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    蛇の瞳


    「う、ぐぅ……」
     元々、酒は強い方ではないのだ。世間で源氏の蛇だなんだと言われても、うわばみレベルなのは兄の方。膝丸はあまり、そういう席も含め得意ではない。だが立場上断るわけにもいかず、真面目な性格も手伝って、来れば勧められる飲んでしまう。だから今日も、膝丸は口元を押えて屈み、じっと吐き気をやり過ごしていた。
     まったく、苦手なことをうまく受け流す術を早く身に着けたいものである。でなければ酒を兄に鍛えてもらうべきだろうか。いいや、兄のペースで飲んでいたら早々に潰れるのは目に見えている、やめよう。
     そこまで考えたあたりで、また胃の辺りがむかむかして蹲る。幸いここは縁側で、万が一のことがあってもまあ何とかなるがそれは避けたい。何にせよ、暫く広間には戻れそうになかった。
     今日、膝丸は接待でここに来たのだ。別な商談に妻を伴っていった兄の代わりに、ということだから下手は打てない。それが、酒が回ってこれとは……なんと情けないことだ。
    「無理を押してでも、戻らねば」
     立ち上がろうとした途端、よろめいた。するとたおやかな手が肩のあたりを支える。
    「もし、大丈夫ですか?」
    「だ……」
     大事ない、というつもりだった。
     だが全ての言葉が引っ込み、膝丸は目を見開いて声の主を凝視する。
    「お武家さま、ですよね? 大丈夫ですか?」
     答えられずに口をはくはくとする膝丸を、声を掛けてくれた女は訝しげに見る。吐き気なぞ一気に失せて膝丸は今度こそ勢いよく立ち上がった。いきなりしゃんとした膝丸に、彼女の方が驚いたようだった。
    「……大事ない、失礼をした」
    「慣れないお酒は程々になさった方がいいですよ。顔色が優れませんね、どこかで休んで行かれますか? 必要なら店のものに」
    「いや、問題ない、大丈夫だ」
     くすくすと鈴を転がすような声で笑い、彼女は小首を傾げてそれではと立ち去る。三味線を手にしているからには、きっとこの酒屋に呼ばれてやってきた女なのだろう。何やらよい匂いがくゆって、するするという衣擦れの音が廊下の奥に消えた。
     その瞬間、膝丸の心臓は喧しく鳴り始める。どこかに行ったはずの吐き気は倍になって戻ってきて、だがその気持ちの悪さは酔ったそれとはまた別なものだった。
     それは一目ぼれ、だったのである。



     源氏の弟は蛇だ。兄の髭切が王者の獅子ならば、弟の膝丸は隙のない蛇。二人で一人の恐ろしい兄弟。世間一般で、膝丸はそう言われている。実際、兄の補佐をすることならば誰にも引けを取らないという自負が膝丸にはあった。……まあ、他に比較対象がいるわけではないのだけれど。
     だから生まれてこの方、膝丸は兄のことを第一に考えていた。それはすなわち家のことである。兄は源氏の家のことを何よりも優先する。だから兄を助けることは家の守りに直結することに他ならないのだ。
     そうして生きてきたのだけれど……最近は少し、勝手が変ってきた。何故なら膝丸と兄だけだった生活に、もう一人家族が増えたからである。
    「旦那様っ、旦那様ったら! 私、今日は姉さんに手紙を出しに行きたいんですっ! うしわかが大きくなってきたから帰りには首輪も新しくしたいし……だからとにかく離してください!」
    「そうつれないことを言わないで奥さん、今日は久しぶりに仕事がなくて退屈なんだ。相手してくれないの?」
    「相手なら四六時中してるじゃないですかっ! 急いで来てくれないと死んでしまうなんて言うから何事かと思えば!」
     犬も食わない喧嘩が聞こえてきて、膝丸は額に手をやる。膝丸の隣の部屋は兄の部屋だ。義姉の部屋は別にあって、寝室は義姉のほうにしているはずだが……。兄と来たらまた義姉を部屋に呼びつけているらしい。義姉の部屋に向かったのでは門前払いを喰らうと分かっていたのだろう。
     兄の髭切は結婚して、変わった。どこがどう変わったかと言われたら、変わったところがありすぎて説明に困るくらいに。だがそれは全て、いい変化だった。そしてその要因の全てが、義姉によるものだ。義姉は長い間髭切が見失い、永久に仕舞い込んでしまうはずだったものを全部引きずりだし、拾い集めたのだ。それは感情と言われるものだったり、思い出と言われるものだったり……総じて心と呼ばれるものだろう。
     そんなことをされたものだから、当然のことながら兄は義姉にべったりなのである。だから兄は義姉に嫌われるようなことは絶対にしないし、その為に仕事にも今までと違って人情的な手心が入れられるようになった。今まで少なからずそれに陰で傷ついていた膝丸にとっては、嬉しい限りである。
     しかし、だからと言って常に隣の部屋でいちゃつかれたのではたまったものではない。それに、義姉は実は最近まで入院していたのだ。兄が連れまわして無理をさせるわけにもいくまい。それを止めるのも自分の役目である。
     ため息を吐きながら膝丸は立ち上がり、仕方なしに兄の部屋の襖を開いた、のだが。
    「兄者ぁっ! 義姉上の迷惑になってはならんと何度、も」
    「きゃっ!」
    「ありゃ」
     一声掛けるべきだった。さぁっと顔から血の気が引くと同時に、耳と首のあたりが熱くなる。
     兄ときたら、既に義姉のことを畳の上に引き倒してことを始める寸前だったようだ。義姉は慌てて開けられていたシャツの首元を押え、髭切はきょとんとして膝丸を見る。
    「だめじゃないか、弟。部屋に入るときは声を掛けなきゃ」
    「それ以前に旦那様が問題なんですよっ! ごめんなさい膝丸さん、あの」
     髭切の下から這い出して、義姉が焦って膝丸のほうに駆け寄る。いや、慌てるのはわかるが先にボタンを留めてほしい。膝丸は目を白黒とさせてあわあわと両手を振った。とにもかくにも色々と謝ったり目を逸らしたりしなければ。いや、誰に、まず誰に謝る。
    「あっ、あに、いや、義姉上っ! 申し訳な、んっ!」
    「あっ、えっ? 膝丸さんっ?」
    「弟?」
     ぽたたっと鼻から何かが滴る。それは立て続けに零れて膝丸の白いシャツを赤く染めた。すると血相を変えた義姉が、膝丸よりも先に自分の袖でそこを押える。
    「は、鼻、血……?」
     義姉が目を瞬かせながら呟く。膝丸の口の中にも僅かに鉄錆の匂いと味が広がって、それが正しいことを悟った。鼻血だ。
    「……ああ、ごめんね。僕そこまで気が回っていなかったや」
    「は、はひひゃ?」
     義姉に鼻を押えらえれているため、うまく発音できない。いつのまにやら立ち上がった髭切が、義姉の背後から手を伸ばしサッと彼女のボタンを留め直した。膝丸はそれに心底安堵する。義姉よりずっと上背のある膝丸からは、かなり危なっかしい視界だったのだ。
     それから髭切は義姉が動けないのをいいことにするりと後ろから抱き着いて、うんうんと頷く。何を一人で合点しているやら膝丸には全く分からない。そしてそれは義姉も同じだったようで、若干重たそうにして義姉は髭切の方を振り返った。
    「そうだよね、今まで僕がずるずる結婚しなかったからお前のことは全部後回しだったし」
    「旦那様? それより女中さんに氷か何か頼んでもらえませんか? 鼻血を止めないと」
    「はひひゃ、はほふ」
    「ううん、これ氷なんかじゃ治らないよ。よいしょ、君の手が汚れちゃうから外すね」
     義姉の袖と入れ替わりに、髭切は膝丸の鼻に柔らかな手拭いを宛がった。「押えられる?」と聞かれたので頷いてそうする。既に義姉の袖はかなり血に染まっていて申し訳ない気分になった。髭切は別な手拭いで義姉を抱きしめたままその手を拭きはじめる。
    「何言ってるんですか旦那様、鼻血は冷やして止めるんですよ」
    「違うよ、弟は欲求不満なだけ。君の肌見て興奮しただけだよ」
    「よ……っ!」
    「はひひゃっ!」
     なんてことを言うのだ。膝丸は思わず叫んだのだが、その拍子にまた鼻血が垂れてきて慌てて押える。義姉がぎょっとした目でこちらを見ているのに気が付き、膝丸は小刻みに首を振った。断じてない、そんなことはない! 今後の自分と義姉との関係にも関わるので膝丸は現状出来うる限りの全力で否定した。
    「なひ、いや、ないぞ、俺は一度たりとも義姉上をそんな目で見たことなど!」
    「あ、うん、ちゃんとわかってるよ。奥さんに限ったことじゃないよね」
    「えっ、え……? 膝丸さん……?」
    「いちいち誤解を招くような言い方をしないでくれ兄者!」
     その物言いでは膝丸が誰彼構わず発情している色魔のようではないか。青ざめたと同時に血の気が引いたのか鼻血は止まった。何度か手拭いで押えて確認してから、膝丸は再度否定する。
    「断じて違う! 俺は別に……!」
    「でもお前、浮いた話の一つもないじゃないか」
    「へ……?」
     しっかと自分は妻を抱きしめながら、髭切はにこりと笑って繰り返す。
    「特定の女の人とお前が一緒にいるところなんて兄の僕も一度も見たことがないよ。お前のことまで気が回らなかったなあ、うっかりしていたよ。うーん、どうしようかな」
    「あ、兄者……?」
    「旦那様、それはどういう」
    「だからね、奥さん。君と僕が最近ずっと仲良くしているから、弟はそれに当てられちゃったってだけ。君の可愛い声でも聞こえちゃってたのかな?」
     今度は義姉が耳まで赤くなる番だった。義姉はいっそ羞恥で泣き出しそうな顔をして口をはくはくとさせる。それを否定できないところが膝丸にも辛かった。
     前述した通り、兄夫妻が寝室にしている義姉の部屋は膝丸の自室から離れている。だが同じ屋敷に住んでいることは変わりないのだから、たかが知れたことなのだ。もちろん、それで処理をしたことなど一度だってない。義姉は膝丸にとってそういう対象ではなかった。けれど膝丸だってそれなりの年齢の男なのだ。生理現象というものはあるし、聞きたくて聞いているわけではないのがまた辛いところなのだが……。
    「穴があったらもう埋りたいです……」
     憐れなことに義姉は顔を両手で覆って俯いてしまった。諸悪の根源でしかない髭切は「おおよしよし」なんて抱きしめて頭を撫でている。いや、ほぼほぼ兄者のせいなのだぞ。
    「あ、義姉上、すまない、その」
    「大丈夫大丈夫、心配ないよ」
    「心配だらけだぞ兄者!」
    「にしてもお前のことはどうしようね」
     こちらの叫びなんて一切気にしないで、マイペースここに極まれりといった兄が顔を上げたために膝丸はもう泣きそうになってしまった。どう、どうとはなんだ。これ以上何の辱めを受けるのだ自分は。既にもう先はないというほど気力も何もかもを持っていかれているというのに。
    「縁談を見繕うんじゃ時間がかかり過ぎちゃうなあ。じゃあとりあえずでもどこかに行って発散してくる?」
    「発散などと……」
    「行く当てはある?」
     当て……当て。
     そこでふと、膝丸の脳裏に涼やかな声が蘇る。
    「もし、大丈夫ですか?」
     僅かに薫る白粉の匂い。するするという上質な着物の衣擦れの音。こちらを見上げる、黒目がちの、目。
     かあっと再び膝丸の頬が熱くなる。だが今度のそれは気まずさや焦りから来るものではない。純粋な羞恥と照れである。
    「あ、その顔は当てがあるね」
    「えっ本当ですか旦那様」
     先程まで項垂れていた様子はどこへやら、髭切の腕の中でぱっと義姉が顔を上げる。そのあたりやっぱり義姉はまだ年若い女子、彼女がそういう色恋沙汰に首を突っ込み世話を焼こうとしているのは明白だった。
    「どちらのお嬢さんなんです? 膝丸さん」
    「い、いや、俺は」
    「でも弟にどこかのご令嬢と出会う機会なんてあんまりないだろうし……もしかしてどこかの店の女の人に入れあげてるのかな」
     何でこういうときだけ勘がいいのだこの兄は!
     膝丸は反論しようとしたのだ、自分が顔に出る性格をしているのはよくわかっている。そのときには既に、髭切はもうすべて合点が言った顔で頷いていた。頭を抱えて蹲りたくなったが、それは髭切が許してくれず、髭切はそのまま膝丸の手を取るとそこに財布を押し付けて言う。
    「行っておいで弟、丁度いいから泊まってきてもいいよ。僕は奥さんといるから。奥さんも入院していたことだし、久しぶりに夫婦水入らずで過ごすさ」
    「あっ、兄者ぁっ! そんなことを言っていつも義姉上といるではないかっ!」
     しかしこうなってしまうと、膝丸に決定権などないのは小さい頃から変わらないことだった。



     そういうわけで、今膝丸はその店の前に立っていた。
     わかっている、兄の進言など別に無視してもよかった。夜を過ごせる場所など女郎屋以外にもたくさんあるのだ。だが……心のどこかにやはりもう一度彼女に会ってみたいという気持ちもあって、結局こうなってしまった。何と意志力の弱い。大体、名前もわからないのに。
    「……飲んだ店で女郎を呼んでいた揚屋はわかったものの、どうしたものか」
     いつまでもこうして立ち往生をしているわけにもいくまい。せめて手がかりでもあればいいが、残念ながら何もない。膝丸が彼女について知っているのは顔くらいだ。
     困り果てて、せめてと膝丸は店の赤い格子の前をうろうろとし始めた。茶を引いている女郎はそこに並ぶはず。もしいれば、恥ずかしい話だがそこで声を掛けてなんとか……いた! 見覚えのある白い項と横顔を認め、膝丸は慌てて格子に駆け寄る。
    「あの、そこの! そこの、君!」
     感謝する八幡大菩薩! 膝丸は源氏ゆかりの神全てに謝辞を述べつつ、恥をかき捨てて格子戸の中に呼びかけた。明確に誰と指定しなかったものだから、その場にいる何人かが一緒に振り返る。しかし意中の少女もこちらを見てくれた。
    「……あら、いつかのお武家さま」
    「! 覚えていてくれたか!」
     するすると衣擦れの音を立てて、彼女は赤い格子戸のすぐ傍までやってきた。にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべて、手にしていた三味線を置く。それだけで膝丸の心臓は情けなく跳ね、何を言おうとしていたかなんて一気に吹き飛んでしまった。え、ええと、何をどう伝えるつもりだったか。
    「ふふ、今日はどうなさったんですか? お武家さま、お酒は苦手では?」
    「いや、その……今日は、だな」
     膝丸が言いよどんでいる様がおかしいのか、彼女はくすくすと笑っていた。髭切に言われた通り、膝丸は今まで女性と縁遠い生活を送ってきた。こういうとき、どう言ったらいいものかさっぱりわからない。何せ、女を買ったことさえない。兄はどうだか知らないが、膝丸はそう言った席に呼ばれてもひたすらにそんな空気を回避してきたのだ。
     だから花街に姿を現すことの少ない膝丸を、店の女たちは面白がったらしい。呼びかけに振り返った女たちの何人かがきゃっきゃと騒ぎ始めた。
    「あれってもしかして……」
    「膝丸様! 膝丸様だわ!」
    「今日はお兄様はいらっしゃらないのね」
     う、こういった姦しい雰囲気が苦手なのだ。
     膝丸は益々焦って困り果て、ううだのああだのよくわからないうめき声を上げるだけになった。しかし、彼女のほうは形の整った眉を顰めた。
    「膝丸……?」
     ぼそりとした彼女の呟きが、自分の名を呼んだのだと分かって胸を弾ませながらも慌てて膝丸は返事をした。
    「そっ、そうだ。俺の名は膝丸。源氏の惣領髭切の弟だ」
    「源氏の、惣領……」
    「そ、それで、君の名は」
     そうだ、まずは自己紹介からだ。膝丸はそんなことに思い至ってとりあえず彼女の名を尋ねた。しかし彼女のほうは見る間に険しい表情に変わり、すっくと立ち上がる。
     こういう場で名を聞くのは無粋だったのだろうか。急に変わった彼女の態度に膝丸が困惑していると、彼女は冷め切った目で膝丸を見下ろした。侮蔑、憤怒、嫌悪。そういったありとあらゆる負の感情の入り混じった顔だ。
    「……源氏の膝丸様とは知らず。馴れ馴れしい口を聞いて失礼いたしました。私はこれで」
    「な……っ、待っ、待ってくれ! っ店主、店主はおらぬか!」
    「あらあ、御指名よ? ふふふ」
     他の女が止めるのも聞かず、踵を返した彼女は奥に引っ込もうとする。膝丸は焦って店主を呼びつけた。それからその艶やかな姿を見失う前に、格子戸から彼女を指差し叫ぶ。
     今考えれば、よっぽどこの行為のほうが無粋だった。
    「あちらの女性を一晩買おう! いくらだ!」
    「へえ……へ?」
     忌々しそうな顔で彼女が振り返る。一体なぜだ、何故あんな顔で見られる。膝丸には訳が分からなかった。だが彼女は職務上、ああして言われてしまえばもう逃げられないはず。膝丸は何故だかやや困惑気味の店主に案内されるまま、けばけばしい暖簾の店内に足を踏み入れた。



     揚屋というのは本来、女郎の派遣業をしている店のことである。だから本当は、店の女が店内にある自室で客を取ることは殆どない。大抵はそういった趣旨の飲み屋に目当ての女性を呼ぶものだ。膝丸はそんな初歩的なマナーさえ知らずに揚屋に直接来てしまったらしい。ああせめてそのくらいは兄者に聞いておけばよかった。膝丸は額に手をやる。これでは初心者丸出しである。
     それに、一番大切なことを膝丸は髭切に教わらなかったのだ。
    「……君は、店の女ではなかったのか」
    「正しくは店の女ですけど。膝丸様の思ったような女じゃなかっただけです」
     こんなことなら知識のためと一度くらい花街に足を踏み入れるべきだった。気まずい空気が膝丸と彼女の間で流れる。
     女郎屋にいる女は皆、そういう女性だと思っていた。だから不本意ながらも、最初は金で買うという形を取れば話だけでもできると。だが膝丸は知らなかったのである。女郎屋にいる女性の中には、買うことのできない女もいることを。
     けらけらっと完全に馬鹿にした様子で彼女は笑い声をあげる。今日の義姉ではないが、膝丸は穴があれば埋まりたい気持ちだった。それも、今すぐにだ。
    「あははっ、禿も知らないイイトコ育ちのお坊ちゃんが、よくもまあこんなとこまで」
    「やっ、やめてくれないか……っ」
     そう、すなわち「禿」と呼ばれる女郎見習いの女である。
     膝丸が女郎だと思い込んだ娘は、まだ見習いだったのだ。
    「はあおかしい、一体どんな純粋培養を受けたらそんなことになるんでしょう」
    「……すまない」
     笑われても仕方のないことだ。自分だって、逆の立場だったら同じように笑うだろう。膝丸は苦い思いで目の前にある膳を眺めていた。
     本来ならば、まだ見習いの禿を買うことなどできやしない。だが、店主は膝丸の様子で色々察してくれたらしい。一晩は無理でもとりあえず一切、つまり線香一本分くらいならばと融通を利かせて彼女と膝丸を店内に通してくれたのである。
     情けない、非常に情けない。無知を晒した上に、同情で部屋を貸してもらうだなど。とてもじゃないが兄や義姉には話せそうになかった。膝丸は溜息を吐き、もう自棄になってとりあえず盃を空にする。それからやっと、まじまじと彼女を見つめた。
     確かに、彼女は髪を結い上げてはいるものの他の女郎に比べ、着物も髪飾りも質素なものを身に着けている。落ち着いて、よくよく観察すればその違いにすぐ気付けたはずだ。
     ひとしきり笑い終えた彼女は、はあと息を吐いてから完全に膝丸を侮蔑しきった顔でちろりと見る。
    「で、わかったでしょう? ここはそういうお坊ちゃんが来る場所じゃないですよ。お酒も苦手なことですし、お帰りになってはいかがですか?」
     見た感じ、彼女は義姉よりも少し若いようだった。だが年齢にそぐわない、やけに大人びた表情で彼女は話す。そのことに僅かに違和感を覚えながら、膝丸は一度咳ばらいをした。いかん、様々なことが立て続けに起きたせいで、当初の目的を忘れるところであった。
    「いや……俺は実のところ、その、君を買いに来たのは確かなのだが、別にそういう気持ちがあって来たわけではなくてだな」
    「……はあ」
     しどろもどろになっていても仕方がない。膝丸は意を決して自身のスラックスを握りしめると、一息に告白した。
    「君に……っ、一目ぼれ、して、しまって」
     うまい言葉は一つも思い浮かばなかった。だからもう、率直にそう伝えるしかなくて。情緒も何もないと分かっていながら、膝丸はただそう言った。
     彼女が一体どんな顔をしているのか気になり、恐る恐るだがか視線を上げる。それから……愕然とした。
    「……き、み」
    「は、ははは、あはははは! これ以上、何を、何を言いだすのかと思ったら、ああ、あはは、なんてこと」
     それは、何とも形容できない表情だった。先程までの侮蔑でも、嫌悪でも嘲笑でもない。面白がっているようで、悲しんでいるようで、その上で喜んでいるような苦しんでいるような顔。とにかく尋常ではないそれに、膝丸は思わず立ち上がり彼女の傍に寄る。生来、膝丸は真面目で、実直で、優しい性格をしていた。だから単純に、膝丸は彼女を心配したのである。そして彼女がそんな顔をした原因は、自分があまりに不躾で無知だったからだと考えたのだ。
    「す、すまない。情緒も何もなかったのは詫びよう。急に来て言うことではなかったな」
    「……っ違う! 傍に寄らないで!」
     伸ばした手を振り払われ、膝丸は凍りついた。今までそんなこと、一度だってされたことがない。
    「一体どうしたらそんなおめでたい発想ができるの! あなた本当に何も見ていなくて、何も考えていないお坊ちゃんなのね!」
    「どういう、意味だ」
    「私は源氏に潰された家の娘よ!」
     ヒュッと音を立てて、膝丸の喉の奥で息が止まった。
     なんだと?
    「やっぱり、覚えてもいないのね、あんなにも無情に潰して行ったくせに! あなたが源氏の蛇だなんて知ってたら最初から声なんて掛けなかったわ! わかったらさっさと出て行って! もう二度と来ないで、この人でなし!」
     膝丸はもうそれ以上何も言えず、ただ目を見開いて視線を下げるのみだった。



     がたりという物音で、彼女は目を開けた。部屋は暗く、まだ夜更けだと分かる。一体誰だろう、こんな時間に。女中が仕込みをするにも早すぎる。まだぼんやりとする頭でやや視線を上げれば、夫は既に目を開けていた。
    「……ありゃ、君まで起きちゃったんだね」
    「旦那様……?」
     彼女に腕枕をしたまま、髭切の目は襖の向こうを見つめている。じっと耳を澄ませているようだったので、彼女は何も言わなかった。なぜならその目は、獅子のものだったのだ。今自分が何を言おうとも、邪魔にしかならない。彼女はそう判断した。
     僅かの間髭切はそうしていたけれど、すぐにぎゅうと腕の中にいる彼女を抱きしめる。どうやら、物音の主がわかったようだ。彼女もまたふうと息を吐いて髭切を抱き返した。
    「どなたでした?」
    「弟かな、うん、たぶん」
    「あら、こんな時間に」
     今日は泊まりでいいと髭切に追い出されたはずだが。彼女が少し怪訝に思っていると、髭切もうーんと首を傾げる。
    「起きたついでで悪いんだけど、ちょっと君が様子を見てきてあげてくれないかな」
    「膝丸さんのですか?」
    「うん。僕じゃなくて君の方がいい気がするから。ごめんね」
     僅かに、彼女は何故自分なのか考えた。しかしなんとなしに自分も同じような経験があるなと納得する。なるほど、男兄弟ではいけないこともあるのかもしれない。彼女もまた女ばかりの環境で育ったからわかる。彼女にも、たおやかで優しい姉たちに甘えるのではなく、頼もしく背を押してくれる兄や弟が欲しいときがあった。
     体を起こし、髭切の腕から出る。上着を来ていくんだよ、と髭切が言ったから、彼女はその通りに羽織を取り襖を開ける。幸い月が高く昇っており、明かりは持たずとも廊下を見通すことができた。物音が聞こえたからには、膝丸は近くにいるはず。彼女が首を回せば、先の縁側に座り込む人影が見える。
    「膝丸さん」
    「……義姉上」
     彼女は膝丸の隣に正座した。うーん、何と言うか、どこか落ち込んでいる様子である。
    「すまない、起こしてしまったのだろうか」
    「いいえ、平気ですよ」
    「義姉上が一人で来たということは……兄者も起きているんだろうなあ、ははは」
     彼女はそれに曖昧に笑った。嫁いで来てからの付き合いになるが、この義弟、実直が過ぎてあまりに不器用なのはもうわかっている。そういうあたり、兄の髭切にもよく似ているのだ。ベクトルはまるで違うのだけれど。
     末っ子として育ってきたがために、彼女に義弟をうまく慰められるかはわからないが……まあ一か八かである。少なくとも、髭切が何の考えもなしに自分を膝丸のところにやったとは思えない。髭切は人を適材適所にやるのは何よりも得意なのだ。彼女は気を取り直し、髭切の顔を覗き込んだ。
    「旦那様には言いづらくても……私になら話せることはありませんか?」
    「……」
    「私も一応、膝丸さんの義姉ですよ。まあ、年下で頼りないかもしれませんが」
     一緒に育ったわけではないが、一つ屋根の下で暮らす家族である。彼女はスラックスを握りしめている膝丸の手を取った。すると痕になりそうなくらい眉間に皺を寄せていた膝丸が、躊躇いながら口を開く。
    「兄者には、どうか黙っていてほしいのだが」
     そう前置いて、ぽつり、ぽつりと膝丸は話し始めた。彼女は一言一句聞き逃さないよう、注意深く膝丸の言葉に耳を傾け……うわあと内心で頭を抱えた。
     何となく、様子から振られたんだろうなあくらいの目星は付けていたが、あまりに手酷すぎる。相手との数奇なめぐりあわせはもう諦めるしかないとしても、その他はカバーが効くミスだっただけに、これは膝丸にとってかなりの傷になったはず。出掛ける前に膝丸が照れるのを多少無視してでも、事前知識とか何とかを付けさせてやるべきだったと彼女は後悔した。
     それに……夫の髭切があまりにも異常だったものだから、気が付かなかった。
     膝丸もまた、何かが欠落している。幼い頃に何かを決定的に失っているのだ。
    「……それは、辛かったですね」
     膝丸の手を握り、彼女は呟いた。すると膝丸は小さな子どものように、瞳に涙をためてこくりと一度だけ頷く。自分より年上の義弟の背を撫で、肩を抱いてやりながら彼女は考えた。一体どうしたらいいだろう。ぐす、と鼻を鳴らす膝丸には一体何をしてやれる。
    「膝丸さんは今、何が一番悲しいんですか……?」
     そう聞けば、膝丸はごしごしと強めに目をこすり再び眉間に皺を寄せる。
    「俺は……っ、とても、恥ずかしいのだ」
    「恥ずかしい?」
    「俺は、兄者が忘れた分、自分が覚えているつもりだったのだ。手にかけた家も、相手も。だが言われるまで、俺は彼女が、自分が潰した家の娘だと気付かなかった。それなのにあんな、あんな無神経なことを……っ」
     うっとまた膝丸が言葉を詰まらせたので、彼女は慌ててその背を擦る。とにもかくにも元気を出してもらわねば。
    「じゃあ、じゃあ今の膝丸さんが、彼女に何をしてあげられるか考えましょう?」
    「今の俺がか?」
    「はい、そうです。膝丸さんはちゃんと、彼女を傷つけたってわかったんですから。何かしてあげられることがあるはずです。そんな境遇にあるなら余計に」
     幸い、彼女は恵まれていて今まで一度だって身売りをしようなんて考えたことはない。けれど、膝丸の恋した娘はそうではないのだ。家や家族をなくし、自分の身体を売るしかなかった。きっと不便や不自由はたくさんあるはず。傲慢だと言われても仕方がないが、それでも膝丸が娘に何かしてやれることがあるとすれば、そういったことしかあるまい。
    「諦めてしまえばそれまでです。出来ることから、したらどうでしょう……?」
    「……俺に、出来ること」
     涙声で膝丸は呟いた。数は少ないかもしれないが、膝丸に出来ることはきっとあるはず。そういうことの一つ一つを見つけて、繰り返すうち、きっと今はわからない膝丸の欠落もわかるだろう。彼女は膝丸の出方を待った。いくらか逡巡したようだったが、膝丸はぐっと唇を噛み締め勢いよく顔を上げる。
    「そうだな……そうだな、義姉上! 俺が彼女に出来ることもきっとあるはずだ!」
    「はい……! はい、きっとありますよ! 私もお手伝いします、一緒に頑張りましょう」
    「うむ、うむ……っそうしよう。早速明日から考えてみる。礼を言う、義姉上。……姉上がいらっしゃるというのも、よいものなのだな」
     やっと笑った膝丸はぎゅっと彼女の手を握り返した。それに安堵し、彼女も笑う。膝丸はくれぐれも兄に相手の娘の事情は言わないよう念を押して部屋に帰って行った。彼女もそれだけは膝丸に約束する。髭切に隠し事は難しいだろうが、今の髭切が膝丸の失恋した理由を聞けば、少なからず傷つくだろうことは予想できた。相手の娘の家が源氏に潰されたということは、髭切がそうしたということなのだから。
     部屋に戻る膝丸を見送り、彼女も寝室に帰る。羽織を適当なものに引っ掛けて布団に入れば、目を閉じていたはずの髭切がぎゅうと彼女を抱きしめ、冷えた足に自分のものを絡めた。どうやら起きて待っていたらしい。
    「先に寝ていてよかったんですよ」
    「もう君がいないと眠れないんだ、僕」
     とんだ甘えただなあと思いつつ彼女は髭切のふわふわとした髪を撫でる。髭切は気持ちよさげに目を細めると、ふうと息を吐いて彼女に聞いた。
    「弟、何だって?」
    「膝丸さんは女性に奥手のようですから。うまくいかなくて落ち込んでいたようでしたので、励ましてきました」
     下手な嘘では、髭切にはばれてしまう。だから彼女は誤魔化さずにそのまま伝えた。膝丸が奥手なのは事実だし、落ち込んでいたのも本当だ。髭切は特に不思議に思わなかったらしく、彼女の返答に「そう」とだけ言った。
    「あれは不器用だからね。もうちょっと気を抜けばいいのにっていつも思うよ」
    「あら、私は旦那様も人のこと言えないくらいには不器用だと思いますけど」
    「ええ? そうかなあ」
     不思議そうな髭切の様子にくすくすと笑いながら、彼女は髭切の体に腕を回す。髭切は彼女の額に口づけると、今度こそ寝直すようでそのまま目を閉じる。彼女もそれを見て同じようにした。しかし、髭切のほうが眠たそうな声で呟く。
    「弟はいいなあ……」
    「え?」
    「だって、お兄ちゃんだけじゃなくて君みたいなお姉さんまでいるんだもの。きっと色々、心強いよね……僕も小さい頃にほしかったな、お姉さん」
     それを聞いて、彼女はなんだか心臓の柔らかな部分を鷲掴みにされたような気持ちになった。きっと髭切にとっては何気ない一言だったのだろう。だが、誰も頼ることのできなかった小さい頃の髭切を思って、彼女は何となく苦しくなったのだ。
    「……私がいるのに、欲張りですよ」
    「あはは、そうか」
     ぎゅうと彼女は髭切を抱きしめた。どうか、髭切も膝丸も兄弟二人まとめて幸せになってくれるといいのだが。それはそんなに、難しいことなのだろうか。
    「おやすみ、僕の奥さん」
    「……おやすみなさい、私の旦那様」



     よし、と昨夜の様子とは打って変わって気合を入れ、膝丸はその店の前に立った。花街の前まで義姉が一緒に来てくれていたのだが、ここは女人にはなかなか居づらい場所だろうと膝丸が返した。無論、勝手に義姉を連れ出したとわかったら兄に叱られてしまうから家の送り迎え付である。
     とにもかくにも、義姉に手伝ってもらったおかげで今日の膝丸は装備十分なのだ。
     女郎屋、禿、恐るるに足らず! いざ!
     膝丸は昨夜くぐったけばけばしい暖簾を再び捲り、店主に用件を伝えた。
    「……あなた、耳か目でも悪いんですか? それか頭。真昼間からこんなところに来て」
     数分後、店内の一室に至極迷惑そうな顔をした彼女が入ってきた。一瞬その視線に怯むものの、 膝丸は気を取り直してしゃんと背筋を伸ばす。それから頭を下げた。
    「昨夜は本当に、すまなかった」
     まずは、謝ること。義姉は一番にそう言った。非礼を詫び、これまでのことも重ねて謝る。誠意を見せることが大切だと。
    「夜は、君も仕事で忙しいと思ってな。俺の用など取るに足らぬし、何より君も俺に割く時間などないだろう。だから昼に邪魔をした、すまぬ。それから、その……」
    「……なんですか」
     頭を低くしながら、膝丸は義姉の言葉を思い出す。ええと、謝罪の次は何だったか。義姉はなんと言っていた。やや焦り始めた頭で、膝丸は先程までのことを繰り返す。
    「そういうお店の女の子なら、きっと夜間はお忙しいでしょうし。朝はまだ眠たいでしょう。だからお昼前に訪ねるのがいいと思います。お話したいかもしれませんが、出来るだけ手短にね」
     車の中で、義姉がよく行くのだという文房具屋を目指しながらそう言った。膝丸は何故文房具なのかと問いたかったのだが、それよりは姉に任せておいた方がいいと判断し、とりあえず教えられたことを頭の中に叩き込む。
    「詫びの品はいいのだろうか、義姉上」
     文房具屋に着いても、高価なペンや万年筆を見るのではなく真っ直ぐに紙の売り場に行った義姉に、膝丸は尋ねた。その文房具屋は書店も兼ねているのか、本が多く置かれている。義姉は常連らしく、店員にいくらか見知った様子で話をしていた。それから地下に通してもらい、薄暗い木の階段を下る。
    「ものは初対面の、それも今は少し嫌っている方からもらっても……相手の子が困ると思います。ああ、落ち込まないで、膝丸さん」
    「う……っ、大丈夫だ、続けてくれ」
    「……でも、一つ。邪魔にはならないし、誠意を見せられるものがあるんですよ。そうやって少しずつ仲良くなってから、贈り物は考えましょう」
     にこりと笑って、義姉は膝丸に鞄から取りだした紙と筆記具を渡す。膝丸が何のことだかわからなくなっていると、義姉は地下の部屋をずんずんと進み、奥にいた誰かに声をかけた。
    「あっ、いらした! 山姥切さん、こんにちは。今日は義弟のことでお願いしたくて」
     義姉の声に反応し、文机に向かっていた人影が振り返る。その人物は頭から薄汚い布を引っ被り、顔の半分ほどを隠している青年のようだった。青年は義姉のほうを見やると、続けて膝丸に視線を向けた。所々端に穴の開いた布の隙間から、美しい碧眼が覗きどきりとする。
    「……ふん、久しぶりだな、あんた。弟がいたという話は聞いたことがないが」
    「義理の弟なんです。膝丸さん、こちらは山姥切国広さん。ここで随分前から働いているかたなの。それでね、山姥切さん、実はこういう事情で……」
     ごにょごにょと義姉はその汚れた布に顔を寄せて話をする。その間も、研磨された宝石のような瞳はじっと膝丸を見つめていた。一しきりいきさつを聞いたらしい青年は、はあと一つ溜息を吐いて義姉のほうを向く。先程から何やら親しげな様子だが、彼と義姉は一体どういう知り合いなのだろうか。場合によっては兄が穏やかにぶち切れかねないとそわそわしながら、膝丸はその様を見る。
    「あんた、そういうことに首を突っ込んでいると気苦労で早死にするぞ」
    「お願いできませんか?」
    「……はあ、あんたの頼みだ、仕方がない。おい、そこの、こっちへ来い」
    「お、俺か?」
     くいっと顎でしゃくられ、膝丸は慌てて青年の元に歩み寄った。青年は布を翻して立ち上がると、手燭を持ちずんずんと地下の棚を進む。どうやらここは商品の在庫やら何やらをしまっている場所らしい。青年はがたがたといくつかの引出しを開いては閉じ、最後には掛けてあった梯子を上って一番上の引出しごと棚から抜いた。それから下にいる義姉に向かって呼びかける。
    「おい、あんた。相手はあんたくらいの年頃の女で間違いないな」
    「私より少し若いくらいと聞いています」
    「ならこれでいい」
     しゅっと飛び降りるようにして青年は梯子の天辺から滑り降りてくる。それから膝丸に引出しを押し付けた。そして再び文机に戻る。
    「持て。それからついて来い。絶対に落とすなよ」
    「は……? なんなんだ、これは……紙?」
    「便箋ですよ」
     ふふと笑って義姉は引出しの中を覗き込んだ。確かに、そこには趣味のよく可愛らしい模様の便箋が大量に入っていた。ついでに同じ柄の封筒もある。
    「山姥切さんはね、いつもこの書庫で書を写し取るお仕事をなさってるの」
    「写す……?」
    「そう。本って刷るにも買うにもお金がかかるでしょう? 必要なところだけお金を払えば写してくれる。尤も、おおっぴらにしているわけではないのだけれど」
    「貸本屋のようなものか!」
     膝丸は一度だって利用したことがないのだけれど、そうして本を売るのではなく貸す仕事があるというのは知っている。なるほど、だがそれでは商売あがったりだからこうして隠れて。ぼうと蝋燭の灯だけで照らされた青年の顔は、白磁のような滑らかさだった。じっと膝丸を見つめた彼は、低い声で言う。
    「この地下の書庫にあるのは、上の店には置けない貴重な本と品だ。今お前が手にしている便箋も、俺の兄弟が舶来商人から仕入れたもの。替えはない、大事に使え」
    「こ、これをどうするのだ義姉上」
    「もちろん、恋文を書くんですよ、膝丸さん」
     ぱんと手を合わせ、義姉は嬉しげに笑った。
     恋文? まさか、ここで手紙を書けと。膝丸は目を白黒とさせて、上機嫌な義姉と手にしている便箋とを見比べた。
    「山姥切さんの筆跡は帝都一綺麗なんです。だから山姥切さんに習えば、きっと一等素敵な恋文が書けるはずですよ。それで手紙のやり取りをして、段々と仲良くなりましょうね。まずはその渡した紙に下書きです」
    「あっ、義姉上、まさか本気かっ?」
     膝丸の困惑を余所に、文机の前に座った青年はバンと一発机の端を叩いた。膝丸はびくりと肩を震わせる。
    「書くのか、書かないのか。早くしろ。俺だって暇じゃない」
    「……っ承知した」
     そういうわけで膝丸は義姉とその青年、山姥切に見守られながら恋文をしたためここに来たのである。元より膝丸の字が汚いというわけではないのだが、山姥切の筆跡は確かに美しく、膝丸は横で何度も手を叩かれた。あの山姥切とかいう青年、時折布から覗く顔は大層整っており綺麗なのだが、言葉より先に手が出るのだ。「留めが甘い」、「払いが汚い」などと殴ってから言うものだから、もうだいぶ手が痛い。しかししごかれただけあって、自信を持って渡せる手紙を仕上げることができた。
     義姉も、あとは落ち着いていれば大丈夫だと太鼓判を押してくれたし。いざ、あとは渡すだけ! 膝丸は顔を上げて、ジャケットの内ポケットから封筒を取りだすと彼女に向けて畳の上に差し出す。
    「君に宛てて書いた手紙だ」
    「……あなた、私がこの場でこれを破るとか、あとで捨てるとか、考えなかったんですか?」
     彼女は険しい目でその可愛らしい封筒を見つめている。無論、その可能性は否めなかっただがそれでも、膝丸はきっと彼女はこれを読んでくれるに違いないと思ったのだ。
    「好きにしてくれて構わない。だが、ここに書いた気持ちに嘘偽りはない。だからどうか、読んでほしい」
     膝丸はそれだけ告げると、すっと立ち上がった。あまり長居をしないこと、と言われている。それに、すべきことはすべてしたのだ。
    「手間を取らせてすまなかった。では……また会えると、嬉しいんだが」
     彼女はそれには答えなかった。名残惜しい気持ちはあれど、膝丸はその部屋を後にし襖を閉める。思い切りがいいのも、膝丸のいいところである。すたすたと振り返ることなく膝丸は女郎屋を出た。
     きっと、読んでくれる。だって、悪態をついても彼女は時折苦しそうな顔をするのだ。そんな言葉を誰かにぶつけることを申し訳なく思っている顔を。だから、膝丸の気持ちを無碍にするようなことはきっとない。最初に声を掛けてくれたときだって、彼女は膝丸を気遣ってくれていたのだから。根は優しい素直な子なのだと、膝丸は信じている。
     だから数日後、ハラハラとしていた義姉と一緒に花街からの結び文を受け取った膝丸は思わず喜びの雄叫びをあげ、きょとんとした顔の髭切に二人して言い訳をする羽目になったのであった。



    「……来たか」
     みし、という階段の軋む音で気が付いたのか、山姥切が振り返る。膝丸はいつも通り上着は片手に抱え、散らばった本を傷つけないよう注意しながら山姥切の元へ向かった。
    「いつもすまぬな、山姥切殿」
    「そこの紙を踏むなよ、それは今写し終えたばかりだ」
    「うっ、危ない」
     山姥切に指された紙の束は丁度膝丸の進路にあり、膝丸は慌ててそれを避けた。もっと早く言ってくれないだろうか。そっと手でそれらを高い位置に置き、膝丸は山姥切の隣に座る。いつもここはやや埃っぽく、甘い本の匂いがした。
    「首尾はどうだ」
    「上々だ、君のおかげだな。礼を言う」
    「……ふん、俺はあいつの頼みを聞いているだけだ。早く今日の分を見せろ、手直しする」
     膝丸が下書きした恋文を片手に、山姥切は赤いペンに手を伸ばす。結構ここから容赦なく文字を直されていくので、膝丸も背筋を伸ばした。心構えをしておかないと、彼女の元に行く前にここで一度落ち込む羽目になるのだ。
     シャッシャッと軽やかな音を立てて細々直される自分の字を見ながら、膝丸はおずおずと山姥切に声をかける。一つだけ、ずっと聞きたかったことがあるのだ。ここに通うようになってから長い、そろそろ質問しても怒られないだろうか。
    「や、山姥切殿」
    「なんだ」
    「その、義姉上とはどういった知り合いなんだ?」
     その瞬間、山姥切の手が止まる。それからあの碧眼が布の穴越しにじろりと膝丸を見た。しまった、機嫌を損ねただろうか。
    「……髭切か」
    「ん……?」
    「あいつの夫は源氏の惣領だったな。髭切が気にしているのか」
     どうやら、山姥切は兄が嫉妬して探りを入れていると思ったらしい。膝丸は慌てて首を振った。そんな、兄が本当にそうしたなら膝丸に聞かせるなんて回りくどい手は使わない。……髭切ならば、一息に食いにかかる。
    「ち、違うぞ! 兄者ではなく。俺が気になっただけなのだ」
    「……」
     山姥切は注意深く膝丸のほうを見つめた。何かを推し量っているような目だ。膝丸はごくりと生唾を呑みこんだ。藪蛇を、突いたのだろうか。
     しかし山姥切は一度だけ長い瞬きをしたのち、口を開いた。
    「……あいつは俺の古い馴染みだ。色々借りがある、だからあんたの頼みも聞いた」
    「馴染み……?」
    「この仕事を紹介してくれたのもあいつだ。俺はいいと言ったのに、昔から、余計なことに首を突っ込んで世話を焼きたがる癖があるやつだったんだ」
    「……ふふ、そうだな。義姉上はそういう方だ」
     膝丸は納得すると同時に、胸を撫で下ろしていた。いや、これでもしもその、元恋人やらなにやらだったら本気で兄の牙の心配をしなくてはならないところだった。まあ、古い馴染みというだけでだいぶ危なさそうだが。
     そんな膝丸の胸中を余所に、ちらりと山姥切は膝丸のほうを見、それからぼそりと呟く。
    「あいつは、源氏でうまくやってるのか」
    「義姉上か?」
     膝丸は問い直したが、山姥切は答えない。だがまあこの場で「あいつ」なんて言われるのは義姉しかいまいと膝丸は返事をした。
    「義姉上が来てくださったおかげで……兄者は随分変わった。兄者にとって、最早義姉上のいない生活は考えられぬだろう。仲が良すぎて困る日もあるがな、それでも俺にはお二人は幸せそうに見える」
    「……そうか」
     山姥切は低く返事をすると、パッとそのまま膝丸に添削した下書き用紙を返した。おや、と膝丸はその様子を見て首を傾げた。いや、山姥切が素っ気ないのはいつも通りなのだが、心なしか元気がないというかなんというか。それでいて安堵したような声音で……あ、これはもしや。
    「もしや、山姥切殿、君は、義姉上を」
    「……っ清書するのか、しないのかっ! どっちだっ!」
     ばっと布を引っ張って顔を隠し、山姥切がそっぽを向く。その様に膝丸は眉をさげて唇だけで微笑んだ。わかっている、きっと数日前の自分も何となく同じ顔をしていたのだろう。だから敢えて膝丸はそれには言及しなかった。仮に膝丸が察した感情を山姥切が抱いていたとして、山姥切は今義姉が幸せなのか聞いたのだ。それだけ義姉のことを大切に想っていた、そういうことだろう。
    「……ふ」
    「何を笑ってるっ! っあんたの方はどうなんだ! 本当にうまくいってるんだろうな! 俺が手直しをして失敗したなんてことになったらただじゃおかないぞ!」
    「はは、だから上々だと言っているだろう」
     結び文を返してもらった日から、膝丸は彼女と手紙のやり取りをし、たまに会ってもいた。とはいえ彼女は禿という自由の利かない身、会うときは専ら、金を払い膝丸が店に行くのだが。まあ、それでも膝丸はよかった。金を払っているということは、彼女の店での待遇も良いものに変わるのかもしれない。なんたって……あそこは、女郎屋なのだから。
     一通り現状を報告すると、山姥切はふんと一つ鼻を鳴らした。とりあえずはうまく事が運んでいるということを納得してくれたらしい。しかし顎のあたりに墨だらけの手を当てて、首を傾げる。
    「にしても、その女、本当にまだ禿なのか?」
    「む、どういうことだ?」
     膝丸が問えば、山姥切は半分以上隠れていてもわかる呆れ顔でこちらを向いた。
    「あんた本当に何も知らないんだな、どうやったらそんな純粋培養に育つんだ」
    「う……やめてくれ、それはこのところ言われすぎていて心の傷になっている」
     青年の頃は、髭切から「弟はまだこんなの知らなくていいよ」とそういう店からは締め出されていた。そこから少し年を取っても、膝丸は何となくあのけばけばしい雰囲気や姦しい女郎たちは苦手で、自分からそこから離れた。もしかしたら兄の「お前はこんなの分かんなくていい」という言葉が呪文のように残っているのも、あるのかもしれないが。
     山姥切はふうと息を吐いて、傍にあった本に手を伸ばしぱらぱらめくる。それから頁を開いたまま、山姥切はぐいと膝丸にそれを押し付けた。
    「あいつより少し若いくらいなんだろう。だったらもう水揚げされていてもおかしくない年のはずだ。禿なんて言うのは、まだその、二次性徴も迎えていない生娘のことを言うんだっ! これでも読め!」
    「そ、そうなのか……? すまん、読ませてもらう」
     膝丸はそれを見て、何度か顔から火を噴きそうになった。花街のマナーなんて、膝丸は最近知ったばかりだったのだが……どうやらそれはかなり緩く、そして超絶婉曲して膝丸に伝えてあったものだったらしい。途中「ぐう」とか「ひぃ」とか呻きながら頁を繰る膝丸を、山姥切はかなり気遣わしげに見つめていた。
     ぜいぜいと荒い息を吐きながら膝丸はその本を閉じる。疲れた、非常に疲れた。肉体的にも精神的にも疲弊しすぎている。
    「……水でも飲むか」
    「い、頂こう」
     山姥切の申し出に、膝丸はただかくかくと頷く。差し出された水を勢いよく一気に飲み干し、やっと肩の力を抜いた。
    「大丈夫か……?」
     その問いに、膝丸はぶんぶんと首を振った。大丈夫なものか、平気なものか。あんな、あんなものを見て。ぎゅうと膝丸は自分の拳を握りしめる。
    「お……」
    「お……?」
    「俺は、何と、愚かな……っ」
     がばりと立ち上がり、膝丸は傍に置いていた上着を引っ掴み階段に一直線に進んだ。行かなければ、今すぐ店に行かなくては。
     尋常でない膝丸の様子に山姥切は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに慌てて膝丸のシャツを掴んだ。それから力任せに引き戻す。その拍子にいくつかの本の塚に膝丸はぶち当たり、ばさばさとそれらは倒れた。
    「落ち着けっ! 考えなしに行動してどうする!」
    「い、一刻も早くあの子をあの場所から連れ出さねばならぬっ! あのような場所に、あんな、あんな……っ!」
     義姉と、そんなに年の変わらない、娘なのに。
     今まで、知らないのをいいことに考えないようにしていた。何故なら彼女をそんな境遇に追いやったのは、他でもない源氏……すなわち髭切と、それを手伝う膝丸だからだ。
    「俺は、無知を恥ながら、知るのが恐ろしかったのだっ! 女郎屋は、女を金で買う場所。だが俺は一度だって彼女にそんな無体は強いたことがない。自分がそうだからと、他もそうだと思いたかったのだ」
    「……あんたが行っていたのは、いつも昼だったからな」
    「ああ、そうだ。あのけばけばしい、品のない暖簾をくぐるのはいつも日の出ている時間だった。その下ではあの店もただ鮮やかなだけだ。だから俺は、目を逸らした、その下の醜い現実など、見なかったのだ……っ!」
     山姥切は本の山を倒したことを怒ることもなく、ただ静かに膝丸の懺悔を聞いてくれた。
     禿は、本来二次性徴を迎える前の少女が務めるもの。無論、彼女だってまだ若い。けれどとっくに、有り体に言えば、もう床は取れる年齢のはず。それをしていないというのは、恐らく何か体に問題があるか、他に理由があるということで。
    「やはり、行ってくる。せめて、何か不自由があるなら……っ病院なり、なんなり」
     再び立ち上がった膝丸を、今度は山姥切も引き倒すことはなかった。しかし険しい表情で忠告だけはくれる。
    「おい、せめて頭を冷やしてから行け。そんな剣幕で向かったところで、娘なんか怖気づくだけだ」
     その言葉に静かに頷いて、膝丸は地下の部屋を出た。日が落ちかけているが、丁度いい。もう昼間に行く必要などない。
     悔しい、情けない、なんて体たらくだ。落ち着かねばならないとわかってはいるが、膝丸はなかなか冷静になれなかった。なんて自分は、本当に、純粋培養だったのだろう。
     いつもの店に入ると、必要最低限のことだけ店主には告げていつもの倍金を叩きつけた。まったく、吐き気がする。膝丸はこの「金を払う」という行為でさえも適当な理由付けをして「いいこと」のように思っていたのだ。
     もう彼女が普段控えに使っている部屋はわかっていたので、一瞬だけ躊躇ったのち、膝丸は襖を叩き返事を待たずに開けた。
    「ひゃ……っ、どな、たって……膝丸様ですか」
     彼女はいつも通り、どこかげんなりとしたような表情で膝丸を見る。仕事に出る支度をしていた途中だったようだ。それを邪魔されたのに若干迷惑そうにしつつも、それでも、最初にあった侮蔑や嫌悪はだいぶ薄れていると膝丸は知っていた。彼女は手にしていた櫛を置いて、体を膝丸のほうに向ける。
    「なんですか、そんな怖い顔をして。どうかしたんですか?」
    「……いや」
    「用もなしに来ないでしょう、膝丸様。なんですか?」
     ほら、やっぱり。刺々しい物言いでも、やっぱり、そうなのだ。膝丸は思わず泣き出しそうになってしまい、顔を押える。
     何度か手紙のやり取りをして、会ってぼちぼちとでも話をしてくれるようになって、わかった。この子は、本当に、本当に……。
    「君は……素直な、いい子だったんだな」
    「は……?」
     手紙に書かれた文字は、山姥切に鍛えられた膝丸の字と負けず劣らず美しい筆跡だった。文章だって、ちゃんとした教養と学に基づいたものだった。それは育ちの良さから来るものだとすぐにわかる。
     口を聞きたくもないだろう相手の膝丸に対して、そんな風に接することができるのは、きっと生来の素直さと優しさからくるもの。彼女は、自分に対して真摯に接してくる相手を無碍にできないのだ。
     それなのに。普通に暮らしていれば、きっと今頃義姉のように良家に嫁いで幸せに暮らしていただろうに。どうして、こんなところに流れ着いてしまったのか。年齢にそぐわない、襟の開いた着物を着て。重たい髪飾りを細い首筋で支えて。
     ぐっと拳を握りしめ、膝丸は口を開く。
    「一体、どこが悪いんだ」
    「ちょ、ちょっと膝丸様、話が読めな」
    「どうしてまだ禿でいる!」
     びくりと彼女は体を震わせた。視線を伏せ、きゅっと唇を噛み締める。その反応だけで、膝丸は答えの八割を理解してしまう。
    「そうなんだな」
    「……何の話だか、わかりません」
    「頼むからもう俺に隠し事をしないでくれっ」
     禿は本来買うことができないと教えてくれたのは彼女自身だ。自分はまだ見習いの身だから、他の女郎が座敷に上がるときにその手伝いをすることが務めなのだと。今日山姥切が貸してくれた本には、そうして行儀作法を学んだ後、二次性徴が来たら一人前の女郎として床を取るのだとも書いてあった。
     今まで、何故店主が膝丸を彼女の部屋にあっさりと通してくれていたのか考えもしなかった。だが今日、やっとわかった。彼女は禿としては薹が立ちすぎている。それでいて、客も取れないのなら店としてはお荷物だ。だから、膝丸のような金を払ってでも彼女に会いたいなんて何も知らない馬鹿はいい客だったに違いない。
    「……お坊ちゃんが、どこでいらぬ知識をつけて来たんですか」
     小さく、消えてしまいそうな呟きは、義姉の声よりももっと幼いように思えた。だがそれもそのはず、彼女はそんな年の、娘なのだから。膝丸が立っていれば、彼女とは頭一つ分も違う。
    「何も、私だって初めから、体を売ろうと思った訳じゃない」
    「……ああ」
    「一家離散して、色んなところをたらい回しにされて……、もう何番目の奉公先だったか、覚えちゃいませんが。ひどく、叱られた日がありました」
     苦々しい思いで、膝丸は重い手を上げて彼女に伸ばす。抵抗する素振りはなかったので、膝丸はそのまま、まだ支度途中だった彼女の着物を一枚、華奢な肩から落とした。
    「っ誰が、こんな……むごい、ことを」
     肩口から背中にかけて、酷い火傷の跡があった。引き攣れて、歪に膨れ上がったような傷跡を見るに、恐らくろくな手当もされないまま放置されたのだろう。膝丸が奥歯を噛み締めている間に、彼女は自分で着物を正す。
    「……女郎は体が命ですから。誰もこんな醜い体を抱こうだなんて思わないですよ」
    「そんな、そんなことはっ」
     ごく淡々と、彼女はそう説明する。聞いている膝丸の方が悪寒を感じるほどに冷え切った声だった。
    「幸い家で習っていた三味線の腕を買われまして。それで何とかここで雇ってもらってるんです。まあそれも、いつまでかわかりません。ここでもごく潰しに変わりないですから、私」
    「自分のことをそんな風に言うなっ!」
    「だったらどうしろっていうんですかっ!」
     彼女は叫んで膝丸に手にしていた派手な色の着物を投げつけた。ばさりと顔面に当たったそれは滑らかな感触だったけれど、その分色が毒々しく、目に痛い。
    「膝丸様にはわからない、わかるはずないっ! だって、だってあなた、私と一緒なんだものっ!」
     彼女は初めて膝丸が源氏の弟だと知ったときのような、何ともいえない表情を浮かべていた。怒り、悲しみ、憎しみ、それからどうしようもないやるせなさ。ありったけをぶつけて膝丸を睨む。
    「私だって、あなたと一緒っ! 家がこんな風になって放り出されるまで、ちっとも家の状況なんて知らなかった! ギリギリだったことも、そのためにどうしていたかもっ!」
    「……っきみ」
    「だからこうなったのはある意味当然だったのよ、だって、私何もしなかった、ただの子どもだった、幸せな子どもだったのよっ!」
     膝丸は目を見開いて、その慟哭を聞いた。何も言い返すことができない。
    「だから膝丸様に会うのも、本当は嫌だった、だって、膝丸様ったら昔の私と一緒。何も知らない、純粋培養のお坊ちゃん。見てるだけで腹が立ったわっ!」
    「っ、すまない、俺は」
    「でも……っ、でも膝丸様は、私とは、違った」
     謝ろうとした膝丸を遮って、彼女はそのまま喋りつづける。違う? 何が違うというのか。
     泣き出しそうな目を必死に堪えて、彼女は嗚咽を上げまいとしながら膝丸を見る。
    「少なくとも、何もしなかった私とは、違った。自分のしたことの責任を知っていた。償おうとした。酷いことを言っのに、私にまで手を差し伸べてきた。最初は、呆れたけど、でも、わかったの、汚くて酷いのは……っ私の方。理由をつけて、目を逸らしてた私の方……っ! 膝丸様は最初からずっと、優しかった……っ!」
     顔を覆い、遂に彼女は泣き出した。年相応の娘のように、それでも声は上げずに肩を震わせる。
     膝丸はいても立ってもいられなくなり、ぐいと腕を引いて、思い切り彼女を抱きしめた。本当はこんなことをする資格すら、膝丸には無い。彼女をここに追いやったのは自分だ。どう言い訳をしてもそれは変わらない。きっと、彼女以外にもこうして生活をめちゃめちゃにしてしまった相手はいくらでもいるはず。だが、せめて彼女だけは救いたい。今自分の腕の中にいる、たった一人の娘だけでも助けることが出来たらそれだけでいい。
    「こんなところ、早く出てしまおう。こんなところにいては駄目だ、君が駄目になってしまう」
    「……そんなこと」
    「約束する、俺が必ず君をここから出してみせる。もういい、こんなところに居なくてもいいのだ! 一緒に行こう、俺と一緒に!」
     きつくきつく抱きしめれば、彼女は幾分か戸惑ったようだった。自分の顔を押えていた手が、僅かに持ち上がり、それから堪えきれなくなったようにして膝丸の上着を掴む。
    「馬鹿なひと……っ」
    「ああ、無論だ。だが俺は君に嘘は吐くまい、約束しよう。絶対に俺が君を助ける、約束だ。待っていてくれ、きっとだ!」
    「……仕方、ないですね。待っていてあげます」
     長い間、声を上げて泣くことなどなかったのだろう。彼女は膝丸の来ていたシャツの色が変わるまでそうして泣いた。



     とにもかくにも、彼女を店から請け出さねばなるまい。禿の相場がどんなものかわからないが、一定の金が要る。膝丸は帰宅してすぐに兄に相談しなくてはと思った。今まで隠していた分、説明が難しいが、義姉に協力をしてもらおう。
     邸に戻り、急ぎ足で兄の部屋に向かおうとすると廊下の曲がり角で件の義姉にぶつかった。
    「むぐっ!」
    「うっ! あ、義姉上っ! 失礼したっ!」
     倒れそうになった義姉の腕を掴んで起こす。丁度一緒にいたらしい大型犬のおにたけも後ろから義姉の腰を押して体を立て直させた。にしてもいいタイミングである。先に義姉に話を通しておいた方がよさそうだ。
    「ご、ごめんなさい膝丸さん、でもよかったっ、帰ってらしたんですね。おにたけもありがとう」
    「あ、ああ、挨拶が遅れてすまぬ。それで、義姉上に頼みが」
     だがいつも落ち着いている義姉には珍しく、彼女は膝丸の話をぶった切って腕を引っ張り、今自分が来た道を戻り始めた。尋常ではない様子に、膝丸もやや冷静になって首を傾げる。
    「義姉上?」
    「旦那様がずっと仕事部屋に籠りきりで……っ、話しかけても返事がないんです。もう、半日以上」
    「兄者が?」
     そう言えば最近、兄とあまり仕事をしていなかった。いや、仕事をサボっていたわけではないのだが、一緒に商談や接待に行っていなかったのだ。膝丸は義姉を追い抜き、兄の書斎まで一直線に歩く。カリカリとうしわかが襖を引っ掻いていた。膝丸はトントン、と襖を叩いてから声を掛ける。
    「兄者?」
     返事がない。だが、髭切は集中しているとそういうことが多々あるから膝丸は一息ついてから襖に手をかけた。
    「兄者、俺だ。膝丸だ、入るぞ」
     中で仕事をしている邪魔にはなるまいと、膝丸は静かに襖を開けた。そして顔を上げ……慌てて文机に駆け寄った。
    「兄者っ? 兄者、どうした、兄者!」
    「旦那様っ?」
     大量の住所録や名刺帳に埋もれて、髭切は文机に倒れ伏していた。体を起こさせたが眠っているのか気を失っているのか、髭切は身動き一つしない。膝丸は焦って髭切の着ていた着物の合わせに手を突っ込んだ。……よかった、心臓は動いている。息もしている。
    「誰かっ、誰か医師を呼べっ! 兄者は俺が運ぶ、義姉上、襖を頼む!」
    「は、はいっ! 旦那様、しっかりなさってください旦那様!」
     髭切を抱えあげ、義姉が開け放った兄の部屋にとりあえずは寝かせる。最近、兄の部屋に入ることなんてなかったから全く気が付かなかったのだが、そこにも書斎にあったはずの本やら住所録が散らばっていた。髭切に布団を掛けてやりながら、膝丸は困惑してあたりを見渡した。
    「義姉上……、いつから、兄者の部屋はこんなに」
    「それが、私も最近ここには来てなくて……」
     義姉は泣き出しそうな顔で髭切の手を握り、首を振った。膝丸はただ唇を噛む。自分がついていながら、どうしてこんなことに。
     邸に来た医師は、一通り髭切を診て過労だろうと言い、気付けにと注射を一本打っていった。十分に休養させ、栄養を取らせるよう義姉は指示を受け、それから帰る医師を見送りに玄関に出て行く。二匹の犬が忠実にそのあとに従っていった。
     なんだか久方ぶりに見た気のする兄の顔は、酷く顔色が悪い気がした。なんだか痩せたような感じさえする。膝丸は雑然とした部屋を少しでも片づけることにし、傍に開きっぱなしになっていた住所録を手に取った。しかし閉じようとした途端、白い手がそれを押える。
    「駄目だよ、弟……まだそれ、途中だからね」
    「兄者っ!」
     まだぼんやりとした目だったけれど、髭切がこちらを見ている。膝丸は慌てて住所録を置いて体を起こそうとする髭切を止めた。
    「駄目だ兄者、まだ寝ていなくては」
    「んー、でも、まだ仕事が残ってるんだよね」
    「そんなもの明日でいい、今は休んでくれ。医師もそう言っていた」
    「ふぅん……、それは困ったな。……あれ、僕の奥さんはどこ?」
     きょろきょろと髭切があたりを見回したので、膝丸は僅かに安堵した。よかった、いつもの兄者だ。義姉がいないと落ち着かないのだろう。玄関にいるはずだから呼び戻そうと、膝丸は腰を上げる。
    「あ、ああ、今呼ぼう。医師を見送りに行っていてな」
    「頼むよ。ああ、それからお前はちょっと席を外してくれる? 奥さん心配してるだろうから」
    「承知した、待っていてくれ兄者」
     廊下で行き会った義姉に髭切が目を覚ましたことを伝えたら、義姉はぐっと泣くのを堪えた顔をして、それでも目尻を指で拭った。二匹の犬たちも、すりすりと義姉の足にまとわりつく。
    「早く行ってやってくれ。兄者も義姉上が傍におらぬと落ち着かぬのだろう」
    「は、はい。もう、甘えたなんですから。……あの、膝丸さん」
    「ん? どうした、義姉上」
     少し考えた後、義姉は珍しく不安げな表情で膝丸を見つめた。
    「私、お二人のお仕事のことはよく、わからないんですが……できれば、しばらく、旦那様の傍にいてあげてくれませんか」
    「……義姉上」
    「ごめんなさい、膝丸さんは膝丸さんで忙しいのはわかるんです。でも、あれで旦那様、膝丸さんがいないとだめなんです。膝丸さんがいるから、頑張れるんですよ、旦那様は」
     あはは、と困り顔で義姉は俯き唇を噛む。やはりいつも穏やかで飄々としている兄が倒れたのは、気丈な義姉にも堪えたのだろう。膝丸は笑って義姉の肩を叩いた。いかん、こんな時ほど自分が支えなければ。
    「当たり前ではないか義姉上! 俺と兄者は二人で一つなのだ、離れることなどあるものか。そんな顔しないでくれ義姉上、義姉上が笑顔でいてくれることも、兄者が頑張れる理由の一つだ」
     わざと元気な声を出してそう励ませば、義姉は顔を上げて何度か頷きそれから笑った。
    「そうですね! 私、旦那様にお説教してきます。暫くは付ききりでしっかり休んでもらいますからねって!」
    「はは、それでは兄者はむしろ喜んでしまうな」
    「あっ、そうですね、どうしよう、反省してもらいたいのに」
     そんな軽口を叩いてから、膝丸は義姉を兄の部屋へ送り出した。元気よく二匹の犬もそれを追いかける。
     にしても、なんでまた兄は倒れるほど仕事をしていたのだ。膝丸は再び、兄の執務室に向かってみた。資料やら何やらを勝手に弄ってはすぐ髭切に分かってしまうだろう。だから、眺めるだけ。とりあえずはそれだけだ。
     広げてあるのは殆どが住所録だった。開かれている頁は同じ武家だけではなく、古くから源氏に縁のある家、それも名家ばかり。
    「古備前の鶯丸……貴族などに何の用が。それどころか、三条、青江、名家はほぼ網羅されている」
     これほどの家に連絡を取らねばならないなんて、大ごとだ。それを何故、兄は一人でやっているのだ。自分に声も掛けずに。
     膝丸は、やはりこれだけは今日中に髭切に確認を取るべきだと兄の部屋に足を向けた。席を外してくれと言われたが、急ぎの仕事なら明日からでも手伝わねばなるまい。しかし、襖の前まで来て、膝丸の足は凍りついた。
    「弟には、黙っておいてね」
    「……旦那様」
     黙っておく? 一体何をだ。
     中には髭切と義姉しかいないようだった。盗み聞きなんてよくないと分かっていながら、膝丸は息を殺して耳を澄ませる。
    「あの子、僕と違って生真面目だからね。家が大変だなんて知ったら、自分のことどころじゃなくなっちゃうよ」
    「でも、旦那様、私嫌です、旦那様がまたぶっ倒れたりするの」
    「あはは、気を付けるよ。奥さんが泣くところも見たくないからね。……ああごめんって、おにたけ、うしわか。もう奥さんに心配かけたりしないから。いてて噛まないで」
     家が大変? どういうことだ。
     襖を開けようと上げた手を動かすことができない。心臓の音がやけに大きく聞こえた。だが、物音を立てれば髭切に気付かれてしまう。普段なら、膝丸が部屋の前に立っただけで気配を悟る兄が今日はそうでない。やはり体調が悪いのだ。
    「やっぱり武士の世は遠ざかったんだよねえ……色々連絡取ってはみてるんだけど。大陸の方もきな臭いし。でも心配しないで、大丈夫だよ。僕はお兄ちゃんだから」
    「でも、やっぱり……っ膝丸さんにお願いした方が」
    「奥さん」
     心配する義姉を宥めるように、髭切の穏やかな声が続く。
    「膝丸はずっと、これまで僕と家のことだけを考えていてくれたんだよ。だったらもう自由にしてあげないと。そうだろう? やっと自分のしたいことを見つけたんだ。だから、ね? 好きにさせてあげよう」
     膝丸、と兄が自分の名を呼ぶのを聞くのはもう十何年振りだろう。指先がわなないて震え、嗚咽を零さないように膝丸は唇を引き絞った。それから静かに後ずさって、兄の部屋を離れる。
     ああ、なんて、なんて自分は莫迦だったのだろう。子どもだったのだろう。ずるずると自室の壁に凭れて膝丸は座り込む。ぼろぼろと涙が零れるのも本当は情けなかった。しかしそれを止めることもできない。
     一晩中、膝丸はそうして泣いていた。



     初めて会ったときから、彼が優しく、そして素直な性格をしているだろうことは、彼女もわかっていた。だがそれは反面、かつての自分を見ているようで苦しく、腹立たしいことでもあった。
     だって膝丸は、醜いことは何も知らず、汚いことは何も見ずにここまで来たことが如実に分かったからである。
    「ひ、一切……? 花代とはなんだ。は? 一晩に三軒も酒屋を回る? いかん、体を壊してしまうぞ!」
     花街での常識を一つ知る度に、膝丸は目を丸くしたり焦ったり、時に怒ったりした。君のような年齢の女の子の体はもっと大切に扱われるべきだなんて、よくもまあここでそんなことが言えるなという台詞を死ぬほど吐いた。その度に彼女は呆れ、怒り、そして時に……幸せな、気持ちになった。
     いつも訪ねてくるのは昼だったから、彼女は夜のために三味線の練習をしていた。邪魔はしないからと膝丸はそれを部屋の端で聞いていて、一曲終わる度に大袈裟なほど拍手をした。
    「うむ、君は三味線の名手だな。座敷の男たちも君の音色を聞くだけで嬉しくなるに違いない」
     馬鹿で単純な人だなあと、何度も何度も思った。でも、膝丸はどれほど彼女が刺々しい態度を取ろうと、嫌味を言おうと、嫌な顔一つしなかった。悪い言葉づかいをしたときだけ、「それはよくない」と顔を顰める程度だった。
     人のことは決して悪く言わない。人の努力を笑ったりしない。膝丸は、そういう人だった。
     彼女が久方ぶりに出会う、本当に優しい人だった。
    「君は、将来どんな風になりたいんだ?」
     屈託のない表情で、膝丸は彼女に聞いた。
     いや、何を言うのだと問い返してやりたい気持に、流石になった。だってここは廓、女郎屋。それも、体の傷で客など取れるはずもないのに。彼女はここにいる限り、真っ当に生きて死ぬ権利も機会もないのだ。
     だが、膝丸の表情があまりに真っ直ぐなものだったから、彼女はせめて答えなくてはと返事だけした。
    「……普通に、笑って暮らして、年を取って、孫とかに囲まれて生きていけたら、いいですよね」
     ありきたりな、家族風景。だがそれが彼女に許されることはもうない。けれど膝丸は瞳を和ませて、嬉しそうに笑った。
    「ああ、俺と同じだな。……いつか、互いにそういう日を迎えることが出来たら、嬉しいものだな」
     泣き出したくなってしまった。そんな風に、真っ直ぐ、人の綺麗なところだけを信じて生きて行きたいと思った。そうすることができるようになりたいと思った。
     でも、そうなるには、もう彼女は汚れすぎている。
     荷物は少ないから、小さめの行李を閉じる。あとは三味線だけでいい。全て風呂敷に包んで、彼女は立ち上がった。一応部屋の中を見渡す。もう残しているものは何もないだろう。持ってきたものも、ないのだから。
     数日前、膝丸とは違う来客があった。部屋に通されてやってきたのは、ふわふわとした金の髪の男性。彼は少女を見下ろすと、ゆっくりと息を吸い込み、それから目を閉じた。
    「……源氏の惣領、髭切さ。いつも、弟の相手をしてくれてありがとう」
     彼女の正面に座ったその人は、穏やかな声でそう名乗った。
     源氏の惣領! つまり、自分の家を潰した張本人! 会えば絶対に、殺してやりたいほどの憎悪を抱くと思っていた。それなのに、会いに来たその人はやはりどこか膝丸に似ていて、彼女は何も言えなかった。
     髭切は、ピンと伸ばした背をそのまま折り、彼女に深く頭を下げた。
    「君の家を潰したのは僕だから……膝丸は関係ないから。恨むなら、僕だけにしてほしい。謝って済むことではないんだけど。でも、ごめんね。それでも、膝丸は関係ないんだ。膝丸は本当に、いい子だから。膝丸自身のことを見てあげてほしい」
     だから膝丸のことは許してあげて、と髭切は結構な額の金を置いて行った。こんなもの要らない、と流石に返そうとしたのだけれど、髭切は笑って首を振る。
    「ううん、きっと、弟はいつか君をここから連れ出そうとするだろうから。そのときのためのお金。僕は知らない振りをするから。だから、そのときが来たら、弟と一緒に行ってあげてほしいな。君が良ければ、だけど」
     どれほど膝丸が愛されて、大切にされて育ってきたのかわかった。髭切が部屋を後にし、膝丸が本当に「ここから出よう」と彼女に言い、そうして呼ばれた座敷で源氏の現状を聞いたとき……自分は傍に居てはいけないのだと、彼女は悟った。
     膝丸はきっと、家の窮状を知れば心を痛めるだろう。兄を助けたいと思うだろう。だが、彼女に約束した手前きっと彼女のことも救おうとする。でも今、膝丸をあの兄から離してはいけない。
     憎たらしいほど純粋だった。だがその分だけ、膝丸の瞳はいつもずっと真っ直ぐで、綺麗だった。これからもどうか、あの瞳にだけは美しいものを映していてほしい。
     行李を背負い、三味線を持って彼女はその暖簾をくぐった。心の中で、何度も恨んだあの源氏の惣領に謝る。ごめんなさい、貴方の言った通りにお金を遣うことはできませんでした。
     これからどこに行くか、どう生きていくか当てはない。けれど、世の中には膝丸のような人がいることを知ったから。膝丸に優しくしてもらえたから、きっと、大丈夫。
    「……さようなら、膝丸様」
     唇を噛み締め、彼女は一歩足を踏み出した。



     ギシリと階段の軋む音がする。その音を聞くのは久方ぶりだった。山姥切は振り返り、徐々に階段を下ってくる人影に目を向ける。
    「久しぶりだな」
    「ああ、暫く連絡もできなくてすまなかった」
     もう慣れた様子で、膝丸は本でごった返した地下書庫を進んできた。山姥切もなんとなしに自分の周りの本を避けてやる。最近誰にも会わなかったものだから、山姥切の仕事場もあまりに乱雑だった。
     膝丸はその行為に「すまぬな」と言って、隣に座った。そこで山姥切はおやと首を傾げる。気のせいでなければ、少し痩せたように思う。黙っているのもなんだったので、山姥切は率直にそれを膝丸に聞いた。
    「おい、痩せたか?」
    「ん? ……ああ、このところ仕事が忙しくてな。そうかもしれぬ」
     膝丸は笑ってそう答えたけれど、それ以上の追及を許さない何かがあった。生来人の態度や視線に敏感な山姥切は、なんとなしにそれを感じ取り口を噤む。顔の前の布を引っ張り、机の筆に手を伸ばした。
    「それで。下書きがあるならさっさと見せろ」
    「いや、その必要はない。今日は礼を言いに来ただけだからな」
     礼? ああ、うまくいったのだろうか。
     あれからどうなったか気になっていた山姥切はやや安堵した。すごい剣幕で膝丸がここから出て行ってから一度も続報がなかったのだ。だがこちらから聞いたり発破をかけるのもプレッシャーになる気がして、誰にも何も聞かなかった。しかしうまくいったのなら上々、問題ない。
     けれど山姥切のそんな予想をぶった切り、膝丸は首を振る。
    「あの子はいなくなった。先日、店に行ったら、出て行ったと聞かされた」
    「……なに?」
    「店にあった借金を全て返して、出て行ったらしい。行き先は知らぬと、店主に言われた」
     そんな。山姥切は思わず膝丸の両肩を掴んでいた。その拍子に被っていた布が頭からずり落ちる。膝丸が驚いた顔でこちらを見ているのがよくわかった。
    「ど、どうしたのだ山姥切殿」
    「何故……何故そんな平気そうな顔をしているっ! この間のあんたはあんなに焦っていたじゃないかっ!」
     それを聞いて膝丸は一瞬だけ目を見開き、泣き出しそうな顔をした。しかしすぐに首を振り、唇を引き絞るだけの笑みを浮かべた。泣いてはいないが、笑ってもいない。だがどこか穏やかな表情である。
    「……わかったのだ。俺が今までどれだけ、幸せな子どもだったか」
    「幸せな……子ども?」
    「ああ、そうだ。兄者に守られ、義姉上に支えられ……自分がどれだけ、物を知らずに、醜いものを見ずにいられたのか。わかっていなかったのだ。俺の目は、今まで、何も見ていなかった。……そんな俺に、彼女を迎えに行く資格はないだろう」
     山姥切はハッとした。それには、自分も覚えがある。山姥切にも二人兄弟がいるからだ。一番上の兄が、それこそ小さい頃はあらゆるものから山姥切を庇い、守り、出来るだけ汚いものや醜いものは見ないようにしてくれていた。だがそれは、大人になる前のこと。大人になってからは、山姥切もまた、傷つき、悩み、世の中は綺麗なことだけではないのだと自分で知った。
     力なく、山姥切は膝丸から手を離す。掛けてやる言葉も見つからず、ただ山姥切は浮かしかけた腰を下ろす。何も言えない。山姥切はただ、脱げた布を被り直しそれを引っ張った。
    「すまないな、山姥切殿。本当にたくさん協力してもらったんだが……」
    「っそんなこと、いい。……それよりあんた、これからどうするんだ」
    「……そうだな。とにかくは、兄者を助けてやらねば。そうしたら、探すとも」
     礼だと山姥切に高価そうな箱を手渡し、膝丸は腰を上げた。笑ってはいたけれど、その顔は最初に出会ったときの膝丸とは全く違う。傷つき、苦しみ、それでも立ち上がろうとする男の顔だった。
    「約束したのだ。いつか一緒に行こうと。だから、探す。ああいつかきっと、見つけてみせるとも」
     木の階段を、膝丸は昇って行った。
     再び静かになった地下書庫で、山姥切は膝丸がくれた箱を開ける。中身は万年筆だった。
    「……ふ、いい万年筆だ」
     ここで、書を写しつづけて何年になるだろう。そしてこれからもずっと、それは変わらないのだ。変わり始めた膝丸を見送り、山姥切はまた、文机に向かった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/20 13:44:41

    蛇の瞳

    #膝さに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    惣領の弟の膝丸と禿の娘の話。

    pixivに掲載していたものの修正加筆版です。

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