サメ太郎 『百音さん』に会う普段は静かなこの家に、数日前からなんだかソワソワした空気が漂っていた。何かを心待ちにする空気。見かけたハハさんの顔も嬉しそうで、いいことなんだろうなと予想がつく。私は、それが何か分かる日が来るといいな、と思いながら、夏の日差しがレースカーテン越しに差し込む中、ゆったりと心の尾ビレを伸ばしたのだった。
かくして、その日がやってきた。リビングの方で何やら華やかな気配が聞こえてきた。ハハさんの楽し気な声とトトさんの穏やかな声に混ざって、懐かしい声と初めて聞く涼やかな声が聞こえてくる。あぁ、コータローが帰ってきたのか。一緒にいる人は誰かな。コータローがこの家に帰ってくるのは最近とんとなかったから、それでハハさんも嬉しそうだったのか。
しばし久方ぶりに浮き立つ気配に耳を傾けながらウトウトしていたが、聞き覚えのある足音がこちらに向かっていることに気づいた。わくわくとドアの方を見れば、少し開けるのにクセのあるドアノブが動いて、コータローの姿が見えた。また少しトトさんに似てきたな、とはつい抱いてしまう感想で。しかし、こんなに柔らかい雰囲気だったか?と思うと、コータローの後ろから、かわいらしい女性が顔を出した。コータローに続いて部屋に入ってくる。
「ここが、先生のお部屋?」
「だったところ、です。高校生まで使っていました」
コータローのことを『先生』と呼ぶのは、さっき聞こえた涼やかな声で、あぁ、この人だったのか、と得心する。とても興味深そうに部屋の中を見渡して、嬉しそうな様子がかわいらしい。その興味津々な様子に、気恥ずかしそうなコータローが見ていて面白い。
「なんか、自分が使っていた部屋に百音さんがいるというのが、不思議で…。落ち着かないな…」
首元にそわそわ手をやるコータローをみて、『百音さん』と呼ばれた女性がふわりと笑う。
「それ、私も亀島の実家で思ったから。やっぱり、そう思うんですね」
「もうこの部屋を出て20年ぐらいになるのにね」
最近はハハさんが手仕事をするのに使ったりしているデスクの椅子にもたれて、コータローも笑う。デスクの横に貼られたサメのポスターを『百音さん』が指さす。
「やっぱり、サメのポスターがありますね」
「中学生の頃に最新の分類でしたから、いまだと情報が古いですね」
ん?コータロー、今その話、いるか?言わずにはいられないところがコータローなんだろうが。しかし、そんな話を、そうなんですね、って顔で聞いてくれる『百音さん』ものすごくいい人だな?…ん?あぁ、そうか、コータローの『いい人』なのか。『百音さん』は。
あ、目が合った。『百音さん』が私のことに気づいたことにコータローも気づく。コータローが、シーツもかけていないマットレスむきだしのベッドに座って、ぽんぽんと自分の隣に座るように促すと、『百音さん』は素直にその横にぽふりと座った。コータローが体をよじって、マットレスの上にいた私を掴んで持ち上げたと思うと、『百音さん』の膝に顔を置いた。まあまあ大きい私の図体は上体が『百音さん』のお膝、もう半分がコータローの膝の上に落ちつく。
「サメ太郎です」
とコータローが私のことを紹介すると『百音さん』が目を丸くする。
「え、サメタロー?」
「ロウの字が違って。ほら、ウチのサメ棚に置いてる絵本あるでしょ」
「あぁ、『ぼくの名前はサメ太郎』あ、そっちの」
「そう。サメ太郎。だから、百音さんがサメ太朗って名前つけたって聞いて、驚いて、ロウの字を確かめた、ってわけ」
「あの子は、先生の子だから、光太朗の朗にしなきゃと思って」
「うん」
そっか、あなた、サメ太郎さんなんですね、って『百音さん』が私の吻を撫でてくれる。心地よいです。ありがとう。
「このサメ太郎さんは、先生が子供のころから?」
「3代目ですね。保育園の頃に初代がいて、小学生の間は2代目がいましたが、その後急に身長が伸びて、抱き枕替わりでもあったので、大きい3代目を迎えまして。あぁ、でも名前は代々、サメ太郎って呼んでたな」
「お気に入りですもんね、あの絵本」
嬉しそうに笑う『百音さん』に、コータローが照れ笑いをする。こんなに柔らかく笑う子だったかな、コータローは。その穏やかな様子が本当にうれしい。
「中学生の頃からの先生を知ってるサメ太郎さんかぁ。いろんなお話が聞けたらなぁ」
って『百音さん』が言いながら私の頭を撫で続けてくれ、コータローが今、サメ太郎が話せなくてよかった、って思ってますよって笑う。失敬な。
まぁ、とはいえ、コータローの中学生・高校生の頃の話となると、大事な受験の週にインフルエンザに罹ってあわや受験できなくなりかけた話とか、高校1年の時に貸与されたチアリーダーの衣装を洗濯に持って帰ってきて、バレないように自分で洗濯しようとしたらハハさんにばっちり見つかった話とか、受験勉強の追い込みの時に寝言が英語になってたけど、話しているのはサメのことだった話とか、そんなのばかりだから、コータローからしてみたら『百音さん』には知られたくないことばかりなのかもしれない。
それにしても、私を撫でる『百音さん』を見るコータローの表情のあまいこと、甘いこと。こんなに甘い表情ができる男の子だったのか、君は。生真面目なのはいいが、いつまでも野暮ったいところがあったというのに。きっと『百音さん』がおまえさんのことを変えてくれたんだな。いい方に。私のことをもち上げてぎゅっと抱きしめる様子に、もう相好が崩れんばかりだ。
「あの、私、ごあいさつちゃんとできていたでしょうか。ほんとに緊張しちゃって…」
あぁ、若干の不安の匂いはそれでしたか。いやいや、きっと大丈夫でしたよ、貴女なら。
「もちろん、大丈夫でしたよ。こちらこそ母親があれやこれやとお構いしすぎてしまってないか申し訳なくて」
きっとハハさんが張り切りに張り切っただろうことはまぁ、想像に難くない。でも、コータローが、こうして紹介する人を連れてくるというのに、張り切るなと言う方がそれもまた無理な話だよ。ましてや、訪ってくれた方がこんな素敵な方だったなら。
「とんでもない。お心づくしにいろいろお仕度いただいて、本当にうれしくて」
「ホントもう、そう言ってもらえたらありがたい」
まったくあの人は…ってコータローは口をとがらせるけど、2年以上も感染症の最前線にいた息子が大事な人を連れてくるというのだから、ハハさんの心境も推して知るべしだぞ。本当に、あの頃のハハさんは本当におまえさんのことを心配していたのだから。
『百音さん』が、私のことを抱っこしたまま、また部屋をぐるりと見渡す。コータローの痕跡と、今の生活の気配が半々なこの部屋がやはりとても興味深いようだ。
「先生は小学生の頃から一人で寝られる子供でした?」
『百音さん』の唐突な質問に、コータローは全く動じずに「そうだったなぁ」って返事をする。あぁ、これも多分この二人の間合いなんだな。
「私は小学生のあいだはずっとみーちゃんと一緒に寝てたから」
「そうだったんですね。まぁ、ウチは兄ともちょっと離れてるし」
「そっか。それに、サメ太郎さんがいてくれたし?」
「初代のね」
私の頭をぽんぽんと撫でながら『百音さん』がコータローの昔話をぽつりぽつりを引き出す。こうして、昔の自分の部屋に『百音さん』がいて私を抱っこしている、というのは、コータローにとって、ひとつのエポックメイキングな出来事なのだろうな、と表情を見ていると分かる。
「こうして、結婚の挨拶に百音さんが実家に来てくれて、今、サメ太郎をだっこしている、というのが、なんだかまだ信じられないような、そんな気がする」
コータローが『百音さん』に思わず、というように言う言葉に、『百音さん』がくすくすと笑う。
「こんな日が来ましたねぇ」
しみじみという『百音さん』から、心底うれしいという匂いがする。あぁ、そうか。きっと『百音さん』もずっとコータローに会えなかったんだ。コータローがこの人を危険な目に合わせるようなことは絶対にしないだろうから。でも、ずっとコータローと一緒にいたんだ、『百音さん』は。
私を抱っこした『百音さん』を、コータローがぎゅっとハグをする。二人の間に挟まれた私はぎゅうぎゅうになってしまうけど、なんだか光栄な気分だ。
「来てくれて、ありがとう」
「来させてくれて、ありがとう」
二人がこぼす言葉が、私の頭上を飛び交う。
と、コンコンとノックの音がして、ぱっとコータローが抱擁を解くと、ドアの向こうからハハさんの声が聞こえた。
「光太朗さん、百音さん、お茶を淹れなおしたけど、よかったらどう?」
「あー、分かった。すぐ行くから」
ハハさんと話すときににじむ、コータローの「こども」めいた響きに気づいた『百音さん』がふわりとほほ笑む。それに気づいたコータローが首をかしげて見せるけど、『百音さん』は軽く首を振ってなにも言わない。そうだよね、ここだけでしか見られないコータローのこと、ひとりじめしたいよね。
コータローが立ち上がり、『百音さん』も抱っこしていた私をマットレスの上に戻して、ぽんぽんと背中を叩きながら立ち上がった。
「サメ太郎さん、またね」
えぇ、また、お会いしましょう。今日はお会いできてよかった。
末永くコータローのこと、よろしくお願いします。
あぁ、私と同じサメタローなサメさんがそちらにいるのかな。ぜひそのサメタローさんにもよろしく。
コータローと『百音さん』。二人が仲よく部屋を出ていくのを、私は心の胸ビレを振ってお見送りするのだった。