うたかたはそらの向こう 紅茶色の癖毛がベランダでふわふわ揺れるのを、マグカップになみなみそそいだミルクココア片手に眺めていた。
窓の外は快晴。網戸越しに風が吹きこむたびに、昴が干しているふたりぶんの洗濯物が煽られて軽くはためく。風にのって聴こえてくるのはずいぶんと懐かしい演目の主題歌で、ミルクココアを半分ほど飲んだところでカップを置いてソファから立ち上がった。
「んだよ、さっきからニヤニヤしやがって」
「顔見てないじゃないですか」
「そんだけ機嫌良く歌ってりゃ見なくてもわかるに決まってんだろ」
大層機嫌良さげにぱたぱた跳ねる犬の耳と尻尾の幻覚が、さっきから見えっぱなしだ。背後から声をかけついでにからりと窓を開けると、タオルを干す手を止めた昴が俺を見る。まるいティーブラウンが遅い朝の日差しに透けて、笑みのかたちにゆるんだ。
「いや、なんかちょっと、懐かしい夢見て」
「は?」
「うーん……懐かしいっていうと変ですけど、昔のカイトさんが出てくる夢でした」
「……へえ」
そいつはまた奇っ怪な。俺の相槌もそこそこに、物干しを再開した大型犬はそのまま話を続ける。
「すっげー若いなって思ったら、二十三だって!七年前!」
「俺はいまもピッチピチだが?」
「いやそれはさすがにちょっともう無理が」
「うるせえ!四捨五入したら俺もお前も一緒だわ!」
「えーっ、いつも年上をうやまえ〜って言うくせにそーゆーときだけ若ぶってっていたたたたた!!すみませんごめんなさい!!」
「わかれば良い。……で?」
二十三っつーと、ちょうどこいつと出会って、……ついでに言えば付き合いはじめたくらいの年だ。そうなると、こいつは十九とか二十とか、そんなころ。
無遠慮に事実を訴えてくる無礼千万な男の頭を掴んで正義の鉄槌を食らわせてやってから、気を取り直して先を促す。こめかみをさすりながら、昴が口を開く。「ええと、」
「ちょうど『フライト・インポッシブル!』の千秋楽が終わったとこだったみたいで。夢なのに妙に設定細かくて、起きてから笑っちゃいましたけど」
ああ、だからさっきファイナルアプローチ歌ってやがったのか。なるほどな、と思いつつガラス戸のサッシに凭れて中低音に耳を傾けていると、ほんのさっきまでガキみてえに弾んだトーンだった声が、ふいにすとんと落ち着いた。
「当たり前だけど、カイトさんっていままでずっとオレより年上じゃないですか」
「まあ、そりゃあな」
いつの間にか、昴もこういう声で話すようになった。いつからだったかももうわからねえが、たぶん、そういう変化に明確な階段なんざないんだろう。いまだって、スロープを登って歩きながら変わっていく、その途中だ。
「あのころのカイトさんって、いまのオレにはあんなふうに見えるんだなあと思って。すっげー新鮮でした」
「……あんなふうってなんだよ」
「へへ、うん、なんか、かわいかったです。一生懸命で、ちょっと前のめりな感じがするっていうか」
「あんときの俺が前のめりだったら、お前は完全に地面にめり込んでただろ」
「う……、そ、それは否定できないですけど、……もー!そうじゃなくて、茶化すのやめてくださいっ」
「へーへー」
……茶化すなって、そんなんどんな顔して聞けっつーんだよ。相変わらず素で恥ずかしいヤツだ。こいつのこういうところだけは、いつまで経っても慣れない。べつに、悪いとは言わねえが。
「……それで、えーと、ですね」
「なんだよ」
「もちろん、その、夢だから、『オレの頭のなかにいる、あのころのカイトさん』なんですけど」
「……」
「七年後もちゃんと一緒にいるのかって、聞いてくれたんですよ。それがすごく、うれしくて」
ぱんっ。洗濯物の最後の一枚の皺を小気味良い音とともに伸ばして干し終えて、足元にあったカゴを持ち上げた昴が、ガキみてえにくしゃりと笑う。こいつがホントにガキだったころから変わらねえ笑顔は、おそらくずっとこのままなんだろう。そうだったらいいと、思う。
「そのまま勢いでギュッてしたら首んとこ思いっきり噛まれちゃって、結局それで起きたんですけど。そんなに嫌がらなくてもいいのに」
そう思いません?と、間の抜けた問いを投げてくる男に、溜息をひとつ。
「……、嫌がったんじゃねーよ、たぶん」
「へ?」
それだけ返して、カゴを抱えたままの腕を掴んで筋肉質な体を引き寄せる。
その流れでこいつに抱き締められて俺が噛みつくとしたら、たぶんこの辺りだろう。そう当たりをつけて、シャツの襟元を引っ張って肩口に近い場所の素肌に歯を立てた。がぶり。
「いっ、いきなりなにすんですか!」
「うっせ、上書きだ上書き」
「は?」
「二十六にもなってガキにマーキングされてんじゃねーよ、このバカ」
「……ッ、ま、マーキングって、――っんむ、」
いつまでも素で恥ずかしいヤツと長いこと一緒にいるから、ちょっと気を抜くとすぐこっちまで恥ずかしいヤツになっちまうじゃねーか、ちくしょう。この状況だとなにを言っても負け惜しみにしかならねーから、こういうときはさっさとキスして口を塞ぐに限る。
七年後も一緒にいるのかって。
俺の夢んなかに来た十九のお前も、お前のなかにいたあのころの俺と同じこと言ったよ。
うーん……。うーん……?見えない……。
……朝から布団でなにねじれてんだお前。新手のヨガか?
違います!……あー、いや、その、ちょっと、変?な夢見て。
あ?夢?
おじ……じゃない、大人のカイトさんに首んとこ噛まれる夢、だったんですけど。
おいお前いまオッサンって言いかけただろ。つーか、そもそも俺はいまでも大人だッ!
だ、だって三十歳とか、いまと比べたらもっとおじ……大人じゃないですかっていたたたた!首!首曲がってる!!すみませんごめんなさい!!
わかれば良い。で?
……いたた……それで、その、……夢とは思えないくらい、リアルな感じだったから、なんか変なことになってないか、確かめようと思ったんですけど。
……へえ。
ちょうどよかった、カイトさん見てくれませんか……って、……あの、どうかし――……っ!?
…………。
……ええと、その、カイトさん?
んだよ。
それはこっちの台詞なんですけど!?見てくださいって言っただけなのになんで押し倒して噛むんですか!!
うっせ!上書きだ上書き!
へっ?
夢だろーがなんだろーが、三十のオッサンにマーキングされてしていい顔じゃねーんだよ、この、バカ!
……ッ、ま、マーキングって、はあ!?
あーあーうるせー!オッサンの俺となに話してなにされたか洗いざらい吐くまでぜってー許さねえからな、覚悟しろ!
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20181105Mon.