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    紅の原石


     いつだって、その人に会うために帰ってきたと言っても、彼女にとっては過言ではなかった。
    「清光君!」
     列車から飛び降りるようにして駆け出る。長い振袖が邪魔だった。改札の外でよかったのに、中まで来て待っていてくれているのが車窓から見えたのだ。
     鮮やかな深い赤の着物。あんなに美しい色が似合う人を彼女は他に知らない。
    「あ、おかえりー!」
    「迎えに来てくれてありがとう、清光君も忙しいのに」
    「いーのいーの、あんたが指名してくれたおかげで俺も気晴らしに外出れたし。あ、あんたとか言ってるの聞かれたら怒られるか」
     悪戯っぽく清光が笑ったので、彼女も口元を押さえてふふふと笑った。すると彼女の手から鞄を取って、清光は歩きだす。恐らく外で車が待っているだろうから、人目を気にせず二人でいられるのはそこまでだ。
    「ちょっとは仕草が女の子らしくなったじゃん、全寮制の学校行った甲斐があったんじゃないの?」
    「もうー、清光君一言多い」
     長い学生生活だった。実家の呉服屋を離れ、寮のある女学校へというのは両親の希望。彼女は一人娘だったからである。戻ればきっと婿選びが始まるだろうことを彼女は知っている。
     けれどたった一人、それでもただ、家の呉服屋で働く青年に会いたくて彼女は帰ってきたのだ。



     物心ついたときから、加州清光は既に彼女の家へ丁稚奉公へ来ていた。働き者で器量よし、てきぱきとしているので両親も番頭も清光を気に入っていた。その上さほど彼女と年齢が変わらなかったので、余裕のあるときはたまに遊び相手もしてもらった。一つか二つ上の清光は彼女にとってお兄さんのような存在でもあった。
     あまり友達を作るのが得意ではなく、うまく学舎の子どもたちと馴染めなかった彼女は幼いころよく泣きながら家に戻っていたが、その度に清光が襷がけをした着物のふところから飴を取り出して慰めてくれたものである。前掛けをした清光はその頃もういっぱしの奉公人だったが、嫌がることもなく彼女の面倒を見てくれた。
    「しょーがないって。あんたはこの家のお嬢様で、寺子屋にいるのなんか殆ど近所のガキどもでしょ? あんたと話も合わないし、住む世界が違うの、諦めな」
    「でも、お父様もお母様も、皆と仲良くなさいって」
    「無理無理、もうちょっと大きくなってお嬢様学校行くまでは俺で我慢しときな。そこ行ったらさ、たぶんあんたと同じ世界のお嬢さんたくさんいるし嫌でも友達出来るから。ね?」
     べそをかく彼女の傍に、いつも清光は屈みこんで話してくれた。清光は手先が器用で、店では評判の針子だったのだ。だから指先もとても綺麗で、清光はその手で彼女の頭を撫でてくれていた。
     別に、同い年の友達などいなくても構わなかった。ただ両親から友達を作る練習をしなさいと言われた手前、そうできなかったのが申し訳なかっただけ。けれどそれで清光が構ってくれるならまんざらでもない。
     だから本当に全寮制のお嬢様学校に行くことになったときはとても寂しかった。盆や正月しか家には帰れなかったし、その頃家は特に忙しい。盆は浴衣、正月は晴れ着の需要がある。おかげで清光と話せることは殆どなかったのだ。
    「いや、最近はいつもなんとなく忙しいですよ」
    「え、そうなの?」
     駅からの道すがら、助手席に座った清光が言う。彼女は後部座席に鞄を隣にして座っていた。
    「最近は洋服も始めたから、俺も今洋裁習ってますし」
    「洋裁? 誰から?」
    「知り合いの伝手で、帝都の百貨店の腕のいい針子紹介してもらって」
    「へえ……」
     老舗呉服店の我が家が洋裁を、と彼女も窓の外を見た。確かに、しばらくぶりに見る帝都は少しの間目にしないだけで随分と様変わりしている。ガス灯、石畳、一度に西洋風に変わったものだ。
    「あ、だから帰ったらお嬢さんの採寸させてくださいね」
     清光が振り返って言った。赤い瞳がきらきらしている。清光は新しいことを学ぶのが好きなのだ。
    「え? なんで?」
    「俺が旦那様と奥様に頼まれてるんです。お嬢さんの見合い写真用に洋服仕立てないと。洋服と着物じゃ測るところ違うので、今までの寸じゃ作れないんですよ」
    「そう、なんだ」
     お嬢様。清光は切り替えがうまい。彼女と二人のときは「あんた」でも、皆の前ではきちんとした話し方をする。
    「俺も張り切って縫うので、任せといてください」
     にかっと笑って清光は言った。
     ……家のことを考えれば、女学校卒業まで見合いを保留にしてくれたのが不思議なくらいだ。ここが限度だと、わかっているのだけれど。
    「楽しみだな、洋装って着たことないから」
     清光の、仕立てで。
     ギッと車が止まる。先に清光が助手席から降りて、彼女の側の扉を開けた。
    「荷物は俺が持って行くので、お嬢さんは先に旦那様方に挨拶してきてください」
    「……うん、ただいま」
     そうして久方ぶりに、彼女は実家の敷居をまたいだ。



     銀行家、百貨店の御曹司、舶来貿易商の若旦那……はまあ想定の範囲内として、変わり種だと軍人だのもいた。呉服屋の一人娘の婿が軍人でいいのだろうか。まあ、食いはぐれはないかもしれないけれど。
    「そうは言ったって、軍人さんよ? もし死んだらどうするの? 私いきなり未亡人になってしまうわ」
    「あっは、まあ一応で持ってこられたやつでしょ、一応一応。ちょっと腕上げてくれる?」
    「ん」
     しゅっと音を立てて清光の手にした尺が襦袢の脇の下に回る。着物と洋服とじゃ測るところが違うと言う清光の言の通り、確かにいつもよりも色んな部分にその尺を当てられていた。清光はそれを書きつけながらうーんと考える。
    「よし、採寸終わり。まあ、ドレスは俺に任せといてよ。後は靴だな。靴は旦那様が、百貨店か長船のとこに行けって」
    「帝都の百貨店、かなり目新しくなったんでしょう? 楽しみ、清光君も一緒に来られる?」
    「俺? 店のほう見てみないと何ともなー。あ、待って帯は俺がやってあげる」
     着物を羽織れば、清光がやってきて帯を手にした。小さい頃からこうして清光が彼女の服は着つけてくれている。するすると質のいい生地が擦れて音を立てた。ありがとうと背後に回った清光に声をかける。
    「でもお見合い写真用の洋装、清光君が仕立ててくれるんでしょう? 合う靴じゃないと」
    「まーね。旦那様に聞いてみるよ。今請け負ってる仕事ないし」
    「じゃあ私が聞く、お父様に清光君がいいって言ってくる」
    「もー、我儘言わないの。はいできた、今日は花文庫ね」
     くるっと首を回してみれば、華やかな柄の振袖に似合う可愛らしい結び方が完成している。相変わらず器用で、きちんと帯の一番きれいな模様が表に来るように結び目が作られていた。
    「ありがとう、相変わらず器用だね清光君」
    「ふふん、ま、あんたの振り袖姿ももうすぐ見納めでしょ。婿もらうならさ。目いっぱい可愛く着ときな」
     結婚したら、振袖は着られなくなる。それは当たり前のことだ。そういう装いなのだから。
     彼女は自分の振袖の裾を指先で引いた。淡い桜色のそれも、実家で清光が仕立ててくれたものだ。もちろん、生地なんかはきっと両親が選んで縫ったのが清光というだけ。清光は店一番の針子だから、彼女が着るもののほとんどをそうしてくれている。小さい頃からずっと。
     両親に、靴を選びに行くのに清光を連れて行きたいと言えば快く許してくれた。センスもいい清光の腕を信用されているのだ。車を出してもらい、清光は前掛けを取って店先で両親に一礼してから彼女と同じ車の助手席に乗り込む。後部座席はいつも彼女一人だ。
    「普段使いできる靴も選びましょうか、お嬢さん。帝都に戻ってきましたし、最近はああいうのが流行りですよ、ほら」
     百貨店に行きがてら、清光が言ったので彼女は目を外に向けた。ああ、あれが噂に聞くモダンガールという奴だろうか。へえと彼女はそれを見た。今まで女学校で袴に振り袖姿の女の子しか見てこなかったから、かなり新鮮だ。
    「モダンガールかあ」
    「よければ仕立てますよ、俺が」
    「本当?」
     清光に任せておけば、初めて着る服も心配ない。ぱっと顔を明るくして彼女が言ったので、清光はくすくすと笑った。
     それにしても、随分腕を上げたものだ。元々清光は器用で、丁稚奉公からいっぱしの針子になるまでが早かった。最初は、床の掃除なんかをしていた男の子だったのにと彼女は清光の顔を斜め後ろから見つめる。
    「清光君、うちに来てからどのくらい?」
     彼女が聞けば、うーんと清光は指を折って数えた。清光は彼女が物心がついたときにはもう店にいたのだ。だからそれなりの年数のはずだが。
    「もうかれこれ二〇年近くなりますね。旦那様が俺のこと拾ってくれたのが、俺が五つになる前のことですし」
    「もうそんなに?」
    「ま、お嬢さんが大きくなるはずです」
     悪戯っぽく清光は笑って、運転手にそこ曲がったほうが早いよなんて声をかけた。
     住み込みの奉公人は他にもたくさんいるけれど、清光に家族がいないことを彼女は早くに知っていた。繁忙期が少し過ぎた頃、お店の子たちは各々里帰りをする。けれど清光はいつでも店にいて、一人縫物の練習をしていた。仕送りの先もない、だから。それでも人当たりがいいから、どこかに仕事で出る先などで逐一知り合いや友人は作っているらしい。でも、家族はもういないのだ。
     それがどういう事情なのか、彼女は知らない。
    「あ、そうだお嬢さん」
    「え?」
     くるっと清光が首を回した。楽しそうな顔。こんな表情をするのは、清光が服の話をするときだ。
    「お見合いの振袖、また新しく仕立てると思いますけど。何色がいいですか?」
    「赤!」
     迷うことなく、彼女は答えていた。うわびっくりした、と清光のほうがやや後ろに下がる。だが腰を浮かし、前の座席に掴まって彼女は言う。
    「赤がいい、赤で作って、清光君」
    「は、はいはい、わかった、わかりましたから、座って、危ないから」
     驚いた拍子に口調がややいつもの通りに戻って、それから清光は襟足の髪を少し弄る。あれは照れ臭いときの清光の癖だ。
     後部座席に再び腰を下ろしつつ、彼女はその美しい指と艶やかな髪を見つめる。着きましたよと言われるまで、ずっとずっとそうしていた。



     ひとまずの見合い相手が決まった。
     帝都の百貨店を経営する財閥の次男坊である。呉服屋の一人娘にはちょうどいいということだろう。彼女からしてみれば「確かに」の一言に尽きる。
    「ちょっともったいないよね、清光君が仕立ててくれたよそ行きの洋装、本当に写真の為だけだったじゃない」
     シュッと小気味よい音を立てながら上等な反物をそのあたりに広げた清光は、彼女の言葉に振り返って首を傾げた。
    「そういうもんじゃない? いいとこのお嬢様の服ってさ。それにほら、あんたの見合い一度で終わるかわからないし? また着るかも」
    「……もう」
     悪戯っぽく笑う清光に、彼女は小さく返事をした。清光はすぐに縫製作業に戻る。今仕立てているのは、その見合いのときに彼女が着る振袖だ。
     赤がいい、と彼女が言ったので清光はあの日百貨店から帰るとすぐに赤い反物を出してきて彼女にあれこれ当てた。赤にも色々ある、淡いもの、渋いもの、深いもの。両親も一緒になって柄を選びつつ、決めたのが今広げられている深紅のものである。
    「赤はいいんじゃん、顔が明るく見えるしさ。おしろいの分青白く見えるのもカバーできるし」
    「そう?」
    「うんうん、晴れ着だしね。白は花嫁衣装だから、赤はいいよ。お披露目で着るにも縁起がいい色だし」
     縁起物が散りばめられたその反物を満足げに見下ろしつつ、清光はすぐに縫製に取り掛かり始めた。彼女はその背中を見つめる。黒い掛け襟の、緋色の着物。振袖と同じ色だとは気づいてはくれないらしい。
    「……あのね、清光君」
    「加州ー! ああ、お嬢さん、大声出してすんません。おっ、綺麗な着物ですな。きっとお嬢さんにお似合いになる」
    「あ、はーい! 今行きます!」
     ぺろっと捲れた暖簾から番頭が顔を出す。清光は手早く糸を一度留めた。一人娘の晴れ着を縫う大役と言えど、清光もいつまでも裏にこもっているわけにはいかないのだ。
    「安心してて、仕事の合間だけど、これは絶対縫い上げるから!」
    「あ、うん、清光君」
    「いらっしゃいませー、なんでしょう」
     パっと威勢よく暖簾をくぐり、清光は行ってしまった。こっそり隙間から店の様子を伺い見る。彼女くらいの年頃の女の子が、着物を選びに来ていた。清光が笑顔でその子と話している。
     仕事だけでなく、愛想もよくて会話もうまい清光はあんな風によくお客さんの相手をしながら希望を聞いて着物を仕立てていた。きっとあの子もそんな風にして清光に着物を選んでもらうのだろう。
    「……いいな」
     どんな安い生地でもいい、清光に一番似合うものを選んでもらえた女の子はとても幸せだろう。清光は、どんな相手でもこだわって着物を選んでいた。だからそれに袖を通したときは、気持ちが毬のように弾む心地がするだろう。
     彼女は振り返って、今広げられた自分の振袖の反物を見た。店にあったものの中でも、一等上等なものだ。両親も、その場にいた清光も「よく似合います」と言ってくれた。でもこれは、違う。彼女が嫁に行くために、見合い相手と会うために清光が縫ってくれるものだ。
    「同じなんだけどな……」
     あの店頭にいる女の子と、同じはずなのに。それどころか値段で言えば、何倍もするものなのは間違いない。
     でも、今あの女の子が選んでいる、あの着物が欲しい。
    「あー、鋏鋏っと、あった。……どうかした?」
     速足で帰ってきた清光が声を掛ける。じっと振袖を見ていた彼女は首を振った。
    「ううん、……楽しみだなって」
    「心配しなくても大丈夫だって、ちゃんと縫うからさ。店バタついてて騒がしいから、奥行ってなよ」
    「うん。ありがとう、清光君」
     ひらっと手を振って清光はまた店に出ていく。彼女はそれを見送ってから、目を閉じ賑やかな店の子たちの声に耳を澄ませた。こんにちは、いらっしゃいませ。ああ、よくお似合いですね。明るく、楽しげな声。
     呉服屋なんて、着物の時代が終われば廃れるものなんじゃないかと彼女は少しだけ思っていた。自分の家が、随分昔から続く店で旧いものだとわかっていたからだ。けれど両親の考えが柔軟だったことが幸いして、今は洋裁を取り入れ、良家のお得意さん相手から間口を広げたことでさほど経営に心配はないと聞く。
     この時代の変わり目に、幸福なことだ。有名な華族様や貴族様が没落するようなこの世の中でも、彼女は何の不安もなく裕福に、両親に愛されてここまで育ってきた。体制を変える前苦しかったときも、店子たちを一人も解雇せずにずっと雇い続けている父を、丁稚奉公で来ている小さな子に優しく接する母を、彼女は尊敬している。
     だから、いけないのだ。
     彼女は幸せに結婚して、お婿さんを貰って、この店を続けていかねばならないのだ。
    「百貨店の次男坊さん、うちを気に入ってくれるといいな」
     ぽつりと口に出す。まるごと、気に入ってくれるといい、彼女ごと、この店のこと。ここで働く人たちのこと……清光のこと。
     彼女は静かに奥の自分の部屋に戻った。そこでは清光のいらっしゃいませは聞こえなかった。



    「すみませーん、清光いますか?」
     昼下がり、勝手口の方から声が聞こえたので彼女は顔を出した。客は店の暖簾をくぐってくる。勝手口から入るのは店の奉公人と卸問屋だ。青い着物に白いたすき掛けをした後ろ姿が目に留まったので、彼女はパっと顔を明るくした。
    「安定君!」
    「あっ、お嬢さん、久しぶり」
     それは以前彼女の店に丁稚奉公に来ていた青年の大和守安定だった。当時清光と同年代の少年だったので、喧嘩したりなんだりしつつも仲の良い友人同士だった。その後年季明けに布問屋の方へ奉公に出たが、布と呉服とで繋がりがあるため今でもたまに店には顔を出す。
     手に何か包みを持った安定は、にこにことしながら彼女の方を振り返った。全寮制の学校に行ってからは安定と会う機会がぐんと減って、いくらかぶりの再会になる。
    「久しぶりだねえ」
    「お嬢さんが学校に行ったきりだよね。帰ってきてたのは知ってたけど、ちょうど会えて嬉しいよ」
    「うん、私も。清光君に何か用だったの? 今お店に出てて」
    「あーっ! ばっかお前表から来いって言ったじゃん!」
     彼女が言うよりも早く、ダダダと足音を立てて清光が店から走ってきた。掛けていた黒い襷が彼女の鼻先を掠める。
    「え? そうだっけ」
    「そうだよ! 店の方が俺いるからそっちから来いって!」
    「でも普段、お前問屋なんだから勝手口のほう使えって清光言うじゃん」
    「だってこっち使ったらおじょ……」
     そこまで言ってからぐるんと清光は首を回した。襟足で結った髪が同じように円を描く。
    「私が、どうかした……?」
    「なんっでもない、なんでもないよ、俺あとでお茶持ってって上げるから、あんた部屋で待ってなよ、三時のお菓子」
    「えぇ……?」
     清光はもう一度だけ安定に馬鹿と叫ぶと、安定が持っていた包みをひったくって店に駆け戻って行った。最近忙しいのだ。
     嵐のように来て出て行った清光に呆気に取られていると、安定の方がくつくつと肩を揺らしおかし気に笑いだす。笑うような話題はなかったはずだがと彼女が首を傾げると、安定はひらひらと手を振った。
    「もー、自分で急いで持って来いって言ったのに、なんだあいつ。ねえお嬢さん」
    「えっと」
    「聞いたよ、お見合いするんだって。おめでとう」
     安定にそう言われて彼女は面食らった。どうして、と問う前に清光から聞いたのかとすぐに気づく。
    「ありがとう……って言ってもまだ結婚が決まったわけじゃないんだけど」
    「お嬢さんなら大丈夫だよ。お嬢さんは賢いし、器量よしだし、なにより清光が晴れ着縫ってるんでしょ?」
     そこまで聞いているのか。彼女は曖昧に笑って肩を竦めた。せっかくだから上がっていくか聞いてみたが、安定は首を振る。彼とて奉公人なのだから、彼女のところで油を売っているわけにもいかないのだろう。
     だが賑やかな店先の方を見つめて、安定は瞳を和らげた。それから「ねえ」と彼女の方に向き直る。
    「清光のこと、頼むね、お嬢さん」
    「清光君のこと?」
     お店じゃなく、と問い返せば安定は優しい笑顔で頷く。
    「うん、よろしく。あいつ、いつか叶えたい夢があるんだって言ってたから」
    「……それって」
     何、と彼女が問おうとすると、ちょうど外で時報の鐘が鳴って安定は慌てて履物の踵を直した。
    「じゃあ僕戻らなきゃ。結婚が決まったらお祝い持ってくるねお嬢さん!」
    「あ、安定君、来てくれてありがとう」
     またねなんて元気よく安定は出て行った。
     清光の夢……? そんなの聞いたこともないし、考えたこともない。彼女はやや俯いた。見合いはもう、明日に迫っていた。
     その日の夜更け、不意に目が覚めた彼女は水を飲みに、上着を羽織って部屋から厨の方に出た。日付がもう変わっているらしいと時計を見て気づく。どうにも、落ち着かなくて起きてしまったようだった。もう、今日か。なんだかぼんやりとしか実感がない。もちろん、まだ結婚すると決まったわけではないのだが。
    「あれ……?」
     店の方が明るいと、暖簾の隙間から漏れ出た光が目に留まる。こんな時間に、まさか盗人では。
     人を呼ぼうか考えたが、ひとまず確認をするために彼女は手燭を持ってそろりそろりと近づいた。両親は寝ていた。寝室の隣を通ったからわかる。ともすれば一体、と身構えて覗き込み……ほっと胸を撫でおろす。
     緋色の背中が、温かいろうそくの明かりに照らされていた。
    「なんだ、清光君かあ……」
    「あれ? あんたどうしたの、もう夜中だよ」
    「清光君こそ」
     手元を見れば、彼女の振袖を縫っている。もう完成間近だった。
    「あと少しだから、大丈夫。明日にはできてるよ」
    「……もしかして、夜中にずっと縫ってた?」
     最近、店は忙しかった。奉公人の清光は、朝早くから店に出て働き、仕事の分の着物を縫い、夕方になれば後片付けをする。一体いつ、自分の着物を仕立てているのだろうと思っていたのだ。まさか毎晩。
    「平気平気、俺結構縫うの早いし……いや、雑ってわけじゃないからね?」
     そう言う間も手を止めることなく、清光はするすると質のいい絹の生地に糸を通していく。蝋燭の火にきらきらとそれは反射した。
    「ふふ、わかってるよ……ごめんね」
     彼女が手燭をやや遠くにおいて座り込めば、清光は手を伸ばして座布団を一枚取った。
    「冷えるから、少しだけだからね」
    「うん」
     糸が布を通る音、清光の指が動く音。彼女はじっと忙しなく、けれど丁寧に動く指先だけを見つめていた。小さいころからずっと、そうしていたのだ。
     あるとき清光が縫っていたのは彼女が寺子屋に持っていくための雑巾だったし、別なあるときは転んだ拍子にほつれてしまった彼女の着物の裾を繕っていた。
    「ねえ、あんた覚えてる?」
    「何を?」
    「あんたの着物の裾上げ。あれが俺が最初に触らせてもらった着物だった」
     ああ、と彼女も相槌を打つ。それには覚えがある。仕立てた着物が大きかったから、裾上げをすることにしたのだ。そのときの始末を清光がしてくれた。
    「俺、下働きだったから全然布とか触らせてもらえなくてさ。でも旦那様があんたの着物いじってみろとかいきなり言うから、俺すげえ吃驚して。緊張しながらやったけど、初めて触ったあんたの上等な着物はすごい柔らかくて、俺は縫ってるだけなのに、はしゃいでるあんたは可愛かった」
     裾上げなんて、しつけ程度でいいはずなのに。清光の縫い目がとても丁寧だったものだから、彼女ははしゃいだ記憶がある。まだ小さかったから、すごいすごいと無邪気に。
     そうか、あれが初めてだったのか。するすると絹の上を糸が滑る。
    「それから旦那様、俺を針子見習いにしてくれて。ただの丁稚奉公の下働きから、いっぱしの奉公人にしてくれた。有難いって思ってるよ、本当に。生きてる間に何とかして恩返ししたいって」
    「そんな、大袈裟だな」
     彼女が返せば、清光は眉を下げて微笑み、首を振った。ぴたりと手が止まる。
    「……もう、嫁入り前だからいいかなと思って、言うんだけどさ」
     穏やかで、けれどどこか低い声で清光がつぶやく。彼女は髪の一筋さえ震わせられなかった。
    「俺本当は、川の下の子なんだ」
    「かわの、した?」
    「そーそ。……見たことあるでしょ、川の下の、橋のとことかでさ。そういうとこで暮らしてる」
     あ、と。彼女は声に出さずに口だけ開けた。それからすぐに視線を下げる。何と言ったらいいかわからなかった。
    「まー、かなりましな方だったと思ってるけど。でもそういう中にいたのは変わんないからさ。手先が器用って理由で真っ当な、旦那様や奥様に拾われてあんたに出会ったのってすっごい……奇跡みたいなことなんだよね」
     彼女が想像もしたことのない暮らし。いや、できないようなものなのだろう。どんなに気持ちを巡らせても、きっと。
     知らなかった。家族がいないことはわかっていたけれど、それほどまでとは。一体どんな気持ちで、彼女やこの店のことを見ていたのだろう。何も困ることなく、不安になることもない彼女のことを。
    「だから俺、手先が器用でよかったーって本当に思ってる。おかげで食べ物にも着物にも、困らないところに来れた。こうしてあんたの着物も縫える。俺にはここで働いて、こうして畳の上で振袖縫うってすっごい、贅沢なことだから」
     清光は再び手を動かし始めた。するするという糸の音が、また夜の中で響き始める。彼女はやっと顔を上げて、清光の顔を見た。そこにいたのは、何も変わらない、いつもの清光だった。
    「お前の為にも黙ってろって、旦那様には言われたんだけど。結婚して、あんたが店を継ぐってことは。あんたがいつか俺の主人になるってことだから。内緒にしとくのはだめでしょ。だからさ」
    「清光君の」
     美しい布を手繰る、清光の手首を掴む。言葉を遮ったのに、清光は軽く首を傾げただけだった。
    「清光君の、夢って、なに?」
     何度か、ゆっくりと清光が瞬きを繰り返した。着ている着物と同じ、赤い瞳。その中でゆらりと蝋燭が煌めく。
    「……笑わないだろうな」
    「わ、笑ったりしないよ」
     じっとこちらを見た後、それでもふっと清光は視線を緩ませた。
    「ずっとこの店で働くこと」
    「……」
    「旦那様がさ、店の規模広げてもいいって言ってた。小さい店を他所に作って、そこでお前にももっと働いてほしいって。俺はこの店に恩を返したいから、独り立ちってんじゃないけど……。そうやって恩返しして、ずっとこの店で……旦那様が隠居なさったら、今度はあんたの傍で、働くこと」
     最後の玉止めをして、パチンと清光が糸を切った。ばさりとそれを広げる。美しい、見事な赤い振袖の完成だった。
    「ほら、できた。ちょっと合わせてよ」
    「……うん」
     寝巻の浴衣の上に来ていた羽織を落とす。浴衣一枚の上に、清光が縫ってくれた振袖を羽織った。帯も腰紐もないから、ただ前を合わせる。
     するとごそごそと清光が懐を探った。
    「これ、明日帯留めに」
    「え?」
     ちりめんの端切れで作られた巾着に入った何か。開けて中身を出してみれば、黒い帯紐と赤い珊瑚で作られた花を象った帯留めが転がり出てくる。
    「どうしたの、これ」
    「……ちょっと。探してたら安定が見つけてきたから」
    「あっ昼の」
    「ちが、あれはまた別……布頼んでただけだし……」
     ありがとう、と小さくお礼を言う。それから、作法として間違っているのを分かっていたけれどその帯留をくくった。
    「似合う?」
     尋ねた声が震えていないか気になった。ついでに言うと、涙が瞳から零れないか堪えるのも。
     清光も立ち上がって、一歩下がりこちらを見る。上から下まで彼女のことを眺めて、一度だけ息を吐く。
    「うん、すごい可愛い」
     唇を噛んで、手の甲で瞼を押さえる。だめだ、今泣いたら、朝目が腫れる。その言い訳を彼女はできない。してはいけない。
    「清光君の夢、いつかきっと叶うよ」
    「そうかな」
    「うん、絶対叶う」
     叶えられる、彼女が結婚して、この店の主人になれば。だから。
     そうして結婚するのなら、彼女の結婚にも世界一幸せな意味がある。
    「……汚れちゃうって。明日困るよ」
     清光は振袖を脱がせるようにして、けれどそのまま肩に腕を回して。一度だけ彼女を抱きしめた。
     いつも一歩下がっていたから、彼女はいつの間にか、清光が自分より頭一つ分も大きくなっていたのをその時初めて知った。



     ざわざわと色んな人が行き来する音が少し遠くに聞こえる。店のざわめきとは違う、もう少し大人しくて、洒落こんだ人々の声。彼女はそんな中で一人、ふかふかとした椅子に座っていた。
     見合いの場所に設定されたのは、一般的な料亭なんかではなく、その見合い相手の家の経営する百貨店のラウンジだったのだ。お得意さん用の特別待遇室に通され、彼女は座っている。家族も別室で、彼女だけだ。それがいいと向こうから言われたらしい。
     がちゃと扉が開いた。今この部屋に入ってくるのは、見合い相手だけだ。彼女は顔を上げてそちらを見る。立ち上がろうとすると「ああ、いいよ」と手を挙げられた。深緑の上着を軽く羽織った、清光より少し年上に見える青年だった。
    「ごめんね、一人で心細かったかな」
    「いえ、あの、初めまして」
    「うん、初めまして。僕が松井、松井江。貴方の見合い相手。よろしくね」
     落ち着いた調子で話す人だな、と彼女は最初に思った。さらりと切りそろえられた髪が揺れる。それを耳に掛ける指は、清光と同じように整えて色を塗られていたけれどそれは不思議な青色をしていた。
     松井江と名乗ったその人は、特に何をするでもなく用意されていた紅茶を飲む。すらりと伸びた足を組んで、カップとソーサーを手にしっかり寛いでいるので彼女は口を開いた。今日は一応見合いのはずだ。
    「あの」
    「どうしたの?」
    「いくつか聞いてもいいですか?」
    「もちろん。今日は僕と貴方のお見合いだからね。ケーキもあるよ、食べる? きっと好きなものを出してもらえる。今呼ぶね」
     あ、今日が見合いだという自覚はあったんだ。彼女はホッと息を吐いた。すっかり忘れているような風に見えたのだ。
     パンパンと松井が手を叩くと、彼女には見慣れない洋風の女中さんがやってきて彼女に好みのケーキを聞いた。あまり食べなれないものだしと悩んでいると、向かいに座っている松井が身を乗り出す。
    「好きな果物はある?」
    「あ、えっと、苺」
    「赤くていいね。じゃあ苺が載ってるのを持ってきてあげて。僕もそれでいい」
     赤いといいのだろうか。すました顔の松井のことはよくわからなかった。女中がケーキを持ってくると、松井はありがとうと言って彼女に食べるのを促す。それを断るのも何だったので、彼女はその白くふわふわとしたケーキの皿を手に取った。
     それからいくつか聞いてもいいという言葉が生きているはずだと、彼女はフォークでそれを切り分けながら言う。
    「どうして、場所がここだったんですか?」
     彼女にとっても初めてのお見合いだけれど、でも一般的と言い難い場所なのはわかる。しかも家族と仲人とも隔離されているのだ。おかげさまで、彼女はこの不思議な相手と二人きりでいる。
     松井は手にしていたカップとソーサーを置いた。カチャリと華奢な音がする。
    「僕に兄弟が多いのは知っていると思うけど」
    「はい、あの、両親から聞きました」
    「うん。一番上はね、きっと気にもしないんだけど。末っ子もたぶん、世話焼きだけど僕が嫌がるのに首を突っ込む方ではないし。でも僕のすぐ下がね。僕がお見合いなんて知ったら、絶対に面白がって見に来るんだ」
     おや、と彼女は口元に手を当てた。まるで美しい女性のような整った顔の松井が、心底嫌そうな表情を浮かべたのである。それも、ひどく人間らしい、小さい子が苦手なものを食事に出されたようなものだった。
    「桑名にだけは教えてやりたくなくて黙ってきたけど、どこからか聞きつけてきそうで嫌だな……篭手切に止めるように頼めばよかった」
    「……ふふ」
     思わず笑えば、松井江は彼女の視線に気づいたのかやや唇を引き絞って気まずそうにする。ぐさっと柔らかいケーキのスポンジにフォークを刺している。恥ずかしかったのだろうか。
    「ごめんね、兄弟の話なんて聞かせて」
    「いえ、私、兄弟がいないので。新鮮で」
    「ああ……一人娘だって聞いたよ。いいな、静かそうだ」
     お愛想などではなく、松井が心からそう思って言っている風なのがおかしくて彼女はまた笑った。それにしたって、兄弟に見られるのが嫌で親も何もかも締め出して見合いをするなんて。見た目の印象よりずっと、松井は自由な人のようだ。
     今度はちゃんと切り分けながら、同じケーキを松井も食べている。少し気持ちが解れた彼女は、肩の力を抜いた。
    「実はお人形さんのような方が部屋に来たので、ちょっと緊張していました」
    「そう? 僕もお人形さんが椅子に座っているのかと思ったよ。綺麗だったからね」
     さらさらの髪を揺らして、松井も笑った。それからいくらか、他愛もない話をケーキを食べながら交わした。兄弟のこと、百貨店のこと、彼女の呉服屋のこと。生まれ育った環境、通っていた学校。彼女と松井の間には女学校か男子校かという差しかなかった。
     お茶も冷めて、ポットが空になった頃。松井がそのポットを振って彼女に向き直る。
    「それで、どうする?」
    「何をですか?」
    「僕と貴方のお見合い。一応どうするかって言うのも、あるからね」
     あ……と彼女はやや俯いた。そうだ、結論を出さなくては。
     いや、心は決まっている。彼女はそのために来たのだ。松井江が話の出来る相手でよかった。これで気の合わない人なら、もう少し覚悟をしなくてはならなかっただろうし……。
     けれど、たった一つだけ。一つだけ、確認しなくてはいけない。
    「お願いが、あるんです。それを聞いていただけるなら」
    「いいよ、言ってみて」
     ぎゅっと彼女は着物の袖を握った。赤い、振袖。彼女が追い続けた、見つめ続けた背中と同じ色。
    「結婚したら、お店と、お店の人たちも、丸ごと好きになってくれますか?」
     自分のことは、いっそどうでもいい。でも、あの店を残すことは考える人でなければ結婚できない。あの店をずっとずっと、続けさせてくれる人でなければ。
    「……」
    「お願いします。お店をずっと続けてくれるなら、他のことはいいので。それだけ。結婚する前に、約束してほしいんです」
     松井は驚いた風ではなかったけれど、じっと彼女のほうを見つめていた。
    「……経営が苦しいっていう話は、聞かなかったけれど」
    「それは大丈夫です、たぶん。絶対に松井さんのおうちにご迷惑はかけません。ただ、うちにお婿さんとしていらしていただくなら、どうか。うちの店と、店の人たちと、丸ごと好きでいてほしいんです」
     柔らかな椅子の上でうまく体を支えられない。けれどそれでも、彼女は体を二つに折るようにして松井に頭を下げた。
    「うちでずっと、働きたいって言ってくれる人がいるんです」
     ずっと、と。そう言った温かい声を覚えている。
     たった一度だけ抱きしめてくれた腕を覚えている。
     この着物を、毎晩縫ってくれた指先を、覚えている。
    「だからただ私が、あのお店をずっと残したいんです」
     きらきらと、彼女の思い出の中でいつも輝く人。美しい赤が誰よりも似合う人。傍にいて笑って、いつでも色とりどりの反物に囲まれて、はきはきと働いて。新しいことを学ぶときは、服のことを話すときは誰よりも嬉しそうな顔をしていた。
     これからもずっとずっと、もっと輝き続ける。まだまだ原石のような人。
     だから、自分は。
    「……それを、その誰かに言った?」
     彼女は答えられなかった。言えない。言ってはいけない。
     カツと石の床を松井の踵が打つ音がして、彼女の体が右に傾いだ。驚いて顔を上げれば、向かいにいたはずの松井が移動してきて隣に座っている。
    「一度言っておいで」
    「え」
    「初対面の僕に言えたんだから、大丈夫。一度言っておいでよ。本当に結婚するなら、心残りは残さないほうがいい。血の一滴も残さないくらい綺麗に、ちゃんとぶつけておいで」
    「……でも」
     ポンと一つ松井が彼女の背を叩いた。
    「そんなにきれいな着物を着ている美しい女の子なのに、断る男なんていないよ。大丈夫だから。それに、そんな風に思う相手だって、今頃黙っていられないんじゃないかな」
     ぎゅっと唇を噛んだ。
     この、一等綺麗な着物を彼女のために縫ってくれたのは。
     勢いよく立ち上がって、彼女は個室の扉を開けた。外に両親がいるのを知っている。だから彼女はそちらに駆けて行って、質のいい絨毯の上に膝を突く。驚いて何も言えなくなっている両親に、彼女は額をつけようとし……できなかった。ラウンジの入り口に、別な人影を認めたからだ。
    「……どうして」
     走ってきたのか、少し肩を揺らしていた。けれど何度か唾を呑むような動作をして、息を整える。真っ赤な瞳が真っ直ぐ彼女を捉えていた。
     彼女と同じように唇を真一文字に引き絞った清光は、いつもの黒の掛け襟でも緋色の流しでもなかった。黒いコートにベスト、しっかりとした服装で、彼女の隣に同じように膝を突く。
    「清光君、なんで」
    「……あんたばっかに、頭下げさせられるわけないじゃん」
     それだけ言うと、清光は正面に向き直る。床に綺麗に塗られた爪を着いた。
    「申し訳ございません、旦那様、奥様。お嬢さんを俺にください」
     しっかりと、はっきりした声で清光がそう言って形のいい額を絨毯に擦りつける。
     泣くのを堪えて彼女も同じように頭を下げた。他に誰も、何も言わなかった。



    「……あれだけ丁寧に縫って諦められないなら、そうするしかないね」
     よく通るその声に耳を澄ませながら、松井江は足を組んだ。紅茶はなくなってしまったし、ケーキも平らげたから。
     呉服屋の一人娘だと聞いていたから、いい着物で来るだろうと踏んでいたけれど。想像以上のものだった。松井は人の美醜に興味はないが、思いを込めて作られたものくらいはわかるつもりだ。あれはそうやって作られたものだった。それで店を残してくれと娘のほうが頭を下げるのだし、答えは一つだろうと踏んだのだ。
     あとは、彼らの覚悟ひとつの問題だろう。
    「松井ー、どうするつもりなのあれ」
     ひょこりと扉からもっさりした頭が顔を出す。一体どこから聞きつけてきたのだ。松井は顔をあからさまに顰めた。
    「なんで桑名がここを知ってるの」
    「同じ家のことだしね。篭手切もそわそわしてたから」
    「はあ……次は誰も知らない場所にする」
    「次があるといいよねえ」
     なんだ、自分だって独身のくせして。ふんと松井は鼻を鳴らした。いいとも何とも言っていないのに、すぐ下の弟である桑名は松井の正面に座って凭れる。
    「まあ……僕が振られたってことでいいよ。気にもならないし、袖にされた男になら縁談もそう来ないだろうし」
     松井がそう答えれば、桑名は頬杖を突いて低く言った。いくらか呆れて、かつ怒ったような声だった。
    「……結婚する気がない癖に。はっきりそう言えばいい」
     ふふ、と松井は笑ってラウンジの開けた窓を見る。決死の思いで見合いに来た彼女には悪いが、実のところはそうなのだ。
     結婚なんて、する気はない。できる身じゃない。足を組み直し、松井は再び事の顛末に耳を澄ませた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/20 16:30:48

    紅の原石

    #清さに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    呉服屋の一人娘と奉公人の加州清光の話。

    pixivに載せていたものの修正加筆版です。

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