エラー「ん? そこにいるのはジーフリートか?」
礼拝堂の掃除中、不意に降ってきた声に顔を上げた青年は、一柱の男性天使が翼を羽ばたかせながらこちらを見下ろしているのに気付くと膝を折り頭を下げた。
「はい。……失礼ですが、どこかで……?」
「いや、僕が一方的に知っているだけで……でも元気そうでなによりだ。偶然会えたのも何かの縁だ、顔を上げて。祝福をあげよう」
翼を折り地面に着地した天使は、素直に顔を上げた青年の髪をそっと鋤いて額に触れた瞬間、少し驚いたように瞬きをした。
「おや……君、天使の加護を頂いているな? いずれのひと柱か……、ん……?」
――クェイルーヴァ?
ぽつりと呟かれた名に、今度は青年が驚く。
「お知り合いですか?」
「まあ……君、クェイルーヴァの加護を貰っているのか?」
「はい」
天使はその肯定に目を見張り、それから眉を寄せた。
「……完全に私物化じゃないか……何を考えてる……?」
ぶつぶつと呟き始める相手を怪訝そうに見上げる青年に気付き、天使は頭を振った。
「君は知らないようだが、昔、君は天使として召し上げられそうになったことがあってな」
「えっ、あ、それは……光栄です……?」
戸惑いながらも畏まる青年を、どこか哀れむように天使は見た。こめかみのあたりを指で揉んで、溜め息を吐く。
「それを無理矢理阻止したのが、クェイルーヴァだ」
「……………………え?」
たっぷりと間を空け、それでもまだ己の耳を疑っているらしい青年に向かって天使は頷いてみせる。
「そう、彼が人間一人に対してそこまで執着してみせるなんて、極めて珍しいことだ。……その上加護まで与えるなんて」
じっと青年を見る天使の目は、何かを探るよう。
「君を可能性の具現とまで言い、いかなる苦難があろうと人間として生きるべきと主張した彼が……」
「ナサニエル!」
言葉を遮るように鋭く、その呼び声は響いた。
舞い降りてきたのは、今まさに話題にされていたクェイルーヴァである。藤色の目が警戒するように天使を見る。
「ジーフリートを召し上げるのはやめたのではなかったのですか」
「安心してくれ、そのつもりはない。だが……クェイルーヴァ、お前はそんなやつだったか?」
怪訝そうに眉を寄せた後、クェイルーヴァは青年を確認する。生命力の流れに違和感はなく、なにかされた様子はない。不意に目が合い、鮮やかな青がきらりと瞬いた。
「……クェイルーヴァ様」
眩しいものでも見るように目を細め、青年が天使の名を呼ぶ。
「そちらの天使様からうかがったのですが、……召し上げられかけた私を引き留められたそうですね」
「ええ」
クェイルーヴァは鷹揚に頷き、ちらりと隣の天使を見た。素知らぬ顔で前髪をいじる様子を無表情に眺めてから、再び青年へと視線を戻す。青年はじっとクェイルーヴァの目を覗きながら、静かに言葉を続けた。
「『貴方』が……そんなことをしたんですか?」
「そうです、……」
続いた言葉の途中で、どこか困惑するようにクェイルーヴァが目を泳がせた。煙る紫の瞳が揺れる。
「他の誰でもない、『貴方』が?」
「ええ、『私』が……そうするべきだと、思ったので……?」
「クェイルーヴァ」がそれを行ったという違和感に、クェイルーヴァ自身がようやく気付く。
クェイルーヴァという機構も、天使という現象も、個に対してそこまでの尽力をすることを是とはしないだろう。だが、「クェイルーヴァ」はそれを行った。ただの人間を、他の天使と対立してまで地上に縛り付けた。
「ジーフリート、私は……」
迷うような、途方に暮れたような、話しかけるというよりも呟くような声。捕らえ損ねた言葉尻は空気に溶け、それを振り払うようにクェイルーヴァは翼を伸ばし一、二度羽ばたいた。
「……帰ります」
そして返事を聞く前に舞い上がり、天窓から空へ消えていった。残された二人は顔を見合わせたが、天使の方は黙って肩を竦めた後にその場を去り、青年は少しの間頭上を見上げていたがまた掃除へと戻っていった。
……クェイルーヴァという現象が発生した場所。もう少し詩的に言うなら天使の生まれた場所。ひとの身ではけして届かない、そらの果てにある場所。
小さなあずまやの中に、鏡のように澄んだ泉がある。どこかの学舎の上空に繋がっているらしく、時おり微かに讃美歌が聞こえてくるこの場所の風景が、クェイルーヴァの最古の記憶である。
あずまやの中で翼を折り畳んだクェイルーヴァは泉の縁に腰掛け、水面を眺めた。……ここまで飛んできてなお、もやもやとした違和感は晴れてはいなかった。
――ジーフリート。
己が加護を与えた聖職者。クェイルーヴァが彼に可能性を見出だしたのは事実であるし、彼こそ人間の希望になりうる存在だと期待したのも事実である。だから彼が召し上げられかけたときに無理矢理阻止したのだ。
……だがそれが、個人的な感情の影響下にあったとしたら?
英雄候補生を守る、という理由だけではなく。個人的な好悪や執着が、僅かにでも含まれていたとしたら。
「そんな、……なんてこと……」
ゆるゆると頭を振ってからクェイルーヴァは顔を覆った。罪深いものを憐れむためでも、悲劇を憂うためでもなく、ただ自分のため……自分の苦痛のために、クェイルーヴァは涙を零していた。
「……ごめんなさい、許して、ジーフリート……」
震える声が許しを請う相手は神ではなく、とるに足らない存在である筈の人間。それも彼が守り導いているはずの愛しい信徒。
「許して下さい……私は、ああ、私は、」
あなたが信じるに相応しい清らかな天使などではなかった。