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    しおり
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    鶯の子

     その人は、物心が付いたときから自分の傍にいた。
     だから彼女の人生で鶯丸がいなかった日など一度もないし、きっとこれからもない。彼女の人生は、そういう風に最初から定められた人生なのだ。
     すっと襖が開いて、鶯色の着流しが視界に入る。そう言えば、今日は午後から出かけると言っていた。
    「奥、散歩に出るぞ」
    「……はい、ただいま」
     するするとあまり音を立てずに下女が傍にやってきて、彼女に上着を着せる。ありがとうと声を掛けてから彼女は鶯丸の元へ歩み寄った。
    「お待たせいたしました」
    「いい内掛けだな」
    「これは旦那様がお選びになったものです」
    「そうか」
     というか彼女の持ち物で鶯丸が選んでいないものの方が珍しいのだが。手を繋ぐわけでも腕を組むわけでもないが、鶯丸はゆったり歩き出すので彼女もそれに従う。
     たぶん、これからもこうして歩くのだろう。鶯丸の後を追って、ただ一歩ずつ。
     それが彼女の人生なのだ。



     鶯丸友成は、華族古備前の現当主である。華族といえば兼定や五条など様々あるが、古備前はまた毛色が違う。皇族の遠戚であり他にも様々な家の祖でもあるため、同じだけ旧い歴史を持つ三条と双璧を為す家系なのだ。その宗家当主……というには随分のんびりしている気がするが、とにかく鶯丸友成は現古備前当主で彼女の夫であった。物心付いたときからずっと、そう言われて育ってきたから、彼女の知る鶯丸に関することはそれが全てである。
     というか、彼女はこの古備前の家から外の世界をあまり知らない。
     玄関で下駄を脱いでいるとドスドスドスというかなり大きい足音が響いてきて、彼女は顔を上げた。この喧しさには心当たりが一つしかない。案の定、夫は僅かに唇を緩めていた。面白がっている。
     腕を組み、仁王立ちをして真っ赤な髪のその男性は威勢よく口を開いた。
    「鶯丸ッ!」
    「なんだ、そんな大声を出さなくともわかる。来ていたのか大包平」
    「来ていたもなにも、呼んだのはお前だろうっ! 今日、午後茶の時刻にとお前が」
    「俺の茶は奥と散歩に出てからだ。今戻ったところだから、これからだな」
     また無茶苦茶な、と彼女は苦笑した。明確に何時と言ってやればよかったものを。夫はこの弟のような血縁の男性、大包平をからかうのが趣味のようなところがあってよくこういうことをする。
     そして大包平は髪だけでなく顔も真っ赤にして怒っていた。それはそうだ。
    「お前の予定をッ何故俺が全て把握せねばならんのだッ!」
    「まあそう怒るな、茶にしよう。そこの君、茶の仕度を。奥はこのまま来るといい。確か奥の好きな饅頭を兼定が寄越したはずだ。出してくれるか」
    「はい」
     迎えに出ていた給仕の娘にそう言い付けて、鶯丸はゆったりと廊下を進む。ここまでくると大包平は怒っても無駄だと気づくらしく、はあとため息をついてついてきた。上着を下女に渡すと、鶯丸は庭の見える縁側に置いた籐の椅子に腰掛ける。彼女はいつも通り、そのやや後ろに置かれた同じものに腰掛けた。広い古備前の屋敷には、庭がいつも丁寧に手入れをされて四季折々の美しい花々を咲かせていた。鶯丸はそれをこの籐の椅子に座って眺めるのがお気に入りなのだ。
     来客用の椅子に大包平は座る。腕を組み、それでも庭の花を眺めながら大包平は口を開いた。
    「で、なんだ。俺を呼びつけておいて」
    「まあ茶が来るまで待て」
    「まさか前のように良い茶が手に入ったからだとか、そんなことで俺を呼んだのではあるまいな!」
     大包平はここから程近い場所に居を構えている。鶯丸よりやや年下のこの男性は鶯丸が昔から弟のように可愛がってからかっているものの、もう立派な成人男性で古備前の一門として自立している身なのだ。鶯丸の仕事の右腕を務めることもある。
     とはいえ、鶯丸の大包平に対する態度は彼女の記憶する限り初等学校に通うころから一切変わっていないような気もするが。
    「何かあるわけでもなし、屋敷も近いんだ。そう焦ることないだろう。奥、膝掛けは」
    「ございます」
    「そうか、ならいい」
     鶯丸に言われるままに、彼女は膝に毛糸で織られたそれを被せた。縁側は基本的に吹きさらしだ。雪の季節は硝子戸を閉じるが、ここは良い風が通る。
     そのうち給仕の娘が盆に載せて茶を運んできて、机の上に置いた。良い香りの茶だ。
    「この間の京の茶ですね」
    彼女が言えば、鶯丸はやんわり笑んで頷く。
    「奥は相変わらず鼻が良いな。先日のものが気に入った。伝を辿って送ってもらったんだ。俺が京にいればもっと楽に手に入るんだがな」
    「ああ、それで三条様に遣いをやったんですね」
     これは三条の奥方が先日ご嫡男を産んだときに、祝いの返しでもらった茶と同じ匂いがしたのだ。三条は元は京の旧家である。大包平もゆっくりとした手つきで湯呑みに口をつけて飲んでいた。なんだかんだ大包平も鶯丸と付き合いが長いだけあり、茶を好むほうなのだ。
    「……ふん、華族当主は帝都を離れることはできんと法で決まっている。離れたくば後継を考えろ。そうすれば大手を振って隠居できる」
     ピク、と手が強張った。彼女はなるべく表情を変えないように努めたが、同時にポンと鶯丸が手にしていた本で大包平の頭を軽く叩いた。
    「まあ、茶はどこででも飲めるさ」
     叩かれてから失言だったと大包平も気づいたらしい。ばつが悪そうな顔で唇を引き絞ると、彼女に向かって「すまん、悪気はなかった」とだけ言った。それはわかっているので、彼女も曖昧に笑って首を振る。
     鶯丸と夫婦になって、もうすぐ十年近くになる。だが彼女はこれまで一度も、子を孕んだことがなかった。その兆しさえも見せなかった。
     しかしそれも当然だ。なぜなら結婚してからこれまで一度も、鶯丸は彼女との間に子どもを作ろうとしたことがないのだから。



     彼女と鶯丸が結婚したのは、彼女が数えでいくつだったか……確か一五ほどの頃だったように思う。その時点で鶯丸はもう古備前の当主であったし、立派に成人していた。いくつの頃からか夫は一切外見年齢が変わらなくなってしまったので、今とあの時とそう大差ないのだけれど。
     華族の結婚にしてはやや早い入籍だったが、それ以外にも彼女の結婚にはイレギュラーが一つあった。
     彼女は生まれてこのかた、生家にいたことがないのだ。
    「君は俺の妻になるんだから、これから俺とはいつも一緒にいなくてはならないんだ。わかるか?」
    「そんな説明でわかるはずがあるかっ!」
     まだいくらか幼い鶯丸がゆったりと言い、大包平が今と変わらぬ調子でそれにやいのやいのと騒いでいたのが彼女のおそらくは一番旧い記憶である。そのときから既に、彼女は古備前のあの屋敷にいた。
     生家を知らないわけではない。自分がどの家の生まれで、本当は兄弟がいることさえも彼女は知っている。しかし実の両親の顔は久しく見ていないし、もっと言えば鶯丸の両親も今は亡く、それ以前からもあまり顔を合わせていないために彼女には「親」という概念を持った存在が非常に薄い。その代わりにいるのが鶯丸である。
    「妻になったら、始終一緒にいるわけだろう? なら今から慣れておいて損はない。君には俺の好きな茶も、菓子も飯も、知っておいてもらわないとならないからな」
     そんな理屈で、鶯丸は彼女を常に傍に置いた。だから鶯丸が行く場所には必ず彼女も連れて行かれたし、それは今でだってそうだ。彼女の記憶にはいつも半歩先を行く鶯丸がおり、時折振り返ってはあれやこれや言い、また前を向いて歩き出す。彼女の人生はその繰り返しである。
     まあそんなイレギュラーはあったものの、堅苦しいことや喧しいことを嫌がる鶯丸のお陰で華族の妻にしては、彼女は随分のんびりと結婚生活を過ごしている。普通の夫婦と何も変わらないだろう。
     ただ、子どもを作らないという一点以外で。
    「君は俺の子どもはほしいか?」
     それは新婚初夜のことだった。
     鶯丸は突然何を言い出すのだろうと彼女は思った。彼女が初めて鶯丸に抱かれたのは、二次性徴が来てすぐのことだ。だから結婚する前からとっくの昔にやることはやっていた。彼女は手習いも何もかもを鶯丸から教わっていて学校の都合もなかったし、性教育は流石に女中から受けていた。だから鶯丸ははなからそのつもりでいたのだと思っていた。
    「いるのでは、ないのですか? 旦那様は、ご当主です」
    鶯丸の意志とは関係なしに、古備前の家のためにいるだろう。しかし彼女がそう言えば鶯丸は首を振った。
    「そうか」
     何に納得したのか知らない。しかし鶯丸はそれきり子どもに関しては言及せず、あまつさえそれきり彼女を抱くことをやめた。
     何度でも言うが鶯丸は旧家古備前の当主である。かなり若く彼女と結婚したにも関わらず、一向に子どもができないことに親族一同は大騒ぎをした。彼女に問題があることも視野にいれて、側室を迎えることも薦められた。
     だが鶯丸は「その必要はない」とそれを一蹴し今に至る。その鶯丸の様子に最近は諦めたのか一族も何も言ってこない。
    「奥、出かけるぞ」
     すっと襖が開いて鶯丸が顔を出す。本を読んでいたのか、丸眼鏡がよく通った鼻に乗ったままだ。
    「……今日はお散歩の日でしたか? 旦那様、眼鏡を掛けたままです」
    「道理で丸い邪魔が入ると思った。いや、散歩じゃあない。演奏会の券をもらった。好きな着物を着せてもらうといい」
    「着物でよろしいので」
    「ああ、構わない」
     眼鏡を外し、また襖を閉めて鶯丸は出て行く。示し合わせたかのように下女が来たので、彼女はさほど華美でない着物を選び手伝ってもらった。演奏会の場なら落ち着いたもののほうがいいだろう。
     支度を終えると、鶯丸が顔を出す。そちらは洋装だった。
    「旦那様は洋装でよろしいのですか」
    「ああ、俺が奥の着物を見たかっただけだからな。出るぞ」
     なんでもない風で鶯丸は彼女の額に軽く口付けるとそのままゆったり歩き出す。
     本当に、鶯丸の考えることは昔から全くわからない。



    「鶯丸! 遅いぞ、何をしていた! 忘れたのだと思って遣いをやろうとしていたところだ!」
     車から降りるとドスドスドスといつもの足音で大包平がやってくる。しかし鶯丸はそんなの気にすることなく、降りようとする彼女に「砂利で足場が悪いな」なんて言った。
    「別に遅れてはいないだろう。長居をするわけでもないから、ゆっくり来た」
    「そうは言っても今日の目的を忘れたか、引き受けたのはお前だぞ! 向こうはもう来ている」
    「珍しいな。あちらのほうが遅いと思っていた」
     ふふ、と鶯丸は笑った。どうやら誰かと会うために来たらしい。大抵鶯丸の来客は向こうから屋敷に来ることが多いから珍しい。
     その日、そろそろ夕食の時間だなと思っていたころに、いつも通りすっと襖が開いたのだ。洋装の鶯丸がその隙間から顔を出す。
    「奥、出掛けるぞ」
    「そろそろ夕食の時間ですよ、旦那様」
    「今日は仕事のついでに外にする。君、それを奥に」
     大きく鶯丸が襖を開けると、下女が箱を持って立っていた。歩み寄って開ければ珍しくドレスである。鶯丸が彼女に衣服を持ってくるときは、大抵が着物であった。
    「いつ買われたのですか?」
    「寸法が変わったか? 前に測ったものと同じにしたんだが」
    「いえ、特に変わってないと思います」
    「なら着るといい。最近帝都の百貨店に腕のいい針子が入ったと聞いたから、それに刺繍を頼んだんだ」
     なるほど、確かに細かい白い糸の刺繍が渋い緑のすべらかな生地に入っている。下女に手伝ってもらいながらそれを着て、彼女は鶯丸と迎えの車に乗った。
     滅多なことがないと出席しないが、鶯丸も名家古備前の当主なだけあって極稀にこうして夜会に出ることがある。だがそういう場が好きではないため、本当に一年に一度あるかないかくらいの頻度だし行ってもさっさと帰る。けれど今日はどこか楽しげでもあり、彼女は車中にいるころからそんな鶯丸の様子がやや不思議だった。
    「古備前様、奥様もご機嫌麗しゅう」
    「鶯丸様、お珍しい」
     案の定、その場にいた誰もがやや目を丸くして鶯丸と彼女を見た。鶯丸は何を言うでもなく、声を掛けられると「ああ」だの「久しいな」だの相槌を打って歩いていく。あの様子では半分以上相手のことを覚えていないだろうなと彼女は苦笑した。後で聞いても「そうだったか」と普段通りの穏やかな調子で言うのだろう。
     しばらくそんな風にいくらか挨拶をして、目当ての人物を見つけたらしく鶯丸は頭をもたげた。それからこちらを振り返ると「奥」と手招きした。
    「よく覚えておくといい、今日の相手は奥にも関係がある」
    「私にもですか」
    「ああ。久しいな髭切」
     こちらに歩いてきた男性に鶯丸は声を掛ける。柔らかそうな金色の髪をした男性は琥珀色の瞳でこちらを見るとやんわり微笑んだ。
    「そう久しくもないよ、鶯丸友成。あと、えーっと」
    「大包平だっ! 鶯丸よりも短い名だろうっ!」
    「ありゃ、ごめんね。とにかく久しぶり」
     なんだかふわふわと笑うその人は、若干夫と雰囲気の似たタイプの男性だった。掴みどころがないというか、なんと言うか。大包平に対する態度まで似ている。
    「そうだったか」
    「まあ、顔を合わせる機会がそうないからかもしれないね」
    「そうだろうな。奥、源氏の惣領髭切だ」
     源氏、といえば武家の元締めだったはず。彼女は会釈程度に頭を下げた。髭切は琥珀色の瞳を細める。
    「お前、妻がいただろう。どうした」
     鶯丸が尋ねれば、髭切は肩を竦めた。ふわりと金の髪が揺れる。
    「今日は具合が悪くて家で寝かせてるんだ。だから僕も早く帰りたくて」
    「そうか。それで、弟は」
    「あっち」
     思わず彼女も髭切が指したほうを振り返った。人ごみの奥に、春の緑をした髪が覗く。鶯丸の色よりは淡く、薄い。
    「あれか」
    「うん、僕の弟の膝丸。まあ、君も見たことあるよね」
    「どうだったか、あまり思い出せん」
    「君って僕以上に物覚えが良くないときあるよね、鶯丸友成」
     誰かに挨拶をして回っているのか、その青年はこちらに背を向けていたのだが不意にこちらを見た。どきりとして彼女は半歩後ずさる。兄と同じ琥珀色の瞳だった。
    「あれの相手か」
    「君が選ぶのかい、不安だなあ」
    「まず大包平に見繕わせる、心配しなくていい」
    「俺を小間使いのように使うなっ!」
    「奥」
     彼らがやいのやいの話していると思ったら、突然こちらに話を振られたので彼女は慌てて返事をした。自分でも所在がわからなくなっていたところだ。
    「はい」
    「近く、あの膝丸と古備前の娘を結婚させることにした。俺と奥で仲人をする。覚えておいてくれ」
    「仲人?」
     鶯丸は彼女のほうにやや屈み、同じ目線で膝丸のほうを見る。膝丸はやはり遠くで別な接待をしていた。
    「奥は仲人をしたことがなかっただろう。俺も名を貸すばかりだ。夫婦で揃ってしてみるのもいいものじゃないか」
     ふふ、と鶯丸は笑ったがやったことのないことだ。粗相のないようにしなくては。彼女は鶯丸に尋ねた。
    「具体的には、何を」
    「まあ俺も休み休みやるさ、心配しないで大丈夫。今度奥にも膝丸と会わせる、気負わずするといい。たまには話し相手も必要だろう」
     話し相手、と彼女は再びその青年を見た。薄緑の髪の男の人。何故だか一瞬だけ合った琥珀色の目がまだ頭に残っている。
     今そこにいるのだから挨拶をしないでいいのかと思っていると、ふんと大包平が鼻を鳴らす。
    「縁談相手の品定めは遠くから声を掛けずになんぞ、古臭い」
    「まあいいじゃないか。いきなりでは奥も緊張する、可哀想なことをしてやるな」
     なるほど、形式を重んじたのか。彼女はもう一度だけ遠くにいる膝丸を見やって、それから鶯丸のほうに視線を戻す。
     簡単な日取りや段取りを話し、見合いの用件は終わりのようだった。殆ど大包平が記憶して鶯丸は「うん、そうか」としか言っていなかったがまあそれもいつものことだ。ひとしきり確認してから、髭切が膝丸のほうを振り返り一度だけ手を振ってから呟く。
    「……ねえ、鶯丸友成。くれぐれもよろしく頼むよ」
     鶯丸はそれに小首を傾げる様にして答える。
    「まあ、俺は悪いようにはしないさ」
    「君なら、そうだろうけど」
    「それより髭切、それは悪い癖だな」
     睨む、というほどではなかったが髭切は琥珀色の瞳にやや強い色を滲ませて鶯丸を見た。だが鶯丸は調子を変える素振りを見せない。かえって彼女のほうが下がって鶯丸の背に隠れてしまった。
    「僕は惣領だからね。源氏の家を守る義務がある。源氏と名の付くもの、下にいるもの全て、不自由なく暮らさせる義務がね」
    「そうかもしれないな。だがお前、そのために今まで一体何を引き換えにしてきた。もう少し気楽にやれ」
    「鶯丸」
     大包平が咎めるように言った。やんわり笑んで鶯丸は口を閉ざす。代わりに大包平は腕を組み胸を張って背筋を伸ばした。
    「案じなくていい、この俺が! 古備前の娘からお前の弟の妻を選ぶのだ」
     それを見て、髭切も視線の獰猛さを緩める。それからふわっとした表情で笑った。
    「……あはは、それはそれでちょっとなあ」
    「なんだと!」
    「じゃあまたね、鶯丸友成と奥さんと大包平」
     ひらっと手を振り髭切は行ってしまった。髭切の姿が遠くに見えなくなってから、大包平が目を吊り上げて怒り出す。彼女にも半分以上その予想はできていた。
    「鶯丸ッ! この期に及んで獅子の尾を踏むような真似をするなッ!」
    「俺は親切のつもりで言ったんだがなあ、奥」
    「いえ、私に言われましても」
    「とにかくだ、俺がいくらか相手を見繕う。その中からお前が選べ。五人まで絞ってやる」
    「わかった」
     ゆったり答える鶯丸を見て、大包平ははあと息をついたがやや視線を逸らして言う。
    「慮ってやれ。あいつだって、膝丸だって、好き好んでこの話を進めているわけじゃないことはお前にもわかるだろう」
     大包平はその後他の家々に挨拶して回るとかで去っていった。
     確かに、鶯丸にしては明らかに相手が気分を害した状態で言葉を続けるのは珍しい。それが大包平ならいざしらず、今の髭切は見知ってはいるにしてもそういう間柄ではないだろう。
    「旦那様」
     声を掛ければ、鶯丸は笑んだまま振り返ってよしよしと彼女の頭を撫でる。往来だろうがなんだろうが、鶯丸はあまり彼女に触れたりすることを躊躇ったりはしない。
    「用は終わった。帰るか」
    「後はよろしいのですか?」
    「ああ。だがせっかく奥に新しい服を着せてそのままというのも勿体ないような気がするな」
     うむと考え込むような仕草をして、鶯丸は考え込む。それから名案だと言わんばかりに彼女の腰を抱くとずんずん進み始める。
    「旦那様? どこへ」
    「せっかくだ、踊ればいい」
    「えっ」
     夜会なのだから確かにそういう男女も多くいた。楽隊だってちゃんといる。しかし問題が一つあった。
    「踊れませんよ私、旦那様が教えてくださらなかったじゃないですか」
    「そうだったか。なら今教えよう、手はこうだ。もう片方は俺の腕に添える。後は俺についてくるといいぞ」
     そう言うと鶯丸は勝手に彼女の手を取り、腰を抱いた。いやいきなりそんなに動けるものか。一歩鶯丸が踏み出した瞬間に彼女の顔が強張ったのを見て、くつくつと鶯丸は愉快げに笑う。
    「面白い顔をしているなあ、奥」
    「笑いごとではありません」
    「ゆっくりでいい、わからなくなったら俺にもたれていればそう変わらない」
    「変わりますよ」
     何とか一定の調子を覚え彼女がホッと息をついたころ、ステップを踏みながら鶯丸唐突に言った。
    「今日の縁談がまとまれば古備前と源氏は親戚関係になる」
    「ええ、そうですね」
    「加えて膝丸は惣領の弟で、仲人を務めるのは当主の俺と奥だ。この意味がわかるか?」
     くるりと鶯丸が彼女をターンさせたので、彼女は驚く間もなくその通りに動いた。ひらりと渋い緑の布地が翻る。
    「いえ、あまり」
    「まあ、簡単に言えば普通の結婚より繋がりが強いということだ。うちの遠戚や遠縁は薄いものまで辿れば気が遠くなる。長船もそうだ、青江もそうだな、一文字も」
    「存じております」
    「そういう中に源氏が混ざるんだ。加えて今、源氏は窮状に立たされている」
     え、と彼女が声をあげる前にぐっと上半身を倒される。穏やかでやや高い鶯丸の声が耳元で囁いた。
    「源氏は古備前の出資と後ろ盾がほしいんだ。だから縁を結ぶ。わかりやすいだろう。武家も生きていくのが難しくなったな」
     ……源氏といえば、武家の元締め。その家が。
     ふわと体が浮くような心地がして、彼女の体勢は戻された。甘い茶の香りがくゆる。
    「三条は家計のために商家の娘を嫁にもらい、左文字も次男が手を広げた。ここで源氏と手を結ぶのも悪い話じゃあない」
    「……旦那様」
    「やあたっぷり動いた。帰ろう、奥」
     時代が変わるというのはなんと恐ろしいことか。彼女は自分が古備前から外の世界を何も知らなかったことを改めて認識した。
     自分は鶯丸が教えてくれたことしか知らない。そういう世界でだけで生きているのだ。
    「奥」
     帰る車の中で、彼女の世界の全てが笑う。



    「源氏の……膝丸だ、よろしくお頼み申し上げる」
     鶯丸より低い声だと彼女は思った。いつも鶯丸の声に慣れているから新鮮である。
     しゃんと背が伸びて正座をするその青年と、彼女は今古備前の屋敷で二人きりで向き合っていた。
     彼女が鶯丸以外の男性と二人きりになることはほぼない。あってせいぜい大包平相手であるが、大包平は彼女と無理に話そうとはしないし彼女も然りだ。たからこんな風に自発的に会話しなければならない男性と二人になったことなど一度もない。
    「よろしくお願いします」
     とりあえず頭を下げれば、膝丸もきちんと腰を折って礼をする。それからコホンと一度だけ咳払いをし、膝丸は所在無さげに視線をやや下げた。
    「その……奥様は、どれほど話を伺っていらっしゃるのか」
    「あ、旦那様からは、膝丸様の仲人をと」
    「そう、だ、な。いや、その通りにございます」
    「えっと……あの、私に敬語を使っていただかなくとも大丈夫です。偉いのは旦那様で、私ではありませんから」
    「いや、お願いしている立場なのだから、そう言うわけには」
     歯に物が挟まったような物言いに、彼女は何とも苦笑した。気を遣っているだろうことは彼女にもよくわかる。
     彼女は膝丸の「ただの仲人」ではない。今後出資し、後ろ盾になってもらう家の当主正妻なのだ。粗相は許されないと緊張しているのだろう。事情を知っているだけに、彼女も俯く。しかしこのままではやりづらい。
    「気にしなくていいぞ、膝丸。楽にするといい」
     沈黙していたところに、シャッと襖が開いて鶯丸がやってきた。いつもの和装の鶯丸はそのまま部屋に入ると彼女の隣に正座する。ホッと彼女は息をついた。
    「いや、しかし、鶯丸殿」
    「構わない。奥の言うとおりにしてくれるか。お前には奥の話し相手もしてもらいたいからな」
     膝丸はいくらか躊躇したようだったが、踏ん切りのいい性格をしているのかパッと顔を上げて彼女のほうを見る。
    「承知した。では奥様、よろしく頼む」
    「……はい、こちらこそ」
     再度礼をした膝丸に、彼女ももう一度頭を下げる。鶯丸は一度だけ目を細めると、さてと膝丸に向き直った。
    「お前の嫁だが、昨日大包平が五人に絞ってきてな。俺の手元に五枚写真がある」
    「お早いですね」
     つい先日段取りの話しをしたばかりだった気がするが、と彼女は鶯丸に問う。すると鶯丸は羽織の袖の下で腕を組みながら頷いた。
    「大包平は仕事を溜め込むのが好きではないんだ。俺はもう少しゆっくりすればいいと思うが。まあとにかく候補は決まったということだ、膝丸は見合いまで気を楽にしていろ」
    「う、む」
    「見合いなんてものは今回は形式ばかりのものだ。顔を合わせたら次は結納だろう? その仕度は奥に任せる」
     急に話を振られて彼女は何度か瞬きを繰り返した。鶯丸はメモを袂から取り出して彼女に手渡す。
    「準備ですか?」
    「難しいことじゃない。いるものは書いてもらったから、これを揃えてくれるか。それから膝丸の服も仕立ててやるといい」
    「むっ?」
     面食らった表情で膝丸が顔を上げる。服、服かと彼女は膝丸を見た。
    「紋付袴でしょうか」
    「見合いだからなあ」
    「ま、待ってくれ! 衣服の調達くらいは、こちらで」
     その言に鶯丸は笑顔で首を傾げる。
    「何故だ? うちで用意する気でいたんだが」
    「古備前には仲人を務めてもらうだけだ、日程や場所の調整はありがたく思うがそれ以上してもらうわけには」
    「ああ、言っていなかったか。俺はお前のところに子ができたらそれを養子にもらうことも考えていてな」
    「えっ」
     今度は彼女が声を上げる番だった。養子なんて聞いていない。
    「旦那様?」
    「俺たちには子がないだろう? だからまあ、そういうことを考えてもいいものかと思ってな。まあ、俺も当主だ。お役目からは逃げられん。本当は膝丸をそのまま養子縁組でもらってもいいくらいだったんだが、髭切が許さないだろうからな、やめた」
     それは、そうだが。
     なんだか視界がくらりと揺れたような気がした。彼女は鶯丸から渡されたメモに目をやる。ずらりとそこには逸品ものばかりが並んでいる。
     そうか、いずれ自分の跡取りとして迎えるつもりでいるから、こんな立派な用意をするのだ。
    「じゃあ頼んだぞ、奥」
     鶯丸はぽんと一度彼女の頭を撫でて、軽く口付けると立ち上がる。今日はどこかに行く予定だったか。
    「……旦那様、どちらへ」
    「ん? いいや、膝丸とよく話すといい。俺は庭でも眺めて過ごすから気にするな」
     スッと襖が閉まった。鶯丸は襖を開けることはあっても閉めることはない。閉めるのは彼女がすることだ。それは大抵、鶯丸がそこを開けたら彼女と一緒に外に出るときだから。
    「も、申し訳ない! 俺もそんなことだとは知らず」
    「……」
    「奥方?」
     膝丸に言われてハッとして我に返る。何とか彼女は首を振った。
    「ごめんなさい、あの、寝耳に水だったので。私も、初めて聞いて」
    「俺もだ。……不思議なお方だな、鶯丸殿は」
    「……旦那様の考えていることを、私は一度だってわかったことがないのです」
     いけない、と思ったがもう自然とそれは口から出てしまっていた。
     一度だってない、鶯丸の考えていることがわかったことなど。不意に演奏会に出かけたり、茶会を開いたり。綺麗な着物を「着るといい」と渡してきたり、この間は長船からだと見事な屏風を持ってきた。
     それらを見たり聞いたりすると、鶯丸は「綺麗だな」だとか言う。それに対して彼女は「そうですね」と答える。だが何を意図して、何を思って、鶯丸がそうしているのか彼女にはわからないのだ。
    「……ふふ」
    「な、なにか?」
     膝丸が不意に眉を下げて笑ったので、彼女は慌てた。変なことを言っただろうか。
    「いや、失礼した。……義姉が同じことを言っていたのを思い出してな」
    「お姉さま……髭切様の奥様ですか?」
    「ああ。今でもしきりに言う。兄者は何を考えているかさっぱりわからない。でも案外単純なことしか考えていないのだと」
    「単純な」
     彼女は少し考えて……やめた。鶯丸の考える「単純」なことさえ想像がつかない。
     だが膝丸が家族のことを話すときとても柔らかな顔をしたので、彼女は安堵した。ここに来てからずっと、強張った表情をしていたのが気がかりだったのだ。
    「ご家族のことが大切なのですね」
     彼女がそう言えば、膝丸はきりりとした顔立ちを和ませて頷く。
    「ああ……俺は兄者を支えるために生まれた源氏の弟。兄者を助けることが俺の役目。兄者が家を守りたいと思うのなら、家は俺にも大切なものに変わりない。それに、今まで俺はずっと兄者や、ご結婚なさってからは義姉に守られてきたのだから。恩を返さねば」
     恩、と彼女は心のうちで繰り返した。恩義で、膝丸は結婚するのだろうか。
     しかしよかった、ずっと緊張し通しだった膝丸の気持ちもほぐれたようだ。
    「しばし世話になる。奥方、改めてよろしく頼む」
    「いえ、こちらこそ。お願いしますね」
     最初とは打って変わった表情で挨拶をし直す。いくらか着物の仕立ての採寸などの話をして、膝丸は帰ることになった。
    「鶯丸殿が一等大切になさっている奥方だと聞いていたから、最初は緊張してすまなかった。ではまた」
     律儀に詫びてから、膝丸は古備前の屋敷を出て行った。
     鶯丸が一等大切にしている奥方。世間では自分はそう思われているのかと彼女は不思議に思う。……それなのに、彼女は妻として抱かれもしなければ養子を考えていることなんて一つも言われなかったのだ。
     わからない、と彼女はまた思った。鶯丸が何を考えているのか、自分をどう思っているのか。生まれてからずっと、傍にいるのに。



     膝丸の縁談の仕度は難なく進んだ。元々いるものはリストアップされていて、彼女はそれを整えるだけ。唯一膝丸の紋付袴を仕立てるときは呉服屋を呼ばねばならず、彼女は鶯丸にそれを聞いた。
    「ああ、それなら光忠に手配をしよう。いつも通り呼んでもいいが、気晴らしがてら、大包平でも連れて帝都に出るといい」
     自分は行かないのか、と彼女は思った。しかし鶯丸は珍しく大包平に日時を告げて、車を手配し長船の呉服屋に連絡をつけた。当日、やっぱり鶯丸は行かなかった。
    「気をつけていけ、奥。帰ったら茶にしよう。大包平、馬鹿をやるなよ」
    「俺が一度だって馬鹿をやったことがあるか」
     今まで一度だって、彼女は鶯丸にこうして見送られたことはない。ドアの外からこちらを覗きこんでそう言うと、鶯丸は静かに車の扉を閉めた。隣には大包平、途中で膝丸を拾っていくことになっていたので源氏の屋敷に寄ってから彼女は長船の現当主の元に来た。
     長船派の現当主は燭台切光忠という男性で、彼女も何度か鶯丸の茶会で会ったことがある。先日も襖に立派な書を書いてくれたとかで挨拶に来た。いつ会っても隙のなく完璧な装いの彼は、今日も門前で笑顔で出迎えてくれる。
    「奥方様、大包平君もいらっしゃい。そちらが膝丸さんかな」
     光忠は車を降りる彼女に手を貸しながらそう尋ねた。
    「こんにちは、燭台切様」
    「相変わらずだな、燭台切」
    「よろしく頼む」
    「任せて。おめでたい縁談だからね、かっこよく決めよう」
     着物のことは光忠に任せておけば問題ないだろう。彼女は採寸だのなんだので膝丸が別室に通された後、大包平と二人長船邸の一室で待たされた。出された茶を飲みながら、彼女は鶯丸が出すものよりやや渋いなと思った。
    「……おい」
    「はい」
     同じようにして茶を飲んでいた大包平が珍しく声を上げた。彼女と二人のとき、大包平はあまり話をしない。互いに嫌っているとかそういうわけではないのだが、特段話すこともないため苦でもなく無言でいるのだ。
    「お前、養子の話は聞いたのか」
    「あ……ええ、先日」
     ツキツキと僅かに胸が痛んだ。あまり考えないようにしていたことだが、同じ古備前の大包平がそれを気にしないはずがなかった。
    「何か鶯丸と話したか」
    「いえ。旦那様のお決めになったことですから」
    「それに何とも思わないのか」
     腕を組み、向かいで胡坐を掻いた大包平がこちらを見る。湯呑みを持っていた手にやや力がこもった。
     鶯丸がそう決めたのなら、彼女はそれに従うまでだ。今までずっとそうしてきた。与えられるものを受け取り、連れて行かれるところについていった。彼女は鶯丸にそうして育てられてきたし、そのために彼女は生きてきた。
     答えない彼女にふんと鼻を鳴らし、大包平は茶を飲み干す。
    「俺にも相談がなかった」
    「養子の件ですか?」
    「そうだ。あいつは判断は自分でするが、必要なことだけは必ず俺に言う。養子は跡目に関わる家のことだ。俺を通さないはずがない。鶯丸が俺に何も言わないのは、お前に関わる物事だけだ」
    「……私?」
     菓子の包み紙を開きながら、大包平は続けた。
    「俺は鶯丸のことはわからん。もう長い付き合いだが、いつまでも俺を馬鹿にする。だが蔑ろにはしない。あいつはそういうやつだ。俺はそれでいいと思っている。旧い家の当主など、ああいうやつでなければ務まらん」
    「……」
    「だが俺はお前のことを憐れんだことがある」
    「憐れみ?」
     予想外の言葉だった。
     大包平は彼女の一番古い記憶からずっと鶯丸と共にいる存在だ。特に親しく話した思い出はないが、彼女にとって鶯丸の次に身近にいる他人である。だが確かに、鶯丸が彼女に何かを与えるとき、連れだすとき、大包平はいつもじっとこちらを見ていた。
     あれは、憐れみの視線だったのか。
     大包平は茶菓子を楊枝で切り分けながらなおも話す。
    「お前は鶯を飼養するときの育て方を知っているか」
    「い、いえ」
    「一番子の雛を巣ごと持ち帰る。それから餌を求めたら与え、寒がれば温め、鳴き方を教えて鳴かせる」
    「……」
     指が震え、茶に波紋を立てる。それは、そんなのは。
    「わかるか、お前はそれと同じだ。鶯丸が雛のうちから籠の中に持ち帰り、自分だけが物を与えて鳴き方を教えて育てた。お前は鶯丸が飼い殺しにしている雛だ」
     顔を上げることができなかった。皮膚をはがされて中身を剥き出しにされたような気持ちだ。
     言われた内容がショックなのではない。なぜなら彼女は、本当は薄々そうではないかとずっと思っていたのだ。
     自分は、鶯丸から見放されたら生きていけない生き物なのだと、鳥の雛も同然に鶯丸から生かされているのだと、疑念があった。だからずっと、恐ろしかったのだ。
     黙りこくって俯いた彼女からは、大包平が菓子の皿を楊枝と共に置く動作しか見られなかった。何か言わなくてはと思うのに、言葉が出てこない。
    「源氏の蛇……膝丸には好きな女がいるらしい」
    「えっ」
     そんな、じゃあ今回の縁談は。まさか大包平と鶯丸が選んだ古備前の女性がその相手だなんて奇跡的なめぐり合わせはあるまい。
    「養子の話を聞いて俺が調べたことだ、鶯丸は知らん。好きな女がいたが行方知れずになり、それと添うことは叶わなかったと聞いた」
    「行方知れず……?」
    「だがこの縁談で古備前と手を結ぶことは膝丸から言い出したとも聞く。どいつもこいつも、馬鹿だ。お前を含めて。鳴き方は教わったんじゃないのか、言いたいことはきちんと言え。でないと鶯丸はわからんぞ」
     言いたいこと。彼女は息を吸い込んでは吐き出す。それしかできない。
     古備前の家で苦労をしたことも辛い思いをしたことも、彼女は一度もない。実の両親も兄弟も傍にはいなかったが、代わりにいつも鶯丸がいた。疎んじられることも苛めにあうようなこともなく、鶯丸と食事を取り、与えられた着物を着て、散歩と言われれば一緒に出かけ、縁側から庭を眺めて過ごした。
     では、鶯丸が彼女を必要としなくなったら?
     本当はあの、新婚初夜に自分は間違ったことを言って、鶯丸はずっと怒っているのではないのだろうか。
     鶯丸に嫌われたら、彼女は一体どうしたらいい。生まれたときからこの籠のうちにいる、ただの雛は。
    「奥方、どうした。具合でも悪いのか?」
    「あ……」
     採寸が終わったのか、気がついたら膝丸がこちらを覗きこんでいた。辺りを見回すが大包平はいない。光忠と話してでもいるのだろうか。
    「顔色がよくない、大包平殿か長船の誰かを」
    「結婚、本当になさるんですか」
     支離滅裂な返しだとわかっていても、彼女は膝丸に問わざるを得なかった。屈んでいる膝丸の腕を掴み、もう一度聞く。
    「いいんですか? 本当に。この縁談を進めてしまっても」
    「……奥方、何か聞いたのか」
    「ごめんなさい、でも、私」
     膝丸はゆっくりと彼女の腕を解き、それから静かに首を振った。
    「お気遣い、痛み入る。……だが貴女が気に病まれることは一つもない、どうかそんな顔をしないでくれ。この結婚は本当に、俺が望んで進めてもらったことだ」
    「そんな、だって」
    「兄者もお前が気にすることはないと言った、お前が無理にそんなことをする必要はないと。だが俺が家の役に立ちたかったのだ。そうすることが、『彼女』への罪滅ぼしにもなると思った。だから俺には悔いることなど一つもない。俺は、俺ができることを為すだけなのだから。源氏の惣領、獅子の傍らにいる、蛇として」
     彼女の手を膝丸の手が包んだ。鶯丸の手とは違う。彼女に触れる鶯丸の手は、いつも温かく滑らかな美しい手だ。膝丸のそれは同じような温度を持ってはいても、しっかりとして強いもの。けれど強いからといって苦しくないわけではない、辛くないわけではない。
     彼女が生活に何不自由なくとも、苦しいように。
    「思えば俺の子が貴女の子になるかもしれないのだな」
     膝丸は穏やかな声でそう言った。もっと悔やんでいいのに、悲しんでいいのに。いっそそうしてくれないだろうか。
    「膝丸様」
    「優しい貴女になら安心して任せられる。見ず知らずの俺の話に、心を痛めてくれた貴女なら。だから気にしないでくれ」
     ありがとう、と手を離して膝丸とは別れた。
     帰路、大包平はなにも言わなかった。そして彼女も、声を上げることはなかった。



    「奥、仕度はできているか」
     スッと襖が開いて、黒い着物の鶯丸が顔を出す。彼女も今日は仲人用に留袖の着物と決まっていたからもう仕度はできている。だからただ鶯丸のほうを見上げた。立ち上がらない彼女を変に思ったのか、鶯丸は首を傾げる。
    「どうした、具合でも悪いか」
    「……いいえ」
    「無理はよくないぞ」
     鶯丸は屈んで手を伸ばし、彼女の額にやる。熱を測っているようだった。そんなものはない、だが彼女はそれを言いはしなかった。
    「……旦那様」
    「ん?」
     にこりと笑った鶯丸を見て、彼女は首を振った。
    「膝丸様を、お待たせしてしまいますね。生真面目な方ですから、きっとそろそろいらっしゃるでしょう。まだ早いですが」
     今までの待ち合わせも、ずっとそうだった。きっと本当に、膝丸は悔いを残すつもりはないのだ。覚悟を決めているのだ。
     彼女のほうが立ち上がると、鶯丸はじっとこちらを見つめていた。立ち上がる素振りを見せないので、不思議に思って尋ねる。
    「旦那様、行きませんと」
    「……奥が俺と大包平以外のものの話を自分からするのは初めてだなあ」
    「え?」
     鶯丸は立ち上がり、「いいや」と微笑んだ。それはいつもの鶯丸の笑みだった。
     見合いは古備前の屋敷でとしてあった。十分な広さがあるし、庭も整っている。今日もいつもの縁側に気持ちのいい風が吹いていることだろう。だが心が晴れないせいか、彼女はどうしても庭を眺める気にはなれなかった。
    「膝丸とはうまくやれたか」
     廊下を歩きながら鶯丸に尋ねられたので、彼女は半歩先の背中を見て答えた。
    「……ええ、優しい方でしたから」
    「そうか、よかったなあ」
    「あの、旦那様」
    「ん?」
     聞かなければ、言わなければ。
     指先がどんどん温度を失っていくのがわかった。うまく呼吸ができない。
    「どう、して、今回の縁談、お引き受けに」
     ああ、違うそうじゃない。聞きたいのはそれではない。
     しかし鶯丸は振り返り、きょとんとして首を傾げる。
    「それが気になるのか?」
    「えっと」
    「前に言ったぞ。奥としてみるのもいいものじゃないかと思ってな。それだけだ」
    「そう、ではなく」
     一緒にするのならなんだってできる、今までだってそうだった。
     本当は養子がほしかったんじゃないのか。彼女との子の、他に。
    「旦那様、源氏の方がお見えです」
    「……ああ、わかった」
     下女が呼びに来て、鶯丸はそちらに返事をした。しかしもう一度彼女のほうを向くと柔らかな声で言う。
    「いいぞ、好きにして」
    「……好きに?」
    「ああ、奥の好きにしていい。俺は髭切と話がある、膝丸と、部屋で待て」
     静かな足音を立てて、鶯丸はそのまま廊下を進んだ。
     好きに、していい。……わからない、鶯丸が何を考えているのか、どうするのが正しいのか。
     彼女は困惑したまま膝丸のほうの控え室に足を運んだ。相手の女性が来るのはもう少ししてからだ。やはり生真面目な膝丸は早めに来たらしい。
    「奥方、今日は御礼申し上げる」
     部屋を開ければ、膝丸はこの間長船で仕立てた紋付袴で頭を下げていた。彼女は気を取り直してその正面に座る。だめだ、これから見合いだというのに。
    「いえ、本日はおめでとうございます、膝丸様」
    「うむ……天気にも恵まれて、よかった」
     膝丸は目を細めて彼女の向こうの外を見る。それで彼女はやっと表を見ることができた。確かに、青くよく晴れた空だ。その空に視線を向けたまま、膝丸は続ける。
    「相手の方の写真を見せてもらった」
    「どう、でした?」
    「流石古備前の方だな、美しい方だった。経歴も申し分なく、鶯丸殿にも後で礼を申し上げねば」
     何故だか目を合わせることができなくて、彼女も膝丸も外を見つめたままそのまま言葉を続けた。
    「ふふ、そうですか。私も見せていただいていないもので」
    「そうなのか」
    「言ったではありませんか。旦那様の考えることなんて、私には一つもわからないんですよ」
    「案外単純に、ご自分の好みで決められたのかもしれぬ。思い出してみれば、奥方に似ているような気もするぞ」
    「……どうでしょう」
     好きにしていいと、先ほど鶯丸は彼女に言った。しかし彼女の好みとは一体、なんなのだろう。
     今まで鶯丸に与えられるものだけを受け入れ、そうして過ごしてきた。だから彼女の好みは、鶯丸がくれたもの、教えてくれたものに他ならない。
     あの、先ほど彼女の額に当てられた手がくれるものが、彼女の……。
    「眩しいな。すまない、閉めてもらえるか」
    「あ、ごめんなさい。私、開けっ放し、で」
     襖を閉めようとした手が、止まる。
     今、ここを閉めたら。
     膝丸はこのまま見合いをし、結納を済ませ、結婚するのだろう。そうして子どもができたら、もしかしたら養子にもらって鶯丸の跡目になるのだろう。鶯丸の、養子に。
    「奥方?」
     動かないでいたために、膝丸に声を掛けられる。彼女はゆっくり、振り返った。
    「……お行きになって」
    「……何?」
     襖にかけていた手を離し、座って膝丸に言う。
    「行ってください、膝丸様。今すぐここを出て」
    「奥方、何を」
    「好きなんでしょう!」
     琥珀色の瞳が見開かれる。ああ、そう、この目。最初に夜会で会ったとき、思わず後ずさってしまった、この瞳。
     諦めてはいけない、こんな覚悟してはいけない。あの目は悲しんでいる目、本当は何かを悔いている迷っている目だ。
    「……っだが」
    「好いていらっしゃるんでしょう、だったら今お行きになって。今行かないと間に合わない。もう二度と、間に合わないんですよ!」
    「俺は、家を」
    「本当にいいんですか! 膝丸様が大切なお兄様やお義姉様がこれで本当に喜ぶんですか? こうして家を立て直して、本当に」
     力のこもった拳がまだ迷っている。彼女はそれを上から握った。琥珀色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
    「後は私が、何とかしますから。だかどうか、行ってください」
     何とか、したい。膝丸のためだけではない、自分自身のためでもある。
    「っすまない!」
     立ち上がり、勢いよく襖を開け放って膝丸は駆け出していった。ばたばたという足音と、慌てたような下女の声が聞こえる。
    「奥様、奥様!」
    「……なあに」
    「良いのですか! 今、源氏の」
    「いいの、行かせて差し上げて。旦那様には私からお話するから、大丈夫。あなたは心配しないで」
     構わない、これでよかったのだ。
     蛇は元より、飼うには向かない生き物だし。なんて彼女は冗談めいたことまで考える。
     聞きなれた足音と襖の開く音に、彼女は振り返った。
    「旦那様、私、旦那様にお願いがございます」
     ぱちぱちと二度ほど鶯丸は瞬きを繰り返した後いつものように瞳を和ませて笑った。
    「それは面白い話だ。聞こうじゃないか」
     彼女は座したまま、鶯丸に深く頭を下げる。
    「……養子を迎えるのを、おやめになってください」



     物心がついたときから、鶯丸の妻になるのだと本人から聞かされてきた。
    「君はいずれ俺の妻になって、こうして俺と茶を飲んだり菓子を食べたり一緒に寝起きするようになる」
    「……それでは今と変わりません」
    「ふふ、そうだな。だがまあ、そういうことだ。俺と君はそうして生きていく。死ぬまでずっと。それが嫌ではないか?」
    「はい」
     鶯丸に問われ、彼女は頷いた。今の生活を嫌だと思ったことはないし、鶯丸と過ごすことも、そのとき既に彼女の生活の一部であった。だからこれがずっと続くのなら、それは十分なことである。
    「そうか、それはよかった」
     返事を聞いた鶯丸は今と変わらぬ表情で彼女の頭を撫で、満足げに額に口付けた。それを彼女は、嬉しいと思った。返事一つで、彼女がいることで鶯丸が「よかった」と感じてくれるのならそれは彼女にとってもよかったことなのである。
     だからそうして生きていくのだと思った。大人になったら鶯丸の妻になり、子どもを生んで育てて、変わらず鶯丸と過ごすのだと。
     ゆえに、彼女は鶯丸が自分と子どもを作ろうとしないことを酷く悲しく思った。鶯丸は、彼女の子どもは要らないのだ。そう考えるだけでとても辛かった。
     だが跡継ぎがいるのはわかる。鶯丸は名家古備前の当主なのだ。彼女が悲しいからと、自分勝手に養子を辞めてくれなんて言える相手ではない。
     そのはずなのだが。
    「ああ、構わない。別に養子なんていなくてもどうにでもなるからな」
     鶯丸はあっさり、彼女にそう答えた。
    「……え?」
    「養子でいいなら適当な古備前の子を跡目にたっていいだろう。ああ、大包平でいいんじゃないか? あいつなら勝手もわかっている」
    「だ、だんなさま?」
    「名案だな。今度親族が騒いだらそう言おう。大包平も驚いてすごい顔をするだろうな、楽しみだ」
    「旦那様!」
     一人でくつくつと笑う鶯丸に、彼女は慌てて声をかけた。何を言っているのだこの人は。
    「どうした?」
    「な、何を仰って、跡目がいるから膝丸様の縁談を引き受けたのではないのですか」
    「いいや。言ったじゃないか、俺は奥と仲人をしてみたかっただけだ」
    「じゃ、じゃあ何故! 何故私の子は作らないのですかっ? 私の子はほしくないのですかっ?」
     ああ、言ってしまった。勢いに任せて口に出してから彼女はハッとする。
     はしたないことを大声で言ってしまった。だがもう遅い、鶯丸はぱちぱちと長い睫毛を瞬かせてこちらを見た。
    「ほしくないなんて言ったことはないが」
    「っですが、結婚してから、一度も」
    「それは奥が言わなかったからな」
    「え……」
     静かな声に、彼女は黙る。
    「奥が言わなかっただろう、俺に。子どもがほしいと」
     それは怒っていたり悲しんでいる風ではなかった。ただそうだからと言っているだけに彼女には見えた。
    「聞いたじゃないか、子どもはほしいかと」
    「いるって……言いましたよ、私」
    「ああ、いるとは聞いた。だがほしいとは言っていない」
     そんな、理由? そんな理由だったのか。
    「な、んですかそれ」
    「ん? そのままだ。俺は一度だって奥の子をほしくないと思ったことはないぞ」
     頭の片隅で、膝丸と大包平が同時に話し出す。案外単純なことしか考えていない、言わねばわからない。
     ああ、何てことだろう。なんだ、そんなことだったのか。たったそれだけの、ことだったのか。
    「……奥」
     衣擦れの音がして、鶯丸が彼女の正面に座ったのがわかった。だがはっきりは見えない。涙で曇ってしまって、今日着ている着物がぼんやりとで精一杯だ。
    「奥、何を泣いている?」
    「わた、私、旦那様に、嫌われたのかと、思って」
    「俺が? 何故」
     心外だというような口調で鶯丸が言った。
    「だ、だって、新婚初夜ですよ? それきりって」
    「その前から君のことは抱いていただろう。俺は一度だって奥にそんなことは言わなかったが」
    「そうですけど、そうですけど……でも、そ、っか、よかった……っ」
     安堵したら、涙がもっと出てくる。
     小さいころから、この人に嫌われては生きていけないと、ずっと思っていた。彼女の世界は鶯丸が全てで、鶯丸が与えてくれたものと教えてくれたものでできている。だから鶯丸に嫌われてしまっては、どうしたらいいかわからない。そんなどこか脅迫じみた気持ちがいつもあった。
     でもそれは大まかには合っていて、厳密には違った。本当は、ずっと愛されたかったのだ。
     愛されていたかった、いつまでもこの人の大切なものでいたいと思っていた。
     どこにだって連れて行く手も、「奥」と呼びにくる声も、いつも穏やかにこちらを見つめる静かな瞳も、何もかも失くしたくなかったから、確かめるのが怖かった。本当は、愛想を尽かされてしまっていたら。彼女はただ、鶯丸から愛されなくなることが恐ろしかった。
    「泣くな、奥。泣くな。何も心配しないで大丈夫」
     「まるで子供のころのようだなあ」と大きな手が頭を撫でる。
     言ってくれればよかったのにとか、なんでこれまで一度も催促しなかっただとか、色んなことが浮かんだけれど、まあいい。彼女が鶯丸の考えをわかったことなど一度もない。
     けれど鶯丸が与えたものが彼女を傷つけたことも、同じように一度だってなかったのだ。いつだって本当は、鶯丸の美しい手の中で、彼女は大切にされているとわかっていた。



     弟が控え室から飛び出していったと聞いて、髭切は驚き半分安堵半分であった。
     よかった、こんな結婚させないで済んで。
     後ろ盾が得られると喜んでいた家のものには申し訳なく思うが、今の髭切はこの感情が九割方を占めている。そもそもこの結婚には、髭切ははなから反対だったのだ。
    「……ねえ、お前がそんなことする必要ないよ。まだ他に、考えれば手立てがあるんだよ」
     髭切がそう言っても、膝丸は頑なに首を振るばかり。髭切は、弟に好きな子がいることを知っていた。そして自分の妻がそれに協力して、何とか二人をまとめようとしたことも知っていた。
     ……だが結果として、弟がどんな思いをしたのかも。
     それなのに、こんな結婚を薦める気にはなれなかった。見合い結婚に懐疑的なわけではない。現に髭切は自分が見合い結婚で今は弟と同じくらい大切な妻を迎えている。でもこれは話が違う。それゆえに何とかしてうまく折り合いをつけられないかと思っていたら、弟が自分から飛び出していった。
    「大人になっちゃって」
     ぼそりと髭切は呟く。もう、膝丸は自分が醜いものや辛いものから遠ざけていた小さな弟ではないのだ。それは兄として寂しいようで、嬉しいようでもある。
     しかし安心しているだけでいるわけにはいかないので、急いで鶯丸の元に向かった。どう考えても破談なのだから、兄の自分は頭を下げなくてはならないだろう。
    「鶯丸友成、入るよ」
    「ん? 髭切か。いいぞ」
     縁側に面しているというその部屋が鶯丸はお気に入りらしく、そこにいると案内されて髭切は来た。襖を開ければ、鶯丸は籐の椅子に座って庭なんか眺めている。髭切はそう鶯丸と親しいわけではなかったが、その表情は上機嫌そうに見えた。
    「謝りに来たよ。弟が申し訳ないことをした、どう詫びよう」
     当主の鶯丸と奥方に仲人を頼み、全面的に用意させたのだ。弟が放り出したこの状況では、古備前の面目は丸つぶれである。まあ、そうしてくれないかなと思っていただけに髭切はそこまで絶望的な気持ちではないのだけれど。
     けれど鶯丸は鼻歌交じりに首を振った。完全にご機嫌である。
    「いや、今日の俺は生憎気分がよくてな。何かを責める気にも咎める気にもなれん。だからいいぞ、詫びなくて」
    「おや、どうして」
    「二十数年、あれと過ごしてきたがな。あれが俺に頼みごとをしてきたのは始めてだ」
     籐の椅子に深く腰掛け、鶯丸は目を閉じ満足げに指を組んだ。
    「あれって、奥さん?」
    「ああ、座ったらどうだ? 茶でも出そう」
    「じゃあ失礼するよ」
     なんだか謝罪というより招かれたような空気だが、髭切はそのまま腰掛けた。なんだか鶯丸が話を聞いてほしそうだったのだ。鶯丸の座る椅子の少し後ろに、同じものがもう一つある。きっとあれは奥方用だろう。今はいないようだが。
    「頼みごとって、何されたの?」
    「膝丸の縁談をなかったことにしてほしいそうだ」
    「ありゃ、弟何かした? 飛び出したこと以外に」
    「いや、養子を取ってほしくないらしい」
     くつくつと鶯丸は愉快そうに笑う。養子? 何の話だ。髭切は首を傾げた。
    「膝丸に子ができたら養子にもらおうと思っていた、と奥に言ったんだ」
    「なにそれ、僕聞いてないけど」
     寝耳に水が過ぎる。髭切は鶯丸を見るが、当の本人は目を閉じたまま気持ちよさそうに風に前髪を揺らしていた。膝丸の子ならば髭切の甥である。そう簡単に他所にやれるものか。
    「ああ、言ってない。だがそうしたら奥は嫌だと言ってきた」
    「僕だっていいとは言ってないよ」
    「ふふふ、奥が嫌だと」
     何が嬉しいのかさっぱりわからない。髭切は勝手にその場にあった湯呑みから茶を注いで自分用にとって飲んだ。どうやら話が長くなりそうだ。
     ぱちぱちと鶯丸は瞬きをする。鶯丸友成という男は、髭切にとっても不思議な存在だった。名家古備前の現当主、皇族や他の家々との繋がりが深い古備前を治める男。しかし滅多に表に出てくることはないし、隠居したがっているとも聞く。たまに妻を伴って公の場に出てくるときは仲睦ましいのに、子どもはいない。そのくせ側室も取らない。当主としてあるまじきことだ。
    「あれは一度も俺に何かをほしいだとか、好きだとか言ったことがなくてな」
     愉快気に、鶯丸はそう言った。与えられるものを、できうる限りで与えてみたのだと言う。
     自分の好きな茶や菓子。美しい着物に、連れていけるところにはできるだけ。しかし彼女はそれをただ享受するだけだった。
     鶯丸に言われるままに、そういうものだと思って。
    「だが考え直してみればそれも道理だ。俺としか過ごしていないんだ。そうとしかわからないだろう」
    「まあ、比較対象がないならそうだよ」
    「だからものに関してはいいかと思うことにした。なに、俺と好みが同じだと思えば嬉しいものだ。だが、子どもは違うだろう」
     買って済むものでも、連れていって見せればいいものでもない。唯一無二、この世で鶯丸だけが与えられるものだ。彼女の体に、直接。
    「だからな、ほしいと言うまで与えないことにした」
    「え?」
     あんぐりと髭切は口を開ける。何を言っているのだこの男は。
    「君、男として不具でもあるのかい」
    「いや? 何もないな」
     信じられない。それだけ執着した相手を妻に迎えながら何を考えている。
     鶯丸が結婚したのは髭切よりもずっと前だ。その間何もしなかったというのか。奥さんかわいそうだなあと髭切はぼんやり思った。
    「極端だねえ。それでもう何年待ってるんだい」
    「さあ、もう随分になってしまうな。途中で数えるのはやめた。仕方のないことだからな」
     ほしがるまで、与えない。そう決めたのだから。
     まるで意地の張り合いのようだが、それだけは鶯丸の譲れないところだったのだろう。髭切はふうんとだけ相槌を打った。
     わからないようで、わかる気がする。大切な人にほど、求めてほしいものだ。たった一点、これだけはというものが、あるものだ。かつて髭切が、妻の心臓をほしがったように。
    「でも考えなかったのかい、君の子どもをほしくないのかなんて。僕はとてもそれが恐ろしかったことが前にあったけど」
     純粋にそう思ったので聞けば、鶯丸は椅子から体を起こしてパチパチパチと音がするくらい大きく瞬きをした。完全に予想外の表情である。
    「……そんなこと考えてみたこともなかったな。あれは俺の妻だ。そういう風に育てたし、過ごした。そう言われたらどうしたらいい」
    「さあ……知らないけど」
    「まあいいさ、お前の弟のおかげで奥も外を知ったようだし、今日はこうして頼みごとまでしてきた。十分だ」
     なにやら弟はいいように使われたらしい。それはやや不服であったけれど、髭切は湯呑みを空にする。
     再び籐の椅子に座り込むと、鶯丸は目を閉じる。
    「だから出資しよう、源氏に」
    「え?」
     また急に話が戻ってきたので、髭切は問い返す。鶯丸は唇を緩めながら言った。
    「これも奥からの我儘だ。自分が行くよう言ったから、破談は自分のせいだと。だから源氏への出資と後援はやめないでほしいらしい。可愛いじゃないか、聞いてやることにした」
    「君ねえ……まあいいか。それは助かるよ」
     この男の相手では骨が折れるだろうなあと、髭切は自分のことを棚に上げながら思う。風が庭の木々を渡っていく音が響いた。確かに、この縁側は気持ちのいい場所だ。
    「髭切、膝丸はお前が背を押すだけではなく自分が納得しなければ行かんと思うぞ」
    「……」
     何のことを指しているか、髭切はわかっていた。それを何故、鶯丸が把握しているかまでは理解しかねたが。
     弟が行方知れずになったあの娘を探していることも、それは帝都に留まって兄を支えながらでは限度があることも、髭切はわかっている。行くように髭切が言っても、膝丸は自分が納得し源氏が安泰だと思わねば離れようとしないだろう。そう言うところは、兄弟揃って頑固なのだ。
    「家のことはこれでどうにかなるはずだ。あとはお前自身のことだな」
     いつも傍にいた弟がいなくなることを、寂しがっているのはもしかしたら自分なのかもしれない。
    「……そうだねえ、考えるよ。これいいお茶だね」
    「ふふ、奥が気に入っていてな」
     案外自分が思っているより、鶯丸友成と言う男はとてもシンプルなのかもしれない。髭切はそんな風に思いながら、暫く鶯丸と茶を飲んでから家に帰った。



     泣き疲れて目を覚ますと、自分は布団に寝かされて上から鶯丸の羽織が掛けられていた。しっかりした留袖から楽なものに着替えさせられているから、きっと鶯丸がどうにかしてくれたのだろう。
     さらさらと風が木々を渡る音がして、彼女はそこが自分の部屋でないこともわかった。この聞きなれた音は、あの鶯丸のお気に入りの縁側の近くだ。
     廊下に出れば案の定で、彼女は鶯丸の羽織を肩に掛けたままで縁側のほうに行く。鶯丸はお気に入りの籐の椅子に座って目を閉じていた。
     思えば簡単な話だったのだ。鶯丸は、自分の好きなものばかりを大切に身の回りに置く。シンプルにただ、きっとそれだけだった。
    「鶯丸様」
     声をかければ、目を開けることなく鶯丸は返事をした。それから手招きして、彼女を呼ぶ。
    「ん? どうした」
     なんだか久しぶりに、鶯丸の名前を呼んだ気がする。彼女はいつも半歩後ろにあったもう一つの椅子ではなく、隣まで歩み寄り畳の上に座った。そして鶯丸の膝に頭をのせて目を閉じる。
    「私、鶯丸様のお子がほしいです」
     十数年、きっとこの一言をずっと、鶯丸は待ち続けていたのだ。
     大きな手が頭を撫でる。満足げに、いつも通りのゆったりとした調子で鶯丸は「そうか」と答えた。
    「長かったなあ」
    「鶯丸様がわかりづらいのですよ」
    「ふふ、そうか、そうか。嬉しいなあ」
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/20 16:03:16

    鶯の子

    #うぐさに  #鶯さに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    子どもを作らない当主の鶯丸と妻の話。

    pixivに掲載していたものの修正加筆版です。

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