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    写の手蹟


     字はその人となりを表すのだと、彼女は教わった。だからきっと、その字を書いた人はどんなにか綺麗な人なのだろうと思ったものだ。有名な書家の書いたものを写したのだという、その立派な掛け軸。彼女はそれを奉公先で眺めるのがとても好きだった。
     そう、彼女は恋をしていたのだ。
     その美しい筆跡に、恋をしていた。



     カラコロと下駄が鳴る。今日から彼女は新しい奉公先に勤めることになるのだ。それも、希望していた文房具店。こんなに嬉しいことはない。落ち着いて挨拶をしなくては……と思う半面で、どうしても浮き足立ってしまっていけない。
     モダンなガラスのはまった扉の前で一呼吸置き、彼女はすっと背筋を伸ばす。とりあえず、一番初めの挨拶が肝心だ。ガチャリとドアを開ければ、下駄よりも軽やかにカランコロンとベルが鳴った。
    「すみませーん、今日から奉公に参りました!」
    「ん? おお、よく来たな」
     レジのある台で新聞に目を通していた店主がぱっと顔を上げ、彼女に目を向けた。まだ開店前だからか、店内はがらんとしている。店主は立ち上がり、彼女の前まで来ると手を差し出して微笑んだ。長い銀髪を薄桃のリボンでまとめた、気のいい雰囲気の男性である。
    「話は聞いてる、俺がここの店主の大般若長光さ。よろしく」
    「はいっ、今日からよろしくお願いします!」
     勢いよく彼女が頭を下げると、大般若はうんうんと目を細めて笑い頷いた。結構な美丈夫である。彼女はなんとなくその笑顔を見てどきまきとしてしまった。
    「元気のいい子を頼むと仲介屋に頼んだ甲斐があった。快活な別嬪さんが来たなあ」
    「べっ……い、いや、そんな」
    「はは、ざっと店内を案内しよう。それからあんたの持ち場もな」
     その店は、文房具のみではなく、加えて本も取り扱っている店だ。縁続きの親族で経営をしているとかで、途中くりくりとした目のかわいい少年と、面倒見のよさそうな男性を紹介される。国内のものばかりではなく、珍しい舶来のものなんかもあって、彼女は目をきらきらとさせる。何度か足を運んだことはあったのだが、それは奉公の遣いの最中のことで、こうして落ち着いてじっくり眺めることはなかったのだ。
    「素敵なお店ですね……っ!」
     思わず感嘆の声を上げれば、大般若は満足げに微笑む。
    「良さをわかってもらえるとは光栄だね。まあ、うちの真価はここばかりじゃない。あんたの仕事場を紹介しよう、ついてきな」
    「はい」
     そう言うと、大般若は店の奥にある小さな扉の前まで来た。彼女にはちょうどの大きさだが、大般若くらいの男性がくぐるにはやや狭い扉。古く、やや痛んでいる木のものだ。
     大般若は屈んでそこを開けると、手燭を持って一歩進んだ。ぎしりと床のきしむ音がする。彼女は恐る恐る中を覗き込む。薄暗くてよく見えないが、なんだか下に向かって階段が続いているようだった。少し先に進んだ大般若が手を差し伸べてくる。
    「足元に気をつけてくれ。転ばないようにな」
    「はい……」
     木の階段は彼女が体重をかければあっさり踏み抜いてしまいそうで恐ろしかった。大般若に手を引かれ、傍の壁に手をつきながら下に降りきる。ほのかに甘く、埃っぽい匂いがあたりに立ち込めた。
     くるりとあたりを見渡せば、四方は棚に囲まれている。それなりの広さと高さのある室内には、まるで図書館のように本棚が立ち並び、ぎっしりとそれらは埋まっていた。そのあまりの量に、彼女は目を瞬く。
    「わあ……」
    「うち自慢の地下書庫さ。おい、おい山姥切、どこだ」
     大般若の声が静かな書庫に響き渡る。すると奥の棚で滑車の回るような音がし、がしゃんと移動式の梯子が急に視界に現れる。その上からひらりと薄汚れた布を翻し誰かが飛び降りてきた。思わず彼女は肩を跳ね上げてびくつく。薄暗い部屋に、布を頭から引きかぶった異様な風貌のその青年はあまりにも不気味だったのだ。
    「……なんだ、大般若」
    「おお、そこにいたか。今日からお前の仕事を手伝ってくれる子を紹介しに来た」
     彼女が緊張しながら上目遣いに青年を見上げると、彼は布の向こうからこちらを一瞥し……それから大般若に返事をする。
    「……いらないといっただろう、助手なんて」
     がんっと金槌で頭を殴られたようなショックを受けた。と同時にしゅんと彼女はしょげてしまう。素敵な職場だと思っていたのに、いきなり「いらない」とまで言われてしまった。
     だが大般若ははっはっはと気のいい笑い声を上げると、彼女の背をぐいと押して青年の方に行かせる。よろけた彼女は転びかけたのだが、それは慌てた青年が支えて助け起こした。墨だらけの手が、自分の肩に触れる。それは青年らしく節ばった手だがどこか繊細で美しい手指だった。
    「ちょ……っと待て、大般若っ!」
    「安心しろ、いい子なことは保障するさ。じゃあお嬢さん、頑張ってくれ」
    「はっ、はいっ!」
     軽快な足取りで大般若は上へと戻っていった。残されたのは彼女と青年だけだ。
     おそるおそる、彼女は青年を再度見上げる。すると布の隙間、破けた穴からじっと翡翠色の瞳がこちらを見つめていた。
    「あ、あの……」
    「……立てるなら自分で立ってくれ」
    「あっすみませんっ!」
     彼女は慌てて体を起こした。要らないといわれたばかりで、迷惑をかけるようなことをするわけにはいかない。しゃんと体を伸ばして、それからおずおずと青年を見る。
     頭から被った、所々穴の開いた薄汚い布。服は洋装で、だがそれもどこか汚れている。顔は、半分以上が布で隠れていて見えない。けれど、時折布の隙間から美しい宝石のような目が時折覗いた。
    「あの……」
    「……あんた、何ができるんだ」
    「え?」
    「何ができるかと聞いている」
     ぶっきらぼうに問われ、焦りつつも彼女は答える。
    「えっと、掃除、洗濯は得意です」
    「書庫で洗濯されても困る」
    「っと料理も」
    「火気厳禁だ。書庫だぞここは」
     なら……やれることは彼女にはない。しゅん、と彼女は肩を落とした。ここでやることがなかった場合、彼女は解雇になるのだろうか。……やっとここまできたのに。
     しかし、彼女が落ち込んだ様子を見て青年は狼狽したようだった。慌てたように首を振って辺りを見回したものだから、被っていた布が左右にひらひらと揺れる。
    「そっ、そこのっ!」
    「え?」
    「そこの本が、邪魔だっ! だが作業中だから、片付けられると困る……っある程度、まとめておいてくれ」
     顔の前の布を思いっきり引っ張って、完全に顔を隠しながら青年は床に散らばった本を指した。ぱちぱちと彼女は瞬きを繰り返す。動けないでいると、青年はやや自信がなさげな様子で首をこちらに向ける。
    「そ、掃除……得意なんだろ」
     ……もしかして、仕事をくれたのだろうか。はっとして彼女は懐に入れていた襷を出し、口に咥えて結ぶ。それから本を指した彼の手を握り、ぶんぶんと振った。青年はぎょっとして一歩後ずさる。
    「はいっ! 頑張りますっ!」
    「っう、た、のむ……。俺は山姥切、国広だ」
     青年、山姥切は布を引っ張りながらでも彼女が振った手を握りなおしきちんと握手してくれた。彼女は嬉しくなってしっかりとその手を掴む。薄汚れた布の下で、僅かにだが山姥切も微笑んでくれたような気がした。



     山姥切は普段、文机に向かって一心に何かを書いたり写したりしていた。時折、立ち上がって地下書庫にある本を取ったり、はたまた地上に通ずる扉が開いて大般若や店員が渡したメモを見てしまいこんだ文房具を取り出して渡したりしていた。どうやらそれらが山姥切の店での役割らしい。
     その一方で彼女が何を手伝っているかというと、専ら書庫の整理だった。山姥切の指示を受けて、資料をとってきたりなんだりするのだ。それも一度にすごい量を。
    「おい、そっちの書棚、わかるか」
    「はい!」
    「その棚の上から二番目にある本全部持って来てくれるか」
    「ぜっ、全部ですか!?」
    「全部だ」
     山姥切の集中力はすごい。何をしているのかあまり見せてくれないし、それを邪魔するのもどうかなと思っていたため、彼女は山姥切が文机に向かっているときは一切声をかけなかった。けれどそれをなしにしても山姥切はただ一心不乱にその仕事に打ち込んでいた。
     だがそんな山姥切が唯一、反応する物音がある。地上へと続くあの階段が、軋む音だ。
    「……誰だ」
     パッと顔を上げた山姥切が振り返る。彼女も釣られて振り返ると、珍しくそれは店長の大般若ではなく綺麗な洋装の若い娘が下ってくるところだった。
     それを見ると山姥切はほっと息を吐き立ち上がる。それは仕事にのめりこむ山姥切にはとても珍しい対応だった。少女と女性の中間のような年頃のその人は、山姥切に向かって緩く笑うと軽く彼女のほうにも会釈をする。どうやら山姥切の知人らしい。
    「山姥切さん」
    「どうしたんだ」
    「あ、いえ、近くを通りかかったから……この間のお礼も言えていなかったですし」
    「……あいつはどうしてる」
     ちらと山姥切がこちらを見たのがわかったので、彼女はその場から少し距離をとった。長年の奉公経験が生きて、人の僅かな視線や態度で何を意図しているのかはわかる。
    「……旦那様がそんな状態ですから、膝丸さんも。旦那様は膝丸さんには好きにしていいって言ってらしたけど」
    「……そうか。あんたもあんまり気にするなよ。前にも言ったがあんたはそういう気苦労で早死にする」
    「ええ、ありがとう……それじゃあ。お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
     そう言ってその人は再び山姥切と彼女に頭を下げて出て行った。そのとき少し、本当に少しなのだが彼女は山姥切の背中が寂しそうに見えた。
     その日は他にももう一人、珍しく大般若以外の人間が地下書庫にはやってきた。ぎぃという階段が僅かに軋む音を立てて、彼はこちらに降りてくる。山姥切はそれに気がついて再び顔を上げた。
    「……大倶利伽羅、墨がなくなったか」
     大倶利伽羅と呼ばれた青年は、ちらりと一瞬だけ彼女に目をやったけれどすぐに山姥切のほうへ進んだ。キリとした彫りの深い顔立ちの青年である。
    「ああ、いつものを頼む」
    「わかった。おい、あんた」
     山姥切がふっと彼女にそう話を振った。ついでに大倶利伽羅もこちらを見て、鋭い眼光に彼女はどきりとする。まるで龍のような強い眼差しだった。
    「は、はい」
    「あの棚に墨がある。取って来てくれ」
    「わかりましたっ」
     彼女はがらがらと移動式の梯子を使って山姥切に指示された棚へと昇った。ガタガタと引出しを開けたけれど、山姥切の言ったところに入っていたのは墨ではなく高価そうな薄様である。
    「お前、いつから手伝いを雇ったんだ」
    「いや……俺が雇ったんじゃない。大般若が」
     山姥切のほうを見下ろせば、彼は大倶利伽羅と話している。彼女は仕方なしに上から声を投げかけた。
    「あのっ、山姥切さん、墨はないです、この棚」
    「何……ああ、すまない。この間動かしたのを忘れていた。その下の段に『椿油煙墨』と書かれた引出しが入っているはずだ。取ってくれ」
     ギクッと彼女は肩を震わせた。それから唇を噛み締める。とりあえず一段梯子を下がって見たものの、ずらりと並んだどの引出しに山姥切に言われた墨が入っているのか彼女にはわからない。
     静止している彼女にいち早く気が付いたのは、大倶利伽羅の方だった。彼はこちらのほうを見上げて、首を傾げる。
    「……おい、あんた。どうしたんだ」
    「えっ、あ、あの……」
     大倶利伽羅の呼びかけで彼女が困っていることに気が付いてしまったのか、山姥切も彼女のほうを見る。それから不思議そうな顔で山姥切も一歩梯子に足を掛けた。まずい、と彼女は慌てる。
    「? 俺の見当違いだったか? そこに入れたはずだが」
    「あっ、いや、そうではなくて」
    「貸してみろ……ほら、ここにあるぞ」
     彼女よりも上背のある山姥切は、彼女が立つ段の一段下からでもその棚に届いたようだ。ふわりと山姥切が引き被っている布が彼女にもかかる。僅かにだが、そこからは太陽の匂いがした。
     山姥切は迷うことなく引出しを一つ抜き去る。中には確かに、墨が納められていた。何事もなかったように山姥切はそれを取ると再び梯子を下って行く。それから墨の一つを大倶利伽羅に手渡した。大倶利伽羅もそれを確認すると包みを仕舞い込む。
    「確かに」
    「紙はいいのか」
    「紙はまだ前のがある。……また来る」
    「ああ」
     大倶利伽羅は一度だけ彼女のほうを見上げはしたけれど、結局は何も言わずに再び階段を上って行った。彼女はするすると梯子を下り、その後ろ姿を見送る。なんだか不思議な雰囲気の青年だった。
    「不思議な方でしたね」
     彼女が素直にそう言えば、山姥切はちらりと彼女を見て口を開く。
    「あいつは大般若の一族と懇意にしてるやつだ。俺の兄弟が仕入れている墨と紙でなくてはいい字が書けんとかで、必ず同じものを買いにうちに来る。覚えておいてやれ」
    「書家の方なんですか?」
    「……まあ、そうだ。定期的に来る。来たら今の墨を渡してくれ。引き出しを戻してくれるか」
     山姥切から受け取った引き出しにあるその墨の名を、彼女はしっかりを見て覚えた。大丈夫、もうわかる。あの人が来たときは、この棚。彼女はそれを元の棚に戻し、再び本の整理を始めた。



    「帝都のデパートにこれを届けてきてくれ」
     ある日山姥切が彼女に申し付けたのはそんな仕事だった。手渡されたのは折りたたまれた図面のようなものだった。
    「えっと、デパートのどちらまで」
    「洋装の店があるはずだ。そこにいる店員に渡せ。俺の遣いだと言えばわかるはずだ」
    「わかりました」
     たまにあることだ、山姥切のおつかいは。大抵は使っている筆記具がだめになったとか、そういう理由である。山姥切は大変こだわりの強い性格のようで、愛用しているものを切らすとてんでダメになるらしい。紙ひとつ、ペンひとつにとっても気に入っているものがある。大半は上の大般若の文房具店で買えるものなのだが、たまにちょっと足を伸ばさないといけないものがあったりして、彼女がおつかいに出る。今日のような届け物は初めてだが。
     だが元々奉公に出ていた身、彼女もおつかいは得意である。帝都のデパートには何度か足を運んだこともあるので、彼女はすんなりそこに辿り着くと裁縫店を覗き込んだ。中では爽やかな印象の青年が布を裁っている。
    「あの」
    「あっ、いらっしゃいませ。どうしました?」
     にこりと笑ったその青年は、彼女のほうに顔を向けた。山姥切から預かった図面を鞄から取り出しながら、彼女は青年に言う。
    「すみません、私、山姥切国広さんの使いで来ました」
    「ああ、兄弟の! ありがとう、どうぞこちらへ」
     ちょうどよく青年がお使いの相手だったらしい。というか、兄弟? 彼女は青年の招きでカウンターの裏に回った。彼女が手渡した図面を作業台の上にバッと開く。思いのほか大きいそれに彼女は驚いた。折りたたまれていたから本来の大きさがわからなかったのだ。
     なんだか綺麗な模様が所狭しと描かれている。松に竹に梅、それからとにかく縁起のいい模様がたくさん。これを見て何がわかるのだろう。彼女が首を傾げたのがわかったのか、熱心に図面を見つめていた青年が顔を上げた。
    「ああ、ごめんなさい。まず自己紹介からかな。僕は堀川国広、よろしく」
    「ほりかわ、さん。よろしくお願いします」
    「お嬢さんが山姥切の兄弟を手伝ってくれてるんですか? 兄弟、気難しいから大変でしょう」
     くすくすと笑う堀川は人見知りをしない性格のようで、彼女相手にも爽やかに明るく話しかけてくれた。それから再び図面に目をやる。
    「届けてくれてありがとう。新しい刺繍の図面がほしくて、兄弟にいいものはないか頼んでいたんだ。ちょっとした教え子に……赤ちゃんができたって聞いて、安産祈願の犬帯を。それから気が早いかもしれないんだけど、産着にいいかなって」
    「まあ、おめでとうございます」
    「うん、僕も嬉しくて。兄弟にも礼を伝えてください。まあ、家に帰ったら会うけど。兄弟、仕事に熱中すると帰るのが遅くて」
     表情を綻ばせて、堀川はそういうと図面を丁寧に畳んだ。その横顔を見て、確かに山姥切と少し似通ったところがあるかもしれないと彼女は思った。顔立ちはそうでもないのだが、キリとした意思を感じる表情からそう思うのだろうか。それに目の色が同じだ。
     堀川はその山姥切と同じ瞳を彼女に向け、微笑む。
    「兄弟、職場ではどうですか? お嬢さんに無理は言ってない?」
    「あ、いえ! 私は片付けとかをお手伝いしているだけなので」
    「ああ、兄弟きっちりしてるようで集中してるととっちらかしちゃうからね。そういうときは……」
     堀川はにこにことしながら彼女から山姥切の仕事ぶりを聞くと、同時に家での山姥切の様子を教えてくれた。「ええ、そんなの聞いてもいいの?」と彼女が問いただしたくなってしまうような話まで、たくさん教えてくれる。
     最後にはお土産にと菓子までくれて、堀川は彼女を送り出してくれた。目を白黒とさせながら彼女は文房具店の地下書庫へ戻る。階段の軋む音で気づいたのか、山姥切は文机から顔を上げて振り向いた。
    「届けてくれたか」
    「ただいま戻りました。はい、堀川さんに」
    「……兄弟がいたのか」
    「とっても喜んでましたよ」
     彼女がそう伝えれば、山姥切は安堵したような嬉しそうな、そんな表情を浮かべた。「そうか」と小さく返事をして再び文机に向かおうとした山姥切の……足元を見て彼女は思わず笑ってしまう。
    「ふっ」
    「……? なんだ、どうした」
    「い、いえ、ふふ、なんでも、なんでもな、あはは」
    「なんだ、変なものでも食ったのか。おい」
    「い、いや、だって! 靴下!」
    「俺の靴下がどうした」
     山姥切は自分の足元を見下ろし首を捻る。しかし彼女はそれでも笑いが止まらなかった。
     だって、本当だったのか。正直半信半疑だった。山姥切のイメージからは、ちょっと聞いた話がかけ離れていたので。
    「ほ、本当にご兄弟の方の刺繍入りなんですね……っ」
     ハッとして山姥切は自分の踵を見やった。そこにはしっかりと、しかも漢字で名前が刺繍されている。いつも山姥切は座っているから気がつかなかった。
     男三人の兄弟で、山姥切の兄弟もその上の兄弟も何にも頓着しないんだ。だから僕が一人ずつ名前を刺繍で入れていてね……と微笑む堀川の顔が頭を過ぎる。服はシャツから下着靴下まで全部そうだと言っていた。
    「な、なん、きょ、兄弟から何を聞いた!」
     真っ赤になった山姥切がこちらに詰め寄るが笑いは止まらない。いやだって、なんて、なんて可愛らしい。
     彼女の知っている山姥切は、いつも文机に一心不乱に向き合って、書を写す姿。頭から引き被ったぼろぼろの布で隠した表情は仏頂面。そんな山姥切が兄弟のお手製刺繍入り靴下を履いているだなんて想像だにしなかった。
     ああでも、不器用なだけで優しいのだった。彼女は最初にここに来た日のことを思い出す。仕事がないと言われ、いらないと言われ、落ち込んだ彼女に慌てて対応してくれたのは他でもない山姥切だった。
    「まったく、堀川の兄弟は……っ」
    「ふふ、いえ、すみません。笑ったりして。仲がよろしいんですね」
    「……家は、殆ど親が留守にしている。だから兄弟三人でいることのほうが多いんだ!」
    「でも一番上のお兄様は山にいらっしゃるんでしょう?」
    「そんなことまで喋ったのか兄弟……」
     ぐうぅと変な声を上げながら山姥切は被った布を引っ張る。耳が赤く染まっているのが、僅かに見て取れた。
    「ご兄弟のこと、大好きなんですね」
     自然とそんな風に思えた。ぼろ布の穴から、翡翠の瞳がこちらを覗く。小さくだがはっきりと山姥切は頷いた。
    「こんな俺でも、いつでも傍にいてくれる……俺の、自慢の兄弟だ」
    「……それはとっても、素敵ですね」
     彼女は素直にそう思えたことを口に出す。すると山姥切は、ちらりとこちらを見て尋ねた。
    「あんたは、いないのか」
    「何がです?」
    「兄弟だ。俺のことも根掘り葉掘り聞いたんだ、俺が聞いてもいいだろう」
     どこか拗ねたような、じっとりとした目をしながら山姥切は言った。堀川の「変なところ子供っぽいんだよ」という言葉を思い出し、彼女はまたくすりと笑う。
    「……私は、ですね」
     彼女は五人兄弟の一番上、である。下には弟が三人、妹が一人。父は亡く、母は働き通し。だから彼女は物心ついたときから、母の勤め先に手伝いとして出ていた。小さい弟妹を食べさせるため。特に下の弟と妹は頭がよかった。だからできるなら学校へ行かせてやりたい。そう思って、奉公に。
    「妙に世話焼きなところがあると思ったら、あんた一番上の兄弟だったのか」
     合点のいった顔で山姥切が言った。その様子になんとなくクスクスと笑って、はいと彼女は頷く。
    「そうですね、家事や片付けは下の兄弟の世話をするうちに身についたものかもしれません」
    「堀川の兄弟が同じことを言っていた。兄弟たちが好き勝手するから自分はそういうの得意になったのだと。俺は好き勝手しているつもりはないんだが……」
    「ええ? そんなことないですよ。山姥切さん、放っておくと書き損じの紙から墨から筆から何から何まで散らかしてそのままお仕事をするじゃないですか。片付けてるの私ですよ」
    「そ、そうだったのか、すまない」
     ガンと衝撃を受けた表情で山姥切が言った。まさか本当に散らかしている自覚がなかったとは。彼女は流石に耐え切れなくなって笑う。しかしそのくらい集中していたということだ。
     肩を震わせながら彼女は首を振る。それから袂から襷を出し、いつもどおり袖にかけた。
    「いいえ、いいんです。山姥切さんのお手伝いをするのが、私の仕事なんですから」
     集中して、この人が仕事ができるように。彼女はそのためにここに来て、ここにいる。ずっとそうしたくて……ここに来たのだ。
    「そ……うか」
     山姥切は落ち着かない様子で被っている布をぐいぐいと引っ張り顔を隠した。あれは照れているときの動作だ。それがわかっているから、彼女の胸のうちはなんだか温かくなる。ぶっきらぼうで素っ気無いようだけれど、本当はとても、とても素直な人なのだ。
    「これからもよろしくお願いしますね、山姥切さん」
     手を差し出せば、様子を伺うようにちらちらと碧眼を覗かせながらゆっくり山姥切は彼女の手を握った。ああ、指の腹が硬くなっている。それに、冷たい。今度から暖かくなるような何かを持ってこなければと、彼女は思った。
     二人が握手して手を離したのと同じくらいに、ギィとあの木の階段が鳴って山姥切は振り返った。彼女もそちらを見やる。下ってきていたのは、いつかの青年である。大倶利伽羅といったか。彼女は瞬時にこの間の棚の位置を思い返していた。
    「大倶利伽羅か、どうした」
    「紙がなくなった」
    「頃合だと思っていた、今取ってくる。ああ、ついでに兄弟が渡してくれと言っていたものが……どこにしまったか。すまないがあんた、俺は兄弟のほうを取ってくるから、紙を頼む。あれは加賀から取り寄せてるものだから……」
     山姥切は彼女のほうを振り返り、矢継ぎ早に何かを言った。彼女はぎくりと肩を震わせる。その棚は、見たことも聞いたこともない。しかし山姥切はパッと布を翻し奥のほうへ走っていってしまった。
     青年と二人取り残された彼女は硬直する。どうしよう、どうしたらいい。
    「……おい」
    「は、はいっ」
    「どうしたんだ、山姥切が品を言っていただろう」
    「あ、はい……」
     こう言われてしまっては、動かざるを得ない。確か加賀がどうとかいっていた。山姥切は大変几帳面で、品はすべていろはで並べてある。だから「か」、かの行にあるのではあるまいか。彼女は足早にそのあたりの棚まで行くと、梯子を使って上から順に見る。一つ一つ開けなくては中がわからない。けれど下を見れば、じっとあの龍の瞳が彼女を見上げていた。
     指先が、震えだす。どうしたらいい。
     そのうちに足音がひとつ戻ってきた。山姥切だ、彼女はいよいよどうしようもなくなって、梯子を握り締めて俯く。
    「奥に仕舞い込んでいた。筆がそろそろ駄目になると言っていたろう、山伏の兄弟がいつものものと、別なものを買ってきている。どちらがいいか試してくれるか」
    「……ああ。おい、あれはいいのか。先ほどからずっとああだぞ」
    「ん?」
     山姥切がこちらを見上げたのがわかった。ぎくりと肩が跳ね上がる。
    「おいあんた、どうしたんだ。この棚じゃないだろう」
    「……」
    「あ、あのっ、えっと」
    「俺が伝え間違えたか? そっちじゃなく、あれは」
    「待て山姥切。おいあんた、降りてこい」
     大倶利伽羅の声に、観念して彼女は梯子を降りた。顔を上げられない。だがもうきっと、少なくとも大倶利伽羅にはばれてしまっただろう。
     木の床に降り立った彼女の顔を、山姥切が覗き込む。彼女はそれさえも恐ろしく余計に項垂れた。
    「どうしたんだあんた、顔が青い。具合でも悪いのか」
    「ち、違……」
    「……あんた、字が読めないんだな」
    「……なに?」
     ああ、と彼女は顔を覆った。山姥切が驚きの声を上げる。隠しとおせるはずがないとわかっていたはずだ。けれどどうしても、あと少し、あと少しと。ジワリと視界が滲む。
     しかし山姥切は焦った調子で首を振り、大俱利伽羅に反論した。
    「字が読めないだと? そんなはずがない、これまで俺が言ったことは遣いだって難なく」
    「メモをそのまま渡すか何かしていたんじゃないのか。棚の位置も端から端まで覚えていたんだろう。現にここは『か』の棚だ。お前が言った加賀の紙ということだけ理解して、こいつはここまで来たんだ」
    「そ、うなのか……? なあおい、そうなのか、あんた」
    「申し訳、ありません……っ」
     彼女は床に手を着いて頭を下げた。もう山姥切に合わせる顔がない。
     大倶利伽羅の、言うとおりだ。彼女は字を、読むことも書くこともできなかった。
     学校と呼ばれる場所には、一度だって通ったことはない。物心ついたときから奉公に出ていて、教育という教育をまともに受けたことがないのだ。
    「私、は……文字がわかりません。大倶利伽羅様の、仰るとおりです。まともな、寺子屋にもどこにも、通ったことがなく、申し訳、ありません」
    「……」
     ぽたりぽたりと涙が床に零れる。けれど彼女は恥ずかしくて顔を上げることもできなかった。字も読めないだなんて、できるなら山姥切に知られたくなかった。
     しかし笑われても仕方がないと思っていたのに、彼女にかけられたのは罵倒でも嘲りの言葉でもなく、ふわりとした布と温かな手のひらだった。埃っぽく汚れて、少しだけ日向の匂いのする布、山姥切の布だった。低い位置から、山姥切の穏やかな声が響く。
    「……なんだ、それだけか。本当に体でも壊したのかと思ったぞ」
    「え……」
    「それに字なら丁度いい、俺が教えられる。そうだろう」
     思いもよらない言葉に勢いよく顔を上げれば、山姥切があの碧眼でまっすぐとこちらを見つめていた。背中に当てられた手は、先ほど握手したときあんなに冷たかったのに今はしっかりとした温もりを持っている。そのことに安心して、どんどんこらえていた涙が緩んで溢れてくる。
    「でも、私本当に、何にも読めないんです。書けも、しなくて」
    「……恥じ入ることはない。あんたはその分あんたの兄弟を助けてたんだ。違うか? あんたの分、あんたの兄弟が学んでいた。あんたはそれを支えていた。それは誇りに思うべきだ。泣くことなんかじゃない。……だから」
     だから気にしなくていいんだと、山姥切は彼女の背をぎこちなく撫でた。
     今度こそ我慢できなくなって、彼女は顔を覆い声を上げて泣いた。顔をくしゃくしゃにして、小さい子どものようにして泣くのはいつぶりのことか。それもそのはず、彼女はずっと家ではお姉さんだった。一番上のお姉さんで、家計を支える母の片腕だった。泣かせてくれる相手も、場所もなかったと気づくのにも時間がかかったのだ。
    「で、どうする。あんたがやる気なら仕事の合間に俺が教えてもいいんだぞ、字は」
     ぶっきらぼうだけれど、ひどく優しい言い方で山姥切は彼女に尋ねた。だから彼女はしゃくりあげながら何とか頷き、それでも答える。
    「わた、わたしずっと、ほんとうは、ずっと……山姥切さんの、字、きれいで、うらやましくて、それで」
     うんと一つ、返事をして山姥切は彼女の頭をぽすんと撫でた。
    「俺は厳しいぞ。明日から右手に血肉刺を作る覚悟をしてくるんだな」
     山姥切がそう言えば、立っていた大倶利伽羅がごそごそと鞄を探り、お下がりらしい筆を彼女に手渡して去っていった。



    「留めが甘い!」
    「ぁいたっ!」
     ピシリと手を叩かれて彼女は思わず声を上げた。ううと涙目になりながら、彼女は再び筆を持つ。そろそろ右手は痺れてきた。しかしここで手を止めれば山姥切の雷が落ちる。彼女はもう一度手本に習って「いろは」を書き写し始めた。
    「平仮名はすべての基本だ。どれだけ漢字が書けずとも、平仮名さえ網羅できていれば意思の疎通は図れる。だが難易度は高い。これだけは誰が見ても読めるように手習いをしないといけない。己に甘えを許すな!」
    「は、はいぃっ!」
     にしても山姥切の指導、あまりにも厳しい。彼女の右手にはすでに筆のタコができていた。手本にしている山姥切の書いた「いろはうた」の半紙もかなり摺れてボロボロになっている。まだ習い始めてから一週間も経っていない。
     仕事の合間に、と言っていたはずが山姥切は翌日には既に手本をと道具を用意していた。出勤した彼女の目の前に、普段山姥切が使っている文机の隣にもう一寸法小さいものが並べられて、その上に書写道具一式が置かれていたのである。
    「や、山姥切さんこれは」
    「急ごしらえですまないが、今日からあんたの手習い場所だ。座れ」
    「は、はい」
     彼女はおずおずと隣の座布団に座った。見れば座布団まで新品である。一体これらはどこから。
    「兄弟が持ってきた。机が山伏の兄弟、座布団は堀川の兄弟だ」
    「えっ」
    「筆だが、昨日大倶利伽羅がくれたものがあったな。あれでいい。あれも兄弟が仕入れた舶来の筆だ。初心者が真新しいものを使うより、誰かの手に馴染んだもので練習を始めたほうが使いやすくていいだろう。それで、これが帳面だ」
    「はい……」
     真っ白な帳面の最初の頁を開くと、山姥切はそれをそのまま彼女の前に置く。それから半紙に書かれたいろはうたを彼女の右側に置いた。
    「あんた、箸は右で使っていたな。右利きだろう」
    「はい、たぶん」
    「まず筆の持ち方だが、箸と同じようにしろ。三本の指で支え、残り二本は添えるだけだ。間違えるな。持ち方一つで字は変わる。体で覚えるんだ」
     持ち方に始まり、ここからがもうほぼ修行であった。来る日も来る日もいろはうたを写し続けている。最初は一文字ずつ、山姥切に手を添えられながら。形を覚えたら一人で繰り返し繰り返し。確か血肉刺を作る覚悟をしておけといわれたが、本当に初日から肉刺を作ることになると思っていなかった。これまでこんな手になったのは、かつて家で畑を手伝ったとき以来だ。
     ギシギシと階段が音を立てる。振り返れば愉快げな顔をして大般若がこちらを見ていた。
    「おお、やってるねえ。本当に山姥切が手習いをつけてるのかい」
    「店長のあんたがからかいに来られるくらい暇な店なら、俺も次の勤め先を見つけなきゃならないな」
     余裕のない彼女の代わりに山姥切がそう返すと、大般若は笑って手にしていた盆を差し出す。
    「あはは、違う違う。差し入れだよ差し入れ。可愛いお嬢さんが頑張ってるんだ。ご褒美のひとつくらいあげてもいいだろう? 上で小豆が作ったんだ。そら、食べな」
    「えっ、わあ」
     お盆には二人分の茶と、可愛らしい生菓子が並べられていた。色とりどりで、花の形をしている。だが「ありがとうございます」と彼女が大般若に言おうとした瞬間、ぱっとそれを山姥切が取り上げる。
    「あんたは俺が納得のいく『ね』の字が書けてからだ」
    「えぇっ」
    「そら、早くしろ。茶が冷める」
    「うう……」
     仕方なしに彼女は再び筆をとる。「ね」の字は苦手なのだ。曲線が多いし、最後の丸が綺麗に書けない。けれど山姥切がそう言った以上、従うしかあるまい。今の山姥切は彼女が片づけをしなければ書き損じの半紙を放っておくような困った上司ではない。鬼師範である。
     そんな様子を見て、大般若は苦笑し、それでも彼女の頭をよしよしと撫でた。
    「まあしっかりやんなあ。山姥切の腕は確かさ。こいつが合格を出すころには、あんたは帝都一の文字書きになってるだろうよ」
    「う、はい。ありがとうございます、大般若さん」
    「……これだから長船は。女と見ればすぐ口説く。こいつは俺の弟子だ。手ぬるい指導はしない。当たり前だろう」
     もしゃもしゃと菓子を齧りながら山姥切がじっとり大般若を見る。すると大般若は目を細めて、今度は山姥切の頭も撫でた。
    「なぁに、俺は嬉しいのさ。山姥切も楽しそうだ。久方ぶりに、あんたのそんな顔見たよ。こりゃあ値打ちものだ」
    「っやめろ! いつまでも俺を子ども扱いしてっ!」
     ばさりと布を翻して山姥切が大般若の手を振り払う。耳が真っ赤になっているところを見ると照れているのだろう。あははとよく通る声で笑いながら、大般若は店へと戻っていった。まったくとか何とか言いながら、山姥切は再び彼女の手習いを見る。彼女は「ね」の字をもう一度書いて「お願いします」と山姥切に差し出した。
    「……まだ少し、返す部分が甘いな。手首を使ったほうがいい」
    「は、はい」
    「指先で書こうとするな、字は体で書くといい。そら、口を開けろ」
    「えっ、はい」
     言われたとおりにすると、山姥切は遠慮なく彼女の口の中に生菓子を突っ込んだ。求肥でできた柔で甘い梅の花が口の中で溶ける。おいしい。
    「どこのお菓子でしょう……美味しいですね」
    「小豆が作ったと言っていただろう。大般若の血縁で菓子作りが得意なのがいるんだ。どうなってるんだあの一族は、揃いも揃って」
    「あ、えっと、長船さまの」
     彼女も帝都で奉公に出ていたので、名前くらいは知っている一族だ。名門長船、古備前と名を張るくらい古い家だ。芸事にかけては天下一品だと聞いている。今の当主は燭台切光忠といって、あらゆる面で趣味高いがとりわけ料理と茶の道にかけては一家言あるとか。
    「そういえば書でも有名な方でいらっしゃいましたよね」
    「そうだ、大倶利伽羅は燭台切の門下生だからな。大般若は美術品の目利き、この店で取り扱ってるものは全て大般若が選んでいる。小豆は料理の中でも甘味だな。普段ここにはいない小竜は今修行の身で全国を旅して芸を磨いているらしい。下の兄弟の謙信はまだ幼いが、燭台切が手ずから手習いを教えていると聞く。そろそろ寺に修行に出される頃合だが、大成するだろうな」
    「へ、へえ、そんなすごいおうちだったんですか……」
     立派な文具店だと言うのは聞いていたが、謂れまでは知らなかった。
     ちらりと山姥切のほうを見やり、彼女は若干緊張しながら口を開く。力が入ったせいで、書こうとしていた「な」の字が滲んだ。
    「山姥、切、さんは……どうしてここに?」
     咀嚼音が一瞬だけ止まる。怖くてそちらは見られなかった。しかし山姥切は湯飲みに入っていた緑茶を一気にごきゅごきゅと飲み干すと、カンと音を立ててそれを盆に置く。
    「前に一度……女が、ここに来たのを覚えているか」
    「え、あ、はい」
     覚えている。初めて大倶利伽羅が店に来た日だ。山姥切と親しげに話していた。
    「あれは、俺の昔馴染みで。そこそこいい家の、娘だった。今は源氏の惣領の奥方だ」
    「げ、源氏の?」
     はあ、なるほど。それは綺麗な身なりをしているはずだと彼女は納得した。武士の元締め源氏の奥様だったとは。しかし堀川も言っていたし山姥切自身でも言っていたが、堀川は平民の出のはず。それが一体どうして源氏の惣領の妻になるような女性と。
    「俺はあいつにも手習いを教えていた頃があって。だから、それで」
    「あ、ああなるほど! ……昔から、字がお上手だったんですね、山姥切さん」
     それに対しては、山姥切は返事をしなかった。ただやや俯いて、あの薄汚れた布で整った面差しを隠してしまう。僅かに頭を振ると、山姥切は言葉を続けた。
    「それで、訳あって職を探していたときにあいつに口を聞いてもらってここにきた。元々……元々長船は俺の家の……家の」
    「家の……?」
     何度か口をはくはくとさせたのち、山姥切は唇を噛み締めた。ぎりぎりと音が聞こえてきそうなほど、強くそうしていたために彼女は山姥切の珊瑚色をしたそこが切れてしまうのではないかと思ったほどだ。
     青ざめた顔で山姥切ははあと息を吐き、ふいと彼女から顔を逸らした。それから自分も筆を取り、傍にあった紙を掴んで引き寄せる。積み重ねてあった書籍をばさりと広げると、墨を擦り始めた。
    「……急ぎの仕事を思い出した。すまないが、棚の整理でもしていてくれるか」
    「……はい」
     彼女は立ち上がり、言われた通りにする。しかし二、三歩踏み出したとき「おい」と声がかかった。
    「……俺の字を無理に写すことはないんだ」
     振り返ると、山姥切は真っ白な紙に向かったまま筆を握りしめていた。ぽたぽたと筆先から墨が垂れて、真黒く半紙を汚していく。滲んで、広がって、くすんで。まるで被っている布のようだ。
    「俺の字と比べられるのは、嫌だろう。あんたにはあんたの字がある、だから」
    「私、山姥切さんの字、綺麗だと思います」
     咄嗟に彼女はそう答えていた。今そう伝えなくてはいけない気がしたのだ。だからはっきりともう一度口にした。
    「真っ直ぐで、でもちょっとこだわりがあって頑固なようにも見えて。山姥切さんそっくりの、山姥切さんの字は、綺麗だと思います」
    「……」
     山姥切はあの碧の瞳で彼女を見上げた。迷っているような、小さな子供のような目だった。苦しそうに顔を歪め、それからやはり俯き、布を引っ張ってしまう。だがそれでも小さく、返事はしてくれた。
    「……綺麗とか、言うな」
     棚の整理はやめにして、彼女は山姥切の傍に置いてあった盆を回収する。一人にした方が、よさそうだった。大般若にこれを返しに行こう。
     木の階段を軋ませ、上にあがる。小さな扉をくぐり彼女がやや眩しさに目を細めながら店内に出ると、新聞に目を通していた大般若が顔を上げた。にこりと人の良い笑みを浮かべながら、彼はこちらを見る。
    「お、わざわざ返しに来てくれたのかい。手習いは終わりかな」
    「はい、ちょっと休憩です」
    「そのへんに置いといてくれ。後で小豆が片すだろ。それより……あんたは何をどこまで知ってるんだい?」
    「え?」
     目を細めて、大般若はその長い足を組みなおした。読んでいた新聞はぽいとカウンターに投げてしまい、彼女には傍の椅子を指し示す。どうしたものかと迷ったけれど、結局彼女はそこに座った。それ以外に選択肢が残されていそうになかったのだ。
    「あんた、あそこで仕事してる『山姥切国広』の正体を知ってるんだろう?」
    「……私」
     唐突な問い詰めに、彼女の喉の奥で言葉が詰まった。ガタンと椅子が揺れ彼女は身を竦ませる。大般若の長い両足が彼女の座った椅子を挟むようにして伸ばされていた。
    「事と次第によっちゃ、俺はあんたを解雇しなくちゃあならないかもしれないなあ。ま、変なとこの女じゃないんだろうが。……例えば少しでも何かをばらそうってことなら」
    「違います!」
    「大般若」
     彼女が叫べば、奥から優しげな風貌の男性が顔を出した。初日に小豆と紹介された男性だ。彼はゆったりとした足取りで茶を持ってくると彼女の傍に置く。にこりと笑うと小豆は彼女に向けて湯呑の蓋を取った。ふわりと立ち上った湯気からは少しだけ甘い匂いがする。
    「きみは、あまいものはすきかな」
    「え……」
     何が起きているのか一向に理解はできなかったけれど、穏やかな声と温かいお茶とで緊張が一気に緩む。ホッと彼女が息を吐きだせば、小豆は大般若のほうに向き直って腰に手を当て、まるで小さい子をお説教するように言いだした。
    「大般若、さいしょからうたがってかかるのはよくない。それにあいてはまだわかい、おんなのこだぞ」
    「……はあ。はいはい、そうだな、俺が悪かった。すまないな、お嬢さん。あいつは祖からの預かりものでなあ。俺も過敏になってよくない。それに、何より美しいからなあ」
     よいしょと大般若は彼女を囲うようにしてカウンターに突いていた足を下ろした。それから自分もお茶というように小豆に手を出したが、小豆は首を振る。
    「あれはおんなのこむけのものだ。大般若じゃない」
    「手厳しいねえ。……それで、差支えなければ事情は教えてほしいんだが」
    「……」
    「あんたは山姥切の何をどこまで知ってるんだい? 咎めやしないさ、知りたいだけだ。時と場合に寄っちゃ、あいつのこと知るのなんか、難しいことじゃない」
     彼女は惑って、渡された湯呑を覗き込んだ。言っても、いいものだろうか。でも、大般若が山姥切を悪くするとは思えない。たっぷり五分は逡巡して、それからやっと彼女は重い口を開いた。カチ、コチと壁に掛けられたアンティークの時計の秒針の音だけがその間店内に響いている。
    「……私は、もう一度、あの字を見たかった、だけです」
    「字? どこで見たんだい」
    「奉公先の、掛け軸でした」
     思えばあれが、彼女の初恋だったのだ。
     一番よく見える場所に、堂々と飾られたその掛け軸。豪胆な筆致、それでいてのびやかで、少しだけ頑固な線も見えて。彼女にその文字は読めなかったのだけれど、ただ、好きだった。美しいと思った。
     どんなに仕事が辛い日も、同じ使用人から学がないことを嘲られ、罵られた日も。その字を見ればなんだか心の奥が漂白されていった。
     けれどその字を書いた人は、何故だかもう書から遠ざかったのだと聞いて。もう二度と書かないのだと知って。それがどうしてなのか知りたかった。
    「だから、私、もう一度あの字を見たくて、読みたくて」
    「……掛け軸ってと」
    「……きっとあれだぞ」
     大般若と小豆が表情を曇らせる。知っているのだろうか、あの掛け軸を。だったら教えてほしい。あれには何と書いてあったのか。彼女には読めなかった、あの文字を。何故、彼が筆を折らなくてはならなかったのかを。
    「そうか、あんた知ってたんだな」
     しかし彼女がそれを尋ねる前に、低い声が背後から響いた。大般若も小豆も彼女と同時にあの扉の方を振り返る。布の、破れた穴の奥。暗い光を灯した翡翠の瞳がこちらを見つめていた。
    「やまんばきり、さん」
    「あんた知ってて、来たんだな。俺が」
    「あの、私」
    「待て、山姥切。雇ったのは俺だ、この子は悪くない」
     大般若が立ち上がって前に出たが、ずんずんと歩いてきた山姥切は迷わずに彼女の両肩を掴んだ。痛い、すごい力だ。
    「俺が山姥切長義の写しだと知ってて来たんだなっ!」
    「ちょ、うぎ……?」
     わからない、彼女には。彼女が知っていたのは、あの掛け軸が有名な書家のものを写したものだということ。それだけだ。
    「やめろ、山姥切。このこはわるくない。きみのじをみたくて」
    「どうせ、どうせあんたも俺の字をあいつと比べるんだろうっ! 俺が何を書いても、何をしても……っ! 俺は、俺はそうじゃない! 俺は国広の傑作だ!」
    「山姥切国広!」
     ぐいと小豆と大般若が力づくで彼女と山姥切を引き離した。そのはずみに体がぐらりと揺らいで、ガタンとカウンターにぶつかる。その衝撃で湯呑がひっくり返って激しい音を立てた。
    「俺は、俺は……っ」
    「落ち着け、山姥切。わかってる、わかってるさ……、落ち着け」
    「……きみ、わたしがおくっていこう。きょうのところはかえるといい」
     ただ茫然としていた彼女に手を貸してくれたのは、小豆だった。
     結局のところ、彼女には山姥切の事情はまるでわからなかった。ただ、一つだけ確信があるとすれば……彼女は山姥切の、決定的な何かを傷つけてしまったということだけ。
    「ごめんなさい……」
     小さく彼女は呟いたけれど、大般若に押えられながら引き被った布を引っ張り己を隠そうとする山姥切にそれが届いたかどうか。彼女にはそれさえもわからなかった。



     もう二度と、あの字は書かれることがないと聞いたとき、彼女は思わずそう教えてくれた同じ奉公人に食って掛かってしまった。
    「ど、どうしてですか? あんなに綺麗なのにっ!」
    「あ、あー……俺も聞いた話なんだけど。あれ、写しなんだって、写し」
    「うつ、し?」
    「そーそ。何でもあの字をさ、書いた元のやつがいて。そいつは長船に名を連ねる有名な奴らしいんだけど。それがあんまりにも立派だったもんだから、別な奴に依頼したわけ。これを写してくれって。それでできたのがアレ」
     では、ではあれは元の字ではないということだろうか。何かを真似して書かれたものだと? しかしその奉公人はその問いに首を振る。さらさらと束ねられた髪が揺れたのまで彼女は覚えていた。
    「んーん、それがさ。写したほうが綺麗すぎて」
    「え?」
    「いや、元の掛け軸も立派なもんらしいよ? 俺は見たことないけど。でも写したこれがあまりにも綺麗だったもんだからさ。散々元と比べられて、本人よりこの写しの評判ばっかり広まって。それを書いたやつ、そいつの写しとしか言われなくなっちゃったわけ。だからさ、書くの辞めちゃったんだって、そいつ」
    「……そんな」
     彼女だってもちろん、元の掛け軸を見たわけではなかった。けれど、何故だか自信を持て言えたのだ、感じられたのだ。この書は、この字は、きっとその人の一番の自慢で、誇りだったのだろうと。仮に写しを作ってくれと言われて書いたものであっても、その人はのびやかに自分の愛した字を書ききったのだろうと。
     だってそうでなくば、こんなに綺麗な字が書けるはずがない。誰かの心を打つものを作り出せるはずがない。自信を持って書かれたはずなのだ。
    「だから私、驚いたんです……奉公先の遣いで、大般若さんのお店に行って。渡されたメモを見たとき」
     だってその字は、彼女が焦がれた文字だった。
     この店に、あの掛け軸を書いた人がいる。いるのだ、こんなに近くに。
    「そう思ったら、居ても立ってもいられなくなって……お願いしたんです、あの文房具店で奉公できないかと」
    「……それを何故俺に言う」
     はあ、と目の前に座った大倶利伽羅が溜息を吐いた。彼女はその呆れたような、それでいて少し困ったような口調に俯く。ポンと彼女の前に手紙が置かれた。宛名として書かれている文字は、山姥切のものではない。
    「俺はただ大般若からの言伝を届けに来ただけだ。……全く、慣れ合うつもりはないと何度言えば分かるんだ、光忠も」
    「すみません……」
     手紙は彼女にも読めるように全て平仮名で書かれていた。案の定、申し訳ないが暫く様子を見るために家に居るようにという指示である。仕方がないことだ。彼女にはどうしようもない。
     だから、それを折りたたみ直すと再び机の上に置く。大倶利伽羅はちらりと彼女の右手を見て、それからすぐに目を逸らした。そしてやや苛ついたような様子で、襟足の髪を掻きむしる。
    「……俺は慣れ合うつもりはない」
    「……えっと」
    「だから伝言板をするつもりもない」
    「はい……」
     彼女とて、大倶利伽羅にそんなことをしてもらうつもりはなかった。けれど大倶利伽羅は再び手にしていた鞄を机の上でひっくり返し、バンと音を立てて筆と紙を叩きつける。
    「言いたいことは自分で書け。俺はこれから店に戻る用がある。今ここに出したものはもう一度しまって持ち帰る」
    「え……」
    「せっかく習ったんじゃないのか、字」
     ハッとして彼女は自分の右手を見た。まだ、筆を握ったときのタコが残っている。山姥切にしごかれたあと。一筆一筆丁寧に。
    「半端ものは好かない」
    「……っ」
    「やるなら最後までやれ。泣くほど伝えたかった言葉じゃないのか」
     ……ああそうだ、うれしかった。嬉しかったのだ。あの日奉公で見たメモはあの掛け軸とは違って小さなものだったけれど、そこに書かれた字は変わらず美しくて。それだけをよすがに会いに行った。同じ店内にいれば、きっとあの字の主に会えるはずだと信じて。
     でも実際にその人に会ってみたら、ぶっきらぼうで変なところ頑固で。こだわりは強いし、集中するとものはあっちこっちに散らかして。服には上から下まで兄弟の刺繍入り。でも優しくて、捻くれていても暖かくて。
     ああそう、たったひとつ、あなたに伝えたかったの。
     じわりと視界がにじむ。けれど彼女はそれでも、目の前の筆を取った。



     ゆらりと蝋燭の灯が揺らいだ。じっとそれを眺めつづけていた山姥切は、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。暗いこの地下では、この明かりだけが山姥切のことを照らす光だった。
     もう何年、ここにいるのかわからない。数えることはしないと決めた。そんなことして何になる。ここだけが、山姥切の心の平穏を保てる場所なのだ。もう何も、波立たせるものはない。山姥切を見つめる視線も、声も届かない。そういうところにいたかった。
    「すべてを笑い飛ばすには、修行がいるなあ、兄弟よ。これもまた、そうであろう。兄弟の心行くまでそうすれば良い。自ずと見えてくる道が、光明が必ず訪れる。それが生きているということだ」
     上の兄弟が、かつて山姥切が地下へ降りたときにそう言った。
    「僕は、好きだよ。兄弟の字、好きだからね。それは、忘れないでね」
     もう一人の兄弟も、そう笑った。
     けれど自分は耳を塞いだ。これ以上何も聞きたくなかった。見られたくなかった。だから……。
     コンと頭に何かが当たり、のろのろと山姥切は体を起こす。近くに折りたたまれた紙が落ちていた。どうやらこれがぶつかったらしい。
    「もう二度と俺を使い走りにするな。光忠にもそう言え」
    「……燭台切にはあんたが言ったほうが早いんじゃないか、大倶利伽羅」
     フンと鼻を鳴らした大倶利伽羅が不機嫌そうに階段に座る。ぶつけられた紙が何なのかわからず、山姥切はじっとそれを見た。
    「仕事の依頼なら口で言え」
    「違う」
    「じゃあなんだ」
    「自分で見ろ。いい加減目を閉じるのにも飽きたころじゃないのか。それともここに引きこもっている間に、あんたは自分で紙を開く力さえも失ったのか」
    「っ仕方ないだろ!」
     思わず山姥切は叫んだ。しかし大倶利伽羅は顔色ひとつ変える様子もない。
    「あんたに何がわかるんだ! 俺の誇りが、俺の傑作だという字が! ただ本科と比較されるだけのものになった苦しみがあんたにわかるのか! 皆が俺の字を指差して、あれこそが本科山姥切の写しの字だと、そうとしか言われなくなった俺の気持ちがあんたにわかるのか!」
    「わかるはずがないだろう。それはあんたの苦しみだ。俺のものじゃない」
     いつもと変わらない、静かな口調で大倶利伽羅は山姥切の激昂に答えた。山姥切はぐっと唇をかみ締め、布を翻し再び大倶利伽羅に背を向ける。
    「出て行ってくれ……っ、今は誰とも話したくないっ」
     布を引き、山姥切は蹲る。ぎりぎりと薄汚れた布が引き攣れるような音がした。
    「言われずとも、俺は自分の好きなときにここから出る。それが俺の選んだことだからだ。あんたは何を選んだ」
    「……俺は」
    「世間から隠れて目を逸らすことを選んだのはもう随分前だろう。そのときから変わっていないのか、何も。何もあんたを変えなかったのか。ここの誰も、あんたが出会った誰も」
     つい先日、今は大倶利伽羅の座る階段を振り返らずに上っていった男がいた。自分の未熟さを知り、恋を失い、それでも立ち上がって「いつか彼女を見つけてみせる」と。膝丸の置いていった万年筆は、山姥切にとてもよく馴染んだ。
     堀川の兄弟は、たとえどれだけ苦しくとも自分の幸せよりも誰かの幸せを選んだ。愛した女性のために、花嫁のヴェールにレースの刺繍を施していたのはいつだったか。
     山姥切が気がふさいで素っ気無くしようと、大般若も小豆も謙信もいつも山姥切をこの店で迎えてくれた。書を写す仕事を与えてくれた。それから……。
    「山姥切さんの字は綺麗だと、思います」
     そう言って笑った子がいた。頑固だとかこだわりが強いとかその前にいくらか言葉がついていた気がするけれど。それでも、他でもない山姥切の字を、綺麗だと。
    「あんたを取り巻くものが何も変わっていないのか、確かめてみろ。あんたが目を覆って耳を塞いでる間に、投げられる言葉は何も変わっていないのか。それから選べ。あんたは本当はなんだったのか、思い出せ、取り戻せ。山姥切国広」
     震える手で、山姥切は投げられた紙を掴む。ゆっくり、本当にゆっくりと山姥切はそれを開いた。カサリカサリと聞きなれた紙のこすれる音が響く。
    「ずっとあなたのじがすきでした」
     拙い、まだ書きなれない平仮名で書かれた、たった一文。
     力が抜けて、山姥切はその薄い紙に顔を埋めた。
    「……『好き』くらい、漢字を教えてやればよかった」
     はは、と乾いた笑いを漏らしながら呟く。それになんだ、このミミズののたくったような字。まだまだ練習が足りないぞ。こんなんじゃ、表になどまだ出せない。
     大倶利伽羅がため息を吐くのが聞こえた。それが安堵の吐息にも思えたのだから、山姥切もそろそろ大倶利伽羅のことがわかってきたのかもしれない。ギシリと木の階段がなる。どうやらもう帰るらしい。
    「……おい、大倶利伽羅」
    「なんだ」
     まあ、礼の代わりである。山姥切は自分の目元を拭ってから、あの鋭い龍の瞳を見上げた。
    「この間燭台切が頼んできたお前の縁談の依頼状、書くのは引き受けたと伝えておいてくれ」
    「……馴れ合うつもりはない」
     フンと鼻を鳴らし、大倶利伽羅は階段を上っていった。
     山姥切は文机に向き直り、片っ端から手当たり次第に紙を抜き出す。それから息を整え、山姥切は真っ直ぐと筆を立てた。



     パンパンと軽く手のひらで洗濯物を叩き、彼女はそれを物干し竿に引っ掛けた。今日はいい天気だ、きっとよく乾くだろう。
    「お日様も元気ね」
     ふふと笑って見上げれば、きらりと光って眩しい。
     彼女の脳裏に、あの金色の髪がよぎった。そういえば、とてもよく似た色をしていた。よく晴れたお日様のような、髪の毛。あの布もたまには干したらいいのにと、実は少しだけ思っていた。いつも埃っぽく汚れて、叩けばくしゃみをしそうだった。
    「ええと、おひさまの、ひは」
     彼女は空に指を伸ばし、なんとなく人差し指で「ひ」の字を書く。どうだった、彼はどう教えてくれていたっけ。
     あの文房具店に行かなくなってから、もうすぐ一週間が経つ。大般若からは何の便りもないし、きっとこのままクビであろう。ともすれば、新しく奉公先を見つけなくてはならない。兄弟たちの学費や食費を、稼がないと。
     ……忘れないようにしなくては。彼女は伸ばした人差し指を再び折って握った。大好きな人に教わった字だ。生まれて初めて書いた文字。彼女が焦がれた、その字。
    「……いろはうた、だけじゃなくて」
     本当は、あの人の名前も書いてみたかったな。
     ほうと息を吐いて彼女が手を下げかけたそのとき、ぐっと手首を掴まれ空に戻される。紺の真新しい上着の袖口だけが目に入った。
    「ひ、の字は左右で高さを調節しろと教えたろう。手首を返して書くんだ」
    「えっ」
     まず左に上げて、曲線を描いて下ろす。手首を返し、右へ。「ひ」という平仮名を青空に描いた。
    「まだまだなっちゃいない。練習が足りない。一週間のうち手習いをきちんとしていたんだろうな。筆はなくとも地面に書けるだろう」
    「やっ、山姥切さんっ?」
     慌てて振り返って、彼女は我が目を疑った。
     え、誰だ。
     まずあの引き被っていた布がない。お日様と同じ色をした金の髪が風に揺れていた。翡翠色の瞳が何も遮るものなくこちらを見つめている。それに、以前はぼろだった服もすべてほぼ新品になっていた。紺の上着も、下の洋装もだ。
    「えっ、え……? 待ってください、え、布は」
    「……皆俺の布しか見ていないのか。大般若にも小豆にも謙信にも言われた。俺は俺だぞ」
    「服も」
    「これは……堀川の兄弟が繕ってくれたんだ」
     そうかもしれないが。呆気にとられた彼女が何も言えないでいると、ずんずんとこちらに歩み寄ってきた山姥切は何かを彼女の手に押し付ける。それは彼女には見覚えのある紙だったので、ぎょっとした。
    「いや、何でこれ返しに」
    「返すんじゃない、見ろ。何だその字は」
    「え、えぇ……」
    「まず、『す』だが輪の部分がなってない。本当にあんたは手首を使うのが苦手だな。『し』のはらいにも迷いがある。もっと思い切っていい。それから」
     たっぷり十分程度、山姥切は彼女の書いた曲がりなりにも恋文の添削をした。ひらがなたった十文字ちょっとでよくそれだけ直せるなという程度には。だんだん彼女が疲弊してきたころ、やっとその手習いが終わる。
    「……すみません」
    「まだまだ未熟だ、あんたの字は」
    「はい……」
     それをわざわざ言いに来たのだろうか……。彼女がちょっとげんなりしかけたとき、山姥切はハッとして彼女の手から手紙を取り上げる。
    「すまない。いつも兄弟に俺は夢中になると周りが見えなくなると」
    「そう、ですね……はい……」
    「……だから、あんたが来なくなってから、文机の周りが汚れて、いけない」
     ぐっと彼女の手を握り締めながら、山姥切はそう言った。
    「……え」
    「足の踏み場も、ものを書く場所もない。あんなところじゃ、たとえ書の依頼が来ても何も書けない。長半紙なんか到底広げられそうにないからな」
    「書の、依頼って」
     はっと彼女は息を呑む。
     翡翠色の瞳が、優しい光を宿して彼女を見つめた。
    「俺は、俺だ。写しだが偽者なんかじゃない。俺の書いた字は、俺の書は……胸を張って、傑作だといえる。ただそれだけだ。それだけでよかった。誰かが俺を写しと呼んだとしても、他の誰かが……俺の字を、好きだと言ってくれる。それで、十分だ。そう、わかった。あんたのおかげだ」
     指先にわずかに力がこもる。清々しそうに山姥切は一度深呼吸し、長く瞬きをした後、彼女に言った。
    「……それであんた、片付けは得意なんだろう?」
    「っはい」
    「じゃあ早く来てくれ。しなくちゃならない仕事が山ほどある。だがあそこは日当たりが悪い。地下には大般若に新しく窓をつけてもらうことにした」
    「本当ですか?」
    「ああ。湿気は本や紙にもよくないからな。そら、行くぞ」
     山姥切は彼女の手を握りなおし、先に一歩踏み出した。しかし「ん」と呟くと振り返って、彼女の手のひらになにやら字を書く。
    「ふ、ふふ、なんですか、くすぐったいですよ」
    「よく、覚えておけ。……好き、はこう書くんだ」
     のびやかで、それでいて力強く少し頑固な字。
     彼女の恋した、傑作の手蹟だった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/20 14:20:31

    写の手蹟

    #姥さに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    書庫で働く山姥切国広と奉公人の娘の話。

    pixivに掲載していたものの修正加筆版です。

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