S02【粛清天使降臨事案】クェイルーヴァ編◆降臨
絶望に喘ぐ者を助けるのが我々の使命である。
迷う者に道を示すのが我々の使命である。
時には罰さなければならないこともある。
鞭が必要な場合もある。
そう、罰すること自体は間違いではない。
だが。
死は、悔い改める機会すら奪うのだ。
走った稲妻に弾き飛ばされてその鉄塊――かろうじて人型ではあるが、蜘蛛のように複数の足がある――は建物の壁へと叩き付けられた。一瞬沈黙したもののすぐに再起動しかけているそれを横目に、クェイルーヴァは地面に座り込んだままの少年を抱き上げ、全速力で空へと飛び去った。
そのはがねの名は通称「粛清天使」。鋳造された尊き戦士、……の筈だったもの。使命の解釈が偏りすぎ、単なる殺戮装置と化してしまったあわれないきもの。
地上に降臨したそれらは僅かでも悪魔と関わりのあるものすべてを淘汰しようとしていた。やりすぎだと批判する者、戦況を鑑みるにやむなしだと消極的肯定の立場をとる者、これくらいやらねば地上はもたないと支持する者……天界ですら意見は割れており、今も議会は紛糾している。
クェイルーヴァは、どちらかといえば今回のやり口には否定的な立ち位置であった。人間を許し導くことこそ天使の本懐であり、天使は人間の奉仕種族であると考えているこの天使は、どうしようもない状況を除いて人間の命は奪われるべきではないという意見の持ち主だった。
であるから、粛清天使にバグが発生したとの通達を受けたクェイルーヴァはすぐさま地上へ向かって人間の救助を試みたし、今抱えている少年もまた粛清天使に襲われていた人間である。
……とある教会の前にクェイルーヴァは舞い降り、周囲を確認してから扉を開いて中へ入るよう少年に促した。
「ここでなるべく静かにしていなさい。あれらの視界に入らなければ襲われません」
震えながら頷いた少年の額に口付けを落としてから、クェイルーヴァは翼を広げ舞い上がる。はがねで出来た天使たちが飛び交う空を見回して、……くらり、と目眩を覚えた。
「……?」
頭の中でなにか鈴のようなものが鳴ったような、呼ぶ声が聞こえたような感覚。天を仰いでもそこにあるのは雲と太陽だけであり、クェイルーヴァは怪訝そうに瞬きをしてから翼を一打ちし滑空した。
命じる声はまだ、彼の耳には届いていない。
今は、まだ。
◆天啓
わんわんと空気を揺らさない音が響く。頭の中をかき混ぜるような、腹の奥を突き上げるような音。
一柱の天使が空を飛んでいた。空色の髪と、色鮮やかな衣。金の髪飾りがさらさらと揺れている。その少し後ろや横に随伴しているのは、小型の粛清天使……戦を告げる喇叭に似た形の装置であった。
「下命であ る」
歌うように告げる天使の声がうすら寒いのは、その頭を侵す声のせいか、それとも別の要因によるものか。槍を構え、一気に滑空した天使はその勢いのままそこにいた一人の青年を穿ち、絶命させた。赤いものが撒き散らされる。ロザリオが地面に落ち音をたてたが、誰にも聞こえることはない。
「絶やさねば。あしきもの、みにくいもの、すべて」
わあん、わあん、と音が大きくなっていく。粛清天使の奏でる音だ。それを意に介した風もなく、天使は大きく翼を羽ばたかせ再び空へと舞い上がる。
「パレカイコ様!」
そこへ鋭い声が届く。風切り音すら聞こえそうな速度で飛来した若い天使……クェイルーヴァは眼下に転がる肉片を見てから、きっ、と目を細めた。
「どういうおつもりですか。あれは悪魔ではなく人間ではありませんか!」
「兄弟、君は聞いていないのか。主が仰っている」
不思議な色の目がクェイルーヴァを見やる。深淵を覗くような寒気を覚えたクェイルーヴァは思わず目を逸らした。……頭がくらくらする。目眩がひどくなってきている。
「絶やせ、清めよ。あれらはいらないものだと、主が仰っているじゃないか!」
わ
あ
ん
!
突如頭の中で鳴り響いた大音量に、がくんとクェイルーヴァの翼から力が抜け一気に高度を下げた。そのまま立て直しもままならず眼下の建物の屋上へ落下……する直前で翼を一打ちし宙返りしてからゆっくりと着地した。
「……ああ」
溜め息のように呟いたクェイルーヴァの目は、澄んだ紫色をしている。天を仰ぐ表情は作り物のように静かだ。
「パレカイコ様の仰る通り、確かに聞こえる……これは、主よりの啓示だ」
――悪魔を排除せよ。
――その影に至るまで。
「ここは神の庭、ひとの楽園。……剪定が必要だ。主よ、剣をお借りします」
ばちん。
クェイルーヴァが立っている場所を中心に、周囲へ向かって小さな稲妻が走った。それは彼の正面で集い骨組みとなると空間ごと抱き込み質量を持つ。
なにもなかった空間にあらわれたのは、白と金を基調とした兵器。翼のように広がる腕木には細かな細工があり、古いことばで聖句が刻まれている。台座は重々しく地を踏み締め、表面で小さな雷が踊った。移動には馬が複数頭必要だろう大きさの――単純な高さだけでもクェイルーヴァの背丈をはるかに越えている――バリスタだ。《炎の剣》と呼ばれる天の武器、その本来の姿である。
……本来であれば、齢二百にも届かない若い天使であるクェイルーヴァが呼び出せるものではない――平時はその概念の一部を切り出し、クロスボウとして呼び出し使っている――。だが幸か不幸か、今回の事態の収拾をはかるために天の武器庫の扉が平時より広く開かれていたため、すり抜けて招きに応じてしまったのだ。
ふわりと羽ばたき、その兵器へとクェイルーヴァは腰かけた。次の瞬間、着ていた服が布を織り上げるのと逆の動きでほどけていく。肌があらわになった天使を、どこからか現れた透けるように薄い絹が覆い、天使としての衣装となる。下に何も着ず、トーガだけを纏ったような姿。その肌にいくつも走る傷跡……否、まぶたのひとつひとつが、ばつんと開いた。
目。目。目。目。
全身の《目》が地上を睥睨する。ぎょろりと動いた目玉が何かを見付けたらしく輝きを変えた。クェイルーヴァが歌うように祈り始める。
「主よ、裁きを代行する傲慢をお許しください」
白く細い手が彼方へと差し伸べられ、
「此は雷、聖なる鉄槌である……落ちろ!」
短い叫びと同時、《炎の剣》の表面を稲妻が走り一気に槍先へと集中、轟音とともに神の鉄槌……即ち雷が放たれた。空を切り裂いたそれは、彼方を飛んでいた悪魔を悲鳴すらあげさせず撃ち落とした。
――これは正当なる裁きである。
そして、クェイルーヴァはただ淡々と雷を招き続ける装置となる。