カイすば小ネタログ3■11:32a.m.
海から吹き渡ってくる風が前髪をかき上げていく。潮風に思うさま乱された髪がむずがゆく、ふるふると首を振って元に戻す。心地好い速度で跳ねる心音をたしかめながら、昴は駅近くの港で足を止めた。
ゆるく長い息を吐き、波止場にならぶビットのひとつに腰を下ろす。車が行き交う喧騒と、かもめの声と、波の音。小さなころから聴き慣れた、懐かしい風の感触にからだを浸しながら目を細める。降り注ぐ日差しはやわらかく、絶好のランニング日和だ。
実家まわりの一帯をぐるりと大きく迂回して、おおよそ一時間。昴が辿っているのは、学生のときによく使っていたランニングコースだった。目に映る景色はあのころと変わらないようでいて、まるきり違うようでもあり――どこか、不思議な心地がした。
「……あれ、」
スポーツドリンクのボトルを取ろうと覗いたランニングバッグのなかで携帯電話のランプがちかちかと光っているのに気がついて、まばたきをひとつした。確認すると、未読のメッセージが一件。この数日のあいだ顔を見ていない――帰省中なのだから当たり前だけれども――彼からだった。画面上では、『今日は何時に帰ってくる』と、ごく短い問いが投げられている。
今日の昼すぎには地元を出発するつもりでいることを、彼には前から話してある。予定通り戻ります、と返事をしてから、もうひとこと付け足した。しばらく待つと、手のなかで携帯が震える。すぐに目を通して、了解を返して立ち上がる。ランニングコースはちょうど折り返しで、少し休もうかと思っていたのだけれども、走り出したくて仕方のない気分になってしまった。
今日の夕飯はオムライスだ。どこかで旗を買ってから、彼の家へ向かおう。
***
(清水旅行記念)
20170307Tue.
■レイト・ショウはひそやかに
※SpecialThanks:某ちゃん!
赤ワインの香りに、あまいチョコレートのにおいと、穏やかな夜が肺を満たしている。なんだかそれだけで酔ってしまいそうに思えて、昴の手元にある発泡酒の缶はまだほとんど口をつけられていない。
テレビも点けず、部屋を埋めていくのは厚手のページをめくる音と、ときおり交わす他愛のないやりとりがいくばくか。カーペットの上に腰を下ろした昴がアルバムのページをめくるのに合わせて、ソファに座りアルコールにほんのりと頬を色づかせた彼が上機嫌そうにグラスを傾ける。
昴がさきほどふと見つけた革表紙のアルバムは、楽譜や雑誌が並んだ書棚の一番端に並べられていた。生まれたばかりの寝顔、初めて立った日、節目の式に運動会。それから、大きなトロフィーを抱えた、少しぎこちない幼い笑顔。ピアノと並んだ写真の多さに、彼の足跡を辿る。
「どーした?」
「あ、」
知らずのうちに、手を止めてしまっていたらしい。怪訝そうな顔をした彼の薄紫の両目が昴を見ていた。
「いや、その、べつになんでもないです!」
「んだよ。言え」
つたなすぎる言葉では誤魔化しきれるはずもなく、まっすぐに向けられた視線ひとつで声に詰まる。中身の減っていない酒の缶を視界の端に映し、昴はそっと唇を噛みしめた。じわじわと火照る頬をアルコールのせいにすることはできない。
「昴」
目を合わせたままたったひとこと名前を呼ばれてしまえば、悔しいかな、応えずにはいられない。やわく噛んだばかりの唇をおずおずとほどいて、答えを紡ぐ。
「……いいなあって、思ってました」
「は?」
「ちっちゃいころから、あんなふうにピアノにさわってたのかなって、思って」
昴はピアノにふれる彼の手が好きだ。うつくしく、切なく、あるいはときに荒々しく。魔法のように世界を歌いあげるそのときはもちろん、レッスンルームやこの家にあるつややかな黒を丁寧に磨きあげる手は、どきりとするほどやさしくてやわらかい。だからといって「ピアノになってみたい」だなどと、一瞬でも考えてしまったことが――いまでも十分すぎるほど大切にされているというのに、あまりに幼稚で、欲深に思えて気恥ずかしかった。
「……あの、カイトさん?」
二、三、ゆるい目瞬きをしたきり黙りこんでいた彼が、ふいに腰を上げてグラスをテーブルへ置いた。彼の薄い唇の端がわずかに吊り上がっているのが見えたのとほとんど同時に、肩を押されて彼の体重が降ってくる。
「おわっ……!」
「ったく、相変わらず色気がねーなお前は」
思わずあげてしまった間の抜けた声に、呆れたように彼が言う。捕食者の色を口の端と瞳に浮かべながら、それでもその表情はひどくやさしい。
「久しぶりだし、調律してやんねーとな?」
「カイトさん、酔ってるでしょ……」
「さあな」
今夜は優しくしてやるよ。
そう言って楽しげに笑う彼のやわらかい声が鼓膜を揺らす。聴覚を撫でられているようなくすぐったさに目を細め、昴はそっと四肢の力を抜いた。
***
20170312Sun.
■春日和
薄手のウィンドブレーカーを羽織って外へ出る。頬を撫でる朝の風は眩しい朝日に浸されてやわらかかった。
動き出した町の空気を肌に感じながら一歩を踏み出し、ゆるやかに加速していく。ペースを徐々に上げて、慣れ親しんだ急勾配を駆け登っていくと、血液が全身をめぐる感覚も比例するようにあざやかさを増していく。心地好い負荷に心音が弾む。とくとくとく。
少し前まで白く染まっていた吐息は、いつの間にか透明に戻っていた。凍らなくなった車のフロントガラスに、道行く学生やサラリーマンのコートの厚さ。冬の寒さがやわらいで春へ向かうこの時期は、ささやかな、けれどもたしかな変化にあふれていて、弾む心音と重なって胸が踊るような心地がする。
とくにこのところのひそかな楽しみは、街路樹の枝にぽつぽつと目立ちはじめたちいさなつぼみだった。出掛けに流し見ているニュース番組でも、数日前から桜の開花予想をやっている。見慣れた顔のキャスターが、例年より遅いだとかなんだとかそんなことを言っていたけれども、たしかにもう少しかかりそうだ。
――桜が咲いたら、オフの日の朝に一緒にランニングに行こう。晴れた空の青と、あわい桜のいろと、彼の黒髪とうすむらさきの両目はきっとよく似合う。そんな期待と、枝の先にふくらむ春の気配をかぞえながら、朝の並木道を抜けていく。
■踏青
同じ種類の生きものは、やはり惹かれ合うものなのだろうか。公園に敷かれた青い芝生の上で戯れる二匹の大型犬を傍らで眺めながら、新堂カイトは考えていた。
「あはは、こら、くすぐったいって!」
二匹のうちの一匹である男が、頬を舐められて声を上げて笑う。しゃがみこんだ男に嬉々として撫でられているのは、あまり見慣れない種類の赤茶色の犬だ。やわらかく癖のついた毛並みは男の髪とよく似た色をしていて、もはやきょうだいのようにさえ見える。
聞けば男が日課にしているランニングの際によく出くわす、旧知の相手らしい。ちぎれんばかりに尾を振りつつ飼い主を引っ張るようにして寄ってきた犬を見たときは、一体どれだけこの男に懐いているのかと思ったものだが、この男も大概である。
すみません、と申し訳なさげに苦笑する飼い主に「ああ、いや、こちらこそ」と曖昧な相槌を返していると、ふいにカイトを見上げた二匹と目があった。
「カイトさんは撫でないんですか?」
ふわふわでかわいいですよ!
春の日差しに透けるひとみの色まで似ているのだから、――正直たまったものではない。まっすぐに見つめてくる無邪気な双眸に早々に敗北して、慣れないほうの犬を左手でひと撫でしつつ、右手でよく知った感触の髪を思いきりかき混ぜた。
■春雷
締め切ったカーテンの隙間から、ときおり閃光がちらついて寝室を照らす。数瞬の間のあと獣の低い唸り声に似た雷鳴が鼓膜を揺らして、思わず顔を顰めていると、隣でうとうとと舟を漕いでいた男がゆるりと視線を上げた。
「カイトさん、もしかして雷嫌いですか?怖い?」
「怖くねーよ!……、まあ、べつに好きでもねえけど」
体に響く雷の音の聴き心地が好いか否かと問われれば、カイトとしては後者に分類されることになる。おまけに今夜は強い雨の音までついていて、窓硝子がばたばたと叩かれて騒がしい。防音対策がしっかりなされた自宅であるがゆえに、入り込んでくる音が気にかかる、というのもまた理由のひとつではあった。
カイトの答えを聞いた男が、なにを考えているのか「うーん……」とちいさな唸り声をあげる。数秒の間。そうだ、と独り言の欠片が聞こえたのと同時、男の手のひらが伸びてきてぐいとカイトの体を引き寄せた。ぎゅうと抱きしめられて、熱い胸板に額がふれる。
「……なんだよ」
「へへ、オレ、カイトさんにこうやってしてもらうとまわりの音が気にならなくなるんですよ」
たまにはお返ししてもいいかなって思って。
眠たげに間延びした調子で応えながら、男はそう言って声音に微笑を含ませる。おだやかな中低音と呼吸と、規則的な心音が耳朶を打った。心地好い。
「……ったく、しょうがねえな」
身を包むよく知った存在に五感を傾けながら目を閉じれば、ゆるやかな睡魔が静かにつまさきを浸した。季節の移ろいを告げる春雷と雨音が遠のく。
■春風ランナー
まだ眠たげな顔をしている彼をどうにかこうにか寝室から連れ出して、よく晴れた休日の朝、城ヶ崎昴は日課にしているランニングへ向かった。
いつもより少しだけゆっくりと、少しだけ遠回りをしながら、春のいろに染まった街並みを抜けていく。この日のために探しておいた、桜並木をたどるランニングコースだ。
おだやかな坂道を吹き渡ってくる風が、沿道の桜とじゃれあって梢を揺らす。ざあ、と木々がさざめくたびにあわい春の雪が踊るようにくるくると落ちてきて、なぜだかこちらまで踊りだしたくなってくる。隣を走る彼にそう言うと、彼は「オフだってのに」と呆れた顔をしたけれども、ちらりとこちらを見て笑ったひとみと声はひどくやわらかでくすぐったかった。かすかに頬の温度が上がったのが、降り注ぐ日差しのせいか彼の笑みのせいなのかがわからず気恥ずかしい。火照る頬を誤魔化すように走るペースを上げれば、数歩分ばかり後ろから彼の声が追ってくる。鬼ごっこをはじめたような気分になって、笑みの気配が喉をくすぐった。
「カイトさん、向こうの公園まで競争しませんか!」
「――いーけど、俺が勝ったらココア奢れよ体力バカ」
本当はもっとゆっくり走るつもりだったのだけれども、彼と一緒に思いきり体を動かすのも悪くない。ふわりと浮いた心地のまま肩越しに振り返って投げかけた子どもじみた誘いに、すぐさまそう答えてくれる彼が好きだ。
「オレが勝ったらスポドリ奢ってくれます?」
「あ?それくらいカバンに入ってんだろ」
「カイトさんの奢りは別腹です!」
「んだそれ、っつーかそういうことは勝ってから言えっ」
公園まで思いきり走って、ひといきついてから、またふたりでゆっくり春を辿りながら彼の家へ帰ろう。わずかに開いていた距離が詰まったのを確かめてから、昴はもうひとつ強く靴裏でアスファルトを蹴りつけた。
■夜、はるをつれて
いま外に出てるんだがこれから行っていいか。夕飯の時刻も過ぎたころ、ふいに彼からそんなメッセージが届いた。普段は家に来いと言うほうが多い彼が、珍しい。思わず目瞬きをしてから、ふたつ返事で「もちろんです」と了承を返した。明日もいつも通り稽古があるから、泊まっていくつもりはないかもしれないが、短い時間でも会えるなら嬉しいに決まっている。床に散らかしていたトレーニング用品や漫画の類いを、彼に見咎められない程度に整頓していると、インターホンが鳴って来客を告げた。ドアを開ければ、予想していたとおりのひとが立っている。
「うちに寄るなんて珍しいですね、どこ行ってたんですか?」
「駅前。いつものカフェで曲書いてメシ食って、ついでに本屋寄って来た」
昴の問いにそう答えながら、彼が靴を脱ぐために軽く身をかがめる。動作に合わせてわずかに流れる黒髪のなかに混ざった色彩に、昴は「あ」と声をもらした。
「カイトさん、ちょっとそのまま」
「あ?」
手を伸ばして、ワックスの感触の残る髪にそっと指先をくぐらせる。
「へへ、ついてました」
夜桜の下でも歩いて来たのだろうか、彼の髪についていたのはちいさな桜の花びらだった。いつも抜け目なく身なりを整えている彼が花びらを連れてここまでやって来たのかと思うとなにやらとてもかわいらしく――それから、彼の連れてきた春を自分が見つけられたことが嬉しかった。思わず上機嫌に口元をゆるめつつ、摘んだそれを差し出すと、うすむらさきの両目がぱちぱちと目瞬いてからわずかに細まる。ひょいと持ち上げられた大きな手が、花びらを摘んだままの昴の手を掴んだ。
「そこまでさわったらこれくらいしろよ、このバカ」
ほんのりと夜風に冷えた彼の髪が、頬をかすめる。拗ねたような声と一緒に重ねられた唇から、ゆるやかに夜がほどけて落ちていった。
■スクーパー・スクーパー
広いステージにひとり立つ男を、黙ったまま舞台袖から眺めていた。
舞台の上には、橋梁のセットの仮組みがなされている。元脱獄囚ジャン・バルジャンを長きに渡り追い続けてきたジャヴェール警部の、最期の場面の舞台装置だ。すでにメインキャスト陣を含めた大半の団員が帰宅している時分だが、このシーンの主役であるジャヴェールを演じる男は明日の通し稽古に備えて入念に居残り練習をしていた。
きつく握り締められていたサーベルが、男の手から滑り落ちて虚しく乾いた音をたてる。
「『――私が生涯に渡って求めていたものを、……あの男はいつの間にか手にしていたとでもいうのか……!!』」
数拍を置いて耳朶を打つのは、男の――ジャヴェールの、圧し殺した痛切な叫びだ。
法を逸脱したバルジャンを悪として追い続けてきた男が、ほかならぬバルジャンに命を救われて自身の正義を見失った。絶対律としてきた法の正しさを根底から揺るがされ、ジャヴェールは苦悩する。
かつて頭上に道標の如く輝いていた「法」という名の星々は堕ち、男を暗い夜が包んでいた。法の正しさで測ることのできない「善」の存在を、男は理解してしまったのだ。生死の境に似た細い欄干の上で悲哀と絶望を歌い上げ、ジャヴェールは暗く冷たい川底へと身を投げる。
これまであまり演じてこなかったタイプの役柄のせいか、昴は役作りに随分と難儀していた様子だったものの、このごろではどうにか掴みはじめているらしい。むろん現時点では歌唱を含めて伸びしろを残しているところだが、城ヶ崎昴という役者のなかで着実にジャヴェールが形を為してきていることは舞台袖から男の姿を眺めるカイトにも確かに伝わってきた。
「おい、そろそろ帰るぞ」
客席から見えない位置に敷かれた緩衝材の上へと身を投げたきり起き上がらずにいる男へ歩み寄りながら、カイトはようやくそう声を掛ける。カイト自身、今日分の通し稽古で使った楽曲の微調整や浚いを兼ねた自主練習を少し前まで行なっていたところだ。昴も明日の通し稽古に差し障りのない限界まで舞台を使って自主練習をしておきたいと言ったものだから、互いにこの時間を目安に区切りをつけて、開いている店で夕食を済ませる予定になっていた。
マットレスに大の字になったままの昴の両目がちらとカイトの姿を認め、小さく頷く。けれどもやはり身を起こすそぶりのないその表情は、まだなにか思案しているようだった。そばに腰を下ろし「どうした」と水を向けてやると、男はじっと天井を見上げたままで口を開く。
「絶望したまま生きるのって、怖いですよね」
「あ?」
「このシーンのジャヴェールの気持ちになるの、難しいなって思ってたんですけど……。こうやって橋の上を歩いて、飛び降りてみたら、なんか急にストンと来たっていうか」
あどけなさを残す紅茶色の双眸は、星のない夜空を映している。子どもめいた幼いしぐさで上へ伸ばされた片手が水面を掻くように泳いで、再びぱたりと元の位置に落ちた。
「信じてたものを失くしたままで生きていくことのほうが、橋から飛び降りて死ぬよりもずっと、怖かったんだな、って」
「……そーかもな」
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それは他の誰でもなく、ジャヴェールを演じる自分自身が落とし込んで表現するしかないことは、男も十分理解している。カイトに語りかけているというよりも、男なりの整理だろう。思考を妨げない言葉を返しながら手を取って川底から引き上げてやったところで、ようやく見知った色が瞳に覗いた。身を撓めてぱっと立ち上がり、昴がうんと伸びをする。「よしっ、自主練終わり!」
「はーっ、お腹すいた!カイトさん、何食べます?」
「あー……どうすっかな」
「オレ、肉がいいです!牛丼!特盛り!」
「お前いっつもそればっかじゃねーか!」
他愛のない会話を交わしつつ施錠を済ませてから、ロッカールームのドアを開ける。そこもまたすっかり人けがなくしんと静まり返っていて、カイトはゆるく息を吐いた。
「カイトさん?」
「……なんでもねえ」
先ほど舞台の上で見た表情が脳裏から消えず、どうしてか心がざわついたまま落ち着かない。
川底からジャヴェールの絶望と死を見つめ続ける男の眼差しが、あまりにもまっすぐだったせいだろうか。理解と共鳴はまったくの別物で、あの瞳に感じたあやうさなど詮無い不安に違いないというのに。
軽くかぶりを振り、帰り支度に取り掛かるべく踵を返しかけたところで、――厚い手のひらに体を引き寄せられた。子どものようにぎゅうと抱き締めてくる男に、思わず二、三、目瞬きを繰り返す。
「んだよ」
「だって、なんかカイトさん、元気ないんですもん」
いくら人目がないといえ、昴が外で自分からこんなふうにふれてくることは滅多にない。珍しいこともあったものだと投げた問いの答えに、今度は目をまるくする番だった。「……その、」
「ギュッてすると一日の疲れの三分の一?くらい、なくなっちゃうらしいですよ」
背中にまわされた腕がもうひとつ強まって、よく知った温度とにおいが五感にふれる。鼓膜を揺らすあたたかい中低音とやわらかな息遣いに、さざめいていた感情が凪いでいくのがわかる。
この男は悲劇の中に死に場所を求めるほど殊勝な性分ではない。傷を抱えても新しい星を探して歩き出す、強かな獣だ。しなやかに研がれた体をたしかめるように抱き返してから、ゆるい息とともに口を開いた。
「……晩メシ。いつもの牛丼屋でいーんだな?」
「へ?いいんですか?」
「その代わり、お前んちで食って帰る」
もう大丈夫だと告げる代わりに腕を緩めながらそう答えれば、間近にあったティーブラウンがひどく嬉しげに綻んだ。
外の店では帰り際に口付けのひとつもくれてやれない。離れていく温度をすこしだけ名残惜しく感じながら、カイトは夜空に遠く散らばる星々を思った。
***
20170503Wed.
■お砂糖は計画的に!
一体なにをどうしたらそーなるんだお前は。オムライスを作っているのを見るたび思うそれを、俺はどうして失念していたのか。
「ちょ、あは、カイトさん、くすぐったい!」
「もったいないだろーが、じっとしてろこのバカ」
時刻は間食どきの昼下がり。キッチンの作業台には、昨日夕飯の食材を買いに行ったときに気まぐれを起こした昴がカゴに放り込んだホットケーキミックスとやらが封の切られないまま載っている。
言うまでもないが、ホットケーキにはホイップクリームが絶対に必要だ。それも砂糖多めのものが、ふんだんに。適当なところで見繕って買ってもよかったが、どうせ自宅でホットケーキを焼くならとことん自分好みになるよう拵えてみるのも悪くないんじゃねえかと昴につられて気まぐれを起こした、――ところまではまあ、良かった。
オムライスを作らせればなぜか毎回ケチャップまみれになるような男にボウルと泡立て器を持たせたらどうなるかなんざ、結果は火を見るより明らかだったろうに。
甘い匂いが充満したキッチンで、エプロン姿の昴の背中を流し台に押しやって頬についたホイップクリームを指で拭い取っている現状は、冷静に考えてあまりにもベタだ。ベタすぎる。ガキみてーに身をよじって笑う昴の頬についたクリームを指先ですくって自分の口に運びつつ、俺は目の前の大型犬に聞かせるための溜息をひとつ吐いた。
「ったく、なんでこーなるんだよ」
「だ、だって生クリームなんて作るの初めてで」
「だからってお前、加減のわかんねーガキだってもーちょっと上手くやるだろ」
レシピサイトと睨み合いながらボウルに入れた諸々がホイップクリームの体を成したころには、そこかしこに飛び散った量とボウルに残っている量のどちらが多いか、という惨状が広がっていた。いや、いっそまだボウルに残っているだけましと言うべきか。相変わらずの不器用ぶりにこめかみを押さえたくなったが、クリームまみれの昴を捕まえたせいで俺の手まですっかりべたついているので思いとどまる。
「顔もエプロンもベッタベタじゃねーか。ボウルに半分も残ってねえし」
「う……」
俺の言葉でようやく手元のボウルの状態に気付いたらしく、昴が広い肩を縮こまらせる。「…………すみません、せっかくカイトさん用に作ってたのに」
いつもの調子で言い返してくるうちはいいが、あまり素直に落ち込まれると今度はこっちが苛めているような気分になってくる。
「バーカ、なんつー顔してんだ」
飛び散ったクリームはたしかに惜しいが、べつにこいつをしょぼくれさせたかったわけでもない。クリームでべたつく頬を捕まえて軽く引っ張ってやると、いひゃい、と間の抜けた声がして、叱られた犬みてえな色の瞳が俺を映した。甘い匂いの満ちたキッチンで見るティーブラウンはなにやらひどく美味そうに見えて、じわりと空腹感が首を擡げる。
「……えーと、あれ、カイト、さん……?」
「んだよ」
「いやあのそれはこっちの……っうわ!」
摘んでいた頬にそのまま齧りつき、べたつく肌をべろりと舐め上げる。知った感触の肌から甘い生クリームの味がするのがどうにも不似合いで、知らず笑いが込み上げる。くつくつと喉を震わせて笑っていると、なんで笑うんですか、と昴が拗ねたような声を上げた。いや、笑うだろこんなん。
「気付いてねーのかよ、デコレーションケーキみてぇになってんだぞ、お前」
「…………っ!!」
口角を吊り上げたまま耳元で声を落としてからかってやれば、噛みついた耳朶がかっと熱を持つ。素直な反応に気を良くして、そのまま体温でゆるみだしたクリームがつたう首筋を唇だけでやわく食んだ。あー、甘ぇ。美味い。
「ちょ、カイトさ、……っん……!」
普段ならこのあたりで自慢の腕力をもってして一度体を押し返されるところだが、手がクリームまみれなのを気にしているらしい昴は珍しく随分と大人しい。相変わらず大雑把なんだか律儀なんだかわかんねーヤツだ、と思いながら、平生は(非常に不本意ながら)なかなか得られない貴重な物理的優位を堪能することにする。首筋から舌先を滑らせて唇に噛みつけば、ぬるついた五指がせめてもの抵抗にか俺の手をぐっと掴んだ。
これだけ飛び散っちまったらどうせ足りねえし、いい子よろしくホットケーキっつー気分でもなくなってきた。そもそも焼きたてのホットケーキに載せるっつー話で生クリームを先に作ることにしたわけだが、第一段階でこのありさまじゃ計画の練り直しが必要だろう。
「つーわけでホットケーキはお預けだ、体力バカ」
甘ったるい口内を散々味わってからそう言って笑うと、ショートケーキの苺もかくやというほど顔を赤くした男に思いきり噛みつき返された。
***
20170615Thu.
■おねむのわんこはいたずら上手
珍しいね、昴がこんなふうになるなんて。ほら、酔っ払ってないでちゃんと連れ帰ってあげてよ、宇田川部長。カンパニーの面々のそんな声に送られて、新堂カイトは打ち上げ会場の焼肉屋に呼びつけたタクシーへ鷹揚に乗り込んだ。
隣の席では、昴が眠たげに目をこすりながら子どものように身じろいでおり――否、カイトが運転手に自宅のマンション名を伝えているあいだに早々に寝息をたてはじめたので、いまは身動きひとつしていない。無防備な寝顔を横目に、走り出した車の振動を心地好く感じながらカイトも座面に深く凭れかかる。
新演目『Wind-Wind Symphony!』が、今日無事に千秋楽を迎えた。主演を務めた男は、どうやらすっかり気が抜けてしまったらしい。ひとしきり肉を腹に詰め込んだのち酒精も手伝ってか珍しくうつらうつらとしはじめたものだから、蒼星が頃合いを見て手配していたタクシーで早めに帰宅させることとなった。当然のようにカイトが連れ帰る流れになっていたのは男との関係からも、今回の役柄から考えても順当なところだろう。恋人の身を任されて悪い気などするはずもなく――そもそも今夜は元からカイトの自宅へ泊まりに来ることになっていた――楽日特有の高揚感とともに帰路についた次第である。
そんな経緯で車に揺られることおよそ三十分あまり。住み慣れたマンションへ辿り着き、のろのろと歩く男の腕を引いてどうにか自宅のドアを開ける。半ば以上頭が寝ている様子の男に靴を脱ぐよう促して、そのままベッドルームへ向かった。
「……、かいとさん、……おふろ……」
「あー、今日はもういーから寝ろ。グダグダじゃねーか」
「む……ぐだぐだじゃ、ない……です、」
「そーゆーのをグダグダってんだよ」
一応終演後に、軽くシャワーは浴びている。この状態で風呂場に放り込んだが最後十中八九脱ぎかけで寝はじめるであろうことは想像に難くないうえ、万一そうなればそちらのほうがひと苦労だ。不服そうにごねる男をひとことで言いくるめ、やっとのことで寝室へと引き入れる。
「とりあえず、着替えだけしてさっさと寝――って、どわっ……!!」
長躯をベッドに寝かせ、クローゼットに置いてある替えの衣類を取りに行こうとしたところを、シーツの海からのびてきた手に捕まえられて倒れ込む。
「おいコラ、なにすんだこの酔っ払い……」
「むー……」
仰向けの男に覆いかぶさる体勢のまま加減知らずに首筋を抱き込まれ、物理的に胸苦しい。酔っていまにも眠りに落ちてしまいそうな男の拘束からすぐさま抜け出せないのはこの男が馬鹿力なだけであって、断じて自分が非力なわけではない。……ないのである。
「カイトさんだってのんでたでしょー……、おれしってますよお」
ふふん。なにやら得意げに鼻を鳴らした大型犬が、じゃれつくようにカイトの耳朶をやわく噛んでくる。ゼロの距離で名前を呼ぶ声と呼吸の無防備さにぞくりとした。
「ッ……お前な、」
挙句に足の先まで絡ませてくる始末で、酔漢相手に不覚にも理性が揺れるのがわかる。当の本人はといえばカイトの気など露知らず、相変わらず首筋を抱き込んだまま機嫌良さげにぐいぐいとこめかみのあたりを押し付けてくる。生意気にも誘うような真似をしたかと思えばこのありさまで、結局肩の力が抜けてしまった。犬か、やっぱ犬なんだなお前、と取り留めない思考を巡らせるなか、眠たげにゆるんだ甘い中低音が鼓膜を揺らす。
「へへ、すっげーかっこよかったです、宇田川さん……」
「…………、」
「…………?」
続いた言葉に、知らず動きを止めていた。姿勢はそのまま、カイトが黙っていることに気付いたらしい男が疑問符を浮かべる気配がする。応えの代わりに耳の端に軽く歯を立てて、腕の力をゆるめさせる。
「こんなトコで俺以外の名前呼んでんじゃねーよ」
呼吸の重なる距離で小さく落とした呟きになにがしかの応えが返されるより先に、唇を塞ぎにかかる。――演じた役に嫉妬するとは、自分もだいぶ酔いが回っているらしい。
「ん、」
男の喉から上がった声が、唇に直接ふれて心地好い。アルコールのせいか眠気からか普段よりも熱い気がする手のひらを、掴んでベッドに縫い付けた。
朝食で使った食器を洗い終え、濡れた手をタオルで拭いながら、城ヶ崎昴は少し離れたソファに腰掛けているカイトの背中をちらと見遣って小さな息をつく。
なぜだかわからないが、朝から彼の機嫌が悪い。
「カイトさん、」
「……んだよ」
テレビの天気予報を見ていた彼の視線が、じとりと昴に向けられる。
怒っているというより、なにやら拗ねてへそを曲げているといったほうが近いだろうか。あからさまに刺々しいわけではないが、普段通りでもない。
「あの、オレなんかしました……?」
おずおずと問いかけつつキッチンを出て、彼が座るソファへと歩み寄る。今朝は昴が朝食を支度する持ち回りで、彼をベッドから揺り起こしたのも昴だが、そのときからすでにこんな調子だったものだからさっぱりわけがわからない。
「もしかしてまだ寝足りてなかったとか」
「べつに、ンなことねえよ」
むしろいつもよりよく寝たくらいだっての。
どうにか思い当たる節を探して投げた言葉もあっさりと否定の憂き目にあう。小さく呻きながらソファに腰を下ろすと、テレビを消した彼が呆れ気味に息を吐いて言葉を続けた。
「……一応聞くが、昨日寝る前の記憶あるか、体力バカ」
「昨日?」
昨夜は無事に『Wind-Wind Symphony!』の千秋楽を迎え、打ち上げの席で焼肉を心ゆくまで味わって――緊張の糸が切れてしまったのかアルコールが回りすぎたのか、それ以降の記憶はおぼろげだ。断片的に覚えていることといえばタクシーで彼の家まで来たことと、玄関で靴を脱いだことくらいだろうか。首を傾げつつ曖昧な記憶を手繰ろうとしたところで、表情からそれを察したらしい彼の大きな手が昴の頭を鷲掴む。
「ちくしょう、やっぱなんも覚えてねーなお前!」
「うわっ!?だ、だから聞いてるのにっていたたたたたたた!!」
なにするんですか!そう抗議の声を上げるより先にぐいと腕を引き寄せられて、耳朶を噛まれた。不意打ちの吐息のいろに、背筋へぞわりと微熱がはしる。
「ちょ、カイトさんいきなり何ッ……」
「いきなりじゃねーよ、どっかのバカが昨日こーやって煽るだけ煽って寝落ちしやがったから続きだ、続き!」
「へっ?!」
投げつけるように寄越された言葉に思わず素っ頓狂な声を上げ、彼の肩を押し返す。すぐそばにある彼のひとみは相変わらず拗ねたように細められており、からかわれているわけではなさそうだった。なんだ、彼は一体なんの話をしているのだ。曖昧な記憶の箱を逆さにする勢いで思考を回転させて、ようやくうっすらと答の端に辿り着く。「…………、」
「……ええと、そのー……」
「思い出したツラだな」
「うっ……」
夢うつつになにを話していたかはやはり然程も思い出せなかったけれども、なんとか引っ張り出した最後の記憶はぎうと抱きしめた彼の体温と口付けの感触だった。よく知った温度の心地好さに瞼を下ろして、――どうやら自分はそのまま寝入ってしまったらしい。
「俺様をその気にさせといて寝落ちとはいー度胸じゃねーか、ああ?」
彼の薄紫の両目が笑みのかたちに細められ、捕食者の色味を含む。ああ、駄目だ、彼のこの顔には弱いのだ。
「精々しっかり掴まってろよ」
ふふん。なにやら得意げに吐息だけで笑った彼の体重が、無遠慮に降ってくる。寝転がるにはさすがに狭いソファの感触を背中に感じつつ、昴は早々に白旗を揚げて彼の首筋に腕をまわすことにした。
***
20170708Sat.