とけあう獣 オレが二月十四日にカイトさんにチョコレートをあげたのは本当は、バレンタインだから、ってわけじゃなかった。
だってこの時期は一年のあいだできっと(おそらく)いちばんたくさんの、おいしいチョコレートが世の中に売り出されるときで、カイトさんは自他ともに認める大の甘党だ。好きなひとの好きなものが色とりどりに溢れかえったショーウインドウを眺めていたら、あー、なんかプレゼントしたいな、喜んでくれるかなって、誰だって思うんじゃないだろうか。だからあれは、「バレンタインだから用意したチョコレート」じゃなくて、もっと単純な理由の「プレゼント」だった。
カイトさんが好きなチョコレートブランドの、バレンタインシーズン限定発売の新作アソート。ネットで調べたら、買うのに三時間は並ばないといけない、だなんてコメントが出てきたから土日を避けて行ったのに、結局本当にそのくらい並ぶことになってびっくりした。三時間近くを過ぎてようやく買えたチョコレートの箱は宝石箱みたいに丁寧に包み紙とリボンで飾られていて、すごく綺麗だった。すこし傾けたら箱の中でことことと小さな音がして、やっぱり宝石箱みたいだ、と思ったのを覚えている。それが、バレンタインの一週間前くらいのことだ。
バレンタインチョコじゃないんだから、すぐにでも渡せばよかったのに、なんとなくタイミングを逃し続けて気付けば十四日になっていた。喜んでくれるかなってわくわくしながら選んだはずの宝石箱に「バレンタイン」っていう包み紙をかぶせたほんとうの理由は自分でもわかっていたけれど、カイトさんが照れ隠しに思いきり頭を撫でてくれたから、これでよかったんだって思った。
「おい体力バカ、こっち来い」
「へ?」
そんなバレンタインデーからしばらくが過ぎて、三月に入ってすぐのオフ日前の夜。夕飯や風呂を済ませて、カイトさんの家の広々としたリビングでのんびりストレッチをしていたら、いきなり背後から呼びつけられた。なんですか、って聞いても「いーから来い」としか答えてくれなかったから、首を傾げながらカイトさんの背中を追いかける。カイトさんが向かった先は寝室だった。枕元にあるサイドテーブルのうえに、見慣れない細長い小箱があるのに気が付いて、思わず目瞬きをする。
「そこ座れ」
小さい子にでもするようにベッドを指さしたカイトさんに促されるまま、ベッドに座る。カイトさんも隣に腰を下ろして、やわらかいベッドがふたりぶんの重みで沈んだ。カイトさんの手には、枕元にあった小箱が握られている。
「……やる」
カイトさんはちょっと躊躇うみたいに視線をうろつかせたあと、そんな短い言葉と一緒にオレの手に小箱を載せた。
「……、オレに?」
「おう」
「ありがとうございます、……開けていいですか?」
まずはお礼を言いながらそう聞けば、カイトさんはもう一度同じ応えを繰り返す。シックな質感の黒い紙箱は、予想よりも軽かった。なめらかな銀色のリボンの端をつまんで、そっとほどく。蓋を開けた内側にあったのは、リボンと同じ銀色の、ドッグタグネックレスだった。
「カイトさん、これ、」
「貸せ」
カイトさんからこういうものをもらうのははじめてで、オレがなにかしらの言葉を見つけるのも待たずにカイトさんはさっさとネックレスをさらっていってしまう。「じっとしてろ」と言われるまま肩を縮こまらせると、向かいから伸びてきた手がネックレスをつけてくれる。
「……ホワイトデーはもうちょっと先ですよ?」
「…………べつに、ホワイトデーは関係ねえよ」
うなじをかすめた指先の感触にそわそわするのをごまかすようにそう言うと、カイトさんの低い声が返ってくる。その言葉に、どきりとした。バレンタインのお返しじゃない。――なら、なんで。
カイトさんはまだオレの首元をじっと見ていて、いま聞こえたそれがどんな意味のものなのかわからない。落ち着かない気分を持て余しながら伏せ気味の睫を見ていると、しばらくしてようやくカイトさんが手を放して顔を上げた。
「……ん。悪くねえ」
満足げな声に誘われて、胸元で揺れる銀色のプレートをつまんでみる。
表にはブランドのものらしいロゴ。裏返すと、至ってシンプルに、一枚ずつ『K』と『S』の刻印がしてあった。
「カイトさんの『K』と、……オレの、昴の『S』ですか?」
そんなことわざわざ聞くなって怒られるかな、と思いながら、確かめたくて問いを声にのせる。カイトさんの瞳がついと動いて、オレを見た。視線がぶつかる。
「『新堂』のSだっつったら、どうする」
「………………、」
うすむらさきの両目の奥で、焦げつくようななにかがゆらゆらと揺れている。
目を合わせてしまったから、もう逃げられない。このひとのまっすぐな目から、逃げたくなかった。
「うれしい、……です」
目を逸らさずに、それだけ返す。もちろん『昴』の頭文字でも嬉しいけれど、――だって、そんなの、カイトさんのものだって名前を書かれてるみたいだ。
一瞬ぎゅっと唇を引き結んだカイトさんの手が、オレの肩を押す。押し倒そうとしているのはわかったし、いやなわけじゃないけど、ちゃんと言わなきゃいけないことがまだ残っている。大きな手をつかまえたら、なんだよ、と拗ねたような声がした。
「……あの、カイトさん」
「あ?」
「さっき、ホワイトデーは関係ないって言ってたけど、……ほんとは、オレも、バレンタインのチョコじゃなかったんです」
カイトさんの大きな手をぎゅうと握りながら、必死に頭を捻って言葉を探す。カイトさんはまだなにも言わない。じっとオレのほうを見ながら話を聞いてくれているのがわかって、胸が詰まった。
「……カイトさん、喜んでくれるかなって。ほんとにただの、プレゼントのつもりで、買ったんです。……でも、オレが選んだこれも、カイトさんのなかで、いままでもらってきたバレンタインのチョコと一緒になっちゃうのかな、とか、……思って、……すごく、苦しかった」
目当てのチョコレートを買うまでの三時間のあいだ、やっぱりまわりは小さくてかわいい女の子たちばかりだった。友達と一緒に楽しそうに列に並ぶ女の子たちの声を聞きながら、こういうお店のチョコレートをカイトさんに贈った子もいるんだろうなあ、とぼんやり考えて、心臓が締めつけられるみたいに苦しくなった。
自分の気持ちが、いままでカイトさんがたくさんの女の子たちからもらってきたはずのチョコレートと一緒になってしまうのは怖くて、いやだった。でも、そんなふうに思ってしまったこともなんだか同じくらいに怖かったし、いやだったから、結局その考えには蓋をして、カイトさんにもばれないように、もっともらしい理由にくるんで、十四日にチョコレートを渡した。
「……なら、なんであの日に渡した」
自由なほうのカイトさんの手が、ひたりとオレの頬にふれる。視線を固定するみたいに指先に弱く力を込められて、少し、吐く息がふるえた。
「…………、そんな気持ちで買ったチョコレートだって、カイトさんに知られたくなかったんです」
かぶせた包みを剥がして、蓋を開けて、出てきたのが宝石みたいにきれいであまいチョコレートじゃなかったら、きっとカイトさんはがっかりすると思ったから。
「カイトさんに知られて、いやな気持ちにさせたらどうしよう、…………きらわれたらどうしようって、思って、ました」
……そうだ、おれは、それがこわかったんだ。あんな気持ちになったことを知られて、カイトさんに、きらわれるかもしれないのがこわかった。
でも。
いま、そのままの気持ちを渡してくれたこのひとに、それを黙っているのは、フェアじゃない。役者としてはまだ足りないところばかりだけれど、せめて素のままのときくらい、オレはこのひとと対等でいたい。対等でいたいって思うことを、諦めたくない。
「……ごまかそうとして、すみません」
視線を揺らしそうになるのを、唇を噛んでこらえる。カイトさんは少しのあいだ押し黙って、それからそっと、ひとつ息を吐いた。
「…………あのなァ、」
低い声がした次の瞬間、頬にふれていたカイトさんの片手が動いて、オレの頭を鷲掴みにした。そのまま、がしがしと髪をかき混ぜる。
「う、わ、ちょっ……カイトさんっ、何、」
びっくりして、思わず掴んでいたほうの手まで放してしまったから、ついには両手で髪をぐしゃぐしゃにされる。物理的にぐらぐらする頭で、なんなんですか!って言おうとしたら、上げかけた顔をつかまえられた。カイトさんはオレのほっぺたを両手のひらで挟んで固定して、睨むみたいにこっちを見ていた。真横に引き結ばれていた唇が開く。
「すきなやつが寒いなか何時間も並んで買ってきたのと一緒くたになるモンなんざあるかよ、この、バカ!」
「…………っ、」
「大体、んなことで嫌われるだのなんだの、いつもの図太さはどーした!!バカか、バカなのかお前!」
「――ッ、さっきからバカバカって、ひどくないですか!?オレは真面目に」
「うっせーな!バカをバカっつってなにが悪い!」
「なっ…………!!」
すきなやつって言ってくれたのに、続いた言葉があんまり理不尽でつい言い返してしまった。そのままぎゃあぎゃあと、売り言葉に買い言葉。こっちはすっげー真剣に悩んでたのに、なんて言いかたするんだこのひとは!
「だってしょうがないじゃないですか、あんな気持ちになるの、はじっ……」
はじめてだったんです、と続けかけた声は、噛みつくみたいに唇を塞がれて出せなかった。親指の腹で強引に端をこじ開けられたと思ったら舌が入り込んできて、呼吸を奪われる。息継ぎもできないキスにくらくらしているうちに重心を傾けられて、ようやくまともに息が吸えたころにはすっかりベッドに押し倒されていた。
「お前はバカだが、……気付かなかった俺もバカだ、ちくしょう」
体の上を陣取ったカイトさんから、悔しそうな掠れ声と、寝室の明かりをくり抜いた影が降ってくる。
「嫉妬するくらい好きになんのは、俺だけにしろ。あと、隠すな。嫌いになんか、ならねえから」
逆光になって表情が見えづらいはずなのに、うすむらさきのひとみのいろに射抜かれて動けない。押し倒されたせいでオレの耳元に滑り落ちたドッグタグだけが、ちゃり、と小さく音を立てた。
「俺が、お前の、最初で最後だ」
「――、」
聴こえたそれに、まばたきをひとつした。……こたえなんて、このひとの隣を選んだときから決まっている。オレの、最初で、最後のひと。
「はい、」
オレも、このひとの最後になりたい。逃がさないように手を伸ばして、カイトさんの体をきつくだきしめた。
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20170225Sat.