S01【中央区集中侵攻事件】クェイルーヴァ編◆参戦
一羽の鳩が教会の窓辺から飛び立っていった。それを見届けてから、クェイルーヴァはその大きな翼を折り畳んで床へと足をつけた。
「ジーフリート、私は出ます」
鳩を飛ばした主である青年、若い聖職者ジーフリートはそれを聞いて僅かに息を飲む。迷うように唇を開き、思い直したように閉ざしてからその手が隠しへと差し込まれた。
「クェイルーヴァ様、……人の子が天使を案ずるなど不遜ではありますが……」
しゃらりと擦れる音をさせながら取り出されたのは使い込まれた様子のロザリオだった。
「……これをお持ち下さい、私が幼少のみぎりより朝晩祈りを捧げてきたものです。天使様の御身には相応しくはないかもしれませんが、どうか」
そのロザリオを受け取って、クェイルーヴァはふと目元を緩めた。丁寧な仕草でそれを服の中にしまい込み、それから徐にジーフリートの手を取る。そこに刻まれた聖痕をそっと撫で 、息を吐くように囁いた。
「ありがとうございます、ジーフリート。では祝福もお願いします」
「え……そんな、人間が天使様に祝福だなどと」
「いけませんか」
藤色の瞳は落ち着いた色をしていて、一方のあおい目はほんの少し揺れているようだった。ジーフリートは僅かに迷ってから、少しお待ち下さい、と小走りに道具の用意へ向かった。
……極めて緊張した様子だったジーフリートは、いざ祝福の最中になると危なげなく丁寧な所作で完璧にそれをやり終えた。
「……どうか、ご無事で」
「ええ、貴方も。なにかあれば呼ぶのですよ、貴方の声はどれほどの距離を隔てようと私に届く」
ふわ、と浮かび上がったクェイルーヴァの白い手がジーフリートの額に触れ、次いで唇がそこに降る。
「それでは」
行ってきます、と言い残し、クェイルーヴァは空へと飛び立った。音高く翼を一打ちするだけで教会がはるか彼方へ遠ざかる。高度を高く維持し、羽ばたきは最低限、滑るように速やかに飛ぶ天使は矢に似ていた。
「……主よ、その雷をお借りします」
突然の請願と同時、手元の景色が歪み、大きな弩が出現する。その弦に絡み付いた小さな稲妻がぱちんと弾けたそのとき、クェイルーヴァはその足で弩の切っ先を蹴り上げて構えると同時に告げる。
「裁きの一片、撃ち落とせ!」
轟音。
弩から射出された稲妻が、悲鳴をあげる間さえ与えずに眼下の悪魔を撃ち落とした。そちらへ向けて滑空しながら、更に追い討ちをかけるべく弩の表面を稲妻が走り充填されてゆく。
「この雷で罪を焼き、疾く許さんと欲す!」
……翼を失い地に落ちた悪魔は、なすすべなく雷に焼き尽くされた。
地面に降り立ち跪いたクェイルーヴァの足元には地面に焼き付いた影と、悪魔の食べ残し……右腕と右足のない子供の死体がある。それをそっと抱き上げて、クェイルーヴァは表情を変えぬままはらはらと落涙した。
◆盾を守る
――我が強き盾……。
中央区の上空を飛んでいたクェイルーヴァは、遠く聞こえたものにぴくりと肩を跳ねさせた。
歌だ。戦場の喧騒にかき消され、途切れ途切れにしか聞こえないが、それは確かに歌だった。鼓舞、請願、奮起、召喚、そのいずれかであるかもしれないし、いずれでもないかもしれない。その歌に何か気にかかるものでもあったのか、クェイルーヴァは方向転換するとその歌が聞こえる方へ向かった。
……途中から歌が完全に聞こえなくなったことに、クェイルーヴァがまったく胸騒ぎを覚えなかったと言えば嘘になる。人間よりは多少優れた感覚が見えてきたものの姿をクェイルーヴァに伝えたとき、その胸騒ぎは確信にかわった。
負傷した聖職者が地面にうずくまっている。それを食らうべく悪魔――恐らく下位の、獣と人とを混ぜたような醜悪な姿をした――が唸り声をあげており、……そのふたつの間に、少女が立ち塞がっていた。
まだ年端もゆかない少女である。身の丈に合わない大きな盾を構え、一歩も引く様子はない。作り物のように澄んだ緑色の目が、真っ直ぐ悪魔を見据えていた。
悪魔が飛び掛かるたびその大きな盾で防いでいるがいかんせん体格差がある。今のところ、小柄な少女では防戦一方になっており、その後ろにかばわれている聖職者もまともに動ける様子ではない。
そのとき、大きく後ろへ飛び下がった悪魔の――狼に似た――口元から、ちろりと炎が漏れた。それを視認したクェイルーヴァがわずかに目を見開く。
――雷は呼び掛けが間に合わない。射撃準備はまだ出来ていない。
思考よりも速く動いた彼の体は翼を力強く羽ばたかせ、ほとんど体当たりするように《炎の剣》……つまりは弩で悪魔を殴打していた――弩は断じて殴打するための武器ではない――。
地面に転がった悪魔はすぐさま体勢を立て直すと、攻撃対象をクェイルーヴァに変更する。振るわれた爪を弩で防ぎながら、藤色の目がちらと少女を見た。
「……」
唇の動きと吐息だけで、行きなさい、と告げる。少女が負傷した聖職者を助け起こすのを視界の端に入れてから、クェイルーヴァは弩を握る手に力を入れ直した。
ばちん、と、小さな雷が爆ぜた。
◆一時共闘
――あの少女らは無事に逃げ延びただろうか。
また一体、今度は蜘蛛と犬を混ぜ合わせたような生き物を雷で消し飛ばしてからクェイルーヴァは視線を周囲に巡らせ、減る気配のない悪魔の群れに溜め息を吐いた。
血を流したのがよくなかった。傷自体は浅く、活動にはまったく支障のないものだったが、香る血のにおいに引き寄せられるものが今の地上には多すぎる。
そろそろ彼女らも逃げ切ったであろうから撤退しても問題ないだろうと考えたクェイルーヴァは翼を広げ、……ぞっと背筋を這い上がった悪寒にとっさに前方へ転がった。
次の瞬間、さきほどまでクェイルーヴァがいた場所を何かが切り裂いた。
地面を転がってから身を起こしたクェイルーヴァの視線の先には、まるで刃物のように鋭く長い爪をした人型の悪魔がいた。……低級の獣たちとは違う、知性のある目。
「美味そうな匂いがすると思えば、素敵な格好の天使様だな」
その背には翼があり、先程の攻撃も突然飛んできたことを考えると、恐らく飛行が得意なタイプの悪魔である。クェイルーヴァも飛行速度には自信があるとはいえ、包囲網を突破した上でこの相手をかわせるかどうかは判断しかねた。
「随分お疲れのようだ、休憩したらどうだ」
「遠慮しておきます」
淡々と言葉を交わすが、中級以上の悪魔を相手にするにはクェイルーヴァが体力を消耗しすぎていることは明らかだった。それは当然悪魔も気付いており、余裕綽々に歩を進める。
「では、一曲踊ってもらおうか」
地を蹴り、一瞬で肉薄した悪魔の爪がクェイルーヴァに襲い掛かる。なんとかいなした瞬間に、今度は視界の外から獣が飛び掛かってくる。
クェイルーヴァは全身に目を持っている。が、視覚のほとんどは顔にある目に依存しており、普通の人間に比べれば視界が広くはあるが、「背中に目があるような」とまではいかない。
そのため包囲された状態での戦闘は後手々々に回らざるをえず、手足が重くなってくる。クェイルーヴァの、普段は極めて動きの少ない表情が、少し苦しげに歪む。
そのとき、小型の鳥のような生き物がクェイルーヴァに襲い掛かった。それは極めてか弱く、咄嗟に手で打ち払えば吹き飛ぶようなものだった。
……が、にぃ、と悪魔が唇を吊り上げる。腕を上げた拍子に無防備に空いた胴へ、悪魔の爪が食い込もうとした、瞬間。
なにかが光った、気がした。
「まったく、何だいその情けない顔は!」
クェイルーヴァの胴へ食い込む前に悪魔の腕が切り飛ばされ、返す刃で胸をひと突きにされていた。その剣を握っていたのは、一柱の若い天使である。
輝く光輪、金色の髪、純白の――ただし今は血に濡れた――服。悪魔を無慈悲に切り伏せてなお、その表情は無邪気な少年のそれだった。
「メル! 貴方も来ていたのですか」
体勢を立て直したクェイルーヴァは相手の後ろに迫っていた獣を雷で弾き飛ばし、それから背を相手側に向けるようにして周囲を見る。
「随分騒がしいな、いったい何事だ」
「詳しくは後で説明します、今は……」
「ああ、わかっているとも。まずは、」
彼が構えた剣の切っ先から血がひとしずく落ちる。
「大掃除からだな!」
◆消火活動(物理)
中央区の上空を飛びながら、眼下の景色にクェイルーヴァは眉をひそめた。あちらこちらから上がる火の手はまだ完全に燃え上がってはいないが、放っておけば遠からず煉獄のごとき景色が広がるだろうことは想像に難くない。
クェイルーヴァは少し思案した後、翼を一打ちし眼下の街並みへ向かって滑空した。
「……雷よ!」
短い呼び掛けで招かれる稲妻。それは地面を這うように走り、……燃え始めていた民家の基礎を破壊した。倒壊するそれを見届け、クェイルーヴァは再び空へと舞い上がる。
単なる破壊活動ではない。これ以上炎が燃え広がるのを防ぐために火元周辺の可燃性の高い建造物を破壊するという鎮火方法は存在している。雨を呼んだり水を招いたりすることの出来ないクェイルーヴァにとって、これが最も現実的な手段だった。
空から火を探し、速やかに接近、周囲の建物を解体。建築物の破壊は神話の時代から雷の仕事であり、ある意味適材適所とも言える。
……またひとつ火を発見し舞い降りたクェイルーヴァは、窓から炎の舌が伸び始めているその家を視界の端に入れたまま周囲を見回した。石造りの建物はよほど老朽化しているか内装に問題がない限りは無理に壊さなくてもよい。しかし、その火元の西方向、かなり可燃性の高いだろう建造物がクェイルーヴァの視界に飛び込んできた。
歴史を感じさせる、木造の教会だ。敬虔な信徒たちが丁寧に手入れをしてきたのだろう。……だが、すぐそこまで火は迫っており、これ以上の延焼は避けたい。クェイルーヴァは躊躇することなく己の得物に手を伸ばした。
「Hit!」
的確に建物の要を破壊する。教会が崩れ落ちるのを見届け、ずきりと頭が痛むのを堪えながらクェイルーヴァは翼を広げ空へと舞い上がる。
その翼は、火事による煤に似た……だがけして煤ではない何かで薄汚れ始めていた。
◆勇気の天使
ひらりひらりと空を舞う姿は優雅と言えなくもなかったが、その天使――クェイルーヴァ――が置かれている状況はまったく優雅ではなかった。
複数の悪魔に絡まれ、その攻撃を掻い潜りながら片手に携えた巨大な弩を構えては雷の矢を放つクェイルーヴァの呼吸は乱れ、どこか焦燥しているような表情をしている。
少し息をついた隙に背後をとられて蹴りを受け、がくんと高度を落としたところへ鋭い爪が迫る。なんとか弩で受け止め、振り払った動きのままに雷を招いて相手を弾き飛ばすがきりがない。
「主よ、その裁きの手を我に、」
途中で飛来した炎の塊を翼を打って避ける。正式な祈りの文句を最後まで紡ぐことも出来ない猛攻に、クェイルーヴァの表情にも疲労の色が濃くなりつつある。
……その時。雲が割れた隙間から、一条の光柱が走り悪魔の一体を焼き尽くした。
一瞬目を丸くしたクェイルーヴァは、だが次に感じた気配にそちらを振り仰ぎ声をあげた。
「バルドゥエル様!」
深い紫色の目が、とらえた姿にどこか安堵するような光を帯びる。
白い鎧とあおい剣。クェイルーヴァの倍ほどはあるように感じられる――実際のところはそこまで巨大ではない――堂々たる体躯。
――バルドゥエル。勇気を美徳とする、天使。
「こちら、お任せ出来ますか!」
「任された、行くがよい」
鷹揚と頷いたバルドゥエルに目礼し、クェイルーヴァは悪魔らの隙間を縫って飛び去った。それを追おうとした悪魔らの目の前に剣が突き出される。びりびりと肌に刺さるような聖気と闘気。
「……お前たちの罪もいずれ主はお許しになるだろう」
それとも、とバルドゥエルの手元で剣が光った。
「今すぐ救済を与えられたいのなら、我が剣によって救ってやろうぞ」
次の瞬間、バルドゥエルが前方に飛び出した。きっちりと着込まれた鎧、巨大な剣という姿とは裏腹にその動きは速い。光のような斬撃が、一瞬で悪魔を縦半分にたち切った。
悪魔たちはバルドゥエルを取り囲み、ギャアギャアと鳥と獣の中間のような声で威嚇する。バルドゥエルのその身は鎧で出来ており表情は無いが、威嚇にぴくりとも反応せずただ悪意の獣らを睥睨している。
――救済を。
――罪の子らに、救いを。
◆節制の天使
「シェミアル様、降りておいででしたか」
風を打つ音。ぐるりと回り込むようにしてその天使の前に現れたのは一柱の若い天使だった。名を、クェイルーヴァという。
「クェイルーヴァか。其方は地上によく降りているからいるだろうとは思っていたが……」
シェミアルは細い手を伸ばして相手の翼へ撫でるように触れた。ぱっ、と黒い塵が散る。
「既に穢れが積もり始めている。悪魔の血ではないようだが、一体なにを」
「ああ……そうですね……間引きのようなことを」
眼下の景色を見やり、クェイルーヴァはそっと己の手にある弩を握り直した。……教会を破壊したことそれ自体に悔いは無いが、人の子らがいずれ帰る安らぎの家をひとつ失わせてしまったことは――火事の広がりを防ぐためとはいえ――けして誉められるおこないではない。
「しかし、直接手を差し伸べるとは珍しい」
わずかに首を傾げたシェミアルは、クェイルーヴァの弩を指差した。クェイルーヴァはその仕草を受け、頷くようにも横に振るようにも見える程度に頭を動かした。
「人の子同士のいさかいなら我々の出る幕ではありません。ですがこれは……」
――こんな、蟻の巣に水を流し込むようなことは。
痛ましげに細められた目、寄せられた眉。……クェイルーヴァが心底人間を愛しあわれんでいることをシェミアルは知っている。その無意識の傲慢さも。
「人間を生かすのも、人間を殺すのも、人間であるべきです。庭を作りたもうたのは主ですが、そこで繁栄するのも衰退するのも地上の生き物たちの自由意思によるべきです」
ひとの営みすべてを肯定する天使であるクェイルーヴァは、本来であれば地上への干渉をよしとしない。今回は非常事態であるからこうやって地上でなにくれと対応しているだけである。
「……ジーフリートもきっと今頃きょうだいを助けるべく走り回っているでしょう。彼らが自ら光持ち歩むのなら、その道行きを守ることは我々の本分です」
シェミアルはその面を隠す布の下からじっとクェイルーヴァを見ているようだった。
「其方、そのような天使だったか」
静かに述べたシェミアルに、クェイルーヴァは怪訝そうに目を細めた。
「シェミアル様、失礼ですが何を仰って……?」
クェイルーヴァの問いには答えず、シェミアルは眼下を見やった。そこかしこから火の手があがり、人々の祈りが天使の耳を打ち続けている。クェイルーヴァには“見え”てもいるらしく、顔にある二つの目だけではなく、額に開いたもうひとつの目が泣き出す前のように瞼を震わせた。
「……そろそろ失礼します、シェミアル様。悪魔も多数あるようですから、お気をつけて」
「其方も十分に」
一礼をしてから地上へ向かって滑空していくクェイルーヴァを見送り、
「書と共にあった百年と人と共にあった一年、これほどまでに違うとは」
そう呟いたシェミアルの言葉は、クェイルーヴァには届かぬままだった。