夏は散れども ぜんぶ、夏のせいだ。遠くに聞こえる花火の音がなにかの魔法みたいに頭をぼうっとさせるのも、缶ビールを片手にベランダの柵にもたれかかったカイトさんの顔が夜のひかりににじんですごくきれいに見えたのも、掴んだ手がオレが思っていたより熱くて汗ばんでたのも。――全部、夏のせいだ。
マンションの高いところにあるカイトさんの部屋の窓からは、この時期どこだったかの会場で開催される花火が見える。屋台でいろんなものを食べられないのはちょっと残念な気がしたけど、「一回くらい食い気じゃなくて風情を取れよ」ってからかうみたいに笑ったカイトさんがなんだか妙に楽しそうだったから、まあいっか、って思い直した。
今年何度めかになる浴衣をそれぞれ引っ張り出してきて、帰り道に買い込んできた缶ビールとメロンソーダと、それからつまみやお菓子をちょっとずつ、折りたたみ式の小さなテーブルに。下駄じゃなくてベランダにあるふたりぶんのサンダルにつま先を引っ掛けて、ふたりっきりの花火大会がはじまった。
高いビルとか人混みとか、そういうものに邪魔されない夜空に打ち上げられていくかわいいおもちゃみたいな大きさの花火と、その下に広がるきらきらした街明かりは、オレの初めて見る景色だった。きれいですね!って言いながら、色やかたちを変えて次々上がる花火を見ていると、カイトさんがオレの腕を軽く小突いて得意げな顔をした。
「特等席だろ」
そう言って笑ったカイトさんの隣がいちばんの特等席だって、その瞬間花火のことなんかすっかり忘れて思っちゃったのは、もう、しょうがないと思う。
ずっとここにいてほしくて、ギュッと手首をつかまえる。ほんの少しだけ下にあるカイトさんのたれ目が楽しそうに細まった。つかまえたはずの手を大きな手に掴み返されて、そのままがぶりとくちびるに噛みつく。カイトさんの好きな、青りんごのビールの味。
飲みものを置きながら傾けられた体重を受け止めて二、三歩下がると、すぐに窓ガラスに肩がぶつかる。リビングのクーラーで冷えたガラスに背中が一瞬ひやっとして、でもすぐにわからなくなった。
ベランダは家のなかじゃないけど、家の外でもない。まわりの建物よりもずっと高いところにあるし、隣の部屋ともつながっていないつくりだから、ほかの誰にも見られない。ここは、オレがカイトさんをひとりじめできる、ぎりぎりの境界線みたいな場所だった。
「ふ、」
どっちのものかもわからないくぐもったちいさな声を飲み込むと、手首からするっと上がった指先が浴衣の袖の奥、背中のほうまで入ってくる。外を歩き回るわけじゃないからってゆるめに結んでいた帯を内側から崩されて、ずり落ちそうになる結び目を押さえるために慌てて腰の後ろを窓ガラスに押しつけた。
「っちょ、かいとさ、」
「んだよ」
「……ッ、わかってるくせにっ……!」
いくら誰も見てないからってベランダで浴衣の袷が全開になるのはさすがに恥ずかしいし、いまカイトさんの浴衣の帯をほどいてやり返したら「ここでしたい」って言ってるみたいでもっと恥ずかしい。要するに腰から下のまともな身動きを封じられたわけで、ああ、もう、――やられた!
「…………食い気より風情なんじゃなかったんですか」
すっかりご機嫌でオレの首筋を噛んでいるカイトさんにぼそぼそ呻いて文句を言うと、顔も上げないままカイトさんが肩を揺らしてくつくつ笑った。とくとくと早めの脈を打っている場所でこのひとを感じると、体の奥からどうしようもなくぞわぞわする。
「だから見えるよーにしといてやっただろ」
「へ?」
カイトさんがなにを言ってるのかよくわからなくて、まばたきをひとつ。一瞬あいた間に、どーん、パラパラ、ってちいさな音が落ちてきて、いまも遠くで花火が上がっているのを思い出した。……見えるようにって、もしかしてそういうこと?
「……あの、カイトさん」
「あ?」
「それ、よそ見していいってことですか?」
ぴたり。
いつも「こっち見ろ」って言ってくるひとなのに珍しいな、花火ってすごいなあ、なんて素朴なギモンを投げたオレに、案の定カイトさんが動きを止めてオレを見た。見慣れたうすむらさきが、夜のいろにひかる。
「……べつに?いいぜ、よそ見できるもんならな」
「えっ、いや、しませんけど。なんでですか」
「…………、」
――ホンット、かわいくねえなお前!
なんだか照れたみたいなカイトさんの声と息が頬にふれる。あつい。でも、夏だもんな。それならしょうがないや。流れ星みたいに落ちていくしだれ花火の残像をまぶたの裏に焼きつけて、目を閉じる。ぬるい夜風と一緒に、濃い夏のにおいがした。
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20180826Sun.