蒼銀の幻影「君を妻に、娶りたいと思う」
最初に届いた手紙にも、美しい文字で、そう書いてあった。彼女はそれを取り上げて、日に透かしてみる。
月に二度、決まって水曜日。律儀なその手紙は、彼が修行に出てから一度だって欠かされたことがなかった。便箋も封筒も、いつも決まりきってどこか光沢のある青みがかった白いもの。意匠が違うものもあったけれど、色合いはほぼ同じものを送ってくるあたり、こだわりの強さがうかがえる。
二週間前に届いたそれをもう一度封筒にしまって、彼女はただ静かに待つことにした。彼は時間を破ったことがないから、直に来る。
そうして案の定、約束の五分前。彼女の屋敷の呼び鈴が鳴らされた。立ち上がり、女中が対応しているだろう玄関に彼女は向かう。彼は目ざとくこちらに気が付いた。
「……ただいま、待たせたかな。君の許嫁が帰ったよ」
「おかえりなさい」
数年前、最後に彼女の前に立ったときよりも少し背の伸びた、山姥切長義の帰還だった。
山姥切長義は、元を正すと諸芸百般を修めた長船の一族に名を連ねていることになる。しかし長船もまあ分派が激しく、あちらこちらに数えきれないほどだ。だから現状、長船本家は各分家のうち見込みのあるもののみ、本家預かりとして後継の育成に励んでいるというわけであり、長義もその一人だ。
そしてその育成の一環として、長義は修行に出ていた。出発はもう数年前だ。
「ご当主様にはもう挨拶してきたの?」
「ああ、もちろん。申し訳ないけど、君より先に」
「それは当たり前よ」
「そうだね」
くつくつと長義は肩を揺らした。今日の長義は前髪を上げてきちんと整え、気合の入った着物を着ている。本家の挨拶だから、気を抜けなかったのだろう。久しぶりの長義は背が伸びたように思うし、全体的に痩せたというか、体の節々が健康的に目立つようになったように感じた。今湯呑を持っている手にしてもそうだ。男性らしくなったというのだろうか。
「君の方に変わりはなかったかな、俺のいない間」
長義の問いに、彼女は頷いた。改まって話さなくても、二週に一度手紙を取り交わしていたのだから特に変わったことはない。
彼女の家は……まあ色々あるが上流階級には相当する。それなりに古くからある家で、それなりの財力もあり、一応の家業がある、と簡単に言うならばそうだ。ちなみに彼女には異母の兄がおり、家業はそちらが継ぐことになっている。
「ご両親がいらっしゃるときにまた改めて挨拶に来るけれど、変わりがないなら何よりだ。長い間帝都を空けてすまなかった」
「ううん。ご無事のお戻り、何よりです。京や小田原は暑かったでしょう」
「そうだね。帝都も様変わりしていて驚いた」
それから長義は取り留めのないことを彼女にいくらか話した。修行から戻ったため、彼女の家からも近い長義の屋敷にいることになること。だから毎日でも、顔を見に来られるということ。
「毎日はやりすぎじゃない?」
「まあ、俺もそこまで時間があるとは限らないけれど。来られるときは、できるだけ」
そろそろ、と長義が腰を上げたので彼女もでは見送りにと立ち上がった。きちんと襟元と着物の裾を整え、長義はもう勝手を知っている彼女の家の廊下を歩く。やはり背中が広くなった気がした。
「兄には会って行かなくてよかったの? もうすぐ戻ると思うけど」
長義と彼女の兄とは旧知の仲だ。今は家業に出ているけれど、そろそろ帰宅する頃合いのはず。けれど長義は肩を竦め、首を振った。
「猫殺しくんはまた別な日でいいよ。今日俺は許嫁の顔を見に来たんだからね、あれは別に」
「またそんな呼びかたして。兄と喧嘩になるわ」
「いいよ、猫殺しくんが怒ってもそれほど怖くない」
玄関まで送って、長義が履物を整えるのを待つ。よく整った襟足から覗く首筋はやや骨ばっていた。
それじゃあと立ち上がった後も長義はいくらか視線を下げ、三和土に敷かれた石の表面を目で追っていた。あれは何か言いたいことがあるときの仕草だ。昔から変わっていない。
「長義?」
「……帝都に、戻ってきた、から」
前髪を上げているせいで、形のいい眉がやや顰められて逡巡しているさまがよく見えた。それでも最後はきちんとこちらを向いて、座っている彼女を正面から長義は見つめる。
「修行で先延ばしにしていた結婚の話を、進めよう。年が変わってしまう前には、籍を入れたいと思うから。そのつもりで、いてくれるかな」
それじゃあ、明日、と長義は彼女の返事も聞かずに踵を返した。結局明日も顔を出しに来るつもりらしい。
そのまましばらく彼女が玄関に座り込んでいると、今度は別な車が砂利石を踏む音が聞こえて異母兄が帰宅した。家のものを引き連れて帰ってきた兄に、彼女は顔を上げておかえりなさいと挨拶する。
「そんなとこで何してんだ? 体が冷える、にゃ、具合でも悪いか?」
屈みこんだ兄が言うので、彼女は首を振った。そうすると兄の方が先だっての来客に気づいたらしく、あっと声を上げる。
「ああ、あいつが帰ってきたのか、にゃ! いるのか! 山姥切長義!」
「ふふ、さっきお帰りになったわ。また明日いらっしゃるって。お父様にもお母様にもご挨拶できていないから」
「明日っ? こうしちゃいられない、にゃっ! お前の結婚なら親父殿とお袋様だけじゃだめにゃっ、お頭に連絡、誰か連絡入れろにゃ!」
「お兄様、口調が。長義に笑われるわ」
彼女の声も聞こえないのか、兄はばたばたと慌ただしく家に上がった。ふふとそれに笑って、彼女もやっと立ち上がる。
そうか、本格的に結婚の話を進めるなら、両親だけではなく本家総代にも話を通さねばならないのか。頭からそれが抜け落ちていた。身内とはいえ、おいそれと総代がここまで来てくれるかわからないが……。
「年が明ける前……ってそんなにうまく進むかしら」
結納だとか式の準備だとか、色々あるのに。ぼそりと彼女は誰もいない玄関先で呟く。
それよりも、彼女自身がこの期に及んで長義と結婚したくないなどと言えば……さらに大騒ぎになりそうだった。
彼女が長義の許嫁になったのは、女学校に上がる前のことだ。それまでも長義のことは知っていた。家が近く、兄と同じ書道教室に通う、年の近い男の子だったからである。
兄の喧嘩友達のような微妙な間柄のその男の子と彼女とは、一緒に遊ぶことはほとんどなかった。ただ家に来たとき、律儀に彼女が折り紙や毬遊びをしている部屋まで長義は顔を出して「お邪魔しているよ」と挨拶だけしていた程度だ。
だからある日、両親が「長義がお前をお嫁さんにほしいそうだよ」と言ってきたときは驚いた。しかし親同士家同士の事情で結婚するのが常なのだから、小さいころから見知った相手がそうなるのは幸運な方なのかもしれない。そう思って、彼女はその申し出にわかりましたと返事をした。そうして、彼女と長義とは婚約者になった。彼女が女学校を卒業するころ、嫁ぐはずだった。長義がその直前に、修行に出るまで。
「ちっ、もっと修行しててもよかったんだ……にゃっ」
「語尾、無理しなくていいよ。猫殺しくん」
「うるせえっ」
彼女の両親に戻りましたと挨拶をした長義は、そのまま昔の流れで兄の南泉の部屋にやってくる。兄はまさに毛を逆立てんばかりだったが、そんな様子をまるで気にもしないで、長義は彼女の方に向き直った。今日は洋装である。
「それで、ご両親とも話したんだけれど。できるだけ早いうちに結納を済ませようと思ってね。それ以外にも用意がいるだろう? だから結納だけでもね」
「そうなの」
「ああ。もう昨日、戻ったとき長船の当主には話をつけてきたから。燭台切殿が俺の方は仕度を整えてくれる」
燭台切というのは、長船の現当主である。それが直々に、ということだから長船の中でも長義はかなり目を掛けられているのだろう。
「随分立派な結納になるのね」
「当たり前さ。この本科山姥切の結納だからね。君の方も長船で頼んでいいけれど」
そこまで長義が言いかけると、兄が血相を変えて膝を立てた。
「なに言ってるにゃっ! こいつのほうはこっちで整える! お頭にも報告してあるにゃっ! 明後日には一度いらっしゃる、覚悟しとくにゃっ!」
「え? おじさま、来てくださるの?」
「来るのか、総代」
彼女が瞬きを繰り返して、長義のほうはぎょっとして問えば、南泉は得意げにふんと鼻を鳴らして再び腰を下ろした。
「お頭も忙しいから、昨日の今日じゃ無理がある。でもオレの妹の結婚だから、まずお頭に面くらい通すのが筋にゃ。お前も用意しとけ」
「おじさま、お忙しいのに。でも嬉しいわ、年に二度ほどしかお会いできないもの。山鳥毛のおじさま」
彼女の家である一文字の、現総代は名を山鳥毛という。一文字一家の総締めであり、多くの当主がそうであるように家の全てを取り仕切っているが、一文字はさらに複雑で門下のものは全て山鳥毛の管理下に置かれる。家のものであるとか血がつながっているとかいないだとか、そういう所謂血族のくくりではない。
「一文字一家」と名のつく場所にいるのなら、その者は山鳥毛の手の内にいるのだ。
「一文字の総代が来るのか、まあ、そうだよな……」
長義はぐうと唸って額に手をやった。彼女は長義の顔を覗き込んでみる。
「おじさまが来てくれるの、長義は嫌?」
「嫌じゃないけれど、ねえ」
「ビビってんのかにゃ、山姥切。お頭だからにゃあ」
唇をゆがめて長義は南泉を睨んだけれど、それが正解のようだった。まあ、彼女とて長船の当主が世話をしてくれると言われれば緊張する。長義も同じだろう。本家の長というのはそういうものだ。
一度咳払いをすると、長義は居住まいを正した。前髪を直してふうと息を吐く。
「じゃあ俺も燭台切殿に明後日都合がつかないか聞くさ。山鳥毛殿を呼び出しておいてだんまりってわけにもいかないだろう」
「結納の前に仰々しくなってきたわね。まだ顔合わせ程度なのに」
彼女がのんびりと言えば、南泉は呆れたように肩を竦めた。
「お前なあ、一応うちは本家筋なんだから、当たり前だにゃ。晴れ着を納戸から出すように女中に言っとけ」
はい、はいと彼女は返事をした。段取りだけ長義と話すと、兄は今日も勤めがあるとかで部屋を出て行く。ふうと息を吐いた長義は、襟元を指で緩めながら肩の力を抜いた。
「それじゃあ、俺も本家に行くかな。慌ただしくてすまないけれど」
「ええ」
「また明日には来られるから」
そんな本当に毎日顔を出さずとも。彼女はそれに肩を竦めた。しかし部屋を後にし、中庭に面した縁側に出たときぴたりと長義は足を止める。庭石に突っ掛けがあるのを認めて、縁側のガラス戸を開けると長義は手にしていた上着を置いて庭に降りた。
「長義?」
「……ミケに挨拶をしていなかったと思ってね」
ミケ、というのは彼女が昔飼っていた猫である。長義が修行に出る少し前に死んだ。兄と一緒に三人で埋めたから、長義はその場所を知っている。彼女も下駄を履いて、長義の後を追った。
日当たりのいい庭の、それでも涼しくいられる岩の陰。ミケはそこがお気に入りだったため、墓を作るのも同じ場所にした。じゃりじゃりという微かな土を踏みしめる長義の足音と、彼女のからころという下駄の音が庭に二つ響く。長義は膝を着き、静かに手を合わせた。
「ミケが死んだ日のことを覚えているかな」
あの時よりずっと背も伸びて大きくなった長義が言う。彼女も着物の裾をたくし上げながら頷いた。
「ええ。お兄様が、ミケは自分が間違って石を当てて殺したから、今日から自分が私の猫になってやる。それで我慢しろなんて無茶を言って」
お前が可愛がっていた猫だったから、と兄はそう言った。確かに愛猫の変わり果てた姿は彼女にとってもショックだったが、兄の突拍子のない提案はややそれを和らげてくれた。しかもそのあと兄は本当に、語尾に猫の鳴き真似をつけて話してくれたものだから……。
「猫殺しくん、あのときの口癖がもう抜けなくなってしまって」
「それは長義も悪いのよ、長義がからかうから、お兄様ったらむきになって猫の真似をして。私ミケが死んだことはとても悲しかったし、そのあと長義もいなくなって、寂しかったけど。でもお兄様がその分あんな風にお喋りしてくれたから、おかしかったわ」
長義は立ち上がって、こちらを振り返った。頭一つ分と少し、もう彼女より大きい。
「もうどこにも行かない」
結った髪から落ちた一筋を耳に掛けながら、彼女は頷いた。それは、わかっている。
「帝都に戻ったってことは、前のように長船で書の仕事をするの?」
長船は、芸事で身を立てていく一門だ。元々長義だって、帝都で書家としていくらか名の売れた一人前だった。修行で数年世の表舞台から離れても、それは変わらない。今でも長義の書は高値でやり取りされるものが多いくらいだ。
「ああ、もちろん。俺が、俺こそが。本物の山姥切。本科だからね」
彼女の問いに答えると、長義は母屋にまた足を向けた。
「……山姥切」
本来、山姥切という名は長船でただ一人が継ぐはずだった名前だった。芸事の名は、本来代々受け継がれるもの。山姥切もその一つ。
けれど今、山姥切の名を冠するものは二人いる。
一人は彼女の許嫁である正当な長船の後継者、山姥切長義。
もう一人は、長義の内弟子であり、長義の書いた掛け軸を写した山姥切国広という青年だった。
「我が家の若鳥よ、息災にしていたかな」
「おじさま、お久しゅうございます。私は変わりなく」
山鳥毛が彼女の屋敷にやってきたのは、予定されていた二日後……よりやや早い翌日の夜のことだった。山鳥毛は結納の支度も整えるつもりでいたらしく、暫く彼女の屋敷に滞在する手はずで予定を立ててきたらしい。屋敷は大騒ぎになった。本家総代を迎えるのだから仕方のないことである。
彼女の一歩前にいる南泉が腰を直角に曲げて頭を下げた。兄は仕事の関係上山鳥毛と顔を合わせることは彼女より多いはずだが、それでも緊張はするようだ。
「お頭、わざわざすいません」
「いいや、我が家の鳥たちのことは私がなすべきことだ。子猫の妹の結婚ともなれば、通り一遍の支度でするわけにもいくまい」
山鳥毛が脱いだ上着を南泉が受け取った。そう言えば、今日はいつも身辺の世話をする日光のお兄様がいない。彼女がきょろと辺りを見ると、南泉が先に口を開いた。
「本日は日光の兄貴は」
「我が翼は私の代わりを任せてきた。何、あれは心得ている。うまくやるだろう。どれ、若鳥に子猫、いくらかこちらでも調べているが、お前の許嫁のことを教えてくれるか」
部屋でもてなされた山鳥毛は、食事もそこそこに南泉が用意した長義の身上書に目を通し始めた。酒を飲むのはすべてを終えた後にするつもりらしい。
「長船は我が同郷の一門。悪い縁ではない。私には山姥切の名を冠した立派な青年に見える。若鳥の夫に遜色ないだろう」
「ありがとうございます」
彼女は指をついて頭を下げた。山鳥毛の了承がなくば、結婚はできない。だからこうして長義が書類のうえだけでも認められたことは、ひとつ結婚へ段取りを進めたことになった。
「それで若鳥、このまま仕度を進めていいか」
山鳥毛が彼女の方を見る。彼女は一度だけ口を噤み、それから「はい」と答えた。
「元々、女学校を卒業するときには嫁ぐお約束でした」
「ああ、そう聞いている。先延ばしにしたのは長船の修練の為だと。出立の前に私にも連絡があった。しかし、私はこれはお前も納得している話なのだと心得ていていいな?」
ちらと南泉が自分の方を見たのがわかった。彼女が黙っていると、山鳥毛は掛けていた黒眼鏡をはずす。真っ赤な、炎のような瞳が真っ直ぐに彼女を見つめた。それには流石の彼女も緊張して、自分の膝の辺りに視線を落とす。
「子猫、席を外してくれるか」
「お頭、あの」
「何、嫁に行っては若鳥と話す機会もそうなくなる。いいだろう」
一度だけ南泉は彼女を振り返ったが、それでも山鳥毛の言うように出て行った。あとには彼女と山鳥毛だけが残される。
「……」
「さて、若鳥。もしも家のことを考えて長船との婚姻を承諾したなら、その気遣いは無用だ。一文字は長船とは近しい間柄だが、縁談一つ断ったところで何もならん」
「いえ、おじさま、そういうわけでは」
「では兄の子猫の友人なのを気にしているか?」
彼女はそれにも首を振った。そういうわけでは、ない。山鳥毛は暫く注意深く彼女を見たけれど、そのうちに出された盃に手を伸ばした。一口口に含んでから、山鳥毛は言う。
「お前がどう決断を下そうと、私は構わない。結婚は一生のことだ、迷っているならよく考えなさい。ただし、若鳥も女とはいえ一文字一家のもの。筋は通すことだ、それだけは忘れてはいけない」
「……はい、おじさま。ありがとうございます」
彼女がもう一度頭を下げれば、山鳥毛は瞳を緩めて一度だけパンと手を叩いた。
「子猫、もう忍ばずとも入ってきていいぞ」
「にゃっ」
襖の向こうで南泉が跳ね上がる音がして、彼女はくつくつと笑った。きまり悪そうな顔で入ってくると、しょぼしょぼと彼女の隣に南泉は戻ってくる。しかし山鳥毛は仕事の時分から一転、にこにことして彼女の家の屋敷で出した果物を摘まみ始めた。
「あとは楽に、宴としよう。……それで、若鳥。私は近頃の流行がわからないんだが、結納の日の着物はどうする。若鳥は何がいいかな」
「そうですねえ、そういえば最近、老舗呉服店が支店を出したと聞きました。今風の着物も多く置いているそうで」
「ではそこに行くとしよう。子猫、手配を」
そう言われた南泉は肩を竦めながら、「にゃあ」と力無く鳴いて襟足を掻く。
「はあ、お頭もこいつを甘やかさないでほしいにゃあ」
「おや、一番甘やかしているのは子猫だと思っていたが」
「にゃっ、ち、違うにゃっ!」
あははと口に手を当てて笑う。
筋を通す、かと彼女は考えた。小さいころから、言われてきたことだ。筋を通すのだと、それが一文字一家の最大の礼儀であり規範であると。
だから翌日の顔合わせで、彼女は全員の前で額づいてたった一言告げた。
「山姥切長義様のお嫁様には、なりたくありません」
ただ一言、それだけだった。
南泉の母は病気で早くに亡くなり、父は後妻を取った。何分こういう家だから、のち添えは必要だったのだ。成長して家業を手伝うようになった南泉にはそれがよくわかる。そしてその継母から妹が生まれたわけだが、父も継母も南泉と妹とを分け隔てなく接して育てた。南泉とて、妹のことをそう思ってきた。自分とは半分しか血が繋がっていなくとも、彼女は「一文字の子」なのだ。
だから、妹が何の考えもなしにそんなことを言ったと南泉は思っていない。
「どう、どうして、君、どうして!」
「長義君!」
珍しく、取り乱して長船の当主に抑えられている幼馴染を一瞥した。普段はどんなことがあっても取り繕うのに。それから妹を見やる。山鳥毛の隣で、彼女は俯いていた。
「……私たちがどうこう言って収まる話ではないだろう。それに、私は若鳥が嫌だというところに嫁がせるつもりはないよ、山姥切長義」
ぐっと山姥切が唇を噛み締めた。山鳥毛の決定は一文字一家の決定だ。つまり、この結婚は彼女の意思一つに委ねられたことになる。
青ざめた山姥切を気づかわしげに見つめ、背を擦ってやりながら長船の当主がそれでも頭を下げた。
「声を荒げて申し訳ない。ただ、こちらも混乱していて」
「燭台切殿のせいではないだろう。しかし、今日はこれで」
「そう、だね。わざわざ予定を組んでもらったのに、すみません、山鳥毛殿」
「それは君も同じだ。悪かった」
山鳥毛が先に彼女を退室させ、挨拶の後燭台切と山姥切も部屋を後にした。幼馴染もまあ気になるが、家の者がいる以上今はどうしようもない。南泉はまず山鳥毛を追った。
「お頭、あの、すんませんでした、妹が」
一応のお叱りも南泉は覚悟していたのだが、山鳥毛にそんな様子はなく、むしろ穏やかに笑みを浮かべているくらいだった。速足でやってきた南泉を見て山鳥毛は手を伸ばし、あまつさえ頭を撫でてくる。
「子猫が謝ることではない。これは若鳥と山姥切長義の問題さ」
「でも」
「ことが落ち着くまで私もここにいよう。なに、若鳥がきちんと筋を通すところを見届けるだけだ」
そんな風に言って、山鳥毛は上機嫌そうに自分の部屋へ戻って行った。お頭の考えていることは、たまにわからない。南泉は結局一人肩を竦める羽目になった。視点が大局的過ぎる、一家の長の指針は謎だった。
がりがりとやや伸びた爪で南泉は自分の襟足を掻いた。全く、別に南泉もどうこうする気は毛頭ないが、厄介なことをしたものだ。のしのしと歩いて南泉は妹の部屋に向かった。開けるぞと前置いても返事がないため、ひとまず襖に手をかけ一息に横に滑らせる。
「……お前さぁ」
ぱた、ぱたと部屋では音がしていた。こちらに背を向けている妹は微動だにしない。
中身まで見るようなことはしていないが、幼馴染が月に二度も妹に手紙を寄越していたのは知っている。それもとっておきのいい封筒だった。だから水なんか沁みていかないのだろう。降ったら降った分だけ、ただ白く青みがかった封筒を涙が滑るだけだ。
「泣くくらいならなあ、あんなこと言うんじゃねえよ」
馬鹿だな、と南泉は呟いた。
「お前、好きだったんだろ、長義のこと」
部屋いっぱいに散らばっても、まだある手紙。それを抱えて、妹はただ泣いていた。
ミケが死んだとき、本当は気づいていた。石を当てて殺してしまったという兄よりも、それに付き添ってきたという長義の方が血に汚れていたことを。腕に、胸のあたりに、ミケを抱えたような汚れ方をしていたことを。手のひらに、何か硬いものを強く握ったあとがあったことを。
気づいていたけれど、問いただすことなんてできなかった。だから兄がそうだと言ったのだから、ミケは兄が殺したのだ。そうしておかなければならなかった。
そうしていなければ、長義はきっと二度と彼女の元へ戻ってこないだろうと思った。
「本当にいいのか、にゃ」
「……ええ」
兄が扉を開けろと言った。家のものが開けたそこから足を下ろす。帝都にある、そこは長船の文房具屋の前だった。
「本当に、ここに?」
「ああ。調べたから、間違いねえ」
「そう……、ありがとう、お兄様」
ここで待っていて、と兄に頼んで彼女は飾り硝子のはめ込まれた扉を押した。カラカラとベルが鳴り、カウンターにいた男性が顔を上げる。店主のようだった。
「こんにちは」
「いらっしゃい。用は何かな」
「あの、ここに、山姥切……国広さんがいらっしゃると聞いたのですが」
気のいい洒落男の店主は上から下まで彼女のことを眺めた。それから座っていたらしい回転椅子から降り、カウンターを出てこちらまでやってくる。
「確かにいるが、どちらさんだい? 今日来客があるって言うのは聞いてやしないし、あいつもあいつで納期が近いとかで殺気立っててな。申し訳ないが、日時を改められるなら別な日にした方がいい。あいつ怒ると怖いんでなあ」
店主は本当に山姥切国広の機嫌が悪いから帰れと言っているだけで、彼女を怪しんでいる風ではなかった。けれど彼女は首を振って、もう一度頼む。
「できれば今日、お会いしたいんです。少しで構いませんから」
食い下がる彼女を見て、やっと店主は首を傾げた。さらさらとピンクのリボンで結われた髪が揺れる。その様を見て、何となく彼女はその仕草や出で立ちが長義に似ているなと思った。血筋だから、当たり前なのだろうか。
「あんた、誰だい?」
穏やかな声に問われる。名乗らないわけにはいくまい。彼女はぎゅっと自分の手を握り締めて、それでもはっきりと言った。
「……山姥切長義の、婚約者のものです」
店主は何も言わなかったが、一度だけ目を大きく開いた。それからカウンターに寄り掛かり、ははと小さく笑う。
「そうか、あんたがそうなのか。いやあ、あいつも絶対に紹介なんかしてくれやしないから……そうか。おい小豆!」
首をくるりと回し、店主は店の奥の方に声を掛けた。すると大柄な、しかし優しそうな面立ちの男性が顔を出す。料理の最中だったのか、前掛けをしていた。男性は突っ立っている彼女ににこりと微笑みかけると、店主の方に向き直る。ほんのりとだが甘い匂いが漂った。
「大般若、おんなのこをたたせたままではいけない。なにかようだったかな」
「ああ、わかってるわかってる。小豆、茶を用意してやってくれ。長義の未来の嫁御だよ」
「長義の?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、男性は彼女をじっと見た。いたたまれず体を縮こめていると、店主の方は身をひるがえす。
「仕方ないな、怒られるの覚悟で呼んでくるか。ちょっと待っててくれ」
店主はそういうと、店の奥にある小さな扉を開き身を屈めてそれをくぐる。どうしたらいいかと彼女が視線を惑わせていると、先ほど奥から出てきた男性が前掛けを外し、彼女を手招きした。店主とは違う系統だが、こちらも顔立ちの整った男性だった。長船は美丈夫の家計だと聞いていたが、本当だったらしい。
文房具やら何やらが並べられているスペースとは別な、椅子と机の並ぶ喫茶店のような区域に彼女を招くと、男性は店の扉にかかっていた札をひっくり返し開店から閉店にしてしまった。いいのだろうか。
「あの、お店は」
「いいんだよ。へいじつは、そこまでおきゃくさんがくるわけでもないから。わたしは小豆長光。きみは、あまいものはすきかな? いまもってきてあげよう」
のんびりとした調子で小豆は言うと、また店の奥へ消えていった。すると今度はドタドタと喧しい足音が先ほどの小さな扉から聞こえ始める。
「なんなんだ! 本当にまずいんだ、今日明日で仕上げろと古備前がまた無茶を」
「まあまあ、鶯丸殿にはうちの祖が何とか言うさ」
「や、山姥切さん、顔に墨、墨が!」
なだれ込むようにして小さな扉から青年と店主と彼女と同じくらいの頃合いの娘が飛び出してくる。青年のきらきらとした金の髪が、店のガラス窓から入り込む日の光に反射した。
間違いない、一度も会ったことがないけれど。彼が、きっと彼が。
「仕事なら今受けられないとあんたの方から言ってくれ!」
「仕事じゃないさ、ほら墨を拭いて。せっかくの綺麗な顔が台無しだぞ」
「だから俺はまだ仕事が……あんたか、俺を呼んだのは」
彼がこちらを見たので、彼女は頭を下げる。コツコツと店主の足音が彼女の元に近づいて、ぽんぽんと背を叩かれた。
「国広、こちらはね、長義の婚約者のお嬢さんだ」
こちらに聞こえるほど、彼が息をのんだのがわかった。店主が椅子に掛けるよう促す。すみません、と前置いてから彼女はそれに従った。先ほどの小豆と名乗った男性が、人数分お茶と菓子を持って現れる。
「いやあ別嬪さんだ。長義が見せてくれないのもわかるなあ」
「大般若がそうやってからかうからだよ」
「そうかい? まあ、いい。長義なしで、一人でこんなところに来てくれたんだ。追い返すわけにもいかないだろう、国広」
国広と呼びかけられた青年は、どうしたらいいかわからないという表情でやや俯き、唇を引き絞った。
「座んなよ、お前も話くらいあるだろう」
店主、大般若が引いた椅子に青年は座った。真正面から顔を見ると、どうしてだか彼の顔は長義によく似ている気がした。血が繋がっているわけではない、それなのにどこかよく。頬についた墨を乱雑に拳で拭い、山姥切国広はこちらに視線を向けた。
「……何か、俺に用か」
そう言われたのに、彼女は何も言えなかった。会わなければならないと思って、ここに来たのに。けれど実際に本人を前にしてみれば、何と口に出したらいいかわからないのだ。
怒ればいいのだろうか、悲しめばいいのだろうか。山姥切国広を詰ればいいのか、それとも。
だめだ、何もわからない。それも当然と言えばそうだった。
彼女ははなから、長義の問題の蚊帳の外にいたのだから。
「あー、国広、あのな。言うタイミングが掴めなくてずっと黙ってたんだが、先日長義が帝都に戻ってな」
口を噤んでいる彼女を見かねたのか、大般若の方がそう切り出す。すると国広は目を剥いてぐるりと首を大般若に向けた。
「はっ!? あんたそれをなんで今まで黙ってた!」
「今言ったから許してくれ」
ひらひらっと大般若が手を振った。それから彼女に視線をやる。
「それで、先延ばしにしてたこのお嬢さんと結婚する話を進めてほしいってな。長義の方から祖に申し出があった。だから長義は近々結婚するんだ」
「あ、いや、その、それは」
その説明には彼女が手で制をした。再び山姥切国広の視線が彼女の方に戻る。
「ごめんなさい、実はそれは、先日その……お嫁には行きたくないと長義には」
「はあっ?!」
今度は大般若と国広とが同時に大声を上げた。小豆だけが一人おやおやと言いながらガタリと揺れた机を直している。
「なっ、なん、なんでだ、あんた、山姥切と婚約したのは随分昔だったろう!」
「よ、よくご存じで」
いきなり国広の方がすごい剣幕でまくし立てたので、彼女は慌てて頷いた。
「ああ、よく覚えてる、あの日は山姥切がえらく上機嫌で、俺に、俺に……数年経ったら俺は結婚するから、それまでにお前も独り立ちしろよと」
山姥切国広は、山姥切長義の内弟子だったと聞いている。長義は元々、長船の書を得意とする家の生まれで、兄が通う書道教室の家の子だった。山姥切国広もそこに所属していて、筋がいいゆえに長義直々の弟子になったと。兄は、仲のいい師弟だったと言っていた。
それが、名を冠するきっかけになった掛け軸が元で、彼らの関係は拗れてしまった。
「優れた作品には、写しが多く存在するのが常……にゃ。でも、山姥切国広の作ったあいつの作品の写しは、美しすぎた。別に誰が悪いとか、誰が正しいとか、そういう話じゃない、にゃ」
二人とも、自信を持って、作品を作った。それだけだったのに。
兄が襟足を掻きながら言ったことの顛末を、彼女はずっと知らなかった。通り一遍の、世間で騒がれていることしか。本科の山姥切と、写しの山姥切と。本来一つであるはずの名が分かたれたと……。
「俺は俺で、一度は筆を折った。耐えられなかった、いつも写しと言われることが。俺は……俺だから。写しであったとしても、あれが俺の傑作のひとつであることに変わりはない」
国広の声は絞り出すようなものだったが、言葉ははっきりしている。 座ることなく話し合いの場でただ立ち尽くしていた、山姥切国広と飛び出してきた少女が自分の手を握り締めたように見えた。
「だが、本科が……山姥切がどうしていたかまで、俺は考える余裕もどう思っていたか気遣う余裕もなかった。だから、戻ってきたら話がしたいと、思っていたが……そうか、帝都に帰ってきていたのか」
ぽんぽんと国広の肩を大般若が叩く。うーんとやや天を仰いだ。
「ま、色々あったからねえ。ほとぼりが冷めるまで、国広は俺のところで預かることになったし、長義は修練だ。あんたの結婚が先延ばしになったのはそういうわけだ。いやしかし、嫁に行きたくないか……」
お茶を飲みながら大般若がまとめる。彼女は瞳を伏せた。しかし国広は焦って身を乗り出す。
「そ、それで待っている間に、あんた、山姥切のことが嫌になったのか、そうなのか?」
「いや、違い、違いますよ、そうじゃなくて。私……何も、知らなかったから」
知らなかった。何も言ってもらえなかった。
兄からも、長義からも、彼女は何も知らされてこなかったのだ。
「……さめてしまうよ、のむといい。いまならちょうどいいから。あまくて、おいしいよ」
小豆が差し出したコーヒーカップを手に取る。それは暖かく、確かに適温だった。僅かに立った湯気からは甘く澄んだ匂いがする。
それが鼻を通り過ぎたとき、ほろと一滴涙が零れた。
「あ、違うんです、ごめんなさい、私」
慌てて彼女は自分の目元を押さえたが、ぼとぼとと塊のようになった涙が次々に落ちる。
何も知らなかった。蚊帳の外に、出されていた。
長義が婚約を喜んでいたことも、本当は何があったのかも、山姥切国広が誰なのか、一体どんな人なのかも。
それがいつだって、寂しかった。
修行に出ると長義が言いに来たとき、「手紙を書くよ」と長義は言った。「月に二度、俺がどこにいたって君の元に届くようにするから」と。でもそれにだって、何も書いてはくれなかった。
「いやあしかし、あんた本当に長義と結婚する気はないのかい?」
彼女にハンカチーフを差し出しながら、きまり悪そうに大般若が言う。それには答えられなかった。
「あんたが決めることなのは間違いないんだが……その、大爆発しそうだな長義は」
苦笑いしながら言う大般若に、これまた小豆も微妙な笑みをしながら首を傾げた。
「うーん……」
「いや、するだろう、間違いなく爆発するだろう。考え直せ、頼むから」
国広がやはり食い気味で彼女に言う。
爆発、するのだろうか。涙の熱でややぼんやりした頭で考えていると、カラコロと店の鐘が鳴った。
「……今日は店休日じゃないだろう、だいはん、にゃ」
サッとその場にいた全員が青ざめたのがわかる。
大爆発すると言われていたその人、山姥切長義だった。
空気が凍った……と形容するのがまさに正しい状況だった。体感温度も一気に下がった。誰もが口を閉ざし、動きを止め、店の入り口を凝視する。
「……へえ」
低い声で長義が言う。彼女は動かなかった。どう転んだにしろ、彼女はもう一度長義に会わねばならなかったし、話もしなければならなかったのだ。
ばたんともう一度扉が開いて、喧しく鐘が鳴る。今度は兄の南泉だった。
「あーっ、入ってくのが見えたと思ったら、やっぱり見間違いじゃねえじゃねえかっ」
「猫殺しくんが、偽物くんのことを教えたのかな。それで彼女をここに? よく気が回るじゃないか」
やまんばきり、と小さな声で国広が言う。それが聞こえたのか、キッと長義は国広を睨んだ。
「お前、山姥切で随分名を売ったらしいじゃないか。息災で何よりだよ」
「山姥切、戻っていたのに、知らなくてすまない」
「ああ。俺が戻ったからには、俺が、俺こそが本科山姥切だ。偽物のお前とは違う」
ぐっと国広は唇を噛んだが、それでももう一度口を開いた。
「写しと、偽物は違う。俺はお前の写しだが、偽物なんかじゃない」
「黙れ、お前がなんて言ったって、俺こそが本物なんだ。俺は」
「長義」
彼女が呼べば、長義の方はぎくりとして肩を震わせた。しかし髪を耳に掛け直すと、いつもより皮肉気な笑みを浮かべてこちらを見る。
「君がここに来ているなんて想像もしていなかったな。何の用だったのかな」
「長義が話してくれなかったから、山姥切国広さんに会いに来たの」
「俺との結婚を断って? へえ、それは面白いね。それで、聞きたい話は聞けたのかな」
首を左右に振る。まだ、聞けていない。
「長義はここに、何しに来たの?」
苦虫を噛み潰したような顔を長義は背けた。答えない長義の代わり、ズンと南泉がその背中をどつく。がくんと長義の体はつんのめった。
「何するのかなあ猫殺しくん! 俺は、俺はここに、偽物がいると聞いたから、ものをわからせてやろうと」
「すかしてんじゃねー、お前どうせ、封筒と便箋買いに来たんだろ」
封筒と、便箋……? 彼女はハッとした。もしかして、あの封筒と便箋。
「あんないい紙のモノ、どこにでもうってるわけねえにゃっ! あれは舶来品でこの辺じゃ長船のこの店しか売ってねえ。どうせ帝都から出てる間も、大般若のとこから仕入れてたんだろ!」
やっぱり、と彼女は懐から一通手紙を取り出す。この封筒、青みがかった白の、質のいい封筒。これはここで買っていたんだ。
小さく舌打ちをして、長義は南泉に食って掛かる。
「目ざとくて嫌になるな猫殺しくんはっ!」
「一文字一家舐めるにゃっ! このくれえすぐ調べられるにゃっ! どうせ、それでこいつに手紙でも書くつもりだったんだろ! 手紙になんてちまちま書いてねえで、言いたいことは直接言えにゃっ!」
どんともう一発南泉が長義の肩をどつく。ぐらと長義の体がまた傾いだ。昔から、体のつくりがしっかりしている兄と長義とでは肉体での喧嘩の結果なんて見えている。
しかしまくし立てられて顔の引き攣った長義は、ぐっと奥歯を噛み締めたかと思うと彼女を指さし叫んだ。
「違う、俺は……っ俺は別に、彼女が誰と結婚しようと、俺を嫌がろうと、気になんてしないっ!」
あっ、馬鹿と大般若が口走った。小豆が同時に顔を押さえる。国広の方も口を開けて彼女を見た。
ぎゅっと、彼女は帯に挿して持って来ていたものを握る。
「気にするわけないだろう、別に俺は縁談なんか他にもある。お前の妹で、頼みやすかったからっ、小さいころからよく知ってたから、選んだだけだ! ここで偽物くんとなにを話してようと、彼女が俺を嫌おうと気にもしない!」
笑っているような、泣いているような、歪な顔で長義が彼女を見る。
「ああ、気にもしないさ、家の体面があったから、習慣で、手紙も書いていたんだ。ミケだって……っミケだって殺したのは俺だ! 俺がミケに石を当てて殺したんだ! これで全部だ、満足かなっ!」
肩を揺らして、長義が言い切る。山姥切国広が青くなりながら長義と彼女とを交互に見ていた。大般若も完全に出方をうかがっている。南泉だけが、顎でくいと彼女にしゃくる。
「……本当? 今ので全部っていうのが、本当なのね?」
彼女が静かに問えば、ふいと長義は目を逸らしたままで頷く。
「……ああ、だから、君は好きな相手のところに嫁に行けばいいよ」
「……そう、わかりました」
それなら、いい。一度だけ彼女は瞬きをする。
そうしてふうと息を吐いてから……彼女は着物の帯から短刀を抜いた。
「あっ、あんた、おい!」
ガタリと音を立てて椅子から腰を上げ、国広が立ち上がる。ひたりと首の皮膚に当たった刃は冷たかった。
血相を変えた長義が彼女を凝視する。
「今のが本心で、全部っていうことなら、私はあなたに操を立てて死のうと思います。おじさまとの約束で、筋を通すことになっているの」
長義が口をはくはくと魚のように何度も開いたり閉じたりする。掠れた声を絞り出し、彼女に手を伸ばした。
「な、なにを、何を馬鹿なこと」
「だって、言ってくれなかったんだもの」
にこりと笑って、彼女は短刀の柄を持ち直した。
「一度だって、長義は」
こちらに向かって走り出した長義が棚に足をぶつけて、ガタンと音がした。ぐっと彼女が手に力を込めようとしたとき、とんと首の後ろを叩かれる。ぐらりと彼女の視界が揺れた。
「だめだよ、みんなをおどろかせたら。山鳥毛、もうじゅうぶんだね」
彼女が倒れこむのには間に合った長義が、しっかりと抱きとめてくれたのがわかった。耳元で、取り乱し、焦った声で何度も言う。
「嘘だから、あんなの、嘘だから」と。
家に帰ったら、幼馴染が玄関先でしゃがみこんでいた。なんでそんなところに。南泉は片眉をあげてその背中を見る。長義は今それどころではないはずだった。世間が喧しいし、家でも名のことで揉めただろう。
「おい、お前何やってんだ」
声を掛けても、身じろぎもしない。まったく、南泉は長義の正面に回り込んで……ぎょっとした。
「どうし、よう。違うんだ、俺を見て、ひどく威嚇して。俺も気が立っていて、向こうに行ってほしかった、わざとじゃなかった」
血塗れのミケを抱きながら、途方に暮れたように長義は言っていた。涙は流れていなかった。けれど頬や服が猫の血や毛に汚れて酷い有様だ。傍にそれなりの大きさの石が落ちていて、あれか、と南泉は悟った。
あれは妹の愛猫だ。南泉や長義も毬や毛糸玉を転がして一緒に遊んでやったことがある。
「……死んじまったものは仕方ねえよ、言いに行こう」
「……泣くかな、あの子」
まあ、泣くだろうなと南泉は襟足を掻く。だが妹は大泣きするだろうけれど、根に持つ方ではない。
「まー、そんなこの世が終わったみたいな顔しなくていいだろ。明日には無理でも、来週にゃけろっとしてるって」
「……でも、あの子が俺にこれで、心底がっかりしたら。どうしたらいい」
ぎゅっともう死んだ猫を抱えながら、長義が言う。
二年だか三年前、こいつは急に妹を嫁に欲しいだとか言ってきた。家のことが云々だとか、色々御託は並べていた。
南泉は別にそれは妹次第だと思ったし、長義の家の長船は一文字と縁がある。家柄的に問題ないのはわかっていた、それになにより、南泉はこの幼馴染が、自分の妹を何故だかひどく好いていることには気づいていたのだ。
「どうもしねえよ、あいつはお前のとこに嫁に行くだろうし、そういう約束じゃねえか」
「でも、それを嫌がったら。一文字の家にだめだと言われたら、俺にはどうしようもない」
まあそれはそうだ、と南泉は思った。一文字一家のことは、山鳥毛が決める。妹が嫌だと言えば、山鳥毛は妹を嫁には出さないだろう。
返答に困って南泉が黙っていると、長義はどこか一点を見つめながら訥々と呟いた。最早南泉が聞いているかどうかなど気にしていなさそうだった。
「俺に山姥切なんて名がついたから、いや、違うんだ、あれは俺が書いて、そうじゃなくて。あいつだって、いつだって俺の後をついて回って、それを疎ましく思ったことなんか、一度も」
「……おい、今名前の話なんかしてねえ」
「俺は本当に化け物になってしまったのかな」
山姥切の名は、その作品の凄みと迫力を認められたものが継ぐ名だ。長義が、長船で認められたことには違いない。けれど間が悪かったし状況も悪かったと、南泉が理解するには十分な長義の様子だった。
限界なのだ、長義は。
「化け物の名前がついて、化け物になったから、ミケは俺にあんなに毛を逆立ててきたのかな」
「……違えよ」
「そうしたら、あの子は俺のこと、嫌うかな」
「違えって!」
長義の腕からミケを取り上げ、南泉は言った。仕方なしに、背中をどついて長義を家にあげる。それから一直線に妹の部屋に向かい、南泉は妹に言った。
「ミケはオレが、石を当てて殺しちまった。代わりにオレがお前の猫になってやるから、それで我慢しろ……にゃ」
全く最初から最後まで、世話の焼ける妹と幼馴染である。
スッと襖が開いて閉じる音がして、南泉は顔を上げた。山鳥毛が妹の部屋から出てくる。南泉を見て、山鳥毛は緩く瞳を和らげた。
「若鳥には、次から場所だけ考えるようにお前から言いなさい、子猫」
「あっ、すんません、お頭、その」
「いや、いい。若鳥は立派に筋を通した。好いた男に操を立てて短刀を持ち出すなど、やはり一文字の女だ。それに、そのくらいしなければ山姥切長義も素直にはなれなかっただろう」
お頭はなんでもお見通しだにゃあと南泉は襟足を掻く。
「オレはまどろっこしいことしないで、最初からちゃんと話せって、思いますけどね」
「ふふ、子猫ならばそうだろう。だが結婚に遺恨を残しては、あとが辛い。子猫も覚えておくといい」
あ、と南泉は小さく言った。
山鳥毛は、若いころに婚約者を亡くして以来結婚はしていない。だから「うす」とだけ返事をした。
「無事に縁が整いそうだ。結納の支度に移ろう。子猫、若鳥が呉服店で熱心に見ていた着物があったな、あれを用立ててくれるか」
「あれですかにゃっ?」
おいおい、買えなくはないがとんでもない値段だったぞ。南泉は青ざめて飛び上がった。山鳥毛はにこりとして足を進めた。
「子猫にも良い紋付を仕立てよう、行くぞ子猫」
「お頭、あいつを甘やかさないでください、本当に。またこんなことしでかされたらたまったもんじゃ」
「おや、それはお前も言いっこなしだぞ、子猫」
はははと低く穏やかな声で山鳥毛が笑う。やはりお頭の考えることはわからないと南泉は思った。
「君を妻に、娶りたいと思う」
美しい文字で書かれたその言葉を、本当はずっと、直接言ってほしかった。
目を覚ますと、自室の天井が見えた。やや後頭部が痛む。ゆっくり視線を動かせば、薄暗い室内で銀色の髪がきらりと光った。
「……目が覚めたかな」
「長義……」
はあーと長い溜息を吐いて、長義が片手で顔を覆う。起き上がるにはまだだるかった。
「大般若さんに、謝りに行ってもいいかしら……。お店で騒ぎを起こして、ごめんなさいって……」
「起きて一番言うことがそれか? いや、今日は寝てていいから。先に俺から伝えるよ。わかった」
「あと、山姥切国広さんにも、また話しに行きましょうね」
「……わかった」
かなり疲弊した顔で長義がそう答えたので、彼女はふふと笑って部屋の机の上を指した。黒い漆塗りの、文箱があるはずだ。
「長義、その箱を開けてみて」
長義は膝を滑らせて、それを手に取り蓋を開ける。一度深く息を吸って、それから吐いた。
「俺も取ってあるよ、君の手紙は」
「本当に、二週に一度くれるんだもの。私もお返事を書くのが大変だったわ」
水曜日に届く、青みがかった白の封筒。整った字で、いつも近況が書いてあった。今いるのはどんな土地か、何をしているのか、そこでどんなことを思うか。
その手紙はいつも、彼女の記憶の長義よりずっと、きちんと彼女に話してくれていた。
「ここにいたときも、長義はよく贈り物にお手紙をつけてくれたけど。お手紙みたいに、ちゃんと話してくれたらいいなって。いつも思っていたのよ。だって長義はいつも、幻みたいに、かっこいいところしか見せてくれなかったんだもの」
婚約の申し込みも、手紙だった。お花や着物や、色んなものを長義は贈ってくれたけれど。それよりも何よりも、添えられた何気ない手紙が嬉しかったと、きっと長義は知らなかったのだろう。
彼女もそれを言わなかったから。今回のことは手打ちにしよう。
「……とても、ここにいるのが辛かった」
ぽつりと、蛇口を少しだけ開いた水滴のように長義が言う。
「色んなことが、起きたから。ここで、何もかも耳にしていると、自分がどんどん、嫌なものになる気がした」
起き上がって手を伸ばせば、長義の手が握り返してくれる。
「だから少し、離れたかった。君に……寂しい思いをさせたのは、申し訳なかったけど」
「そう言ってくれれば、よかったのに。そうしたら私、卒業なんか待たずに、長義と結婚したわ」
長義は唇を微妙な形にした。照れているやら、困っているやら、色々入り混じっている。
「あのね……君は知らないかもしれないし、わからないかもしれないけれど。俺は君に嫌われたり、がっかりされるのが何よりも嫌なんだよ」
「嫌なの? どうして?」
「そ、れはだね」
意地でも視線を合わせまいと長義が明後日の方向を見ているので、彼女はくすくすと笑った。
「っ君だって、俺の婚約の申し込みの手紙、ずっと持ち歩いているくらい、俺のことが好きなんじゃないのかな」
「あら、懐に入れていたのに」
「君の寝支度を整えた女中が教えてくれたよ。まさか君自身が後生大事に持っていると思っていなかったけどね」
ひらっと得意げにあの封筒を長義が見せる。まあ、と彼女は口を覆ったふりをしたがそれでも笑った。
「知らなかったの? 私、長義のこと大好きなのよ」
しっかりと、長義の手を握る。もうあのかっこつけの幻などではなく、取り乱したり焦ったりする、ただの長義でいい。肩に頭をのせるようにして寄り掛かれば、少しびくりとしたけれど長義はそれでも彼女を抱き返した。
「……ああ、俺も。君のことが昔からとても、好きだったんだ」
文箱の中で、あの白い手紙が僅かな光を反射していた。