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    兎の色彩


     生まれたときから、彼女の世界は真っ暗で冷たかった。だから毎日必死に手を伸ばし、届く範囲で掴めるものを探していた。誰でもいい、ただ、少しでもいいから指先に何か触れるなら。体温を持った暖かいなにかに、出会うことができたのなら。
     もうそれだけで、今まで生きていた価値がある。



     フンとひとつ、鼻を鳴らす。今日も感じる奇異なものを見る視線、不気味なものを見る顔、不愉快そうな目。見たければ御覧なさい。好きなだけ、穴が開くほど。何故ならそんなものたちの欠片も村正は気にもしていないからだ。
    「フフフ、そんなに気になるなら脱いで隅から隅まで見せたっていいのデスよ。ほうら」
    「やめろ村正! そんなことをいうからお前は勘違いをされるのだ」
     村正は悪ふざけをしただけのつもりだったのだが、後ろから結構な勢いでべしりと叩かれた。ひょこりと兎の耳のような頭頂部の髪が跳ね上がり、首ががくりとなった拍子にふわりと村正の桃色がかった赤毛が広がる。夕暮れ時の色をした瞳も相まって、その立ち姿はまだ昔なじみの町並みの中、異質なものとして際立った。
     鉄拳を食らわせたのは、村正と一緒になって買出しに出ていた親族の蜻蛉切だ。実直な蜻蛉切には村正の冗談やからかいが通じないことが多々ある。だから村正は肩を竦めておどけて笑って見せた。
    「冗談デスよ。大袈裟デス、蜻蛉切」
    「お前は冗談を冗談と思えんから困るのだ。早く家に戻ろう。お前も本意ではあるまい」
    「そんなことはありませんが、まあ、ファミリーの言うことは聞いておきまショウ」
     村正はわざと、その鮮やかな髪を翻して見せる。蜻蛉切はやや顔をしかめたが、何も言わなかった。
     村正の家はこのあたりの古くからの地主である。特に、村正の父はその家の跡継ぎ……だった。どうして過去形になるかといえば、その父はもう既に亡く、村正はその跡目ではないからである。なぜなら、村正の母は異国の生まれであったので。
     はーあとため息をつきながら村正は頭を振った。誰も彼も、余計な気を回しすぎる。
    「蜻蛉切は心配がすぎるのデス。ワタシはそこまで気にしちゃいません」
    「そうはいってもだな、今はお前もなりが大きくなったからそんなことはあるまいが、幼いころはそうもいかなかっただろう」
    「昔は昔、今は今デスよ」
     半分だけ異国の血を受け継いだ村正の容姿は、当然だが目を引く。それに加えて小さな頃は母と共に海の向こうにいた時期さえあって、言葉遣いも未だにやや拙い。そんな村正は、まだ古い風潮の残るこの土地では悪目立ちしすぎた。おかげで幼少の記憶は散々なものである。やれ石をぶつけられただの、その赤毛を引っ張られただので近所の悪ガキどもとよく揉めた。それを毎度止めに入っていたのが、今は同じく本家に住み、村正に代わって跡目を継いだこの蜻蛉切である。
    「当主が蜻蛉切になってからはましになりましたが、家の中にいるのばかりでは退屈デス。ワタシはもっと外に出ていたいのデスよ」
    「う、む。お前の気持ちもわかるが……俺にも立場と勤めがある。もうしばし、耐えてくれ」
    「……わかっていマスよ」
     今の蜻蛉切は、昔のように苛められる村正を助けに来ていた親族の一人ではない。このあたり一帯の地主であり、そこに住む人々を世話するのが勤め。そんな人々が胡乱な目で見つめる村正を、表に出してやりたいと蜻蛉切が思っても、その気持ちひとつだけですべてを進めるわけにもいかない。
     そしてそのことに誰よりも優しい蜻蛉切が一番傷ついているのも知っているから、村正はそれ以上何も言わないことにしていた。だから少し前を歩いていた村正は蜻蛉切のほうを振り返り、できるだけ明るい声で言う。まあ、今はこれでいい。これでも昔よりずっといいのだ。
    「フフ、幽閉同然に屋敷の奥に押し込められていたときよりずっと楽デス! 帰り道は遠回りをすることにしまショウ! 行きマスよ蜻蛉切!」
    「あっ、待て村正! 前を見て歩け!」
     どんと背中に何かがぶつかって、おやおやと村正は体をそちらに向けた。異国の血のせいか、村正は背が高い。どうやら小柄な女性にぶつかったようで、彼女は地面に座り込んでしまっていた。しまった、怪我でもしていないといいが。
    「ほら見ろ、言わんことではない。ご婦人、お怪我はありませんか。連れが失礼を致しました。村正、お前も謝るんだ」
    「スミマセン、起こしまショウ。手を」
    「あ……いえ、大丈夫です、えっと」
     僅かに彼女は顔を上げたのだけれど、すぐにまたその頭を下げて手で地面を撫でるようにし、村正の差し出した手からは目を背けた。幾分かそのことに蜻蛉切は眉を下げたのだけれど、村正のほうは慣れっこである。
     自分の容姿が如何に奇異なもので、傍から見ればどれほど不気味なのかは、よく知っているつもりだ。初対面の人間に避けられるのも初めてではない。
     だが、彼女は一向に立ち上がることはなく手で地面を探り続けている。再び村正は首を傾げた。指先で、土を辿っている様子はどう見ても普通ではない。村正が口を開く前に、蜻蛉切のほうが彼女を助け起こそうと手を伸ばした。
    「ご婦人、失礼をしてもよろしいですかな」
    「あっ、いえ、結構です。大丈夫です。ありがとうございます」
    「だが、御手が土で汚れているようだ」
    「大丈夫です」
     蜻蛉切の申し出にも顔を上げず、彼女はまだ座り込んだままでいた。流石に失礼ではないかと村正は眉間に皺を寄せ掛けたのだが、そこではたと彼女の少し先に転がっている包みと杖に気がつく。もしかして、あれを探しているのではあるまいか。
     それからはっとして、村正は蜻蛉切よりも先に地面に伏せられた彼女の手を掴んだ。
    「……アナタ、目が見えていないのデスか?」
     弾かれたように上げられた顔が、声を辿り村正に向けられる。その瞼は固く、閉じられていた。



     ザリ、と僅かに草履が音を立てる。その瞬間に三味線の音が止み、ぱっと彼女の顔が上げられた。短い髪がさらさらと揺れる。
    「村正さま? 村正さまですね?」
     できるだけ足音は立てないようにしていたのだが、彼女は非常に耳がよくすぐに気がついてしまうのだ。気づかれたことに村正がわたわたとしていると、彼女のほうが静かに三味線を置き、立ち上がると僅かに手を前に出して歩き出す。村正はぎょっとして慌てて音を立てて姿を現した。彼女の部屋は段差やら敷居やら、躓いて転びそうな造りが多すぎる。
    「こっ、ここデスよ」
     村正がそう言えば、彼女はにこりと笑って縁側のほうへ歩き出した。村正がいるのは中庭だと、正確に声を聞き取ったのだ。目の分は全て聴力で補っているというのは本当のようである。
    「あ、いらした! こんにちは村正さま、いつも迎えに来てくださってありがとうございます」
     瞼は硬く閉じたままで、彼女は器用に三味線を風呂敷に包むと杖と一緒に手で持った。まだ、村正は「それは持ちマスよ」とは言えないでいる。なんとなしに手を握って開いて、それからやっと踵を返した。
    「では、行きまショウ」
    「はい、今日もよろしくお願いします」
     彼女は今、村正の屋敷に三味線の師匠として通ってきている。
     切欠は、あの村正がぶつかった日のことだ。
    「申し訳ありません、お手間をかけました」
     立ち上がった彼女は蜻蛉切から渡された包みを受け取りぺこりと頭を下げる。どうやら目は一切見えていないらしく、本当に僅かだがその顔は蜻蛉切とはずれた場所に向けられていた。
    「いえ、すぐに気がつかず、自分こそ申し訳がありませんでした。念のため、落としているものがないか確認してもらえますか」
    「大丈夫だと思います、私の持ち物はこれだけですから」
     短い髪を揺らして、彼女は首を振った。それから手にしている包みを抱えなおす。それは結構な大きさなのだが先ほど蜻蛉切が拾ったときはさほど重そうではなかった。風呂敷にくるまれているため定かではないけれど、縦に長い形を見るにおそらく中身は三味線だろう。
     右腕でそれを抱えて杖を持ち、左手で何とはなしに彼女は着物の膝の辺りを叩いた。転んだ拍子に付いてしまったらしい土埃が軽く舞う。だが彼女の手もそれで汚れていたから、あまり綺麗にはならなかった。村正は蜻蛉切の後ろからそれを眺める。
    「本当にありがとうございました。あの……私を起こしてくださった方は」
     どきりとして村正は蜻蛉切の背に顔を引っ込めた。だが蜻蛉切のほうがさっと避けて村正を前に押し出す。ずりずりと村正が履いている下駄が音を立てた。
    「あなたを起こしたのは自分の親族で、千子村正といいます。根はいいやつなのです。村正、挨拶を」
    「ワ、ワタシは、別に」
    「せんご……村正さま、でよろしいですか?」
     彼女は村正が引きずられる音で正確にその位置を聞き分けたのか、一歩足を踏み出して真正面に立った。目を閉じたままだけれど、にこりと微笑んで頭を下げる。さらさらと短い髪が前に零れていった。白い項が日差しに眩しい。
    「ありがとうございました。とても、助かりました」
     蜻蛉切に小突かれるまで、村正は返事をすることができなかった。だからやっと、やっと言えたのはたった一つだけ。
    「……怪我がなくて、よかったデスね」
     すると彼女は顔を上げて「はい」と笑った。
     そのまま村正が何も言えないでいると、蜻蛉切のほうが珍しく饒舌に話し始める。
    「失礼ですが、お手にされているのは三味線とお見受けします」
    「あ、はい。私、最近このあたりに参りまして。三味線を教えることで生計を立てております」
    「おお、それは丁度いい。実は今、家に親族の娘がおりまして。嫁入り前に何か楽器をと思っていたところです。これも何かの縁、よろしければうちに」
    「蜻蛉切!」
     村正は慌てて蜻蛉切の着物の袖を引き、一度彼女から引き離した。突然何を言い出すのだこのファミリーは。だが蜻蛉切のほうはきょとんとした顔で首を傾げるばかりだ。
    「どうした、家に嫁入り前の娘がいることはお前も知っているだろう」
    「そっ、それはわかっていマスよ。でもあの子じゃなくたっていいでショウ」
    「だがこれも縁だ。そうは思わないか、村正」
    「で、でも」
     言いよどむ村正の肩を、ぽんと蜻蛉切は叩いた。その柔らかな笑顔は、善意に満ち溢れている。とてもじゃないがからかっていたり面白がっている風ではなかった。そのことに余計に口を開けなくなって、村正はきゅっと唇を引き絞る。
    「俺は鈍いほうかもしれぬが、お前の気持ちをわからないほどではないつもりだ。そうだろう、村正」
     そんなんじゃない、そんなつもりは……ないのだろうか?
     村正がちょっと悩んでいる隙に、蜻蛉切は彼女に三味線の稽古の約束を取り付け、送り迎えは村正がすることまで提案していた。自分は当主でなかなか手が空かないから代わりにとのことらしいが、あの真面目な蜻蛉切がよくもそこまで頭を回して口実を考え付いたものである。
     だがその裏に、村正がもっと外に出る理由を与えようとしていることもわかって、村正は結局何も言えずに黙りこくってしまったのだった。
     とにもかくにも、そういう経緯で現在彼女は村正の屋敷に通って来ている。週に二度、村正の送迎つきで。というのもやはり、目の見えないのでは危なっかしいのだ。今もトントントンと彼女が歩く数歩前を杖で叩く音がしている。
    「……見えないでいて、よく出歩けマスね」
    「え?」
     半歩後ろを歩いていた彼女に、ぼそりとした呟きは聞こえていたらしい。ぱっと顔を上げたので、村正はやや慌てて付け加えた。しまった、今のは聞こえ方によっては嫌味だ。
    「い、いえ、悪い意味では、ないのデスよ! 見えないのでショウ! 道がわからないのでは、ないかと」
    「ああ! なんとなくで、覚えてるんですよ。耳と鼻を使って」
    「耳と鼻、デスか」
     すん、と彼女は鼻で息を吸った。それから目を閉じたままであたりを見渡すのように首を回す。僅かに笑みながら、彼女は口を開いた。
    「あと二つ、角を曲がれば村正さまのお屋敷ですね」
    「!」
     村正は驚いてきょろきょろとする。確かに、今いる場所から二つ曲がれば屋敷だ。だがなぜ、わかったのだろう。するとそんな様子がまるで見えているとでも言わんばかりに彼女はくすくす笑った。
    「お魚屋さんの匂いがします。それから、潮の香り。村正さまのお屋敷は、海が近いですから。もうひとつ角を曲がったら、きっと小さくですが波の音がします」
    「そんなの、しマスか?」
    「しますよ。私には」
     ふふふと彼女は小首を傾げる。頬の辺りを、短い髪が揺れた。彼女の髪はその年頃の女性にしてはとても短く、頬の辺りでぱつりと切り揃えられている。確かに最近モダンガールだの何だの流行っているらしいと、村正も蜻蛉切から聞いているが、ここは帝都からも離れた海辺の町。そんな流行に則っているとは思えないし、何よりここではやや浮きがちな髪型だ。
    「なぜ、そんなに短い髪をしているのデス……?」
     何気なく、聞いてみる。すると彼女は言葉に迷ったように何度か唇を開けたり閉めたりし、それから顔を上げて答える。
    「あ……えっと、手入れが楽なんです。私これで割とずぼらなほうで。長い髪は洗うのとか、結うのとかで、私には面倒くさくて」
     嫌味になってしまわないかだけは一瞬考えたつもりだったが、村正は口を噤んだ。
     そりゃあ、そうだ。目が見えないのだから。日本髪など結えるはずもない。鏡を見ることができないのだ。よく見れば、彼女はほぼ化粧といえる化粧さえもしていなかった。凝ったお洒落など、彼女ができるはずもなかった。
     考えが至らなかった。自分にとっての当たり前は、彼女のそうではない。そんなことに気づきもしなかった。
     だが村正が黙っていると、彼女は敏感に村正が考え込んだことを悟ったらしい。慌てたように両手を振る。
    「だ、大丈夫ですよ? 最近は帝都のほうでも短い髪が流行っていると聞きます。私はこの髪で不便なんて全然ないんです」
    「そう、デスか」
    「はい! ……変に、気を遣われたほうがやりづらいんです。だから本当に、お気になさらないでください」
     それは、わかる。痛いほどに。
     混血児として、村正は生まれてこの方ずっと奇異の目に晒されてきた。見て見ぬ振りをするもの、逆に興味津々のもの、悪意を持った視線を向けてくるもの、様々にいたけれど。一番困ったのは、変に気を遣って、一人で罪悪感を抱えてくるものだ。
     村正は村正として、ずっと生きている。それは死ぬまで変わらない。そんな自分を受け入れているのに、傍で勝手に傷つかれているのはなんだか……自分を否定されている気さえした。
    「……ふふふ、わかりマス。ワタシも変わり者デスから」
     ああ、これでショウか。
     村正ははたと、彼女に抱いていた親近感の正体にたどり着いたような気がした。
    「え? 村正さまが? どうしてです」
    「それは……」
     答えかけ、はっとして口を噤む。
     彼女に、わかるはずがない。だって村正の奇異さは、視覚的なものだ。桃色がかった赤毛や、異質な瞳。耳聡い彼女のことだからもしかしたら話し方のイントネーションくらいは不思議に思ったかもしれないが、それだって地方の訛りだと思えば大して気にもならない。
     ……思えば一度だって、彼女は村正を異物として扱ったことはなかった。
    「村正さま?」
    「……いえ、行きまショウ」
     ザリと音を立てて足を進めれば、彼女はそれに付き従った。よいしょと彼女が三味線を抱え直したのを認め、村正は口を開く。それから手を伸ばして三味線を掴んだ。
    「持ちマスよ」
     今まで何故手を出さなかったのだろう、と疑問になるくらいに、それはあっさり持ち上がって村正の腕の中に納まる。彼女は一瞬ぽかんとしたようだったが、すぐに笑って軽く頭を下げた。
    「ありがとうございます、村正さま」
    「フフフ、女の人に重いものを持たせるわけには行きまセン!」
    「ふふ、村正さまは優しいですねえ」
     おっとりとした様子で彼女は笑う。その瞳は変わらず閉じられていたのだけれど、村正には暖かい視線を感じられた。それから行きまショウと再び足を進める。腕の中に新しく増えた荷物が、なんとなしに嬉しい。
     だから軽いけれど、どこかどっしりとした心地よい重みの三味線を村正はしっかりを抱えた……そのときだった。
    「きゃっ」
    「っ?」
     びし、と何かが村正の腕に当たる。それは彼女も同様だったようで、振り返ると彼女もまた二の腕の辺りを押さえていた。
    「どうしマシ……」
    「やあい、やあい」
     ハッとして村正は声のした方向を見る。村の悪がきどもだ。手に持っているのは小さな石である。どうやらそれを投げつけたらしい。村正は思わずそちらに一歩踏み出そうとしたのだが、彼女がそれを敏感に察知して手を伸ばし村正を止めようとする。
    「村正さま、いいんです、まだ善悪もわからない子どもですから」
    「そうかもしれマセンが」
    「私は大丈夫です、それより村正さまごめんなさい巻き込んで。お怪我は……」
     平気なものか。小石は彼女の手にも当たったらしく、そこは僅かに赤くなっていた。村正のほうがいっそ何もないくらいだ。大丈夫なんて言っている場合ではないだろう。一刻も早くここを立ち去るか悪がきたちを追っ払わなければと村正がどうするか逡巡したとき、ビィンと歪な音が響いた。
    「あっ」
    「……っ!」
     村正が手にしていた三味線。包んでいた風呂敷を突いて、子どもの投げた石がその皮を破ったのだ。その拍子に弦まで切れ、変な音を立てている。
     もう我慢ならない、村正はギッと髪を逆立てて子どもたちに詰め寄った。
    「子どもとて許されることと許されないことがありマス! 待ちなサイッ!」
    「ぅわあっ」
    「村正さまっ! 大丈夫ですかっ! あっ」
     普段どんな奇異な目で見られても動じない村正の剣幕に驚いたのだろう。子どものうち一人が無我夢中になって手にしていた石を投げ――それは彼女の頭に的中した。
     ガツンと音を立ててそれは彼女にぶつかり、その衝撃で彼女の体はくらりとよろめく。そしてそのまま地面に倒れてしまった。短い髪の隙間から赤い血がツウと一筋垂れる。村正は血相を変えてそちらに駆け出した。
    「っ大丈夫デスかっ! しっかりしてくだサイっ!」
    「村正っ! どうした!」
    「と、蜻蛉切っ!」
     なかなか来ない二人を心配したのか、向こうから蜻蛉切が走ってくるのが見える。一目で事情を察した蜻蛉切は、すぐさま倒れた彼女を抱き上げる。村正も慌てて穴の開いてしまった三味線と杖を抱えて屋敷へと走った。
     壊れた三味線はもう、音さえも立てなかった。



     村正の母は遠い国の人だった。父は舶来ものを仕入れる商人。元来、村正の家はそうして生計を立てて地主としてこの地で栄えた家だ。そうして渡った外つ国で、父は母に出会った。
     村正の覚えている両親たちはとても仲がよかった。生まれてからしばらくは異国の地で過ごし、それからはこの海辺の村で。父と母は幸せに暮らしているように見えた。それこそこの村では異質だった母だけれど、父と一緒ならば笑っていて。
     だが結局、心労が祟り、母は早世した。後を追うように、父も死んだ。そうして残されたのは、村正だけである。
    「……皆がワタシを変だと言いマス。でも、何故デス? ワタシだって、中身は皆と変わりやしマセン。それにワタシはとても、自分の髪や目を、気に入っているのデス」
    「……村正」
     母と同じ色の髪と瞳。父が嬉しそうに撫でてくれたそれ。ちょっと周り色が違うだけなのに。それなのにどうして。
    「皆がワタシを変わり者だと言う間は、それでも構いマセン。根も葉もなくとも、本当はそうでなくとも、皆にとってそうであるうちは、そうなのデス。ワタシは変わり者で、ヘン。そういうものなのデス。それでもワタシは構いマセン。本当のことは、ワタシや蜻蛉切が知っていマス。でも、彼女は」
     そうじゃ、ないのに。
     好きでそうしているのでは、ないのに。
     頭に子どもの投げた石が直撃した彼女は、気を失ってしまったため村正邸で手当てを受けた。蜻蛉切が医者を手配してくれて診てもらい、医者も軽い脳震盪だろうと言ったけれど……それでも、村正には解せなかった。
    「彼女には、ファミリーがいません……」
     どこにいても、いつも一人だった。
     目が見えないのに、あの敷居やら段差やらある家に一人きりで暮らして。村正が見ていないだけで、きっと転んだり躓いたりしただろう。鼻や耳がその土地に慣れるのにどれだけの時間を有するのだろう。そもそも、そこまでに至るまでに、一体どれほど泣いて、苦しんできたのか。
     村正には父と母はなくとも蜻蛉切がいた。前当主である祖父が村正を外に出したがらず、幽閉のようにして屋敷うちに閉じ込めていたときでさえ、蜻蛉切がいつも顔を見に来てくれていた。
     でも、彼女は。
    「……ならば、お前が傍にいてやればいいのではないか?」
     蜻蛉切が静かな声でそう言った。穏やかで温かい、そんな調子で。
    「あなたも大切な一人なのだと、そんな風に扱われていい存在ではないと……お前が教えてやればいいのではないか? そういう場所へ、連れて行ってやればいいのではないか?」
     村正の脳裏を、華奢で白い項がよぎる。
     短い、手入れに時間のかからない髪。自分では結えないから、美しく保てないから、ばっさりと切りそろえられている女の命。それを、梳いてあげられるようになりたい。倒れて土を探る手を掴みたい。耳と鼻を研ぎ澄ませて歩いているところに、手を差し伸べたい。
     もっと、楽しそうに笑ってほしい。
    「旦那様、目を覚まされたようです」
     家の女中が蜻蛉切を呼びに来た。どうやら彼女が起きたらしい。
    「うむ、そうか。……さあ、村正」
     村正は壊れた三味線を手にとって、立ち上がった。



     目が見えないのは、生まれつきだった。物心ついたときから、世界は真っ暗で冷たかったのだ。最初は指一本動かすのさえも恐怖で、足を踏み出すことなんて以ての外だった。でもそれでも、立ち止まっていることさえも世界は彼女に許してやくれなかった。
     無情に、ただシビアに、毎日毎日を生きろと。誰もいない真っ暗な世界の中で、彼女はそう強いられていた。
    「……そこにいらっしゃるのは、村正さまですね」
     鼻に届く、どこか遠い場所の香り。彼はいつも、不思議な匂いがしていた。
    「……痛む場所はありまセンか?」
    「ええ、大丈夫です。処置をありがとうございます」
     手のひらで地面を探り、体を起こす。じんわりと額の辺りが熱く、おそらくそこに怪我をしたのだろうなあと彼女はぼんやり思った。傷はどのくらいなのかなど、もう気にもならない。だって、どんな顔になっていたとしても彼女には見えないのだ。
     だからもう、そんなことは些事である。
    「それよりもごめんなさい、私のせいで、村正さままで石を」
    「……何故? 何故アナタのせいだなんて」
    「……あはは、私だって、わかってます。他の人から見たら、どれだけ私の姿が変かなんて」
     目を閉じ、杖で地面を叩きながら歩く姿が、周囲にどう映っているのか。小さいころはそれで苛められてきた。その行為や感情を肯定しようとは思わない。けれど、自分の心のどこかが最早抵抗を諦めてしまっている。だから、もういいのだ。
     彼女がそう答えても、村正は何も言わなかった。その代わり、しばらく時間を置いてから別な問いを投げかける。
    「どうして、ワタシだとわかったのですか?」
     ちょっと変わったイントネーションの話し方で、村正は彼女に問う。彼女は声のする方向を向いて、わずかに頬を緩めた。
    「村正さまは、不思議な匂いがするんです」
    「匂い、デスか」
    「はい。この村の潮の香りではないですし、森や林の木々の匂いでもない。どこか遠い場所の、匂いがします。初めてお会いしたときからずっと……だからわかります」
     それに、彼女にとって、村正は初めて触れた体温だった。
     今までどんな人も、彼女に同情こそすれ手を差し伸べることはなかった。そんな中で、初めてだ。生まれて初めて、村正は手を握ってくれた。
     あのときどれほど彼女が嬉しくて幸せだったか、村正は知らないだろう。きっと一生忘れられない体温だ。
    「……数日中に、私、この村を出ようと思います」
    「っそんな」
    「いえ、慣れてるんです、私。だってしょっちゅう迷惑をかけますから。ご近所の方はもちろん、他にも人にぶつかったり、渡されているものや示されているものがわからなかったり。手間がかかることはよくわかっています。三味線も壊れてしまいましたし。直すためにも、別な場所に行かないと」
    「一人で、行くと言うのデスか」
     村正の問いに、彼女は頷いた。ずっとそうしてきたことだ。今更何も、怖くはない。
     居住まいをただし、彼女は村正の声がするほうに指を突いて頭を下げた。もう二度と、会うことはないだろう。村正は地主の縁者、きっとこれからここで順風満帆に生きていく道筋がある。なら自分は、それを影ながら祈りたい。瞬きのような短い時間、彼女を気にかけてくれた感謝をこめて。
    「村正さま、本当にありがとうございました。……私、村正さまと出会えてよかったです」
     どうか、これからのあなたの日々が幸せに満ちていますように。
     しかし彼女が頭を上げると、温かな指が彼女の手に触れた。その手はゆっくりと彼女の手を包むように握り、するすると衣擦れの音が耳に届く。あの不思議な香りが強くなったのを感じて、彼女は先ほどより村正が近くに来たのだと気づいた。
    「村正さま……?」
    「……ワタシも行きます」
    「え?」
     予想外の台詞に、彼女は思わず変な声を上げてしまった。
     行く? 行くとはいったいどこに。だが村正のほうはしっかりと彼女の手を握って、離そうとしない。
    「アナタと行きます。ここが辛いなら一緒に他の場所に行きまショウ」
    「えっ、村正さま? 何を」
    「ワタシの髪に、触れてみてくだサイ」
     理解が追いつかないでいると、彼女は村正に手を引かれた。フワリとした何かに指先が当たる。促されるままに、彼女はそれに触れた。
     なにやら、自分の髪よりずっと細く、そして長い。何度か指で梳いて感触を確かめていると、村正は今度は別な場所に彼女の手を導く。
    「……本当は、ワタシの髪も、目も、今アナタが触れている肌も、アナタのものとは違う色をしているのデス」
    「え……?」
    「ワタシの母は、異人デス。だから、あの石はアナタだけに投げられたものではないのデス。アナタはワタシを一度も変わり者として見ませんでしたが……ワタシも、アナタと同じデス」
     ゆっくりと、彼女は両手を伸ばして村正に触れた。指先にすべらかな感触が伝わる。輪郭をなぞる様にすれば、同じように呼吸をしているのがわかった。
    「口と鼻が……ひとつ」
    「……はい」
    「目が、ふたつ」
    「……フフフ、はい。アナタと同じデス」
     ああ、なんだ。本当だ。
     同じではないか。
     はは、と僅かに笑みが零れた。村正の手もゆっくり彼女の頬に触れる。村正の手は大きくて、彼女の顔はすっぽりそこに納まってしまったのだけれど。同じように、暖かい手だ。
     じんわりと、目の辺りが温かくなる。それは彼女にとっても久方ぶりの感覚だった。だがもう何年も、何年もずっとそれを探し続けていたのだ。真っ暗な世界に、光の差し込む日を。
    「ああ、私……」
    「何でショウ?」
    「生まれて初めて、何かを見たいと思いました」
     ほろ、ほろと閉じたままの瞼から涙が滴り落ちた。するとフフフと楽しげに村正が笑う声が聞こえてくる。
    「まだまだたくさん見たいものが増えマスよ! なんたってワタシと一緒に行くのデス! 日本中をめぐって、いずれはワタシの母の国まで行ってもらわなくては困りマス!」
    「ええ? 海の向こうですか?」
    「もちろん! 親御さんに挨拶というやつデス! ……ワタシがアナタの目の代わりデス。全部全部、どんなものがあるのか隅々まで教えてあげまショウ」
     くすくすと彼女も笑った。その拍子に、涙で浮いた瞼がもう十何年かぶりに開く。ひやりとした新しい空気が瞳に触れたのがわかった。
    「おや」
    「え?」
    「アナタの目……」
     暖かい村正の指が涙袋の辺りをなぞる。なぜだろう、見えないはずなのに、彼女には今村正が一体どんな表情をしているのか、わかる気がした。
    「とても……綺麗な目、デスネ」
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/20 13:06:31

    兎の色彩

    #村さに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    混血児の千子村正と目の不自由な女の話。

    pixivに掲載していたものの修正加筆版です。

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