「医療部」の大佐 部屋の中に、紙をめくる音とペン先が踊る音だけが響く。部屋の主であるラウリィ・ヒュランデルの趣味が反映されいちいち上等な家具が並んでいるそこは、いち兵站兵の仕事場にしてはいささか快適に過ぎているが苦言を呈する者はいない。
処理済みの書類を箱に入れて一息ついたラウリィは、なにやら考え事をしているような表情で箱を眺めている。そこにあるのは、医療部からの予算申請書だ。
最近請求が増えてきたのは戦況が悪化しているからかもしれないが、ラウリィに知る由はない。限りある財源からどうやって費用を捻出するかを考えるのがこの男の仕事であり、戦争の行く末を案じはするが精々戦争特需を試算するその辺りの商人と同程度である。
閑話休題。
つまるところラウリィが考えているのはもっとミクロな、身近な、些細な違和感についてだった。
……その日の日暮れ前。
「大佐って書類仕事嫌いなんですか?」
終業後の基地にて偶然会った相手と廊下を歩きながら、不意にラウリィがそう言った。
相手の名はジョージ・ホセ=マリア。「医療部所属」の大佐である。
「うん? どうして?」
怪訝そうに眉を寄せた大佐へ視線を向けたラウリィは、西日の眩しさに一瞬目を細めてから言葉を続けた。
「最近医療部からの申請書が増えてて、額が大きいから佐官クラスの人間のサインがいる場合が多いんですけど、大佐のサインって見たことないなって」
……逆光だ。ラウリィからは、相手の表情がよく見えない。
「うちの部下には優秀な人間が多いからな。私がしなくとも、勝手に良きようにやってくれるんだ」
「ああ、いい子が下にいると楽でいいですよね」
大佐の唇は緩く弧を描いているし、鮮やかな色の目はその鮮烈さに不釣り合いなほど穏やかだ。なにもおかしなところはない。ラウリィはしみじみと頷いた。
「医療部の消耗が激しいってことは、戦況悪化してるんですか? 敗戦は勘弁してほしいですね」
「……君ね、滅多なことは口にするもんじゃない」
「別に負けてほしいって言ってるわけじゃないんだからいいじゃないですか。戦況が悪化すると国が荒れますし、それは困るというだけの話ですよ。僕はこれでも愛国者なので」
愛国者……と大佐が複雑な様子で呟き、愛国者ですよ?とラウリィが悪びれず言い放つ。
「うん……まあ、君がそう言うのならそうなんだろう」
曖昧に言葉を濁したのは優しさだろうか、呆れだろうか、あるいはそれ以外の何かだろうか。明るくあおい目が少し伏せられ、睫毛が影を落とした。
数日後。
「あれっ」
仕事中、一枚の書類を見て、ラウリィは小さく声をあげた。
――George Jose Maria.
特徴のない、シンプルな筆跡。悪筆を見慣れているラウリィからすれば非常にありがたい、可読性の高いそれ。
「マリア大佐のサインだ、珍しいな。ほら」
書類を持ち上げ、背後にいた相棒に頭越しに見せる。あまりぴんと来ない様子での相槌を気にした風もなく、口を動かしながら判子を取り上げる。
「よっぽど忙しいんだね、書類仕事はしないって言ってたのに」
とん、と手慣れた様子で判を押して、処理済みの書類入れへと放り込む。特になにもおかしくはない仕事中の一幕だ。
――神、空にしろしめす。すべて世は事もなし。