若人「天使クェイルーヴァ、出来うる限り迅速に務めを果たすように」
「はい」
その若い天使は――幼いといってもよい、表情に乏しい顔立ちは作りたての人形に似ている――上座に悠然と浮かぶ相手へと頭を垂れている。
「行きは送ろう。……それでは、幸運を」
「はい、……えっ?」
足元に開いた《扉》へ降りた瞬間に聞こえたどこか不穏な言葉に顔を上げた天使……クェイルーヴァが見たのは、笑みを浮かべ片手を挙げた相手の姿だった。
《扉》を抜け、ある森の上空に顕現したクェイルーヴァは朝日に目を細めながら周囲を見回し、ひらりと地上へと舞い降りた。教会以外の場所へ降りることなど数えるほどしかなかった彼にとって森というものは見るもの全てが珍しかったが、彼は全くそれらの輝きに頓着することなくまっすぐ目的地へと向かった。
指示された場所は、森の奥にあるという泉の近く。そこにいるとある天使へ手紙を届けろというのが上座からの指示だった。自分以外の天使の気配は確かにあり、それを辿るようにクェイルーヴァは木々の間をすり抜け進んでいった。
ぱっ、と森が開ける。目の前に現れたのは澄んだ水をたたえた泉。とはいえ天界の泉のように生き物の気配がないそれではなく、魚がひらひらと泳ぎ、鹿が水を飲むような泉である。
「イグネイシャス様! おられますか!」
気配はする。が、クェイルーヴァのよく知る、きよらかではっきりとした気配ではなく、細かな位置がわからなかった。声をあげながら周囲を見回していると、不意に大木の陰から人影が現れた。
夜明けのような眼をした、大柄な男である。気配は確かに天使のそれで、威厳もある。しかしながらその翼は純白とは程遠い色をしており、光輪に至ってはその明るさが安定していない。一瞬言葉に迷ったクェイルーヴァはいちど瞬きをしてから口を開いた。
「お初にお目にかかります、クェイルーヴァと申します。イグネイシャス様ですね? 天の座より手紙を預かって参りました、」
「今は忙しい! 少し待っていなさい!」
きっぱりとした口調で言葉を遮られ、クェイルーヴァは黙り込むと一歩下がった。相手……イグネイシャスは何やら両手に石板のようなものを抱えて足早に去っていく。それを見送るクェイルーヴァの表情に変化はなく、ただそこに佇んでいた。
……夕暮れ、日が沈みつつある頃。疲れた様子で泉のほとりへ戻ってきたイグネイシャスは、佇む人影を見てぎょっと目を瞠った。夜が先んじて訪れたかのような風情の、闇に沈むような外套と黒髪……クェイルーヴァが微動だにせずそこにいた。
「君、ずっとそこにいたのか……!?」
「はい。もうご用は終わりましたか?」
「ああ、うん……ええと、君は」
「クェイルーヴァ、と。天の座より……マーティス様より手紙を預かって参りました」
軽く膝を折り頭を下げると、懐から取り出した巻物を恭しく差し出すクェイルーヴァ。それを受け取ってざっと目を通したイグネイシャスは、怪訝そうに眉を寄せてからクェイルーヴァを見下ろした。
「……それだけか?」
「はい」
イグネイシャスはどこか迷うように視線を上向かせ、眉間を指で解してから再びクェイルーヴァを見下ろした。
「まあ、とりあえず少し休んでいきなさい」
クェイルーヴァとイグネイシャスは机を挟んで差し向かいに座っていた。無表情のまま真っ直ぐ見詰めてくるクェイルーヴァに初めこそ戸惑っていたイグネイシャスだったが、順応するのは早かった。生粋の、純粋な、ひとの魂を持たない装置……そういう生き物を、彼はよく知っている。
二人とも抱く美徳は「知恵」であり、対話を――理性の交歓を――深く尊んでいる。沈黙は一時ともたずに歓談となり、議論へ発展した。
一見寡黙なように見えるクェイルーヴァも、一通り弁論術は備えている。彼はイグネイシャスに比べればいかにも未熟であるが、完全に黙り込んでしまったのはわずかに数回、淡々とした喋り口には熱量こそなかったが速度があった。
……一区切りつく頃には完全に月が高くのぼっており、イグネイシャスはそっと乾いた唇を舐めた。総身に活力が満ちている。
「いい時間だ。帰るか?」
「いえ、返事を受け取るまで戻るなと言われているので」
「……そういうことは先に言いなさい!」
――それがわかっていたなら先に返事を書くなり何なりしたというのに。
イグネイシャスが叱責するような声を出すと、クェイルーヴァは戸惑うように瞬きをしてから頭を下げた。
「申し訳ありません、さほど重要な事柄だと思わなかったので……」
「……いや、夢中になりすぎたのも良くなかったな。今返事を書いてくるから少し待っ……適当に時間を潰していなさい。その辺りにあるものは自由に使ってくれて良い」
ストラを翻し木々の間に消えたイグネイシャスの背を見送ったクェイルーヴァは、指し示された場所へと近付いた。書物や筆記用具の類いが雑然と並んでいる。クェイルーヴァは本を一冊手に取ろうとし、次の瞬間宙を掴みながら振り返った。
掴んだ手の中には柄、遅れて陽炎のように揺れた空間から出現する大きな弩。天の武器庫から呼び出されたそれは、《炎の剣》。足で蹴り上げ構えたその狙いの先に、小さな影があった。
人間の子供ほどの大きさのそれは、だが人間の子供などではない証拠に歪んだシルエットをしていた。捻れた山羊のような角と、アンバランスに長い腕。「悪魔」だ。
「雷よ」
クェイルーヴァの囁きと同時に弩から放たれた稲妻が地を走る。僅かに狙いが外れたそれは、悪魔の隣の茂みを吹き飛ばした。
どことなく気分を害した様子で眉を寄せ、クェイルーヴァは再び弩に手をかける。まだ扱いに慣れていないせいか、次の雷を放つためには少々時間が必要だった。一方の悪魔はというと恐怖からか動けなくなっているらしく、逃げる様子も襲いかかってくる様子もない。
弩の表面を小さな稲妻が走る。再起動は完了した。再びそれを構えたところで、
「やめなさい!」
木々の向こうより聞こえた鞭で打つような声に、クェイルーヴァは咄嗟に攻撃準備を中断した。
「無抵抗の相手を問答無用で攻撃するだなどと、君の口は芋の裂け目か!?」
困惑するクェイルーヴァをよそに、その場へ飛び込んできたイグネイシャスが悪魔の前へ屈み込む。
「驚かせたか、もう大丈夫だ。……今日は何の用だ?」
そしてあろうことか明らかに初対面ではないやり取りを始める。それを見たクェイルーヴァはますます困惑の色を濃くし、手持ち無沙汰に弩の柄を強く握ったり緩めたりを繰り返していた。
しばらくして悪魔はその場を去り、イグネイシャスは立ち上がると険しい表情のままクェイルーヴァに近付いた。
「もう一度訊ねよう。君の口は芋の裂け目か、あるいは麻袋の鉤裂きか?」
「いいえ」
「だろうな。幸い君の口はよく回るようだし、頭も悪くはない。だがそれを先程放棄したことについて私を納得させられるだけの論拠は……無さそうだな」
「ですがあれは」
「まだ話の途中だ黙っていなさい。君も知恵を美徳とする天使であれば何を是とし非とするかは思考し続けるべきだ。我々は叡知の教導者であり理性の奴隷だ、思考の放棄は許されない。それを放棄するのは知恵の否定に他ならないのだから」
――剣戟に似ている。
クェイルーヴァはそのイグネイシャスの剣に対して抗う術を持っている筈なのに、上手く扱えずにいた。しかし、ですが、といった類いの悪手しか出せずにいた。……その理由が、自分でもわからずにいた。敗北の理由すらわからない完全な負け戦である。論破は目前であり、クェイルーヴァは剣を喉元に突き付けられたような気持ちで黙りがちになっていく。
とどめを刺された――論破された――とき、クェイルーヴァは何故だかほっとした。
……そして夜明け前、クェイルーヴァは手紙の返事をイグネイシャスから受け取った。二人の間に別段不穏な空気が流れることはなく――イグネイシャスがどう考えているかは判断のわかれるところだが、少なくともクェイルーヴァは全く気にしていないようだった――、短く挨拶の言葉を交わしてからクェイルーヴァは翼を広げ空へと舞い上がり、天界(ふるさと)への帰路へついた。
「クェイルーヴァ、ただ今戻りました」
「ご苦労様」
開いていた本を閉じて膝に置きクェイルーヴァを見やる天使の表情は、相変わらず機微が読めない微笑である。
「こちら受け取って参りました」
跪き差し出された手紙を受け取り、中身に目を通してからその天使はクェイルーヴァを見た。
「ひとつ質問があるのだが、答えてくれるかな」
「はい」
「彼……イグネイシャスからどんな印象を受けた? 忌憚のない意見を聞かせてくれたまえ」
細められた目の奥で思慮深い紫が光る。それとはまた趣の違う、煙るような作り物めいたクェイルーヴァの紫の目がそれを見返した。どこか迷うようにその唇が動く。
「……面白い方でした」
「『面白い』」
クェイルーヴァの言葉を繰り返し、天使は優雅に足を組み替えた。
……曖昧で複数の意味を内包しうる単語を使用した、不適切と呼んでもよいだろうクェイルーヴァのそれを、
「それは良かった」
――「良かった」。天使はそう評価した。
その意味も意図も、彼自身以外は誰も知らない――イグネイシャスなら、あるいは――。