇った』と言っていたが、噛まれた人間は感染するのか?」
ニーガンは首を横に振った。今から告げる事実はリックを打ちのめすかもしれないが、伝えないわけにはいかない。
「推測でしかないが、噛まれるから感染するわけじゃなくて全員が感染してるだろうな。俺の妻はガンで死んだが、怪物として蘇った。噛まれてないのに蘇ったのは空気感染か何かで感染してたからだ。それ以外に考えられない。」
ニーガンの話にリックは目を瞠り、唇を微かに震わせる。動揺が大きいのは見てわかったが、彼は取り乱すことなく拳を握った。
「俺たちも?」
「ああ、多分な。俺個人の考えだが、人間は全員ウイルスに感染していて、生きてる間はウイルスが眠った状態でいる。死んだらウイルスが動き出して転化する。死人に噛まれた場合は奴らの出す分泌液に含まれる成分がウイルスを刺激して、その瞬間からウイルスが動き出す。そのせいで噛まれると感染するように見えるってわけだ。」
「筋は通るな。俺も感染しているかもしれない、か……」
リックは苦々しげに呟いた。
ニーガンは自分の話をリックが素直に受け入れたことに驚く。もっと疑われたり拒絶されるかと思っていたが、彼の口から否定や拒絶の言葉は出てこなかった。
「意外とすんなり受け入れるんだな。もっと否定されるかと思った。」
ニーガンの感想にリックが微かに苦笑いを浮かべる。
「異常事態なのはわかるさ。」
リックはそう言ってベッド近くのモニターや点滴の機械、そしてサイドテーブルの花瓶に顔を向けた。
「動いていない機械、空になった点滴、枯れたまま放置された花。それだけを見れば病院が機能していないことがわかる。つまり異常事態だ。」
「鋭いな。前は警察官だったのか?」
「保安官だった。逃走犯の確保の応援に行って、銃撃戦になって、撃たれて……そこからの記憶がない。きっと昏睡状態だったんだろうな。」
リックは遠い目をしていた。失った時間に思いを馳せているのだろう。
そのリックが突然腕の管を引き抜いて立ち上がろうとした。寝たきりだったせいで筋肉が衰え、起き上がるだけでも苦労している。
ニーガンは立ち上がってリックがベッドから起きるのを手伝ってやった。
「ありがとう。世話になってばかりですまない。」
「それは構わないが、どうするつもりだ?」
リックは真っ直ぐにニーガンの目を見た。その目は力強く輝いており、ニーガンはその目に惹かれる自分に気づいた。
「家に帰る。家族の無事を確かめたい。」
返ってきた答えにニーガンは眉を寄せる。
「厳しいことを言うが、希望は持つな。生き延びた人間よりも死人を捜すほうが簡単なくらいだ。それがどういう意味かはわかるな?」
ニーガンの言葉にリックの顔が引きつる。
死者が蘇るようになってから世界は死に覆われた。多くの者が怪物の餌食となって怪物の仲間入りを果たし、そうでない者は絶望して自ら命を絶った。過酷な世界で生き延びるのは容易ではなく、行方のわからない者の生存を期待するだけ無駄だと言える。リックの家族の生存も可能性は低いと考えた方が良い。
期待を抱かせるような安っぽい言葉を吐き出すことはできない。そんなにもこの世界は甘くない。この世界で生きていくならば甘さは捨てなければならない。
ニーガンはそれ以上の言葉を重ねるのをやめてリックと見つめ合った。そのリックの目は微かに潤んでいるが、それでも輝きを失わない。
「どれだけ厳しい現実でも、俺は家族を捜す。必ず見つける。それだけだ。」
リックは決意を述べるとニーガンの脇を通り過ぎようとした。そのリックの腕をニーガンはしっかりと捕まえた。
驚いたように見上げてくる男を見下ろしながらニーガンは小さく笑う。
「家まで付き合ってやるが、外に出る前に着替えろ。流石にその格好じゃまずい。」
リックはニーガンの指摘を受けて己の体を見下ろし、気まずそうに鼻の頭を掻いた。服と言っても薄い生地の寝巻きは前が大きく開き、ズボンの長さは膝よりも上までしかない。足元も靴下さえ履いていないので、このまま外に出るのは無謀だ。
ニーガンはクスクスと笑いながら部屋の中を物色して一組の着替えとスニーカーを見つけた。それを見たリックが「あっ!」と声を上げる。
「それは俺の服と靴だ。」
リックはニーガンの見つけた服とスニーカーを手に取って凝視する。
「よく着ていたものだ。『いつも同じ格好をしてる』とローリが……妻が呆れながら笑ってた。」
声を震わせるリックの顔を覗き込むと泣くのを必死に堪える彼と目が合った。
リックは涙脆いのかもしれない、とニーガンは笑みを浮かべる。
「お前が元気になって、それを着て退院すると信じてたから持ってきたんじゃないか?願い通りになったな。」
ニーガンの言葉にリックは黙って頷いた。
ニーガンはリックの肩をポンポンと叩いてからリュックサックを拾ってドアの方に向かう。
「外にいる。着替えたら──いや、覚悟を決めてから出てこい。」
それだけを言い置いてニーガンは部屋を出た。そしてドアの隣の壁に背中を預けながらリックの目を思い浮かべる。
美しい目だった。世界が変わってから何かを美しいと感じたことは初めてで、ニーガン自身も驚いていた。
その時初めて、ニーガンは己の心が死にかかっていたのかもしれないと気づいた。負の感情に蝕まれてゆっくりと死んでいこうとしていた心をリックが引き戻した。リックの目覚めを促したのがニーガンならば、リックはニーガンの心を救ったのかもしれない。
ニーガンはリックとの出会いに運命的なものを感じながら、彼が姿を見せるのを静かに待った。
******
「待たせて悪かっ……」
白いTシャツと濃紺のジーンズに身を包み、詫びながら出てきたリックの言葉が不自然な箇所で途切れた。ニーガンがリックの方に顔を向けると動揺の隠せない横顔が目に映る。
リックが動揺するのも無理はない。彼の知っている世界の病院は部屋も廊下も照明に照らされ、常に清潔さが保たれている。そして医師や看護師、患者などの多くの人々が行き交うのが当たり前だ。
しかし、今の世界では違う。建物全体が非常用の照明だけで薄暗く、様々な物が散乱し、壁には弾痕が刻まれ、床は血液で汚れている。「荒れ果てた」という表現が相応しい状態を目にするのは初めてだろう。世界が変わってしまったことをわかりやすく突きつけられたのだ。
リックは込み上げる感情を堪えるように唇を噛む。
「……本当に、世界は変わってしまったんだな。」
「ああ。生き残るのが難しい世界だ。」
「まだ頭の中は混乱しているが、もう行こう。長く留まりたい場所じゃない。」
「そうだな。その前に──」
ニーガンはリックの正面に回って彼と向かい合う。この世界で生き残るための基礎を教えなければ移動はできない。
「とりあえず基本的なことだけ教える。移動する時は常に警戒しろ。視覚だけじゃなくて聴覚や嗅覚も使え。妙な音が聞こえたり変な臭いがしたら俺に言え。些細なことが命取りになる。それと、必要以上に大きな音を立てるな。音は死人を呼び寄せる。」
リックは真剣な顔で「わかった」と頷く。
「もし死人が出てきても今は俺に任せろ。目覚めたばかりで体の弱ったお前じゃ負ける。脳みそを潰せば倒せるってことだけ覚えておけ。」
「脳みそを潰す?」
「そうだ。脳みそが使い物にならないようにすればいい。行くぞ。」
不慣れな人間を連れて探索するのは危険なので一度通ったルートから外に出ることにし、ニーガンは体の向きを自分が歩いてきた方向に向ける。そして、行きよりも歩く速度を落とした。
玄関を目指して歩いていると、先程通り過ぎた「開けるな。死人がいる」と書かれた扉の前に来た。生きた人間二人の匂いに反応した死人たちが扉の向こう側で飢えを訴えて呻き、扉を叩いたり押したりして外に出ようとする。その扉の隙間から這い出る指を見てリックは息を呑み、その足を止めた。
「あれは生きている人間の肌の色には見えない。死んでいるんだよな?」
少し怯えを含んだリックの声にニーガンは首を縦に振って答えた。
「死んでる。あいつらはもう人間じゃない、怪物になったんだ。さっさと行くぞ。」
ニーガンが先に進むとリックは慌てて後を追いかけてきた。きちんと後ろを付いてくるものの、何度も振り返って扉の方に視線を向けている。
「……悪夢みたいだ。」
後ろから聞こえた独り言に対してニーガンが言うことは何もない。
前に進めば死人の声も鎖の擦れる音も遠ざかっていくが、しばらくの間、それらの声や音が間近で聞こえるような気がした。
病院から出た後、ニーガンはリックの案内に従って彼の家を目指す。病院からリックの自宅まではそれなりに距離があるのだが、車がないため歩いていくより他にない。
その途中で上半身だけになっても動いている死人に遭遇した。リックが死体ではなく「動く死人の姿」をきちんと見るのはそれが初めてで、彼は這いずり寄ってくる死人を凝視しながら立ち尽くした。その顔色が悪いのは体調不良のせいではない。
ニーガンは立ち尽くしたまま動かないリックの腕を掴む。
「あれが蘇った死人だ。脳を破壊しない限り動き続ける。わかったなら行くぞ。あれは少しずつしか移動できないから放っておけ。」
ニーガンが腕を掴んだまま歩き出すとリックは足をもつれさせながら付いてきた。
上半身だけの死人の姿が見えなくなる場所まで来てから手を離すとリックが「質問がある」と口を開いた。
「蘇った死人のことは何と呼んだらいいんだ?名前は?」
その質問に対する答えとしてニーガンは「ない」と言い切った。
「政府が正式な呼び方を発表するよりも前に国自体が滅んじまった。みんな好きなように呼んでるぞ。」
「例えば?」
「そうだな……ウォーカーとか、バイターとか、後はローマーって呼んでる奴もいた。」
「そうなのか。じゃあ、俺はウォーカーと呼ぶことにする。それで、他にも教えてほしいことがあるんだが──」
「ウォーカーとの戦い方か?」
ニーガンはリックの顔を見つめながら尋ねた。そうすると彼は真剣な表情で深く頷く。
「脳みそを破壊すれば動かなくなると言ったが、具体的な方法は?」
「銃で頭を吹っ飛ばす、殴って頭ごと潰す、刃物で頭を刺して脳みそを傷つける。こんなところか?刃物で頭を刺すってのはちょっと技術がいるぞ。」
「頭蓋骨を貫通して脳みそを刺すのは難しい。そうなると隙間を狙わないといけないからか?」
「正解。だからウォーカーの肩や首を掴んで狙いをしっかり付けて刺すんだ。使うのも刃の長いやつにしないと奥まで届かないぞ。この方法は下手すると噛まれるから気をつけろよ。」
「わかった。他に気をつけることは?」
「大きな音は奴らを呼び寄せるから数が少ない時は銃を使うな。それと、狙うのは頭だけにしろ。奴らは痛みを感じないから傷つけたって怯まない。時間の無駄だ。後はとにかく逃げることだな。全滅させなくても逃げ切れりゃいい。それを覚えておけ。」
「ああ、覚えておく。」
それからしばらくの間、ニーガンは自分の経験談をリックに話して聞かせた。具体的な話をした方が参考になると思ったからだ。
リックは実に熱心な生徒だった。ニーガンの経験談を聞いて様々な質問をしたり、「このような対処方法も有効だろうか?」と自分で対処方法を考えたりもした。生き延びるために必死に学ぼうとしているのが伝わってきて、ニーガンは周囲への警戒を緩めてしまいそうになるほど教えることに熱中した。
話し込むうちにリックが「俺の家だ!」と興奮したように言ったので、ニーガンは彼の視線の先を見遣る。
リックの自宅は白くて美しい家だった。平穏な時に訪れたなら素直に褒めることができただろう。
しかし、ニーガンは少し開いた玄関ドアを見て警戒心を強めた。ウォーカーが中に入り込んでいる可能性がある。
ニーガンは家の中に駆け込みそうな勢いのリックを引き止めるために彼の肩を掴んだ。
「リック、まだ行くな。先に中の様子を見る。俺の後ろにいろ。」
ニーガンはリックを自分の後ろに下がらせ、ドアを大きく開けてからその場に留まる。見える範囲にウォーカーの姿はない。
その次は玄関ドアを強く叩いた。そうするとリックが驚いたようにニーガンを呼ぶ。
「ニーガン、音を立てていいのか?ウォーカーを呼び寄せてしまうぞ?」
ニーガンは顔を正面に向けたままリックの質問に答える。
「探索してない建物に入る時は入り口で音を立てて中にウォーカーがいないか確かめろ。狭い部屋のなかじゃ戦いづらいから始めに誘い出して倒した方が安全だ。潜んでることに気づかなくて後ろから襲われても困るだろ?」
「確かにそうだ。俺はもっと考えないとだめだな。」
反省するリックの声は少し落ち込んでいるように思えた。そのためニーガンはリックを励ますために後ろ手でリックの腕をポンッと叩いた。
「これで覚えりゃいいだけの話だろ、落ち込むな。……ウォーカーはいなさそうだ。行くぞ。」
ニーガンはリックと共に家の中に入る。
リックが「ローリ!カール!」と家族の名前を呼びながら部屋を見て回る一方、ニーガンはウォーカーや他の人間が潜んでいないかを改めて確認した。特に荒らされた様子がないので誰も入り込んでいないのかもしれない。
ニーガンが家の中を一通り見終わってリビングに行くと、リックが床に座り込んで肩を震わせながら泣いていた。彼の家族はどこにもいなかったのだ。
「ローリ……カール……どこにいるんだ?」
ニーガンは泣き続けるリックの後ろ姿を眺めながら、表現しようのない居心地の悪さを感じていた。
行方のわからない相手の生存は期待できない世界だ。リックの家族は死んだと考えた方が正解なのは理解している。
しかし、「諦めろ」と言えばリックは更に泣くのだろう。そう考えると慰めの言葉も叱咤の言葉も発することができない。傍で見守ることしかできないのがもどかしい。
どうしたものか、とニーガンが溜め息を吐くとリックが不意に立ち上がった。
「リック?」
リックが呼びかけを無視してリビングを出たので、ニーガンは仕方なく後を追う。
ニーガンがリックを追いかけて寝室に入るとリックはクローゼットを開けて中を漁っていた。その必死な後ろ姿に声をかける。
「おい、リック。辛いのはわかるし、混乱してるのもわかるが──」
「ローリの服だけがない。」
リックはニーガンの声を無視して独り言を漏らした。そして慌てたように部屋を出て、今度は子ども部屋へ飛び込む。
「リック!」
ニーガンもリックを追って子ども部屋に行くと、そこでもリックはクローゼットを開けて中を見ていた。
「リック、無視するな!」
ニーガンが声を荒らげてもリックは動じない。涙の跡が残る顔をこちらに向けて彼は言う。
「カールの服もない。俺の服だけが残っているんだ。」
妙に目が輝いているリックにニーガンは首を傾げる。
リックは困惑するニーガンを置いてリビングに向かった。ニーガンが仕方なくリビングに戻ればリックは部屋をじっくりと見回しており、その次は棚を開けて中を確認していく。ニーガンにはリックの行動の意味がさっぱりわからなかった。
リックは棚の中身を見終えると笑みを浮かべながらニーガンに歩み寄ってきた。
「ローリとカールは無事に家を出た!ここを出発する時点では二人は生きていたんだ!」
興奮気味に話すリックにニーガンは困惑を深めた。
絶望しすぎて何かが切れてしまったとしか思えず、落ちつかせるためにリックの両肩に手を置いて「落ちつけよ」と努めて穏やかな声を出す。
「家族の無事を信じたい気持ちはわかる。だが──」
「俺の服だけが残っていて、二人の服はほとんど残ってなかった!俺の分は必要ないから自分たちの分だけ持っていったんだ!」
「それはそうかもしれないが、それだけじゃ無事だとは言えない。他の人間が入り込んで持っていったのかもしれないぞ。」
「じゃあ、家族写真を他人が持っていくのか?」
その一言にニーガンは目を丸くした。
リックは誇らしげな笑みを浮かべながら目を輝かせる。
「写真立てもアルバムもなかった。他人の家族写真をわざわざ持っていく人間なんていない。二人が逃げる時に持っていったとしか考えられない。」
「そりゃそうだ。参ったな、それは気づかなかった。すごいな、お前。」
ニーガンが感嘆の言葉を漏らすとリックはいたずらっぽい笑みを見せた。
「これでも保安官だからな。」
その一言にニーガンは苦笑を浮かべ、リックの肩から両手を離す。
「そういえばそうだった。忘れてたぜ。……今も無事に生き延びてるかわからないが、捜してみる価値はあるかもしれないな。」
「ああ、捜す。儚い希望だとしても俺は家族を必ず見つけ出す。だから、もう一日だけあんたの時間をくれないか?無理を言っているのはわかっているが、この世界で生きる方法を教えてほしい。お願いだ、ニーガン。」
リックは真剣な目をしている。その目をニーガンは真っ直ぐに見つめ返した。
リックを助けたところで見返りは何もない。既に十分なほど彼を助けてやったのだから、これ以上助けてやらなくとも責められる理由はないだろう。
しかし、ニーガンはリックを好ましく思い始めていた。自分の足で立ち、この世界で生きていこうとする姿は眩しい。自分で希望を見つけ出して掴もうとする彼を手助けしてやりたくなる。
ニーガンは自身に向けて苦笑しながら「わかった」と答えた。
「明日は特訓してやる。だから今は休め。お前は目覚めたばかりなんだからな、リック。」
ニーガンの返事にリックは嬉しそうに微笑みながら「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。
そのリックの顔を見つめながらニーガンはこう思う。明日が終わってもリックから離れられないかもしれない、と。そんな予感がしていた。
ニーガンは今夜はリックの自宅で休むと決め、家の裏口や窓の封鎖を行った。それはリックに安全を確保する方法について教えながらの作業だったので普段より時間はかかったが、久しぶりに誰かと一緒に作業をするのは楽しかった。
安全を確保した後、ニーガンは一人で調達に出かけることにした。
リックの家には保存食がなかった。いつも保管してあったという場所は空になっていたのでリックの妻が持っていったのだろう。ニーガンの手持ちがあるとはいえ、できれば新たな食料を確保しておきたい。
ニーガンはリックから家の鍵を借り、「絶対に外に出るな」と言い含めてから家を出た。この辺りはウォーカーが少ないようだが、ウォーカーに対して不慣れなリックが一人で行動するのは危険だ。
ニーガンは近くの家々を回って数個の缶詰を確保することができた。これで今日と明日の食料は問題ない。
ニーガンが家に戻るとリックは地図を眺めて考え込んでいた。リックはニーガンが戻ってきたことに気づいて地図から視線を外し、安堵の笑みを浮かべてニーガンを出迎える。
「おかえり。ケガはないか?」
「大丈夫だ。そっちこそガーゼは替えたのか?」
「ああ、悪いがあんたの持っていたガーゼと消毒液を使わせてもらった。薬やガーゼが一つも残ってなかった。常備していたはずなんだが……すまない。」
申し訳なさそうな顔をするリックにニーガンは苦笑いを浮かべる。
「気にするなって言っただろ。そんなことより、缶詰を見つけてきたぞ。」
ニーガンが戦利品をダイニングテーブルの上に並べるとリックは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。何もかも任せてしまって本当にすまない。」
「体調が万全じゃない奴にウロウロされる方が心配だから気にするな。それより、地図を見てたのか?」
ニーガンの問いにリックは頷いて答えた。
「二人が向かったのはどこなのか考えていたんだが、避難所の情報が何もないから見当がつかない。あんたは避難所の話を聞いたことはあるか?」
「この辺のことは全く知らない。俺は別の場所から移動してきてるからな。」
ニーガンの返事にリックは肩を落とす。それでもすぐに「考えがあるんだ」と明るい表情に戻った。
「明日は訓練が終わった後に保安官事務所に行こうと思う。避難所の情報があるかもしれないし、武器も残っているかもしれない。武器が残っていたらニーガンにも渡したいから俺が戻るまで家で待っていてくれないか?」
リックの提案にニーガンは顔をしかめた。
どうやらリックは一人で保安官事務所に行くつもりらしい。ニーガンに世話をかけていることを申し訳なく思っているからなのは理解しているが、それでも気に入らないものは気に入らない。
ニーガンはリックの顎を掴んで顔を近づけた。突然の行動に驚いたリックが瞬きを繰り返す。
「一人で行くから俺に留守番してろって?嫌だね。お前がウォーカーに齧られてないかハラハラしながら待つなんてお断りだ。俺も行くぞ。拒否するなら訓練の話は取り消しだ。」
ニーガンが不機嫌さを隠さずに言い切るとリックは口をポカンと開けた。その呆けた顔がおかしくて笑いたくなったが我慢する。
リックは目を丸くして「悪かった」と謝ってきた。
「あんたに世話になってばかりだから礼のつもりだったんだ。心配してもらえるなんて思っていなくて……」
「俺はそんなに薄情な野郎に見えるのか?」
ニーガンが拗ねて口を尖らせるとリックが楽しげに笑い声を上げる。
「そんなことはないさ。ニーガンは優しい。」
リックに柔らかく微笑まれ、ニーガンは落ちつかない気分になった。
こんな風に優しく笑う人間に出会ったのが久しぶりだからなのだろうか?
ニーガンは自身の感情に戸惑ったままリックから手を離した。
「ニーガンが一緒に来てくれるなら心強い。よかったら一緒に来てくれないか?」
「それはお願いか?」
「ああ、お願いだ。」
ニーガンはニッと歯を見せて笑い、リックの頬をペチペチと叩く。
「それじゃあ仕方ない。一緒に行ってやる。まあ、それはいいとして、夜になる前に飯を食っちまおうぜ。暗くなったらなるべく明かりは消した方がいい。」
「わかった。ニーガン、ありがとう。」
二人で保安官事務所へ行くことになったため、明日は早く起きてリックの訓練を行い、午後から保安官事務所に向かうという予定になった。
缶詰で夕食を済ませて明日の準備を終える頃には外は暗くなっていた。暗くなるとウォーカーの声が微かに聞こえてくる。その声を聞いたリックが不安げに眉を寄せた。
「ウォーカーが集まってきているのか?」
「単に移動してるだけだろう。俺たちがいることに気づいてるわけじゃないから心配するな。ただ、大きな音や光が漏れるのは厳禁だ。奴らが集まってくる。」
「それなら早く寝た方がいいな。ニーガンは俺のベッドを使ってくれ。」
その言葉からニーガンはリックが考えていることを察し、呆れの溜め息を吐く。
「俺にベッドを使わせて自分はソファーで寝るつもりか?お前はケガ人の自覚がないのか?」
「ニーガンには世話になっているし、ここは俺の家だからゲストを優先するのは当然だ。」
ニーガンはこれ以上の議論は無駄だと悟った。
リックは他人を優先しがちなタイプのようだ。ベッドで寝るように言い続けても彼はきっとソファーで寝るだろう。それならば実力行使に出た方が早い。
リックをベッドに押し込むことに決めたニーガンは何も言わずにリックの腕を掴み、そのまま寝室の方へ歩いていく。リックが文句を言っても受け付けず大きなダブルベッドの上に転がすと、リックは「降参だ」と大人しくベッドに横になった。
ニーガンはリックの顔に向けて毛布を放り投げてから彼の隣に寝転んだ。
「俺の添い寝付きなんてラッキーだな、リック。良い夢が見られるぞ。」
ニーガンがウインクを飛ばしながらからかうとリックは呆れの眼差しを向けてきた。
「ニーガン、あんたはいつもそんな調子なのか?」
「まあ、基本的にはな。最近は一人で行動してたから久しぶりにからかう相手がいて楽しいんだ。特にリックみたいなタイプは遊びたくなる。」
軽い口調で言ったがリックの表情は曇り、眼差しは気遣うようなものに変わった。一人で行動すること──行動しなければならないことの意味を理解したからだろう。
リックが黙り込んでしまったのでニーガンも何も言わずに毛布を被った。自分が生み出した沈黙に落ちつかない気分にさせられる。
しばらくするとリックが「ニーガン、起きてるか?」と小さな声で尋ねてきた。
「何だ?」
「一人で旅をしてきて大変だったと思う。そんなニーガンから見れば俺は頼りない甘ったれなんだろうな。しかも、助けてもらったのに返せるものが何もない。」
ニーガンは自嘲気味なリックの方に顔を向ける。彼はニーガンの方に横顔を晒したまま話し続ける。
「感謝することしかできないのが情けないが、本当に感謝している。あんたに助けてもらえなかったら今より混乱していただろうし、きっと死んでいたと思う。ニーガンに見つけてもらえて俺はラッキーだ。」
ニーガンがリックの横顔を見つめていると、リックが顔を傾けてこちらを見た。暗い中であっても目が合ったような気がする。
ニーガンがどう返事をすればいいのか考え込むうちに再びリックに名前を呼ばれる。
「ニーガン、俺を見つけてくれてありがとう。」
リックは伝えたいことを全て言い終えたらしく、それ以上は何も言わなかった。思いがけない感謝の言葉にニーガンが驚いている間にリックは寝息を立て始める。まだ体力が戻っていないので疲れたのだろう。
ニーガンはリックの寝息に耳を傾けながら、誰かに感謝を告げられたのがどれほど久しぶりなのか考える。世界が変わってから行動を共にした者たちの顔はぼんやりとしか浮かばず、彼らと交わした言葉は思い出せもしない。誰もがニーガンにとっては通り過ぎていくだけの者たちだった。
だがリックは違う。彼の表情一つひとつが脳裏に焼き付き、その言葉は心の奥深くまで染み込んでいる。リックを忘れることなんてできそうにない。
ニーガンは溜め息を吐き、自分もリックのように眠ろうと試みた。そうすることでニーガンは自分の心に宿った願いに気づく。
これが夢ではなく現実であってほしい。朝になってもリックが隣にいてほしい。彼が夢の中だけの存在だなんて嫌だ。リックは今が夢であってほしいと願うだろうが、ニーガンはリックがいる今こそが現実であってほしいと願う。
正反対にあるそれぞれの願い。願いが叶うのは自分か、相手か。
ニーガンは自分の願いが叶うことを強く祈りながら目をつぶった。
翌朝、目を覚ましたニーガンの隣ではリックが穏やかに眠っていた。その事実に顔を綻ばせてからリックを起こし、手早く朝食を済ませると外に出て訓練を始める。
まずは単独で彷徨っているウォーカーを捕まえて特徴を説明し、対峙する際の注意点を教えた。その次は実際にウォーカーを倒す訓練だ。頭を殴って倒す練習のためにルシールを貸してやると、バットに名前が付けられていることにリックは首を傾げたが、特に何も言わずにウォーカーに向かっていった。
バットでの練習の後はナイフを使っての練習を行い、それを終えたところで探索に出かけることにした。探索は教えたことの大半を実践できるので良い訓練になる。
リックは保安官としての経験があるおかげで飲み込みが早かった。まだ本調子ではないようだが動きに問題はなく、状況判断も的確だ。ニーガンの指示がなくとも冷静に行動するリックを観察するのは楽しい。
二軒の家の探索が問題なく終わった時点で訓練は完了したと判断して昼休憩を取り、今日の午後のメインイベントに臨む。
ニーガンはリックに案内されて保安官事務所に到着した。事務所の駐車場にはパトカーが停まっており、運の良いことにガソリンが残されていた。
「ガソリンが入った車を放置していくなんて、ここの連中はかなり慌てて出ていったみたいだな。武器にも期待できそうだ。」
ニーガンの意見にリックが同意するように頷く。
事務所のドアは壊されておらず、リックが持ってきた鍵で開けることができた。中は予想よりも散らかっていなかったので荒らされていないようだ。この辺りは生存者が全く来ていないのかもしれない。
事務所内を見回って安全であることが確認できると、リックが弾んだ声で「こっちに来てくれ」と呼んでくる。
呼ばれて向かった先は更衣室の隣にあるシャワールームだ。複数のシャワーブースが並び、放置された埃が薄っすらと積もっていること以外は清潔さを保っている。リックはそのうちの一つを放水させた。
「あー、リック?水を差すみたいで悪いんだが、ガスは止まっちまってる。あったかい湯なんて出ないさ。」
ニーガンがそう言うとリックは振り返ってニンマリと笑う。
「そう思うか?触ってみるといい。」
ニーガンはどこか得意げなリックの顔を訝しげに見てから降り注ぐ雫に向かって手を伸ばした。雫が肌の上で跳ねた瞬間に思わず「嘘だろ」と声が漏れる。冷水だと思いながら触れたのは程良い温度の湯であり、久しく味わうことのなかった心地良さに感嘆の息を吐き出す。
そんなニーガンの横でリックが嬉しそうに微笑んでいる。
「独自でプロパンガスを備えているのを思い出したんだ。きっと使えると思って──期待通りだったよ。久しぶりに温かいシャワーを浴びてさっぱりしていかないか?」
リックの素晴らしい提案に首を横に振ることができる者などいるだろうか?ニーガンは満面の笑みで「もちろん」と快諾した。
それから二人は隣同士のシャワーブースに入り、時間をかけて温かなシャワーを楽しむ。
ニーガンがシャワーを浴びたのは数ヶ月振りのことだ。放浪中は水浴びさえできないことも多く、清潔さを保つのは難しい。ボディソープやシャンプーの匂いを懐かしく感じるほど文明的な生活から遠ざかっていたのだと思い知らされる。
ニーガンが鼻歌混じりに髪を洗い流していると隣から声が飛んでくる。
「ご機嫌だな、ニーガン。」
ニーガンは隣のシャワーブースで髭を剃っているリックの方に顔を向けて笑みを浮かべた。
「お前のお陰でな。そっちも楽しそうじゃないか、色男。」
「あんたも髭を剃ったらどうだ?あんたは髭が似合うから惜しい気もするが、すっきりするぞ。」
「それもそうだな。すぐに伸びちまうが、少しの間だけでもすっきりするのは悪くない。」
そう答えるとリックが新品の髭剃りとシェービングクリームを差し出してきた。どうやらニーガンの分も用意していたらしい。ニーガンはクスクスと笑いながらそれを受け取る。
「サービスが良いな。」
「これぐらいはな。」
顔を見合わせ、揃って笑い声を上げれば更に気分が上向いていくのがわかる。温かいシャワーを浴びるのも、誰かと心から楽しく笑い合うのも、何もかもが久しぶりなことで新鮮に感じた。
たっぷりとシャワーを楽しんだ二人は全身の水気を拭ってから腰にバスタオルを巻き、服を着るために更衣室へ移動する。
リックが自分のロッカーに直行する傍らでニーガンはロッカーの中身を一つずつ確認していき、洗濯済みでサイズが合う服を貰うことにした。どうせ持ち主が現れることはないのだから問題ない。
ニーガンがTシャツとジーンズというラフな格好をする一方、リックは保安官の制服に身を包んだ。髭を剃って制服を着たリックは保安官の見本のように思える。先ほどまでとは異なり、どこか高潔さを漂わせる彼に思わず見惚れた。
ニーガンの視線に気づいたリックがこちらを見てはにかむような表情を浮かべる。
「そんなに見つめられると恥ずかしくなるからやめてくれ。似合わないか?」
「そんなことない、似合ってるさ。こんなに見た目の良い保安官には会ったことがない。だが、どうしてわざわざ制服を着た?」
ニーガンの質問にリックはすぐには答えなかった。制服を着た自身をじっくりと見下ろし、それから顔を上げる。
「制服を着ると気持ちが引き締まるというのもあるが、俺が今までの俺自身でいるためなのかもしれない。」
リックはロッカーの中に付いている鏡を覗き込み、そこに映る自分の顔を見つめながら話を続ける。
「この世界で生きていくには世界に適応しなきゃならない。適応するということは変化するということだ。これから俺は変わっていくだろうし、変わらなきゃならない。だが、それが怖いのかもしれない。」
リックの言いたいことはわからないでもない。以前の世界での常識や倫理観が通用せず、本心では望まない選択をしなければならないこともある。誰もが以前の自分とは変わり、変わらない人間は何もできずに死んでいくだけだ。生き延びるためには自身を変えなければならない。
しかし、自分がどのような人間に変化するのかわからない恐怖を感じても無理はない。人間ではなく獣になってしまう可能性もあるのだ。
ニーガンが何も言わずにいるとリックがこちらに体を向けた。その顔には苦笑いが浮かんでいる。
「保安官の制服は俺が変わらずにいるためのお守りみたいなものだ。これを脱ぐのは自分の変化を受け入れた時。きっと、そうなった時に俺は制服を手放すんだと思う。」
自分の気持ちを話し終えたリックは場の空気を変えるように「さあ、武器の保管庫に行ってみよう」と歩き出した。
ニーガンはリックの後ろ姿を見つめながら、彼が制服を脱ぐ日はそんなに遠くないだろうと思った。きっと苦悩しながらも変わっていく自分を受け入れる。その時、リックはどのような人間になっているのだろう?
ニーガンは「見てみたい」という気持ちを抱きながら、先を行く彼の後を追った。
リックの後に続いて足を踏み入れた武器の保管庫は予想していたよりも小さく、数が少ない印象だ。
そんなことを考えながら収められている武器を見ているとリックが小さく溜め息を吐く。
「結構なくなったな。」
その一言から、本来はもっと多くの武器が収められているのだとわかる。
「ウォーカーに対応するために持ち出したんじゃないか?それにしては残ってる方だと思うぞ。」
ニーガンが近くにあった拳銃を手にしながら言うとリックが「それもそうだな」と頷き、武器を入れるためのバッグを手渡してきた。
受け取ったバッグに銃や銃弾の入った箱を詰め込んでいたところへリックがライフル銃を差し出してくる。
「リック?」
「これも持っていった方がいい。あると便利だ。銃だけじゃなくて防弾チョッキも持っていったらどうだ?」
「いや、重くなるからやめておく。」
「わかった。他に何か必要なものがあったら遠慮なく持っていってくれ。俺の分は気にしなくていいから。」
リックの言い方がニーガンはどうにも気に入らない。リックは自分たちが別々に行動することを前提に話しているように思える。
ニーガンは眉間にしわを寄せ、手に持っていた拳銃を机に置いた。わざと大きな音を立てて置いたので驚いたリックがこちらを見る。そのリックを睨みつけながら疑問を口にする。
「確認しておきたいんだが、お前は俺たちが別行動すると思ってるのか?」
ニーガンの問いにリックは不思議そうな顔をしながら首を縦に振った。
「俺が家族を捜すのに付き合う義理はないだろう?」
その言葉にニーガンは苛立ちを感じた。
リックはニーガンと一緒に旅をするという選択肢を始めから持っていない。「一緒に来てほしい」と頼むつもりもないのだ。離れ難く思っているのが自分だけだという事実に腹が立つ。
ニーガンは苛立ちを隠さずにリックに詰め寄り、彼を壁際に追い込んだ。そして戸惑いを浮かべたリックの顔を見下ろしながら本心をぶつける。
「リック、俺はお前を気に入ってる。お前はガッツがあるし、できる男だ。面白い奴だとも思ってる。お前となら一緒に旅をしてもいい。それなのにお前はどうだ?俺はお前にとって顔見知り程度のどうでもいい野郎なのか?」
「そんなことはない。恩人だし、頼りにしているし、一緒にいて安心する。付き合いの長さは関係なく信頼している。」
「じゃあ、何で別行動するのが当然みたいな考えになる?旅に誘うつもりもなかったんだろ?」
ニーガンの訴える不満にリックがますます困り顔になった。
自分よりも大柄な男に壁際に追い込まれて責められる状況にリックが困惑するのは当然だ。彼にとって昨日出会ったばかりの相手から「旅の誘いがない」と文句を言われるのは理不尽なことなのかもしれない。
しかし、ニーガンはリックにとって自分の存在が小さなものであることが許せなかった。「一緒に来てほしいと頼むほどの相手ではない」と思われているのかと考えると腹が立って仕方ない。
ニーガンが腹の底で怒りを煮えたぎらせているとリックが躊躇いがちに口を開く。
「今の俺はニーガンに守られてばかりで、頼ってばかりだ。この状態が続くならニーガンに負担がかかるし危険だと思う。一緒に行動することが良いことだとは思えない。」
リックは申し訳なさそうに目を伏せた。
「俺はどんなことをしてでも家族を見つける。危険な場所にも行く。安全な場所を探すのは家族を見つけてからだ。危険な旅になるとわかっていてニーガンを誘うなんてできるわけがない。」
「危険だってわかってるなら俺がいた方がいい。俺を頼りにしてるんだろ?」
ニーガンの言葉を拒絶するようにリックが首を横に振る。
「ニーガンは強い。タフな男で、何が起きても対応できると思う。だからといって危険なことに巻き込んでいい理由にはならない。俺たちは一緒に行動しない方が良いと思う。頼むから、俺とはここで別れて安全な場所を見つけてくれ。」
ニーガンはリックの望みを聞いて深々と溜め息を吐いた。
世界が変わって見栄や虚栄が役立たなくなり、自分のことを優先させる者ばかりを見てきたせいでリックがひどく眩しく見える。「強い人間だから」と縋るのではなく「誰もが等しく安全であるべき」とする優しさが心に染みる。
リックの思いを知り、ニーガンは本当に誰かを守ろうとするならば対等でなければならないのだと悟った。どちらかが一方的に相手を守るのではなく、守り守られる関係でなければ歪みが生まれるだろう。そのことを理解した今、リックと離れたくないという思いがますます強くなる。ニーガンはリックを死なせたくなかった。
ニーガンは離れることを拒む気持ちを示すようにリックの手首を掴む。
「リック、お前は俺に頼ってばかりじゃない。自分の足でしっかり立ってる。そうじゃなきゃお前と一緒に行きたいなんて思わないさ。俺とお前は対等に守り合える。」
「ニーガン、そう言ってくれるのは嬉しいが──」
「俺はリックと旅がしたい。お前の家族を捜すのも、それが終わってからも。俺が望んでるんだぞ?どうして拒む必要がある?お前は嫌なのか?」
まるで女を口説くみたいだ、とニーガンは苦笑する。
いや、女を口説く時以上に真剣だ。リックを絶対に逃したくない。
困りきった表情で視線を辺りに彷徨わせていたリックは、やがて溜め息を一つ吐くと「わかった」と頷いた。
「嫌なわけがない。あんたが一緒に来てくれたらどれだけ心強いか……その気持ちを抑えようとしたんだ。だが、本当にいいのか?」
ニーガンは心配そうに見上げてくるリックの額に己の額を軽く触れさせる。
「俺たちがコンビを組めば最強さ。ウォーカーなんて蹴散らしてやろうぜ。」
ニッと笑えばリックが苦笑いを零した。その苦笑いはすぐに笑顔に変わり、二人は同じ種類の笑顔を向け合う。
この世界になって初めて、ニーガンは心の底から守りたい相手に出会った。出会ったばかりで知らないことの方が多い相手だ。それでもニーガンは目の前の男──リックを守りたい。
そして、それはリックも同じなのだと知った。ニーガンの身を案じ、「自分と一緒にいては危険だから」と離れようとした。自分にできる最善で相手を守ろうとする彼とであれば対等に守り合う関係になれるはずだ。
リックとの旅は、きっと楽しい。その気持ちがニーガンの心を満たしていく。
ニーガンは久しぶりに心の底から満たされた気持ちになり、それを味わうようにリックと額を触れ合わせたまま目を伏せた。
******
保安官事務所で武器や他の物資を手に入れた二人は、一度リックの家に戻ることにした。リックが旅の準備をするために家に戻ることを希望したからだ。
パトカーを一台貰うことに決め、その運転席にリックが座ったのでニーガンは助手席に座った。リックは勤務中に運転を担当することが多かったため自然と運転席に座ってしまうそうだ。
過去の話をしながら家に向かって車を走らせていると、道路の脇に十歳ほどの少年が佇んでいるのが見えた。驚いたようにパトカーを見つめる少年はどう見てもウォーカーではない。思いがけず生存者に出会った二人は目を丸くしたまま顔を見合わせる。
とりあえず事情を聞くために車を停め、降りて少年に近づく。
「こんにちは。こんなところで何をしているんだ?」
リックが優しい口調で尋ねたが、少年はニーガンとリックの顔を交互に見ながら黙っている。その顔には緊張が浮かんでいた。少年の緊張を感じ取ったリックが手振りで「止まれ」と指示してきたのでニーガンはそれに従って立ち止まる。
リックは少年に「怖がらなくていい」と言ってその場で足を止め、少年と一定の距離を取った。
「俺はリック。あっちにいるのはニーガンだ。よかったら君の名前を教えてくれないか?」
名前を尋ねられ、正直に答えてもいいのか迷う素振りを見せる少年にリックは柔らかな声で話し続ける。
「わかった、無理に答えなくていい。俺たちは君が一人でいることが心配なんだ。誰か大人はいないのか?」
「……父さん。」
「そうか、お父さんがいるんだな。それなら早くお父さんのところへ帰った方がいい。歩く死人が彷徨いているから一人でいるのは危険だ。はぐれてしまったなら一緒に捜そう。」
「おじさんは保安官?本物の?」
少年の質問にリックは微笑みながら頷く。
「そうだよ、本物の保安官だ。だから君の安全を守りたい。お父さんとはぐれてしまったなら一緒に捜させてくれないか?」
リックの穏やかな口調に警戒を解いたのか、少年の顔から緊張が消えた。それと同時に少年が一歩前に踏み出す。
リックも同じように足を踏み出しかけた、その時。
「動くな!息子から離れろ!」
突然響いた声に少年は驚いて振り返り、リックは警戒心を顔に浮かべる。ニーガンも鋭い眼差しを声が飛んできた方に向けた。
現れたのは男一人だった。厳しい表情で拳銃をリックに向けて構える姿からは強い警戒心が窺える。「息子から離れろ」と怒鳴ったことから少年の父親なのだと察した。
男はリックから視線と銃口を外さないまま少年に近づいていく。
「デュエイン、後ろに下がるんだ。」
デュエインと呼ばれた少年は困りきった顔で父親に縋り付く。
「父さん、何もされてないよ。話してただけだ。」
男は息子の言葉を無視してリックを睨み、ニーガンにもチラッと射るような視線を投げつけてきた。
銃口を向けられたままのリックは両手を上げながら男に話しかける。
「俺はリック。そこにいるのはニーガンだ。保安官というのは本当だが、今の世界では何の意味もないことは理解している。息子さんに声をかけたのは一人でいると危険だと思ったからだ。」
「それはいい。それより、男二人がこんなところで何をしてる?食料や武器を探してるのか?」
警戒の滲む声から、ニーガンは男が心配しているのは「見知らぬ男二人は略奪者なのではないか?」ということだと推測する。
生存者の誰もが食料や物資、そして武器を欲しがっている。それらには限りがあり、自分よりも先に他の者に見つけられてしまえば諦めるか奪うかの二択だ。そんな状況では略奪が珍しくない。子どもがいるのならば警戒心が強くなって当然だろう。
ニーガンは口調がきつくならないように心がけながら「落ちつけよ」と男を宥めにかかる。
「俺たちはリックの家に帰る途中だ。帰って旅の準備をしたら街から出ていく。お前たち親子を煩わせるようなことはないさ。だから銃を下ろせ。」
ニーガンの話を聞いた男は訝しげに眉根を寄せた。
「旅に出る?」
「俺は旅をしてここに来たが、リックは世界がこうなる前から病院のベッドで昏睡状態だった。それが昨日ようやく目を覚まして旅に出ようとしてるってわけだ。」
「……この状況で、ずっと昏睡状態だったのに生きてるなんて信じられない。」
リックの身に起きたことへの模範的な感想にニーガンは肩を竦める。リックが目覚めた瞬間を見ていないのだから信じられなくて当然だ。
ニーガンと男のやり取りを見守っていたリックが「聞いてくれ」と男に訴える。
「俺には妻と息子がいる。二人が無事に家を出てどこかへ逃げたという形跡があったから二人を捜しに行きたいんだ。生存者が避難しそうな場所を知らないか?どんな情報でも構わないから知っていたら教えてほしい。頼む。」
リックの言葉に男の目が微かに見開いた。そして、その顔は痛みを堪えるようなものになる。
その時、男の後ろで成り行きを見守っていた少年──デュエインが父親の隣に並んだ。
「アトランタだよ。おじさんの家族はアトランタに行ったんだ。」
確信を持って話すデュエインにニーガンもリックも視線を向ける。
「僕たちもアトランタに行こうとしてたんだよ。安全な場所だって放送してた。」
デュエインの説明を引き継ぐように男が「その通りだ」と声を絞り出す。いつの間にか拳銃は下ろされていた。
男は拳銃をホルスターに収めながらアトランタの話をする。
「アトランタは軍が守っていて、食料も物資も十分な量が用意されてると言われていた。医療を受けられるとも。だからアトランタに避難するように呼びかけられていて、大勢がそこに向かっていたんだ。」
「アトランタというと距離があるが、他の避難所はないのか?」
リックの問いに男は頭を振る。
「この辺りに避難所はない。行くとすればアトランタしかないだろう。」
それを聞いたリックがニーガンを見た。ニーガンは希望に輝くリックの目を見つめ返しながら頷いてみせる。
リックは再び親子の方に顔を戻して「ありがとう」と感謝した。
「俺たちはアトランタに行ってみる。二人も一緒に来ないか?行こうとしていたんだろう?なあ、ニーガン。」
リックから同意を求めるように名前を呼ばれ、ニーガンは再び頷いた。少し会話した程度だが、この男は他人に頼ってばかりの人間ではなさそうだ。彼とその息子ならば一緒に旅をしても問題ないだろう。
リックの誘いに男が苦笑しながら首を横に振った。
「今すぐには行けない。何日か留まってから行こうと思う。誘ってくれたのにすまない。……それより、銃を向けて悪かった。名乗ってもいないしな。俺はモーガンだ。」
モーガンという名前を明らかにした男はリックに握手を求めて手を差し出し、リックはその手をしっかりと握り返した。モーガンはリックとの握手を終えると今度はニーガンに手を差し出す。ニーガンも握手を交わしながらモーガンと視線を交わらせた。彼の目に警戒心はなかった。
ニーガンとモーガンの握手が済んだところでリックがモーガンの掌に拳銃二丁と銃弾の詰まった箱を押しつけた。
「必要だろう?持っていけ。」
与えられたものを抱えて戸惑うモーガンにリックは更にライフル銃とその弾も渡そうとした。そのことにモーガンが慌てる。
「受け取れない。あんたらだって銃が必要だ。」
断ろうとするモーガンに対してリックは「受け取ってくれ」と言葉を返す。
「俺たちの分はある。それに、あんたはデュエインを守らなきゃならないんだから武器を揃えておくべきだ。」
リックがデュエインの名前を出すとモーガンは我が子の方に顔を向ける。ニーガンはリックの援護射撃をするために「貰っておけよ」とモーガンに促した。
「持ってて損はないぞ。この先手に入るとは限らないんだから貰えるものは貰っておけ。息子だっていずれは使えるようにならなきゃいけないんだから、数はあった方がいい。」
ニーガンのダメ押しが効いたのか、モーガンは苦笑と共にリックの手からライフル銃を受け取る。
「ありがとう、助かる。」
「情報の礼だ。もう一つ、これも渡しておく。」
リックがそう言って差し出したのパトカーに二つ積んであったトランシーバーのうちの一つだ。
「バッテリーが一つしかない。節約しないとならないから夜明け前に十分だけ電源を入れる。あんたもそうしてくれ。そうすれば連絡を取ることができて、俺たちを見つけられるはずだ。」
「夜明け前だな、わかった。」
モーガンがトランシーバーを受け取るとリックは彼らから一歩離れる。
「じゃあ、俺たちは行く。気をつけて過ごしてくれ。」
「そっちも。厳しい旅になるだろうが、必ず家族を見つけろ。」
リックはモーガンの激励に頷き、次はデュエインに顔を向けた。
「デュエイン、君がお父さんを守るんだぞ。」
リックの言葉にデュエインは大きく頷いて笑顔を見せた。デュエインの笑顔は可愛いもので、久しぶりに見る子どもの笑顔にニーガンもリックも頬を緩ませる。
親子との別れの挨拶を終えたリックがパトカーに戻っていくので、ニーガンも二人に別れの挨拶をすることにした。
ニーガンは二人の正面に立つとデュエインの頭を撫でながら話しかける。
「元気でいろよ。それと、親父から離れるな。お前を心配し過ぎて心臓が止まっちまう。」
ニーガンの冗談めかした忠告にデュエインは苦笑いを浮かべた。
「うん、気をつける。おじさんたちも離れないようにね。」
「ああ、もちろんだ。」
そう言ってニーガンはデュエインの短い髪をかき混ぜる。そして手を動かしたまま視線を上げてモーガンを見た。
「息子をしっかり守れ。」
モーガンにはその一言を贈った。彼にはそれだけで十分だ。モーガンは心得たように無言で頷き、息子の肩に手を置いた。
ニーガンはそれに満足して「じゃあな」と手をヒラヒラと振りながらリックが待つパトカーに向かって歩く。パトカーの助手席に乗り込むと、既に運転席に座ってエンジンをかけていたリックが車を走らせ始めた。
後ろを振り返れば親子がこちらを見つめているのが見える。ニーガンが振り向いたことに気づいたデュエインが大きく手を振っているので手を振り返してやった。
やがて親子の姿が見えなくなり、ニーガンは顔を正面に戻した。
「リック、アトランタは遠い。楽な旅じゃない。それでも行くんだな?」
前方を見つめたまま尋ねると「ああ、行く」という答えが迷うことなく返ってきた。
「過酷な旅になるのは覚悟しているさ。だから準備をしっかりする。……あんたは本当に一緒に来るのか?」
「行くに決まってるだろ。また同じ質問をしたらお前の顔に痣を作ってやるぞ。」
「わかった。もう聞かない。」
それを最後に車内には沈黙が落ちた。それぞれ旅に対する思いを巡らせているのだ。
リックの家に到着するまでの僅かな時間、ニーガンはどこか心地良さを感じる沈黙に心を浸らせた。
リックの家に戻るとニーガンはリックと共に旅の準備を行った。
ガソリンが底を尽きれば徒歩での移動になるため、それを考慮した上で持っていくものを厳選しなければならない。ニーガンはリックに荷物の選び方を教えながら自分の分の補充を行った。
荷造りが終わるとリックは戸締まりを確認してから玄関ドアの鍵をかけ、家の鍵を郵便ポストに入れた。
「また戻ってくるつもりか?」
ニーガンの質問にリックは「無理だろうな」と答えた。
「この家に帰ってくることはないと思う。それでも俺と家族の家だ。きちんと別れたい。」
リックは我が家をじっくりと見上げる。その様子をニーガンは黙って見守った。
何も言わずに家を見つめ続けるリックを眺めていて、ニーガンは自分が妻と暮らしていた家を思い出した。お世辞にも上等な家とは言えなかったが、二人にとって大切な場所だった。その大切な家がどうなったのかをニーガンは知らない。入院中の妻のために病院に詰めていたのでほとんど帰らなかったからだ。
これまで自宅について考えたことなどなかったが、今更になって「自分は我が家を失ったのだ」と強く実感している。愛しい我が家に帰ることは二度とないのだと悟ると寂しさを感じた。
ニーガンはリックと同じように目の前の家を見上げた。目の前の家に自分の家の姿が重なる。
(荒らされちまったのかウォーカーの巣になっちまったのかは知らないが……お別れだ)
心の中だけで我が家に別れを告げれば不思議と心がすっきりした。
ニーガンが不思議な感覚を味わっているとリックが振り返って微笑む。
「ニーガン、行こう。」
微笑むリックの顔もすっきりしているように見える。彼も区切りを付けたのだろう。
ニーガンはパトカーの後部座席にリュックサックを放り込んでから助手席に座った。リックも自分のリュックサックを後部座席に置き、運転席に乗り込むとシートベルトを締めた。
そしてリックはエンジンをかけようとして不意に動きを止め、ニーガンの顔を見る。
「寄りたい場所がある。構わないか?」
真剣な目だった。その目を見て、ニーガンはリックの寄りたい場所が何となくわかったような気がした。
拒否する理由はないので「構わない」と頷くと「ありがとう」と返され、エンジンのかかる音が響いた。
間もなく車は走り出し、二人をリックが希望する場所へと導いていく。
ニーガンは流れる景色を眺めながら、この景色を見ることは二度とないのだと実感する。実感すると窓の外の景色が少し寂しげに見えた。
リックがパトカーを停めたのは病院からリックの家に行く時に通りがかった広場の前。上半身だけのウォーカーに遭遇した場所だ。
ウォーカーの姿は昨日いた場所よりも奥に移動していた。そこまで這いずっていったのだろう。
「ニーガン、車で待っていてくれ。すぐに戻る。」
リックはそれだけを言い残すと車から降りてウォーカーに向かって歩いていく。その手にはいつの間にか拳銃が握られていた。
リックはウォーカーの傍らに立つと帽子を取り、それを地面に置きながらしゃがんだ。ニーガンからは後ろ姿しか見えないのでリックがどのような表情をしているのかがわからず、遠くて声も聞こえない。
やがてリックはウォーカーの頭に向けて拳銃を構え、少し間を開けてから引き金を引いた。銃声の乾いた音が一帯に響くとウォーカーはピクリとも動かなくなった。リックも動かずにウォーカーを見下ろしている。
ニーガンはリックの後ろ姿を眺めながら、彼の心は優しさで作られているのだと思った。
リックは優しい。相手が初めて会う人間であっても、見知らぬ元人間であっても、救いの手を差し伸べずにいられない。助けを求められたらその手を取り、助けを求められなくとも助けが必要な状況であれば見捨てはしない。彼の優しさに救われたり惹かれる人間は少なくないはずだ。
しかし、この世界で生きるには優し過ぎる。過酷で残酷な世界で生き残るには優しさだけではなく冷酷さも必要だ。守りたい相手がいるなら尚更で、リックはそれを身につけなければならない。それが彼に苦痛をもたらすのは間違いなく、苦しむ姿を想像するのは容易い。
きっとリックは冷酷になっていく自身に葛藤しながらも変化を受け入れて世界に適応するだろう。それはリック自身のためではなく他の誰かのため。彼はそういう男だとニーガンは確信している。
ニーガンの見つめる先ではリックが帽子を拾いながら立ち上がり、体の向きを変えて車に向かって歩いてきた。徐々に近づいてくるリックの顔に暗さも悲壮感もない。
リックは車に乗り込むと「待たせてすまない」と謝りながら出発の準備を始める。
「きちんと死なせてきてやったのか。」
ニーガンの一言にリックがしっかりと頷いた。
「死んでからもあんな姿で這いずり回るなんて気の毒だ。眠らせてやりたいと思っていた。」
「その気持ちを否定するつもりはないが、全部のウォーカーにじっくり向き合うことなんてできないぞ。そんなことをしてたら自分がだめになる。奴らは人間じゃないと割り切れ。」
リックは難しい顔をしながらも反論はしなかった。
リックは目覚めたばかりで以前の世界の感覚を引きずっている。それは仕方のないことだ。それならば新しい世界に適応できるまでフォローしてやればいい。
ニーガンは考え込んでいるリックの頬を摘んで軽く引っ張る。
「おい、小難しい顔なんてするな。家族を探しに行くんだろ?それならもっと明るくいこうぜ。歌でも歌うか?楽しくなる。」
ニーガンはニヤリと笑いながらリックの頬を摘んでいた指を離す。「痛い」と頬を撫でるリックの顔には次第に笑みが広がっていった。
「ニーガンといると悩んでいるのがバカらしくなってくる。」
「悩みは人生のちょっとしたスパイスだが、そのことばかり考えてると脳みそが沸騰するぞ。もっと楽しくやろう。せっかくの二人旅なんだ。」
「こんな世界で『楽しくやろう』なんて言えるのはあんたくらいだろうな。」
呆れたように言いながらもリックは笑っている。彼の気分を浮上させることに成功したニーガンは深い満足感を得る。
その時、微かに唸り声が聞こえてきた。ウォーカーだ。
ニーガンが後ろを振り返ると肉体を腐らせた女がフラフラと歩いてくる。
「銃声に寄ってきたな。リック、さっさと出発しろ。」
「わかった。」
リックがアクセルを踏み込み、二人を乗せたパトカーは走り出す。いつの間にかパラパラと集まり出したウォーカーたちを置き去りにしてパトカーは行く。
しばらくすると街の出入り口が見えてきた。この街とも別れる時が来たのだ。
ニーガンは運転席のリックに顔を向けてみる。運転する彼の横顔には特別な感情は見当たらない。
「旅の始まりだな、相棒。」
そう呼びかけるとリックがチラッと視線を寄越した。
「よろしく頼む。──相棒。」
リックから返された言葉にニーガンは軽く目を見開く。まさか「相棒」と言われるとは思わなかったのだ。
ニーガンは驚いた自分をリックに悟られないように顔を正面に戻す。
そして前方の景色を目に映しながら「相棒」という響きを噛みしめる。リックからそう呼ばれるのは悪くない。
ニーガンはこれからの旅にワクワクする自分に対して笑みを零す。
目指すはアトランタ。リックとの楽しい二人旅だ。
End