沐浴 太陽が眩しい。しばらくそれを見上げていると、くしゃみが出た。この体はたまに人間のような挙動をする。
晴天はあの方の体に良い影響を与えるだろう。輝ける太陽こそあの方の……天使アクラシエルの守護、活力の源である。
私は少しだけ、飛ぶ速度を上げた。
天界の片隅にあるあずまやの中、アクラシエル様はどこか憂鬱げに頬杖を突いていた。燃えるような目に睫毛が影を落としている。光輪の輝きは平時の如く強く眩しいが、翼はまだきつく布を巻いて封じられていた。
――おいたわしい、と思うのはきっと侮辱になるだろう。
先だっての戦いで得た傷は深くはあったが治療は可能な程度であり、翼もほとんど生え揃ってはいたが、まだ飛ぶことは禁じられていた。……幸い私は病人等の介護には慣れていたため、アクラシエル様の身辺の世話をさせて頂くのに支障はなかった。
私が目の前に舞い降りると、アクラシエル様は何時ものように鷹揚と微笑んで私を見た。その内心を推し測ることは私には出来ないが、平穏であってくれれば良いと思う。これは私の傲慢(つみ)だろうか。
「今日も頼みます」
「はい」
その装備の解除をお手伝いし、お互い薄絹を巻いただけの清らかな状態になってから、あずまやの中にある泉へアクラシエル様を先導する。まずはアクラシエル様に腿のあたりまで泉に浸かって頂いてから、一礼して私も足を踏み入れた。
そして、天界で干され清められた絹を水に浸し、アクラシエル様の肌を撫でるように拭う。天使は自ら汚れや老廃物を発生させることはないため強いて洗う必要こそないものの、常に身を清めておくことに意味はある。アクラシエル様のような光属性の強い天使なら尚更、その輝きに曇りなどない方がよい。
「失礼します」
一通り拭き清めた後、アクラシエル様の翼に巻かれた布を解いてゆく。晒された翼は少し羽根の生え方が乱れてはいるが、もう目立った傷は見えない――柘榴のようにぱっくりと割れたあの赤はまだ記憶に新しい――。絹布で羽根の一枚一枚を清めてゆくと、時折ぴくりと翼が震えた。
「すみません、痛みますか?」
「大事ありません、続けなさい」
――痛まない、とは言っていない。
出来うる限り慎重に、丁寧に、翼の手入れを進める。天使の象徴のひとつであり、もっとも清らかで美しい部位のひとつであるそれを損なってはならない。
「……次はおみ足を失礼します」
翼の手入れを終え、次へと取りかかる。私の求めに応じて泉の縁へ腰掛けたアクラシエル様の前に跪き、その左足をそっと持ち上げ水で濯ぐ。傷ひとつ無い、だがけして華奢ではない足。形のよい爪を見ながら、指の一本一本を丁寧に洗う。
「クェイルーヴァ」
「はい」
不意に呼ばわれ手を止め顔を上げると、緋色の目が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「貴方の献身には、いつも感謝していますよ」
「……勿体無いお言葉です」
――この方の不意打ちはいつだって心臓に悪い。天使の心臓が人間と同じ構造なのかはわからないが、少なくとも動揺や緊張で鼓動は跳ねる。
「貴方の眷属となると誓った身です、幾らでもお使い下さい」
私がアクラシエル様に尽くすのはそれが当然だからで、苦と思ったことはなく、奉仕活動だという認識もない。ただ「そうあるべきである」と思っているからで、息をするように自然な行為である。
であるから、労いも賞賛もむず痒い。拒むつもりはないが、畏れ多くて落ち着かない。再び視線を落として、今度は右足を洗いにかかる。ぱしゃりと水が跳ねた。
……そうして、沐浴は滞りなく終わった。先に泉から上がり、お世話の障りにならない程度に己の身支度を整えてからアクラシエル様にも泉から上がって頂き、今度は乾いた絹で肌を拭き清める。服を着付け、翼にきっちりと布を巻き、髪の乱れを整えてから私は一歩下がり一礼した。
「いかがでしょう」
何度も繰り返してきた行為ではあるが御身に直接触れるのだから気は抜けない。こちらを見たアクラシエル様は、緩く瞬きをした。
「問題ありません」
細められた目の輝きに安堵する。こういったことで気遣いゆえの嘘を吐くような方ではないから、そのまま言葉通り受け取って構わないだろう。
「お送りします。本日はどちらへ?」
「書庫に用があります」
「では、こちらですね」
荷物を詰めた鞄を腰に巻き、アクラシエル様に片手を差し伸べる。アクラシエル様はごく自然な所作でそこへ手を乗せ、あずまやの段差を降りた。
――太陽の眩しさにだろうか、一瞬目を細めたアクラシエル様は……くしゃみはしなかった。