知らない祝福 とても心地好い歌をうたう人間を知っている。
鮮やかな金髪のその子供はまだ幼いためか、私のことも見えていないようだった。聖歌隊の一員として一途に練習している様は微笑ましく、歌による法悦は私を微睡ませ、当時の彼の顔よりも歌声の方が私の記憶には残っている。
……あっという間に彼は成長し、聖職者を志すようになった。勤勉で信仰あつい彼ならばきっと良き信仰の徒となると思い、私は時々彼の様子を見に行った。
彼は……ジーフリートは、その慈悲深さは当然として、折れない忍耐強さでもって信仰の道を進んでいた。たとえいくら傷付こうと……焼けた鉄も煮えた油も蕩ける快楽も彼を汚すことは出来なかった。私の知る彼はいつだって高潔で、その魂には一分の曇りもなく、このまま長じれば聖なる名を得ることも確実だろうと思われた。
そんな、ある日。
訪れた礼拝堂にジーフリートがおらず不思議に思っていると、救済へ向かった先で負傷したと耳にした。それ自体は別段珍しいことではないのだが、今回は生死の境をさ迷い寝込んでいるという。傷自体は浅いが、何故か重症化していると。
私は妙な胸騒ぎを覚え、ジーフリートの療養している部屋へと向かった。
到着した部屋の窓辺に腰掛け、ベッドに臥せる彼を眺める。熱が出ているのか魘されており、汗もかいている。その鮮やかな色をした目は今は閉ざされ、薄く開いた唇から浅い息が漏れている。
――おかしい。
私の目から見ても、生死にかかわるような傷ではない。生命力の流れが不自然なように見えるが、悪魔の気配はしない。むしろここは清浄で――当然だ、教会の中なのだから――と考えたところではたと思い至り、私は建物の外へ飛び出した。
教会の上空に人影がある。優雅に翼を動かしているのは一人の天使だ。
「ナサニエル!」
「……? クェイルーヴァ?」
怪訝そうにこちらを見た彼は私と同程度の階級にある天使である。その彼のいる高度へすぐに舞い上がり、周囲の空気の流れを確認する。
――やはり。
「彼を召し上げるつもりですか」
尋ねるとナサニエルは柔らかく頷いた。
「ああ。お前も知っての通り、彼の魂は高潔で美しい。きっと善き天使となる」
「やめてください」
語調を強めてそう言うと、不思議そうな目が私を見る。……わからなくはない、私も以前は彼を召し上げるか否かについて考えたことがある。
ただ、結論は否だった。
「彼は『人間が人間のまま人間を救う』という可能性の具現です。このまま地上で戦い続けるべき人間だ、我々と同じ位相に来るべきではない」
私の主張にナサニエルは眉を寄せる。
「苦痛にまみれた生を強いると? あまりにそれは残酷だ」
「いいえ……いいえ、彼は彼の意思でもってそれを選ぶのです。彼の意思は盾となり、剣となる。人間を救うための礎となる」
「……いくら善き魂の持ち主とはいえ、人間一人を買い被りすぎではないか」
「私の目が信じられませんか」
ナサニエルはゆるゆると頭を振ったが、引き下がるつもりはないようだった。私と彼は暫し黙って見詰めあい、先に口を開いたのは私だった。
「……どうしてもやめないというなら、私にも考えがあります」
私の言葉を脅迫と受け取ったのか身構えたナサニエルに背を向け、一気に滑空する。目指すのは教会の南にある窓、ジーフリートが眠っている部屋だ。
※ ※ ※
それほど深手という意識はなかった。
土の中の悪い毒でも入ったのだろうか、どうやら熱まで出てきたらしく、ひどく寒い。指先から凍えて動けない。
――死、という文字が脳裏をよぎる。
しかしすぐにその思考も霧散して、泥に引きずり込まれるように気が遠くなる。いけない、と思ったが抗えない。ふつりと意識が途切れそうになった瞬間、
「起きなさい」
凛とした声が聞こえた。冷水を浴びたように意識が覚醒する。瞼が重くて開けられないが、誰かが枕元にいるのがわかった。
「ジーフリート、」
名を呼ばれ何か言われたが、聞き取れない。なんとか瞼を上げようとするも叶わない。前髪の辺りに何かが触れ、額を晒されたような感覚。
「……貴方が、健やかでありますように」
柔らかなものが額に押し当てられるのを感じ、今度はどこか心地好い……母の胸に抱かれるような眠りが意識を引っ張る。それに抗ってなんとか僅かに持ち上げた瞼の向こうに、真っ白い翼が見えた気がした。
※ ※ ※
――賭けではあった。
ナサニエルの導きと、私の祝福との相殺。召し上げる祝ぎと、生きる呪い。互いに打ち消しあったそれを見てナサニエルは呆れたように肩を竦めると、好きにするといい、と言い残して去っていった。
恐らくもう心配はいらない。
私は窓を開け、そこから空へ飛び立った。