疑念「はじめまして、イーノク・グレイです」
「ああ、はじめまして。クレイン・オールドマンだ、短い間だがよろしく」
──警戒されている?
握手をしながら、クレインは内心首を捻った。……中央区からの視察を警戒されることは少なくないが、そういう輩は大抵なにか後ろ暗い行為に手を染めていて、教会の雰囲気も悪い。だが、この教会にそういった様子はなく──そう規模の大きな教会ではない、なにかあれば全体に波及する筈である──、田舎によくあるタイプの感じの良い神の家だ。
単純に彼が人見知りであるという可能性もなくはないが、クレインの感覚はそれだけではないと主張していた。天使の加護によって与えられた洞察力、相手の一挙手一投足を観察しその意味を知る感知能力がグレイ神父の態度から違和感を拾い上げている。
今回の視察は慎重に行った方がいいかもしれない、とクレインは気を引き締め直した。
……教会内をグレイ神父の案内で見て回ったクレインは、やはりこの教会でなにかよからぬことが行われているとは思えなかった。クレインが理想的だと考える──規律正しく、ぴんと張り詰めたような──雰囲気ではないが、穏やかで澱みの無い雰囲気である。神父も慕われているように見えたし、おかしな人や物の流れも見えない。その点においてクレインは己の感覚に絶対の信頼を置いていた。自ら磨き上げた努力と経験の賜でもあり、彼の信じる天使から与えられた能力でもある。
何事も無く見回りを終えようとしたところへシスターが神父を呼びにやってきたため、案内の続きはまた後でということとなった。クレインはそれから一人で教会をうろつき、ふと肌の一部が引っ張られるような、鳥肌の立つような感覚を覚えて立ち止まった。視線の先には窓があり、その窓の外には墓地が見える。
教会から出て墓地へと向かったクレインは口元に手を当てたままゆっくりと墓地の中を歩き回り、中央の辺りで足を止め目を伏せた。
──清浄さに欠けている。
教会の敷地内でも墓地というのは比較的穢れに触れやすい場所ではあるが、その分丁寧に扱われることが多いためたまに教会内よりも神聖化が進んでいることがある。しかしこの墓地はどこか綻んでいるというか、油断しているというか、家の裏口を少しだけ開けておいた時に似た空気を感じる。クレインは少し考えた後、教会へと引き返した。
「グレイ神父」
「? どうされました」
足早にやってきたクレインに声をかけられて、シスターと共に帳簿を確認していた神父は怪訝そうに顔を上げた。
「聖水を少しもらえないか」
「聖水?」
「少し結界が綻びているようだったから、清めなおそうかと」
クレインの言葉に、神父はふるりと頭を振った。眉を下げて、笑う。
「そんな、そこまでして頂かなくても。後でこちらでやっておきますから」
それは客人に労働をさせるのは申し訳ないという感情から生まれたもの、ではない。クレインの感覚がそう訴えている。どこか曖昧に事態を先送りにしてしまおうという意図が透けて見える気がする。であるから、クレインは食い下がった。
「お客様扱いは得意じゃないんだ、働かせてくれ。掃除や料理よりこちらの方が向いているしな」
神父は一瞬クレインの目を見詰めたが、すぐにその空気は緩む。
「……そうですか、じゃあ甘えさせてもらおうかな……今聖水を持ってきますね」
そう言って背を向けた神父の所作を、クレインは慎重に観察していた。
……しばらく後、墓地にて。
クレインは聖書の一篇を唱えながら聖水を墓地の四方に一滴ずつ垂らし、十字を切った。それから伏せていた顔を上げ、
「ここは神の家だ。お前の来るべき場所ではない」
振り返り様に外套の内側から取り出した小型のナイフを投擲した。それは墓地の一角へ立ち入りかけていた小鳥の翼を木の幹に縫い止める。小鳥は人間の赤子の声で鳴いた。
「……嘆かわしい。たかが使い魔とはいえ悪魔に縁ある存在が教会の敷地にここまで接近するなんて」
ゆっくりと小鳥に近付き、腰帯の中から取り出した銀の針──聖句の刻まれた特別なそれ──を小鳥の胸へ無造作に差し込みながら、魔を退けるための祈りを唱えるクレインの頬は白い。嘆きでも憤りでもない寒々しい憤怒は彼の熱を上げはしない。……赤子の叫び声と同時に小鳥は霧と化し、周囲に散った。滅ぼせてはいない、一時的にこの場から退去させただけである。
ナイフと針を回収するクレインの表情は憂鬱げで、胸元に下げられているロザリオを服の上から軽く押さえてから溜め息を吐いた。
神の家はよきものにだけ開かれている、悪魔が立ち入ることは通常不可能だ。その身を焼く聖なる雷に耐えながらであればあるいは……とはいえ、そこまでする者は少数派だろう。高位の、人間に擬態できるような悪魔であれば何らかの思惑を持って教会へ訪れることもあるだろうが、先程のあれは低級の使い魔、獣に近い。己が害される可能性のある危険な場所へ好き好んで訪れるとは考えづらい。
──つまるところこの教会は、あれらにとって「危険ではない」?
そこまで考えたところで、誰かが駆けてくるような気配を感じてクレインは顔を上げた。教会の方からやってきたのはグレイ神父である。
「なにか聞こえたんですけど、大丈夫ですか!」
心配している様子ではあるが、その態度にクレインは違和感を覚えた。神父が心配しているのは一体何だ? 自分が心配されている、とはクレインには思えなかった。教会を心配している、に近いがそれだけではない気がする。
「低級の使い魔がうろついていた。追い払っておいたが、少し監督不行き届きなのでは?」
「ああ……すみません、人手が足りなくて行き届いていない面もあるのかもしれません。後で念入りに清めておきますね」
グレイ神父の態度を、単に楽天的なのだと受け取ることがクレインには出来なかった。元々真面目で皆の模範たれと生きてきたクレインには、悪魔を強く憎み憤怒と恐怖に縛られているクレインには、彼の態度をそういうものかと受け流すことがどうしても出来なかった。黙って見詰めて──睨んで──くるクレインに一瞬戸惑うような素振りを見せた神父を見て初めて己の態度の不躾さに気付き、クレインは誤魔化すように苦笑した。
「いや……そうだな、そうしておいた方がいい。何か手伝えることがあったら言ってくれ」
「ありがとうございます」
神父は礼を言ったものの、恐らく自分に何か用事が言いつけられることはないだろうとクレインは確信していたし、実際そうだった。クレインが滞在している間、教会ではごく平穏な日常が続いた。グレイ神父の教会には何の問題もないという報告が中央に上がることになるだろう。クレインの作る不格好な報告書でも問題なく処理できる程度に、そこは平凡な神の家である。……その筈である。
「それじゃあ、また」
視察を終えたクレインが帰る朝、教会の前でクレインが差し出した手を、神父は自然な仕草で握った。
「ええ、お気を付けて」
その笑みに不自然なところはなにもない。なにもないからこそ、……クレインはイーノク・グレイの名をしっかりと記憶に刻み込んだ。
暗い緑色の目はその神父から何かを見出そうとしているが、それがいつになるかは誰にもわからない。