S03【死神襲来事件】クェイルーヴァ編◆釈放
――意思とは何だろう。
人間には自由意思が与えられている。彼らは何にでもなれるし、どこにでも行ける。あらゆる可能性を秘めているのが人間という生き物であり、天使や悪魔とは決定的に違う。
その人間を守り導くため我々にも自由意志が与えられている。自らの意志でもって人の子に奉仕することが出来る。
……そう、その天使は信じていた。
しかしその意思がほんの些細な不具合で上書きされてしまう程度のそれだったと思い知らされた今、彼が自由意志だと信じていたそれが本当に自由意志なのか、彼自身にもわからなくなってしまっていた。
クェイルーヴァは目を開けた。正確には「開けようとした」。それが叶わぬことに一瞬戸惑ったが、すぐに現状を思い出して瞼から力を抜いた。
学舎の子、まだ年若き天使クェイルーヴァは、現在天界の何処かにある小さな部屋の中にいた。壁も床も天井も自ら光を放つように白く、中央に一脚の椅子が置かれているだけの部屋。その椅子に腰掛けているクェイルーヴァは、その「目」を封じられていた。
顔は当然のこと、首や手足等、肌の露出している部分のほとんどに艶のある黒い布がきつく巻き付けられ、全ての目が封じられている。クェイルーヴァはその認識能力のほとんどを視覚に頼っており、目を封じられている現在、幼子よりも無力で無知であった。
であるから、その部屋に誰かが入ってきたことに、クェイルーヴァは声をかけられるその瞬間まで気付かなかった。
「天使クェイルーヴァ、目を開けなさい」
ぱちん、と指を鳴らす音。瞬間、クェイルーヴァの目を封じていた布が砂のように崩れ霧散した。ゆるゆると瞬きをして相手の姿を視認したクェイルーヴァは、椅子から降りると一瞬ふらついてから跪く。
「わざわざご足労頂くとは、何のご用でしょうかアガフォン様」
「貴方にやってもらいたい仕事があります」
天の書記、偉大なる天使アガフォンはその黒曜に似た目でクェイルーヴァを睥睨する。その眼差しを鮫や冬空にたとえる者もいるが、クェイルーヴァにとって彼の眼差しはただ冷徹な記録者のそれでしかなく、畏敬こそあれ恐怖の対象ではなかった。むしろ、ごくごくまれにではあるが、己よりよほど人間のように見えた。
「では謹慎は解除ですか」
「緊急事態ですので。その代わり、クェイルーヴァ、上を向きなさい」
言われるまま天を仰いだクェイルーヴァのそのあるかないかわからない控えめな喉仏へアガフォンが触れた。首の太さを確認するように一瞬指が食い込み、離れる。
「 」
短く囁かれたのは天使語の中でもかなり古い、クェイルーヴァのような若い天使には馴染みの薄い言葉。罰するための言葉。その囁きと同時、クェイルーヴァの首に見えない何かが巻き付いた。ひゅう、と喉から空気が漏れる音がする。突然呼吸を奪われ驚いた様子の目がそちらを見たが、アガフォンは気にした風もなくクェイルーヴァのおとがいに指を添え、顎を上げさせ続ける。
「すぐに終わります」
首を締め上げているものがじわりと滲むように姿をあらわした。艶のある白色と金色の金属のような素材で出来ていると思しき首輪がぐるりとその白い首に巻き付いている。丁度喉仏のあたりに穴が開いており、……その穴へ、アガフォンがいつの間にかその手に持っていた針を差し入れた。
「……ッ、!?」
「動くな。余計なところに傷がつきますよ」
ずるずると喉の中へ潜り込んでいくその針は光の反射がなければ見えないくらいに細い。それが完全にクェイルーヴァの喉の中へ消えたところでようやくアガフォンはクェイルーヴァの喉元から手を離し、解放されたクェイルーヴァは数度咳き込んだ。
「……これ、は?」
呼吸と発声には問題がないらしく戸惑いながらも問うたクェイルーヴァを、冷めた漆黒の目が見遣る。
「武器の召喚と使用、加えて階層移動を禁じます。違反した場合その首輪から痛打が与えられますからそのつもりで。……本来は戦天使を拘束する際に使うものですから、貴方の脆さだと一撃で昏倒するでしょうけれど……まあ、問題ないでしょう」
――貴方は聞き分けの良い子ですから。
その言葉を聞いたクェイルーヴァは指先でそっと己の喉――首輪――を撫でたが抗議はせず、表情もほとんど変えなかった。
「ありがとうございます。……それで、仕事とは」
「ある書物の修復作業です」
詳しくは現地へ向かいながら説明しますと踵を返したアガフォンの後を、クェイルーヴァはもう一度咳き込んでから追った。
◆修復
「優先度4、三分で」
「一分半でお返しします」
投げ渡された巻物を片手で受け取り、机の上に広げる。見るも無惨に文字が崩れている。加えてその文字列からかろうじて読み取れる部分すら虚偽である。
す、とそこへ下ろされる羽ペンの先からはきらきらと星のようなものが零れ、紙に触れる前に消える。そのペンを淀みなく動かすと乱れていた文字列が整然と並び替えられ、本来の運命が綴られ始める。
そこは果ての見えない広い部屋。数えきれない数の天使があるいは座し、あるいは宙を舞い、あるいは走り回っている。天使クェイルーヴァはその一角にいた。
クェイルーヴァは本来であれば書庫で務めを果たす事務方になる筈だった天使である。《炎の剣》への適性さえ見出されなければ戦場へ配属されることもなかっただろう。つまるところこれは、クェイルーヴァが本懐とする戦いである。その手付きに迷いはなく、彼に回された書は優先度に従い適切に処理されてゆく。クェイルーヴァの生来の光力はそう潤沢ではなくその点のみ注意しなければならなかったが、気力や体力についてはたとえ何日不眠不休で活動し続けようが尽きることはないだろうと思われた。
……恐らく、現在のこの場所は天地で最も天使がその能力を十全に発揮できるよう整えられている。
芳しい香りに満ちている。聖なる炎が燃えている。妙なるしらべが響き続けている。
「La La ―― ♪」
何柱もの天使が高みで歌う。その中において一際高くきよらかに響く歌声の主を、クェイルーヴァはよく知っていた。
天井近くで花のような柔らかな色の髪がふわりと揺れる。二対の翼を羽ばたかせ、伸びやかに歌う彼女は名をエルガという。その歌声が場を満たし、天使たちの疲れを癒し、実力を遺憾なく発揮させるのだ。加えて聖なる歌を活力源とする天使は少なくはなく、彼女の歌によって常に活力を得続けている状態になっている天使もおり、クェイルーヴァもまたそのひとりであった。
走るペン先は止まらない。きらきらと散る星はとめどなく溢れ続ける、ように見えた。不意にその量が目に見えて減り、クェイルーヴァは僅かに眉を寄せると背後をちらりと確認した。そこには一柱の天使が座しており、祈りを捧げる所作をしている。その身から漏れ出る光力はクェイルーヴァの腕を介しペンへと宿り頁を修正してゆくのだが、その流れが滞り始めていた。
「出力足りませんよ」
「……俺だってそろそろ限界なんだよ、本職とは違うんだ」
「どきなさい」
不意に聞こえた第三者の声に、クェイルーヴァはぴくりと眉を動かした。その肩に何者かの手が触れ、触れた場所が熱を帯びる。……流れ込んでくる光力の奔流は陽光のように鮮烈で熱い。
「これでしばらくはもつでしょう」
「アクラシエル様」
背後の天使を押し退けるようにして身体を捻じ込み、燃えるような光力をクェイルーヴァへ注いだのは彼の隷属先であり敬愛する上位の天使、アクラシエルそのひとだった。その輝きに一点の曇りもない太陽のような光力を持つ彼に軽く目礼をし、クェイルーヴァはまた手元へ視線を落としペンを動かし始めた。
「緊急時ですので無礼をお許し下さい。アクラシエル様もこちらへ?」
「いえ、私は……」
クェイルーヴァは相手の珍しく言い淀むような口ぶりに違和感を覚えたが僅かに目を細めるにとどめ、修復作業を続ける。ペン先から零れ落ちる星は踊るよう。
「……励みなさい。貴方にさいわいがありますように」
「アクラシエル様も。幸運を」
翼を広げ飛び立ったアクラシエルの姿をちらりと横目で見送って、クェイルーヴァは小さく息を吐く。その身に抱く光力はあたたかで陽の光に似ている。月を照らす太陽、夜を招く黄昏。少なくとも、背後の天使が交代人員を連れてくるまでは余裕を持って対応できる質と量である。
「優先度5!」
「こちらへ。すぐに」
片手を上げながら手元の巻物――修復は終わった――を投げ返し、代わりに今度は分厚い本を受け取る。表紙を手で撫でてから頁を捲り、修復箇所を探す。けぶるような紫の目は静かな光を湛えているが、眼差しは戦場に立っているかのように鋭い。
戦はまだ終わりそうにない。