花園の燭台 夜更けの花園に蝋燭が一本灯されるのは、光忠と彼女との密かな合図であった。
電球の白くどこか冷たい光ではなく、橙色をした温かな火の灯り。それが、夜更けに屋敷から見えたのなら。光忠はひっそりと屋敷を抜け出し、古びてほころんだ塀の穴を抜け、その温室へと忍び込む。どんな真冬の夜も暖かく、花々の咲き乱れる場所。
そこには一つ、燭台が置かれている。
芸の一門長船。裾野は広く、手がける分野も同様だ。青江や古備前といった旧い家とも繋がりがあり、大正の世になった今でもその名を曇らせたことはない。そしてその現当主を務めているのが、燭台切光忠だった。
「旦那様! また厨などに立たれて!」
「ああ、ごめんね。これから伽羅ちゃんの様子を見がてら少し外を回ろうと思っていたから、手土産をと思って」
困り顔の執事に前掛けを渡して、光忠は出来上がった菓子を包む。執事は渡された前掛けを手早く畳みながら口やかましく言った。
「燭台切様、貴方様はこの長船現当主なのですよ」
「わかってるよ。でも親しい人たちへのお土産くらい、自分で作りたいじゃないか。もてなしってそういうものだから。じゃあ、行ってくるね」
光忠は料理が好きだった。長船派の一門当主として芸はほぼ通り一遍を修めたが、料理は格別である。これで身を立てていけたら楽しいだろうなあと思うくらいには、何かを作り、誰かに食べてもらうという行為を愛している。当主が厨に立つことに、家の者はいい顔をしないがそれはそれ。光忠は一門の様子を見に行くときは必ず、手製の菓子を土産にしていた。
本当は運転も好きなのだけれど、そこはまあ、運転手に譲っておく。まずは面倒を見ている内弟子の大倶利伽羅の元に光忠は向かった。大倶利伽羅はもっと幼い頃は長船の屋敷内に住まわせていたのだが、もう立派に自立して一人で居を構えている。尤も、最近一人同居人が増えたが。
「伽羅ちゃーん」
玄関ではなく縁側のほうに呼びかけてみれば、ちょうどそこにいた大倶利伽羅は顔を上げ……若干苦々しそうな表情を浮かべた。
「光忠、来るなら言え」
「ごめんね、今朝ちょっといいお砂糖が手に入って……あれ」
苦々しい表情の原因はこれか、と光忠は微笑む。大倶利伽羅の胡坐をかいた膝を枕に、一人美しい女が眠っていた。体には大倶利伽羅の紋の入った羽織まで掛けられている。
「ふふ、すっかり打ち解けたんだね」
「……徹夜で仕事をしたら、寝ろといったのに一晩炊き出しだのなんだのして起きていたから、寝かせてるんだ」
「そっか」
身寄りのない女の子を同じく一人きりの大倶利伽羅に任せたときはどうなるものかと思ったが、見事に功を奏したようで光忠は安堵する。ああ、よかった。彼女を起こさないように静かな声で近況などを聞いて、光忠は二人分の菓子を置きその家を後にした。
続いて立ち寄ったのは帝都の文具店。一門の大般若と小豆、謙信がここを切り盛りしている。が、今日は珍しい人影が表に立っていた。
「あれ? 国広君?」
「……ああ、あんたか。久しいな」
「珍しいね、店番なんて」
見れば大般若も小豆も謙信もいない。仕入れにでも行ったのだろうか。代わりにカウンターの中にいるのがここの地下書庫で勤務している青年、山姥切国広だった。彼とも長船はちょっとした縁がある。
「大般若なら骨董市に行った。ついでに小豆も謙信を連れて買出しに」
「そっか、それは残念。電話してから来ればよかったかな」
「急ぎの用だったか?」
カウンターから出てきた山姥切は首を傾げる。ううんと光忠は頭を振った。
「ちょっと挨拶にね」
「山姥切さーん」
ぱたぱたと足音がして、地下へ続く扉から女の子が顔を出した。光忠に気づいた彼女はぺこりと礼をする。そういえば、大般若が新しく奉公の子を雇ったと言っていた。
「ごめんなさい、これなんて読むんですか?」
「ああ……これは『しゅうい』、残ったものを拾い集めたという意味だ」
「ありがとうございます、やっぱり漢字は数が勝負ですね」
「ああ、励むんだな」
ぐりぐりとその少女の頭を山姥切が撫でているのを見て、光忠はくすりと笑う。この店に来たばかりの山姥切を知っている身としては、考えられない様子だ。だが光忠はこの山姥切のこともずっと気に掛かっていたので、これはとても嬉しい。
皆で食べてね、とお菓子を渡して光忠は文具店を後にした。大般若たちにはまた、近いうちにある一門の会合で会えるはず。
最後に光忠が車を向かわせたのは、長船邸の隣の屋敷。ここは歩いて帰れるからと、運転手には先に帰らせる。洋風の玄関を叩けば、お手伝いさんが開けてくれた。
「燭台切様、いらっしゃいまし。お嬢様はお部屋でございます」
「ありがとう」
長船の屋敷は最近建替えて和洋折衷の造りにしてあるが、彼女の屋敷は完全な洋風である。階段を上がって奥の部屋が目的地。ノックしてから光忠はドアを開けた。
「やあ」
「あら、光忠」
「お菓子を持ってきたよ」
後ろ手にしていた包みを見せれば、窓辺で本を読んでいた彼女が笑う。光忠が手で示されたティーテーブルに包みを置けば、彼女は本に栞を挟んだ。
「今日は何?」
「焼き菓子、好きだったよね?」
「もちろん。光忠のお菓子、大好きよ」
お手伝いさんを呼ばずに、光忠は自分の手で焼き菓子を皿に載せる。お茶を淹れるためのお湯も何もかも用意した。
「ごめんなさいね、いつも全部やってもらって」
「いいんだよ、僕、こういうのは好きなんだから。さあお姫様、お茶の準備が出来たよ」
そう、好きなのだ。だから迷惑だなんて欠片も思わない。
例え彼女の右足の膝から下が昔のようにきちんとあったとしても、光忠は同じようにしただろう。
車輪のついた彼女のその椅子を押して、光忠は窓辺から離れる。その窓から見える温室の燭台は、随分前から錆ついてしまっていた。
それは不幸な……と言ってしまうにはあまりにも恣意的な事故だった。光忠と幼馴染の彼女はただ、以前から約束していた演奏会に行っていただけ。彼女の好きな曲目を帝都のホールで演奏するというから、光忠が席を取った。その帰りに、乗っていた車がパンクしスリップ、そして衝突。言葉にすると簡単だが、そういう目に遭った。自損事故と警察には処理された。
運転手は亡くなり、後部座席にいた光忠は右目を損傷、失明した。事故火災に巻き込まれて火傷も負った。だが隣にいた彼女も酷い。車のシートに右足を挟まれて、膝から下を切断することになった。
長船はこれで大騒ぎだった。次期当主と見込まれていた光忠が、片目を失ったのだ。芸を極めた一門である長船の当主足りえるのか、親族はかなり騒いだ。
「おかしいだろう、あんな何もない場所で車がパンクしスリップするなど有り得ない!」
友人で当時官憲に勤めていた長谷部が事故の原因調査をすることを何度も主張したらしいが、揉み消されたと聞く。光忠も薄々気づいていた。これは身内の、何がしかの意図が働いて起きた事故だと。
それでも光忠は長船当主となっただけいいかもしれない。一番の被害者は彼女だった。右足を失い、運よく顔は無事に済んだが体に火傷の痕が残った彼女はもう嫁になど行けない。当然彼女の父親は激怒し、金輪際光忠と彼女が会うことを禁じた。それをとりなすだけとりなして、今の関係まで持っていってくれたのが古備前の鶯丸である。というのも、彼女は古備前の血筋であった。
「そんなに怒ることないじゃないか、なあ。そもそも娘御は光忠にやるつもりだったんだろう? 互いがよしとするなら、それでいい。他がとやかく言うことじゃない」
そう本家の当主に言われてしまえば、父親は何も言えなかった。そんな理由もあって、光忠は長船が古備前から分派した家だと言うことを差し置いても、未だに鶯丸に頭が上がらないのだ。だがそれでも光忠が訪ねていっても父親が顔を出さないのは、そういうことなのだと思う。
「光忠、よく来たな」
古備前の邸に顔を出せば、鶯丸が自ら玄関までやってきた。いつもはお手伝いさんに案内されるのだが、と光忠は頭を下げる。だがこの飄々とした旧家の当主はふらりと現れてはふらりと消えていくタイプでもあるのでそう気にもならない。
「鶯丸さん、こんにちは」
「お前が来ると聞いていたから、奥も楽しみにしている。上がれ、いつもの縁側でいいな」
「うん、ありがとう」
今日は鶯丸に頼まれた茶が仕入れに入ったので届けにきたのだ。何でも奥方様が大層気に入っているお茶だとかで、西のほうでしか手に入らないそれを鶯丸は光忠に言って注文させる。長船は西に伝のある家系だ、そのくらいは造作もない。
「燭台切様、わざわざありがとうございます」
庭がよく見える縁側の、二つ隣同士に並べられた籐の椅子に座っていた女性が立ち上がる。頭を下げたのを見て光忠は慌ててそれを止めた。
「奥方様。体調は」
「今日はだいぶいいんですよ」
「風に当たっていたほうが楽だと言うから、ここで休ませていた。光忠も座れ、誰か湯を持って来てくれ」
再び座った奥方に鶯丸は毛糸で編まれた膝掛けを掛けている。「ありがとうございます、鶯丸様」と言われれば、鶯丸は満足げに笑って奥方に啄ばむような口付けをしていた。鶯丸がそんな風に奥方を世話するのはほぼ趣味のようなものなので、光忠はくすりと笑う。
手にしていた紙袋から光忠は頼まれていた茶と、作ってきたゼリーを取り出す。少し冷たくしたほうがいいかもしれないが、あまり体を冷やすのも好ましくないだろう。
「これはこれは、光忠。また菓子を作ってきたのか」
気づいた鶯丸が聞くので、光忠は頷く。
「うん。酸いものは食べやすいと聞いたから、檸檬のお菓子をね。今度改めてお祝いを贈るけど、この度は御懐妊おめでとうございます、鶯丸さん、奥方様」
鶯丸が結婚したのは光忠がずっと幼い頃だ。それからいつまでも仲睦まじいご夫婦だと思っていたのに、一向に子どもに恵まれないのが実は気になっていた。それがこの度遂に奥方が御懐妊なさったと聞いたから、お茶のこともあるが、いの一番にお祝いを言いたかったのである。
透き通った檸檬のゼリーを見て瞳を和ませながら、鶯丸はふふふと笑う。あの笑い方はいたくご機嫌がいいときのものだ。
「案外すんなり出来るものだな、子どもは。たかだか一月ほどしか励んで」
「鶯丸様っ!」
奥方が聞いたこともないような大声を上げたので光忠はぎょっとする。一方で鶯丸は嬉しそうにまたもやふふふと肩を揺らす。
「せっかくの祝いの品だ、光忠特製の菓子は好きだろう? 最近食が細かった君もきっと食べられる」
「……ええ、いただきます。燭台切様」
零すなよ、と言いながら鶯丸はゼリーを奥方に渡した。お茶も淹れて、光忠たちは縁側から庭を眺める。古備前の邸の庭は細やかに手入れされていることもあり、また純和風なこともあり、緑は青々として花は伸びやかに開いてそれは美しいものだった。
「美味しい、ありがとうございます」
銀の匙でゼリーを食べ、奥方は嬉しそうに笑った。それを見て鶯丸も目を細めでよしよしと奥方の頭を撫でた。以前は少し後ろに控えるように置かれていた奥方の椅子が、今は隣にある。よくは知らないし、聞いても鶯丸は教えてくれないだろうがきっと何かいいことがあったのだろう。光忠も喜ばしい気持ちでゼリーを食べた。
長船は元を正せば古備前に連なる家。なんとなく近況報告なんかを光忠はした。半分以上興味はないのだろうが、一応鶯丸は「そうか」と聞く。しかしふと思い出したように鶯丸は首を傾げた。
「お前はいつ結婚するんだ、光忠」
「え、僕?」
完全に予想外だった話題に光忠はちょっと面食らった。
「僕はまだ」
「隣の娘はもう動けるまでに回復したと聞いた。それとも父御がまだ反対しているのか」
「いや、そうじゃなくて。許しては、くれていないだろうけど」
光忠が口を噤めば、鶯丸はじっとあの穏やかな瞳でこちらを見たがそれ以上何も言わなかった。手にしていた湯呑みにふうと息を吹きかけて、また庭の緑に目をやる。
「まあ、焦るな。そのうちうまくいくさ」
「……そうだね」
相槌を打ちはしたけれど、実は当の彼女に結婚を断られたとは、光忠は誰にも言っていない。
彼女と光忠が出会ったのがいつだったか、もう思い出せない。年の頃が同じで、身分もそうで、隣に住んでいて。仲良くならない道理がなかった。光忠には他にも多く兄弟やら従兄弟やらいたけれど、皆が男。手先が器用で身だしなみを整えることや料理も好きな光忠は、彼女から女の子の趣味や流行を聞くことも好ましいほうだった。それは自分にはない感性で、新しい視野だ。物を創り、芸を極める一族に生まれた光忠に必要なこと。
だがその子が「特別な女の子」になったのは、いつだったかちゃんと覚えている。外は木枯らしが吹き寒くなる季節で、光忠と彼女はあの花園にいた。
「うまく出来ないんだ」
教えられたことの殆どを光忠は卒なくこなせる。けれどそれは「こなすことができる」と言うだけで、光忠本人が満足できるものではない。
「皆が褒めてくれるけど、いい出来だって言ってくれるけど。僕はもっとその食べ物を美味しくできたはずだったし、字だって綺麗に書けたはずだし、そのほうが野菜だって墨だって筆だって紙だって、きっと嬉しかったはずなんだ」
もっとできたはず、もっとずっとよく。光忠にとってそれは驕りではなく、礼儀だった。
光忠の元に届く食材や画材や筆や墨は、細かな一つに至るまで一級品で職人やその手の達人の作ったもの。それを最も良い形に昇華させることが光忠の責務であり、そうしなければこれまでの過程で手を加えた人たちの努力が無駄になってしまう。
だから光忠は満足してはいけない。いつも一番かっこいいものを目指して、それを作り上げて。そうでなくてはいけないのだ。いつか、この一門の頂点に立てるように。
「でもそれだと疲れるわ」
あの頃はまだ、自分の足で座ったり立ったりしていた彼女が言う。品のいいワンピースを着た彼女は少し考えると、おそらく彼女の両親が花園でティータイムをするときにでも使うのだろう燭台を指した。
「たまには休憩しないと、いいものなんて作れないもの。お屋敷の丁度真ん中にあるここで、私が灯りをつけるから。そうしたら休憩、光忠はここに来て私と遊んで」
「……遊ぶ?」
「ええ」
光忠が問えば最近覚えたの、と彼女はマッチを擦って蝋燭に灯す。お日様や電気とは違う、オレンジ色の炎に照らされた彼女の笑みは温かだった。
「お茶に合うお菓子を忘れないでね。お茶と休憩は大切だって、この間も御当主様が仰っていたわ」
まあ、その「御当主様」の休憩は彼女の言うようなものではなく、純粋なさぼりだと光忠が知るのはもっと後のことだが。
そう約束してから、光忠は毎日窓から花園を眺めた。気づくのが遅れて花園に着いた頃には蝋燭が尽きていたりすると、彼女は「女の子を待たせるなんて」と怒った。お菓子も、出来が悪いと彼女は正直に言った。初めて作った洋菓子を「帝都にあるお菓子屋さんのほうが美味しい」なんて評されたときは落ち込んだ。
けれどただ「最上のもの」を目指しているときよりも、彼女が喜ぶお菓子を作ることは気が楽で、そしてそれで笑ってもらえることは何より嬉しかった。
今の光忠が彼女のもとを訪ねるのは、少なくて週に二度くらいのペースである。朝に強い光忠は、早く起きて長船の仕事を片付ける。これでも当主なのだ、いつも菓子作りをしているわけではない。分家の家を巡ったり、一門として開いている店を見て回る必要もある。午前中はそんな風にして過ごす。前は午後時間をとって手習いを見たりなんだりしていたが、今は最後に面倒を見ていた弟子の大倶利伽羅も独立しているために、誰かを指南したりする必要もない。だからかつての内弟子がどうしているか、たまに伺いに行く程度。後は呼び出されて仕事をするくらい。
だから自由に使える時間を利用して、彼女の様子を見に行く。何せ屋敷も隣同士、移動するのに車を出す必要もない。
「でもこうも頻繁だと、光忠はちゃんと仕事をしているのか心配になってくるわね」
「いやだな、しているよ。今日だって午前中は依頼のあった掛け軸を仕上げてから来たんだから。温泉旅館に飾ってもらえるらしいから、今度見てほしいな」
くすくすと彼女が車椅子の上で笑う。檸檬の爽やかな匂いがする。今日の紅茶はそれを浮かべて淹れたのだ。ついでにお菓子は檸檬パイ。先日鶯丸と奥方にゼリーを差し上げたときの残りである。いいものが手に入ったから、しっかり使いたかった。
「お菓子屋さんにでもなればよかったのに」
「ああ、うん。きちんと教わってみたいのは確かだよね。小豆君と違って僕のお菓子と料理は独学だから」
「光忠のお料理が独学だっていうのはもう嫌味よ。うちのメイド長だって習いたがっているくらいなのに」
サクッと音を立ててフォークをそれに突き刺しながら、彼女がぼやく。パイ生地をああして焼けるようになるのにも時間がかかったのだが、彼女はそれを知らないのだろう。
「でもほら、独学ときちんと教わったのとはまた違うから。流石になかなかそこまで時間が割けなくてね、どうしても自分の舌と手一つで覚えなくちゃいけない。もうちょっと余裕ができればいいんだけど」
「私のところに来る時間をそこに割けばいいんじゃなくて?」
意地悪い言い方をするなあと光忠は苦笑する。ティーカップをソーサーの上に戻し、光忠は視線を伏せた。
「……君が僕の家で毎日ご飯を食べて味見してくれるなら、それも考えるけど」
答えはわかっている、だから顔は上げない。
ふふと静かな笑い声がして、彼女もカップを置く華奢な音がした。
「じゃあ無理ね、どちらかになさって」
息を吐く、それからにこりと光忠は笑った。まだ笑顔を作れる、だから大丈夫。
「ところでね、鶯丸さんが君のこと心配していたよ。もう体はよくなっただろうって」
「御当主様が?」
「奥方様が懐妊なさったからね、君も聞いた? お祝いを差し上げに行ったんだ、この間」
彼女の家は古備前の分家なのだから、知らないはずはない。だが鶯丸が自分を気にかけているというのは初耳だったようだ。まあそれも仕方がない、鶯丸がこの家に来て光忠と彼女のことをとりなしたのは、彼女の容態が最も重篤であったとき。その頃の彼女には意識は殆どなかった。そうして今は、家から出ることはない。
彼女はひざ掛けを直しながら居住まいを正す。ぎしりと車椅子が鳴った。
「御挨拶に行くかい? 行くなら車を出すよ」
「……いいえ、まだ行くには見苦しいわ」
「鶯丸さんは気にしないと思うけど」
「そうも、いかないわ。レディの身だしなみに気を遣えないなんてかっこ悪いわよ、光忠」
悪戯っぽく言う彼女に、光忠はそれ以上追及しない。自分が彼女に滅法弱い自覚がある。強引にでも連れ出すことはできるだろう。光忠はもう彼女より随分上背があったし力も強かった。
けれど、彼女に嫌われることは今でも怖い。
週に最低二度も通いながら状況は何も変わらず、かつ尻込みしているなんて非常にかっこよくない。かっこよくないのはわかっているが、わかっているが……。
「よお、燭台切光忠殿」
「……大般若君、どうかしたの?」
屋敷に戻って細々した書類なんかを見ていたら、コンコンコンとノックのあとに銀髪とピンクのリボンが覗く。先日尋ねたが会えなかった大般若だ。
「なに、わざわざ当主が来てくれたっていうのに留守で申し訳ないことをしたじゃないか。それにたまには本家に顔を出すのも悪くない」
「言ってくれればちゃんと出迎えたのに。来てくれてありがとう」
光忠はデスクから立ち上がって大般若のほうに歩み寄った。手土産にと大般若は紅茶の葉をくれる。山姥切国広の兄弟が舶来から仕入れたものらしい。
「早速淹れるよ。まだお昼だし、流石に大般若君もお酒には早いだろう?」
「んふ、まあ美味い酒はいつ飲んでも美味いが、燭台切の紅茶はいつでも飲めるものじゃない。もらおうか」
「ふふ、任せてよ」
紅茶は蒸らす時間が一番大事なのだ。光忠はポットにお湯を注ぎ、用意しながら砂時計をひっくり返す。
「小豆君や謙信君は元気かな?」
「ああ、変わりない。そろそろ謙信を寺に修行に出すだろう? 身の回りのことができるように小豆が見てるさ」
「ああ、そうだね。もう一人の風来坊もそろそろ顔を出してほしいところだけど」
一人、修行に行ったきり旅先が楽しいのか戻ってこないのがいるのだ。肩を竦めながら光忠が言うと、ひらりと指に挟んだポストカードを大般若が振る。
「小竜なら葉書が来てるよ」
「えっ、どうして僕にくれないかな」
「さあ、気恥ずかしいんじゃないのかい」
まあ元気そうにしているならいい。変わりないようだ。光忠は砂が落ちきったのを見てから、蒸らしていたティーコゼーを取る。
「それで、燭台切のほうはどうなんだ。順調かい?」
「なにが?」
「皆まで言わせる気ならそれも構わないが」
大般若の言に苦笑しながら、光忠はカップに紅茶を注いだ。ミルクと砂糖は好みにもよるからと手を付けないでおく。檸檬もあるよと光忠は付け加えた。
「……まあ、かっこ悪いけど。何も進んではいないかな」
元来光忠は素直な性格である。だから隠し立てをすることもなく大般若にそう言った。紅茶の匂いを薫らせながら、大般若は「ふうん」と何でもない風に相槌を打つ。
「何も進んでいないのかい、何もしていないのかい」
「手厳しいな。そのどっちでもあるよ」
大般若と小豆は、比較的光忠と年齢が近い。光忠がその才を見出されてより当主にふさわしくと養育を施される前はよく一緒に遊んだりもする仲だった。だから特に大般若なんかは良くも悪くも遠慮がなく、今は当主として周りから一線を引かれた光忠にしてみれば数少ない気の置けない身内とも言える。
「あんたが事故に遭った日のことを、今でも覚えてるよ」
琥珀色の紅茶にミルクを垂らしながら、大般若は穏やかに言った。
事故に遭って暫くの間、光忠は意識がなかった。それほどの怪我だった。だからそのときの長船の騒動は知らない。光忠が快方に向かったから、きっと都合の悪いことは伏せられたのだろう。
「まずは俺のところに連絡が来たんだ。ま、万が一のときの光忠の代わりの一人ってわけだな。俺は気楽に好きなことをするほうが性に合ってたし、当主なんてまっぴら御免だったから事の次第しか聞かなかったさ。あんたが事故に遭って、目を怪我して、そもそも助かるかわからないってね」
「……まあ、事実だね。大般若君のところに連絡が行ってたのも予想はしてた」
「でも正直、あんたの生死よりも俺は目って言うのが気になってた。目がだめになるかもしれないってな。あんたが本当にしたいことには、致命傷だったろう」
光忠は黙って、視線を下げた。肯定も否定もできない。光忠は嘘を好かなかった。
大般若は持ってきていた鞄を開く。中からがたがたといくつか木箱なんかを取り出した。それを見やって、光忠は大般若の意図することを悟った。
「他の道具はまだ持ってるんだろう? 物持ちのいい燭台切のことだ、しまってるに決まってる。だから俺からは、今の一流のものをやるさ」
「……大般若君」
「もう、家への務めは十分に果たしてるだろう。一番下の謙信も修行に出る。いい頃合いじゃないのかい。いつまでも同じ場所で蹲ってるのはあんたらしくない」
ティーカップを空にして、うんと一つ大般若は頷いて立ち上がる。
「じゃ、俺はいくさ。いやあ、やっぱり燭台切の淹れたお茶はうまい」
「っ大般若君!」
もう光忠の書斎を出ようとしていた大般若は、髪とピンクのリボンを揺らして振り返った。
「その品のお代としちゃ、この茶で釣りがくるさ、燭台切。次来るときは朗報を期待しておくよ」
パタン、と静かに扉が閉まった。小さく息を吸って、光忠は大般若が置いて行った諸々の木箱を手に取る。アンティークのケースを開くとニスの匂いが微かにした。舶来の本当にいい品を置いていったらしい。大方、山姥切の兄弟が仕入れてきたものだろう。
「……ここまで準備してもらって、何もしないのはかっこわるいかな」
腹のくくりどきかも、しれない。
光忠はクローゼットを開いて、大般若の言うようにずっとしまい込んでいたものを取り出した。ややサイズが大きいが、行くのはどうせ隣の屋敷なのだから構わない。ガタガタと音を立てながらそれらをまとめて、大般若の置き土産だけはしっかりとした鞄に入れた。
「燭台切様?」
突然の来訪で驚く隣のメイドさんたちに曖昧に笑って、光忠は一直線に彼女の部屋に向かう。ノックをして呼吸を整えた後、何でもない風で光忠は扉を開いた。
「光忠? どうしたの、急に」
窓辺にいた彼女が車輪の方向を変えてこちらを向く。それを手で制して、光忠は持っていたイーゼルをその場に置いた。
「君の絵を、描かせてくれないかな」
片眼を失ってから実に何年振りかの、カンバスの乾いた香りだった。
ややつんとした絵の具の匂いが鼻を突く。窓を開けてもよかったが、揺れるカーテンは邪魔になるだろうと思ってやめた。彼女はもう何年かぶりに、カンバスの前に立つ幼馴染を見つめている。
「少しだけ、窓のほう見てくれる?」
「いいわ」
彼女は指示通りに首を回して窓を見た。外は晴れていて明るく、少し眩しい。
「ちゃんと描けていて?」
問えば、光忠はあははと笑いながら答えた。
「もちろんだよ。大般若君からせっかくいい画材ももらったしね」
「……そう」
余計な、ことを。会ったこともない光忠の親戚に悪態をつく。
彼女が事故から意識を取り戻したのは、その日から優に一週間以上も経った後のことである。何が起きたのかは今になってもわからない。記憶が確かではない。ただ酷く強い衝撃の後に、足元から段々と熱くなって、苦しくて、痛くて。顔だけが綺麗なのが嘘のようだった。
だが、目を覚ました時に一番辛かったのはそんなことではない。
「みつただ、あなた、めを、どうしちゃったの……」
父親が光忠と会うことを禁じたことも、それを本家の当主が諫めたことも、全部全部後になってから聞いた。だがそれよりもなによりも、やっと意識が安定したころに来てくれた光忠を見て絶句した。
顔の半分に包帯が巻かれていて、彼女の手を掴むのに一度だけ指が空を掻いたのだ。遠近感がない、彼女の手がどこにあるのか、光忠にはわからなかった。
「みつただ」
「ごめんね、僕が出掛けようなんて言ったから。本当にごめんね。演奏会に行こうなんて、言わなければよかった」
馬鹿、と呟いたけれど光忠にそれがきちんと届いたのかまではわからない。光忠が彼女の手を握ったまま何度も「ごめんね」と繰り返したのを、彼女は今でも覚えている。
ぺた、ぺたと絵の具がカンバスの上に置かれる音が聞こえる。懐かしい音だ。昔はもっと、よく聞いていた。屋敷から見える庭の四季や修行の合間に行った先のスケッチ。光忠が置いて行ったスケッチブックは、まだこの彼女の部屋の戸棚にある。
好きだったのだ。光忠は絵が好きだった。絵を描くことを、好きだった。
「少し、休憩にしましょう。ずっとじっとしているのにも疲れたわ」
絵筆が僅かに震えたのを聞き取って、言った。
絵など、描けるはずがない。そのことを彼女はとうに知っていた。光忠は、一番好きだった芸の道を断たれた。書も、料理も花も、一通りのことは一流にできる。けれどたった一つ、家のためではなく好んで進めていた道を失ったのだ。
彼女と遭った事故で。
「久しぶりに筆を執るから、僕も疲れちゃったな。勘が鈍ってるし」
「指にタコができるんじゃなくて? しばらくぶりの筆だこ」
「あはは、そうかもしれないね」
光忠は笑いながら絵筆を筆洗いに入れたので、彼女は車椅子の車輪を回して絵を覗き込もうとした。しかしそれは光忠がバッとカンバスごと掴んで取り上げてしまう。
「だっ、だめだよ、完成まで見ちゃ」
「あら、どうして? 前はスケッチブックだって落書きだって、途中でも見せてくれたわ」
「これはだめ」
背の高い光忠にカンバスを取り上げられてしまっては、彼女にはちっとも見られない。むっと顔をわざと顰め、彼女は手を伸ばした。
「いいじゃない、見せて。どんなに不細工だって構わないわ」
「君を不細工になんて描くわけないだろう? ちゃんとできてるから安心して」
「なら見せてくれたっ、て、あっ」
「あっほらっ!」
カンバスを持っていた片手を離し、光忠は車椅子の上でバランスを崩しかけた彼女の体を支えた。
……忌々しい、この車椅子。動きがかなり制限されてしまう。光忠の大きな腕が彼女を車いすの背もたれに押し戻した。ぎしりと音が鳴る。
「危ないよ。お茶にしよう、僕が淹れるから」
光忠はカンバスをイーゼルに戻し、車椅子のハンドルを握った。そのまま押してテーブルのところにやられる。今の彼女には、どこかに自由に行くこともできない。そのことに苛立ったが、彼女は首を振って考えるのはやめにした。
ごそごそと光忠が自分の鞄を探る。それからニコニコとして紙袋を取り出した。
「今日のお菓子は光忠特製マドレーヌ。バニラを多めに入れたから、香りがいいはずだよ」
「ありがとう。メイドが棚に新しい紅茶の葉を置いていったの。それを使ってくれる?」
「……これかな? いいね、いい香りだ」
かぽっと缶の蓋を開けた光忠が笑顔で言った。鼻歌交じりでポットを温め、光忠は紅茶の用意を始める。
「ミルクと砂糖はいつもの量でいいかな、新しい葉だけど」
「ええ、大丈夫」
昔から、彼女のお茶の用意は家のメイドよりも誰よりも光忠がうまかった。光忠は彼女の好みを熟知していた。それもそのはず、彼の作るお菓子を一番に批評していたのは彼女だったのだ。そのために光忠が自然と彼女好みのものを作ってしまうのは、まあ道理であるとも言えた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
ふわふわのマドレーヌは、確かにバニラの品の良い甘い香りが漂っていた。貝殻の形をした、狐色の焼き菓子。光忠が最初に作ったときは、焼き加減が難しかったのか中がやや……。
「ふふ」
思わず彼女が笑えば、光忠はティーカップから顔を上げた。
「どうしたの?」
「ううん、ふふ、あなたが最初に作ったマドレーヌを思い出して」
「あっあれは……なしにしてよ。初めてだったんだから」
苦笑しながら光忠が肩を竦める。光忠もあのマドレーヌのことは覚えているらしい。
彼女があの花園で光忠を待っていると、光忠はいつも紙袋や箱なんかに入れて手作りのお菓子をいつも持ってきた。家の本に載っていたレシピで見たという洋菓子を次から次へと試して作ってみては、彼女に食べさせる。最初は本当にひどい出来で、まあ元々洋風のものは範疇外だった光忠には仕方のないことなのだけれど……。
「でも私、あのぺちゃんこのシュークリームも、ぼそぼそのスポンジのショートケーキも、とても好きだったわ……。光忠ったら、思ったように生地が膨らまなかったってしょげかえって来るんですもの。でもあの明るい花園で見れば、なんでもおかしくて。せめて紅茶だけは美味しく淹れるんだって、あなたが」
何もかもが、あそこでは輝かしく見えた。子どもだったころの郷愁もきっと、あるのだろうけれど。
今の彼女は、あの花園へはいけない。自分の足が不自由になってからも、父が彼女の部屋を二階から移動させない理由を彼女はわかっていた。そしてその、もうどこにも行かせたくないという心情を理解できないわけでもない。彼女はこの家の一人娘だった。家族に大切に育てられてきた。それが、どうだ。もうどこにも嫁のやり手などないだろう。だからせめて、もう安全なこの部屋にという気持ちを無碍にはできない。
「……君だって、たまに半べそを掻きながら花園にいたじゃないか」
ぼそりと光忠が言うので、彼女は視線をそちらに向けた。
「あら、そんなことがあって?」
「あったよ。お花とか、ピアノの稽古で叱られた、あんなの先生が悪いのよって」
「どうだったかしらねえ」
ふふ、と今度は光忠が口元を押さえて笑う。手には黒いグローブがはめられていて、その下にはやけどの跡が残っていると、彼女は知っていた。
「君ったら、怒られて泣いてるときは料理にはもっと厳しくて。クッキーはもっと甘い方がいいとか、イチゴの乗ったタルトじゃなきゃ嫌だとか。僕は君に笑ってほしくて頑張って作ったんだけど、ちゃんと笑ってくれるようになったのはお菓子を作り始めて暫くしてからだったなあ」
「……ちっとも機嫌を直さない私に、それまでは代わりに絵を描いてくれていたものね」
お菓子が失敗続きだったから、と。光忠は自分で絵をかいて、まるで紙芝居のようにして一生懸命彼女に話をしてくれた。
「私、まだあのスケッチブック、持っていてよ」
光忠は眉を下げて、微笑んだまま何も言わなかった。あの事故の後、光忠は一度だって絵を描いていない。片目を失っても長船の当主としてやっていけると、周囲に証明するのは彼女の想像が及ばぬくらい大変だったろう。だから単純にそんな暇、なかったのかもしれないけれど。
「もう行かなくちゃ。近々結婚する子がいてね。その準備の話を夕食がてらすることになってるんだ。仕込みもあるから」
がたりと椅子の音を立てて腰を上げ、光忠は絵具だのなんだの片付けた。カンバスも結局彼女には一切見せることなく持ち上げる。
「っ光忠!」
出て行こうとする光忠に、彼女は車椅子の車輪を回して近寄った。歩けば数歩の距離も、彼女には方向転換と前進と、いくつもの手順と時間がいる。
「無理に描かなくて、いいのよ」
腰かけている彼女と、立っている光忠とでは身長の差が酷くある。光忠は荷物を絨毯の上に置いて膝を着いた。
「無理になんて、してないよ」
「嘘よ、手が進んでいないの、私にわからないとでも思ったの?」
「……嫌だなあ、かっこ悪い。ばれてたんだ。でも大丈夫だから、心配しないで」
あははなんて苦笑しながら光忠は後頭部を掻いた。笑い事じゃない、全然、そんなことじゃない。
「ねえ、光忠、ごめんなさい、私、本当に」
綺麗な目だったのに。
指で光忠の眼帯をなぞる。金色の、あの蝋燭の炎にも似た美しい目だった。それなのに。ごめんなさい、ともう一度言って俯いた。
本当は、ずっと辛かった。片目を失っても、それでも前を向く光忠から、傍にいてくれる姿から目を逸らしてはいけないと思っていたから、そうしようと努めた。けれど、もう見ていられない。描けるはずがないのに、前と同じようになんて、できるわけがないのに。それでもカンバスに向かう光忠なんて。
「ねえ、泣かないで。誰のせいでもなかったんだよ。誰も悪くない、だから謝らないで」
俯いた彼女を光忠は屈んだまま抱きしめる。ぽんぽんと昔よりずっと大きくなった手が彼女の背を叩いた。
「僕だって、君が昔のように立って踊ったり、走ったりするのが見られなくなったのはとても辛いよ。君は足が速かったから、追い付くのが大変だった」
「……今じゃ私の方がずっと遅いわね」
光忠の肩に凭れ、鼻を啜りながら彼女は答える。光忠は静かに笑った。
「大丈夫、何もかもなくしたわけじゃないから。僕にはまだ手があるし、目だってもう一つある。それでも今までとても怖かったけど……鶯丸さんのところに赤ちゃんができただろう?」
穏やかな声で、光忠は彼女に囁きかけた。世界中で彼女にしか聞こえないような、そんな話しかけ方だった。
「もうずっと、鶯丸さん奥が子どもはなあって言ってたのに。きっと奥方様といいことがあったんだと思う。それにね、伽羅ちゃんのところに女の子が住むようになって。身内の子も、やっと結婚するし。皆ちゃんと……前を向いて歩いてるんだって、思ってね。だから僕も、進まなくちゃ」
ね、と光忠は彼女が乱雑に手の甲で擦った濡れた頬を大きな手のひらで拭い直す。
「だから……君もそろそろ、観念してうちに来てくれないかな」
こんな体になってからも、光忠は家が落ち着いたころにきちんとプロポーズをしてくれた。長船の屋敷を改修したのも知っている。光忠は「洋式にして帝都に合わせただけだよ」なんて言ったけれど、あれは彼女のためだ。車椅子の彼女が、楽に屋敷で暮らせるように。
「僕はただ君に傍にいてほしいだけなんだ。僕がそうしてほしいだけなんだよ」
「光忠、私……」
彼女は答えることができなかった。以前も、「お嫁には行けない」と光忠に言うことしかできなかった。哀しそうな顔をして、光忠は「そっか」と頷いた。
「だめかな……」
せめて、と彼女は首を振る。拒否したいわけでも、悲しませたいわけでもないのだ。グローブの嵌められた両手を彼女は握った。
「少しだけ、待ってほしいの」
二人で手をぎゅっと握りあいながら、額を合わせる。
あの事故の夜からずっと、どこにも行けなかった。二人して、こうして同じ場所で時間を止めて蹲ってきたのだ。
「うん……待ってるよ」
ぎしりと車椅子の車輪が音を立てた。
遠回しに、断られたのかなまた……と光忠は肩を落としていた。いや、かなり頑張ったと思うのだけれど。首を捻り、目を閉じて考え……それからはあと息を吐いた。悩むのは格好が悪い。格好が悪いけれど……。
「でも、待っててって、言ってるんだし」
急かすのはもっと格好が悪いし、前のようにむべなく断られたわけじゃない。あの時よりずっといいじゃないか。
気を取り直し、光忠は体を起こしカンバスを持ち直した。彼女を待っている間に、この絵を仕上げたい。確かに遠近感がない分、酷くやりづらくはあるけれど……。もう目を背けるのはやめにしたのだ。
「こんにちは」
いつもの通り光忠は彼女の屋敷の扉を開けたのだが、誰もいない。様子がおかしいなとひとまず玄関を閉めると、何かが転がり落ちるような音と悲鳴が聞こえた。ぎょっとして光忠も音の聞こえたほうに駆けつける。階段の方だった。
「どうしたの!」
「あっ燭台切様、お嬢様が!」
見知ったメイド長が、光忠の顔を見て叫ぶ。一体何が、と階段の一番下を見るとなんと彼女が倒れていた。
「君、大丈夫!」
何もかも投げ出して駆け寄ろうとすると、腕を突き首を回した彼女が大声で言う。
「触らないで光忠! 絶対に触っては嫌!」
ハッとして光忠は足を止めた。床に倒れた彼女は腕を突いてよろよろと体を起こす。膝が片方しかないから、体重を支えようとしてもバランスを崩してしまう。それでもなんとか階段の欄干に縋りついて、ぐらつきながら立った。だがそれも一瞬のことで、手を離せばすぐに倒れる。
「つ、っう」
「お嬢様!」
「近寄らないで! 誰も私に、手を貸さないで!」
彼女は放り出されていた杖を掴んだ。それを支えにするのにも、時間がかかる。光忠は動けなかった。動いて、僅かに空気を揺らすのだって彼女の邪魔をしてしまう気がした。
「お嬢様、車椅子を」
「そんなもの火にでもくべて! もう二度と使わないわ!」
彼女の家の、質のいい床では杖は滑るようだった。何度も倒れたり転んだりしながら、彼女はよろよろと進む。どこに行くのだろうと光忠は視線を先に走らせて、息を呑んだ。
庭だ、庭に出ようとしている。その先に何があるか、光忠にわからないはずがない。
彼女は、花園を目指しているのだ。
「っ待って! ねえ!」
「嫌よ! 絶対に、私はもうずっと待ったわ。いいえ違う、やめていたのよ、諦めていたのよ、もう二度と、こうはできないって」
何の騒ぎだ、と二階から誰かが言ったので光忠は顔を上げた。彼女の父親だ。もう何年かぶりに顔を見た。光忠を見て父親は顔を顰め、そのあと自分の娘を見て血の気を失った。
「何をしてる! 誰か止めないか!」
「ですが旦那様、お嬢様が」
「黙っていてちょうだいお父様、私はもう二度と、あんなものには絶対に乗らないわよ!」
言い切ってから、彼女はまたよろよろと進んだ。しっかりと杖を掴み、なんとかバランスを取りながら光忠を振り返る。
「光忠」
「……君」
汗をかいて、前髪は額に張り付いていたけれど。既に打ち付けた手首や肘は赤くなり始めていたけれど、彼女はそれでもにっこり笑った。
「待っていて、私、絶対に行くわ。あなたより早く、絶対にそうするんだから」
ただ一度だけ、光忠は頷いて踵を返した。ガタンとまた彼女が倒れこむ音がする。グローブを嵌めた手を力いっぱい握った。けれどだめだ、振り返るわけにはいかない。
大きな彼女の屋敷の扉を開き、光忠は自分の屋敷に走って戻った。早く、早く行かなければ。お帰りの挨拶を言うメイドや執事にも挨拶する余裕もなく、光忠は自室のある二階へと駆け上がる。
震える手で、部屋の燭台に火をつけた。ぼうとオレンジの炎が灯る。それからその燭台を持ち、窓辺に移動する。
彼女が花園に向かうのならば、光忠はここにいなくてはならない。
歯がゆさで唇を噛み締め、もうそこは切れてしまっていた。だが光忠はここから動いてはいけない、そんなことは許されない。
彼女が自分の足で、そこに向かったのだから。光忠はここで、待たなくてはならないのだ。彼女を待たせた、ずっとあの冷たい車椅子の上に座らせていた。その時間の分だけ、光忠はそこにいなければならない。
「頑張って……」
呟いて、光忠は手を握り締める。大丈夫、どんなに時間がかかっても、僕はここにいる。ゆらりと窓の傍の蝋燭の火が揺れる。それが彼女から見えればいいと、両手を握り締めながら祈った。
小さい頃、光忠はこの窓からあの花園に光が灯るのを待ち続けていた。お菓子の味にうるさくて、お転婆で、たまにべそをかいたりして。そんな光忠の大好きな女の子が、自分を呼ぶために火を灯すのを待っていた。
だからその火が、自分と彼女とを焼いたことはとても悲しかった。彼女の美しい手足にそのあとが残ったことも、あの子がもう二度と走ったり踊ったりできないことも、辛くてたまらなかった。光忠自身も目と絵を失い、もう何もできず、ただこのまま彼女の部屋で全てが終わってしまうのだと。
でもどうしても、もう一度。
もう一度本当は、あの花園に走っていきたかった。この窓から蝋燭の火を見つけて、お菓子を持って、あの子の元へ。
「……!」
祈り続け、日が傾いたころ。ぽつんと一つ、火が灯る。
光忠は音を立てて大きく窓を開いた。夜風がカーテンを後ろに流す。
「作り置きのお菓子、何があったかな……!」
帰って来たとき同様、勢いよく光忠は部屋を飛び出した。待たせていたら、あの子は怒るのだ。抜け出すために使っていたあの生垣の穴はまだ通れるだろうか。
光忠はもう何年か分の時間を一度に走って、あの花園へと向かった。
「それにしたって、僕の絵が仕上がるより先にって言うのはやっぱり負けず嫌いなんじゃない?」
コツコツと杖の音がする。廊下を滑りづらい絨毯敷きに変えておいてよかった。和室のほうが落ち着くのはあるけれど、それはそれ。長船の家は和洋折衷。新しいものはそれとして取り入れ、古いものも残すように造ったのだ。
「だって、光忠の納得がいく絵を待っていて私がおばあちゃんになったら困るじゃない」
「おばあちゃんでも僕はいいけどなあ」
「私が嫌なの」
ふふふと光忠は笑う。手にはティーセットが載った盆。光忠の部屋は厨近くに移動したのだ。また執事が「御当主なのに」なんて嘆いていた。
ドアを開き、先に彼女を通す。「ありがとう」と彼女は自分の足でそこに入った。
窓辺にあった燭台に、シュッとマッチで火を灯す。それだけは、彼女が自分でする。大分板についた杖さばきで、彼女は振り返った。
「さ、光忠、お茶の準備をして頂戴」
「はいはい、お姫様」
彼女の世話をするのは好きだ。美味しいお菓子を作って、お茶を淹れるのも。それは彼女の膝から先がなくなってしまっていても変わらない。
いつまでもいつまでも、変わらない。
「私の鼻、あんなに低いかしら?」
ポットを温めていると、うーんなんて首を捻りながら彼女が言う。光忠は肩を竦めながら笑って答えた。
「はいはい、僕の力不足です」
「そうよね。また描き直して」
「……ふふふ、うん、うん。また、ちゃんとね」
花園の見える窓辺。そこには一枚、光忠の大好きな女の子を描いた絵が飾られていた。