洗濯 手桶で泉の水を汲み、目の前で下げられている相手の頭へ注ぐ。それを幾度か繰り返し、ひと区切りがついたところでクェイルーヴァは息を吐いた。泉に腿の辺りまで浸かって行われていたそれは穢れを漱ぐ儀式のようなもので、彼は天使の穢れを清める手伝いをしていたのだ。
相手の天使はクェイルーヴァと同じく知恵を美徳とする天使であり、更には実践派でもあった。地上に入り浸るクェイルーヴァとはある意味似た立ち位置ではあるのかもしれないが、その気質は彼よりも更に苛烈。……名を、イグネイシャスという。
学ぶ者、思索する者、論じる者。いずれの名が正しくイグネイシャスという天使を表しているかには議論の余地がある。そしてその議論をすら糧にしかねないのがこの天使であった。
閑話休題。
クェイルーヴァはその自分の遥か先輩であり尊敬すべき学舎の天使が穢れに侵されていることを不本意に思っていたし、その思想は尊いものだと信じていた。であるからなかば無理矢理相手を儀式に付き合わせていたのだが、その成果は芳しくない。
「……後ろ、失礼します」
正面から回り込めば、まるで猛禽のように茶斑の翼。単純な色素の汚れではなく、水で濯いで落ちるような代物ではない。手でそっと鋤いてみても変化はなく、むしろクェイルーヴァの指が負けてしまい僅かにひりひりとした。
少しばかり考え込んだクェイルーヴァは、そっと口の中で呟く。
――主よ、その炎を僅かばかりお借りします。
クェイルーヴァの手中に一瞬だけ何かの柄のようなものが現れ、消える。その指先から肘へ向けて、なにか、陽炎のように空気が揺れた。
「イグネイシャス様」
「ん?」
「歯を食い縛って下さい」
「は、」
相手が問い返すより先に、クェイルーヴァの手が再度相手の翼に触れた。
瞬間、閃光が空気を薙いだ。
光が消えた後、そこには先程となにも変わらない姿の二人がいた。が、クェイルーヴァが無表情に自分の手元を見ているのとは裏腹に、相手は周囲の様子を見て硬直している。
泉が消えてなくなっていた。
一瞬にして蒸発したのか、清らかな水は一滴たりとて残っていない。生き物のいない泉であることは幸いだったが、雷の疾走で周囲の下生えが僅かに焼けている。
「……説明を求めたいなクェイルーヴァくん」
「一息に穢れを払えないものかと思ったのですが、やはり私とイグネイシャス様では年期が違いすぎるようです。狙いが逸れてしまいました」
悪びれずそう言ったクェイルーヴァの指先で、雷の残滓が跳ねた。
「イグネイシャス様の理力を貫いて御身に直接炎を与えようと思うと、全力を出さないといけないので微調整が効きません。やるなら翼が焼ける覚悟で臨むしかないですね」
やめておきましょう、とどこか消沈したようにも見える様子で言いやるクェイルーヴァ。イグネイシャスはそれを、虎でも見るかのような表情で見ていた。