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    クラップ・ユア・ハンズ(目次)


    し――しずかな夜

    あ――あまいもの

    わ――ワックス

    せ――蝉時雨

    な――名前

    ら――落涙

    てを―手をながめる

    た――体温(深夜一時十五分)

    た――体温(午前六時二十八分)

    こ――コップと歯ブラシ

    う――うた



    CLAP YOUR HANDS!
    し:しずかな夜


     数時間だけと篭っていた作業部屋から出ていくと、リビングにあるソファで男が寝息を立てていた。
     点けたままのテレビからは、生真面目な顔をしたキャスターが淀みなく述べる政治関係のニュースが滔々と流れ続けている。どうやらスポーツ関連の特集まで起きていられなかったらしい。床に転がり落ちているリモコンを拾い上げ、ひと通りチャンネルを回していく。深夜帯の下世話なバラエティには興味が沸かず、結局一周してもとのニュース番組へ帰りついてしまった。リモコンを放り出して、ゆるく息を吐く。
     ミルクココアを飲むのに使っていたマグカップを流しへ置きに行くついでに、冷蔵庫から小さなガラス瓶を取り出す。淡く透き通った琥珀色の中で、こまかな気泡がしゅわしゅわと揺れている。口の広いグラスに作り置きの氷をいくらか入れて、小瓶とともにリビングへ戻った。一八〇センチを超える背丈の男がまるきり子どものようなあどけない寝顔を晒してソファを占領しているものだから、ソファを背凭れにして床に腰を下ろす。
     これでようやくひと心地ついた。オフ日前夜の気楽さで揚々と小瓶の中身をグラスに注いでいくと、氷が軽い音を立てながらグラスの中を泳ぎ出す。ぱき、ぱきん。ふわりと鼻先をくすぐるのは林檎の香りだ。ラベルにはスパークリングワインのロゴタイプが踊っているが、ほとんどジュースと大差ない。
     ひとりか、カンパニーの面々との酒の席であればもう少し度数の高い酒を呑むのだけれども、この男とふたりのときはだいたいがその程度のものである。
     いつの間にか始まっていたスポーツニュースをぼんやりと眺めながらしばらく酒盃を傾けていると、ようやく、背後でソファが軋む音がした。
    「……、……おはようございます……」
    「早くねーよ」
     寝惚けた声に軽く突っ込みを返しつつ、振り返って男と目を合わせる。起き抜けのティーブラウンがカイトを映して、それから小さく鼻をならした。
    「なんかいいにおいがする……」
     まるきり犬めいて呟く男に喉の奥で笑い、「当ててみな」と口付けた。

    あ:あまいもの


    「珍しいな、昴がデザート買ってくるなんて」
     稽古上がりの昼下がり、劇場の近くにあるコンビニで少し遅い昼食を調達してきた彼が買い物袋から取り出した諸々に、響也はぱちりと目瞬きをひとつしてそんな声を投げかけた。
     机の上に並んでいるのは大盛りの唐揚げチャーハン弁当と、レジ横に並べられているコロッケがふたつ、それから「new」のシールが貼られたコンビニデザートがひとつ。デザートのラベルにはフルーツ山盛りプリンパフェ、という可愛らしい文字が踊っている。響也の声に手元のそれを見た彼は、小さく笑って首を横に振る。
    「これ、オレのじゃないんですよ」
     彼はそう答えながら手近なペン立てから油性ペンを取り、慣れた様子でデザートの蓋に文字を書き込む。彼の書き入れた二文字を見て、響也はようやくそこで合点がいった。
    「なるほど、カイトのか」
    「はい」
     どうやら彼が仕入れてきたのはカンパニー随一の甘党の男のものだったらしい。もののついでに頼まれでもしたのだろう。名前入りのプリンパフェを事務所の冷蔵庫にしまって席に戻ってきた彼に響也がそう尋ねると、彼は再び首を横に振る。
    「さっき稽古行く前に甘いのガッツリ食べてるの見かけたんで、あー今日は遅いんだろうなーと思って」
     あれくらいの量ならたぶん一〇時くらいですよね。
     弁当のビニール包装を破りつつ、何気ない調子で返されたのはそんな答えである。
     隣で静かに緑茶を傾けていた蒼星がごく小さな咳払いをしたのが聞こえたが、会話に入ってはこない様子だ。
    「カイトさんて帰る前にも甘いもの食べるし、冷蔵庫の買い置きも少なかったような気がして買ってきました」
     確かに彼の言う通りカイトは昼前から音響室に篭もりきりで作編曲に勤しんでいる。今日はもうほとんど姿を見かけることはないだろうと踏んでいたが、糖分の量で終了時刻に見当をつけているとは思わなかった。「昴、お前、」
    「本当にカイトと仲良くなったんだな……」
    「えっ、そ、そんなことないですよ?!」
     なにやら少々慌てた様子で返される否定の声に混じって、幼馴染みの小さな溜息が聞こえた気がした。
    「蒼星、どうした?」
    「……いや、なんでもない……」

    わ:ワックス


     昴は風呂上がりの彼の髪にふれるのが好きだ。普段はワックスで整えられて硬い感触をしている黒髪が、湯にやわらかくほどかれて指に絡むようになるのが心地好い。ただ目下の問題は、いまのところ昴がそれを楽しめるのがおおよそベッドのなかだけであるということだった。
    「カイトさん、明日はワックスなしにしませんか」
    「は?」
     空調のきいた寝室、体の上には彼がいる。すっかり見慣れた構図だなあと思いつつ、昴は彼のうなじからわずかにこぼれた襟足に指をくぐらせる。やわらかい髪を絡め、ひどくゆったりとした気分で、指の腹でそっと彼の首筋を撫でた。シャワーを浴びたばかりの肌はしっとりとしていてあたたかく心地好い。
    「んだよ、いきなり」
    「なんかもったいないっていうか、たまにはいいかなあって」
     カイトさんの髪、やわらかくて気持ちいいから。珍しく彼が逃げていかないのを理由にそのままの姿勢でそう続けると、彼の垂れ気味の瞳が二、三、どこか呆れたように目瞬く。
    「……外に出るならぜってぇ嫌だからな」
    「えーっ」
    「えー、じゃねえよ」
    「だって、……っていうか、あれ?もしかして、出なければいいんですか?」
    「お前みてーな体力バカが、オフに一日家で大人しくしてられるもんならな」
     彼はからかうように答えてくつりと笑う。確かに明日はせっかくのオフ、天気も良いらしい。そんな日に一日じゅう家に篭っているなどということは、昴にはできそうにない。思わず口をへの字にしてむうと唸っていると、言いくるめ終えたと踏んだらしい彼の唇が喉元に寄せられた。やわく立てられる犬歯の尖った感触に、ぞわりと背がふるえる。
     けれどもこのまま本当に言いくるめられてしまうのはいささか悔しかったので、思いつくまま言い返した。
    「オレだってたまには大人しくできますよ」
    「へえ?なにすんだ」
    「……ええと、」
     朝はゆっくり寝て、起きたら朝食を作る。遅めの朝食を済ませたあとに掃除をしながら洗濯機をまわして布団を干して、それから軽めの昼食をとって、彼のピアノが聴けたら嬉しい。そうして、それから、……それから。結局一日を埋めきれず言葉に詰まり、彼は「ほら見ろ」と言って笑う。なぜだか上機嫌な表情に気を削がれて理由を問うと、彼はもう一度喉元に噛みついてから答えた。
    「こんなとこ見んのはお前だけでいんだよ」

    せ:蝉時雨


     みんみんみん、じわじわじわ。まだ午前の早い時間だというのに、駅からの道中はそこかしこの木々で行われる蝉たちの合唱で大賑わいだった。晴れ渡った青空から容赦なく降り注ぐ直射日光に、カイトは思わずサングラスの下で顔を顰めた。今日も真夏日だ。
    「カイトさん!おはようございます」
     劇場まであと数百メートルといったところを歩いていると、ふいに、威勢の良い耳慣れた声が飛んでくる。足を止めて背後からのそれに振り返れば、スポーツウェア姿の男がたっと駆け寄ってきた。呼吸こそ乱れてはいないが首筋にはいくつも汗の粒が伝い、男がすでにしばらくの時間走り込んでいるのは明らかだ。
    「ったく、この暑いのに朝っぱらからよくやるな」
    「へ?」
     この男が稽古のウォーミングアップにランニングをするのはさほど珍しくないが、茹だるような夏でも楽しげにしているのだから不思議なものだ。呆れと感心が入り混じったカイトの声に、男のティーブラウンが幼くまばたく。
    「オレ、朝からこーやって太陽浴びて蝉の声聞きながら走ってると、夏だー!って感じがしてテンション上がるんですよね――あっ、そうだ、カイトさんも走りませんか?」
    「……は?」
    「ほら、時間もまだヨユーあるし!シャッキリしますよ!」
    「ちょ、オイ、俺はべつに」
     俺はべつにこのクソ暑いなか走る趣味はねーよ!会話をするにはいささか邪魔なサングラスを外しつつそう言い返すべく口を開いたカイトだったけれども、目に映った景色のあざやかさに、思わず言葉を取り落とした。
    「カイトさん?」
    「ッ、」
     絵の具のようなスカイブルー、強すぎる夏の日差し、短い赤茶の髪からしたたる汗のしずくがチカリとひかって目の奥を灼く。目瞬きしても消えない残像に、確かに夏だ、とわけもなく思った。
    「大丈夫ですか?もしかして具合でも悪い……?」
    「ちっげぇよ!……着替えてくっからそのへんで待ってろ!」
     男の見当違いな問いを投げ返して歩き出す。蝉時雨を頭から浴びて、駆け足の鼓動を落ち着けたい。

    な:名前


    「そういえば、なんでヒナタって名前なんですか?」
    「あ?」
     硝子窓からレースカーテンを透かして、穏やかな陽光が差し込む昼下がり。昼食を済ませたあと、可愛がっているハムスターのケージの掃除をはじめた彼の背中を横目に見つつ、予備のケージに移された当人(?)と指先で戯れる。ハムスターはあまりさわらないほうがいいと聞いたから、撫でるのはほんの少しだけ。それでもどうやら匂いを覚えているらしく、噛まれることはなくなった。あとは気に入りの木のおもちゃで遊んでいる様子を水槽型のケージ越しに眺めるばかりだけれども、その姿だけでも十分可愛らしいので飽きはしない。
     しばらくそうしているとなにを思ってかふいに玩具から離れてこちらへ寄ってきたので、軽く指先で床を叩いて名前を呼んでやる。ヒナタ。
    「ヒナタって、べつにあの陽向じゃないんですよね」
    「たりめーだ。まあ、ちっせーとこは似てなくもねぇが」
    「……それ、陽向が聞いたら怒りますよ?」
    「お前が言わなきゃばれねーよ」
    「じゃあ、言わない代わりに名前の由来教えてください」
    「断る」
    「えー、いいじゃないですか!」
     誰にも言いませんから!いいや、お前はメガネの前とかで口滑らせるタイプだ!カイトさんのケチ!――などとひと頻り言い合ってからもう一度名前を呼ぶと、聞こえよがしな大きな溜息のあと、小さな低い声が答えを紡いだ。
    「…………さわったら、日向みてーにあったかかったからだよ」
     聞こえたそれに、思わず目瞬きをひとつ。「日向って、……この?」
     窓辺に落ちている陽だまりを指差しながら尋ねれば、「なんか文句あんのかコラ」と決まり悪げな応えが返る。まったく我関せずの当人と、窓際の陽だまりと、照れ隠しにひどく険しい顔をした飼い主を順繰りに見やり、昴は肩を揺らして笑う。笑うな!と咎める彼の声に謝りながら、自然と言葉を接いでいた。
    「オレ、カイトさんのそーゆーとこ大好きです」

    ら:落涙


     世界中を感動の渦に巻き込んだ名作アニメがテレビ初登場、だなんてフレーズのコマーシャルが、少し前に流れていたのは知っていた。というか、次に泊まりに来たときにでも一緒に見ようと(なんだかんだと文句を言われながらも)彼の家のテレビで録画予約をしたのは昴である。
    「ったく、人んちのテレビで勝手に録画しやがって」
    「いいじゃないですか、せっかくこんなに立派なテレビなんだから映画見なくちゃもったいないですって」
    「映画っつったってアニメだろ」
    「でもすっげー泣けるって、友達言ってましたよ?」
     などと他愛のないやり取りとともに再生ボタンを押したのが、今から一時間半ほど前のことになる。
     序盤こそぽつりぽつりと会話があったものの、物語が進むにつれてふたり揃って完全に黙り込んでしまった。ときおり合間に挟まる宣伝を飛ばすわずかな空白が、ふたりぶんの嗚咽で埋まっているのも仕方のないことだ、と昴は手の甲で涙を拭いながら洟をすする。隣で黙り込んだままの彼の様子をちらりと窺うと、食い入るように画面を見詰める横顔が目に入った。
     目瞬きの拍子にあふれた涙が、整った頬の輪郭をつたってすべり落ちてゆくのが見えて、――思わず手を伸ばしていた。
    「おわっ……」
     どうやら驚かせてしまったらしい。少々間の抜けた声を上げた彼はどこか決まりの悪い顔をして、怪訝そうに昴へ向き直る。涙をのせてかすかにひかる目元を指の背でそっと拭うと、彼のあわい紫色の瞳が小さく揺れた。
    「……んだよ」
     隠しきれない涙声で彼が口にしたのはそんな言葉で、昴は知らず目瞬きをひとつ。理由など、聞くまでもなくわかりきっているだろうに。
    「だって、カイトさんが泣いてるから」
     涙の粒が彼の頬をつたってゆくのをみとめた瞬間、濡れた目元をぬぐわなければいけないような、そんな気がしたのだ。昴が答えると彼は一瞬唇をきゅっと結んで、それからゆるい息をひとつ吐き出した。
    「お前もだろーが、このバカ」
     目ェ腫れてんぞ。
     そう言って少々荒っぽく昴の髪をかき混ぜた大きな手のひらの向こうには、やさしい笑みの気配が滲んでいる。

    てを:手をながめる


     白と黒の鍵盤の上でなめらかに踊る大きな手を眺めていると、魔法を見ているような気分になる。稽古場に置かれたピアノ、その椅子のそばの床にぺたりと腰を下ろして、昴は彼の手の動きをじっと目で追っていた。
     自主練習上がりのストレッチのあいだだけ、邪魔はしないから、という口約束でこの特等席を陣取ったのが、かれこれ一〇分ほど前のことになるだろうか。ストレッチをしてはいるけれども、いつもよりやたらと念入りになっている自覚はある。
     聴こえてくるのは次回公演のために彼が先日書き下ろした新曲のメロディライン。ここからもう少し手を加えていくために、彼は鍵盤と向き合っているのだという。数小節を奏でては楽譜になにごとかを書き入れたり、通しで弾くことを繰り返していた。
     彼の大きな手のひらが鍵盤の上で踊るたびに、心地好い音が体を包む。細かな調整を具体的に聴き取れているわけではないが、少しずつ形を変えて研ぎ澄まされていく音楽に心が浮き立つ。魔法のように奏でられるピアノの旋律に耳を澄ませていると、彼がふいに手を止めて昴を見た。「おい」
    「はい?」
     ちょっとこっち来い、と呼ばれるままに立ち上がり、彼の隣へ寄っていく。広げた楽譜の中段あたりの、とある箇所を指先で示されて、ぱちりと目瞬きをひとつした。
    「ここんとこ、ハモリ確認してーから主旋律歌え」
     続いた言葉でようやく合点がいった。普段なら彼ひとりでもなんとかしてしまうのだろうけれども、折りよく近くにいたのでこの流れになったらしい。彼の示した数小節は、幸い今日の稽古でも練習したところであったから、素直に頷いて背筋を伸ばし、歌う姿勢を取った。
     伴奏に合わせてふたりぶんの声が重なる。確かに稽古のときとはアレンジが少し変わっていて、より芝居に馴染ませやすそうな雰囲気になっていた。
     いままでの公演で歌ってきた曲も、これから歌う曲も、ひとつひとつがこうして彼の手で作られていくのだ。
     それはやっぱり魔法のようなものなんだろう。できればずっと近くで見ていたいなあ、と、昴は彼の手を眺めながら考えた。

    た:体温(深夜一時十五分)


     もう少し夜更かししたかったのになあ。しんと静まり返った部屋のなか、うっすら見える旅館の天井を眺めながら、やわらかな布団に子どものようにくるまった城ヶ崎昴は考える。
     隣からはすでに穏やかな寝息が聞こえている。夕食のときに呑んでいた酒のせいか、割り振られた部屋に戻ってきて二時間経つか経たないかといったころには彼は早々に布団に入って眠ってしまった。寝る前にもう少しだけ話していたかったのだけれども、珍しく随分と眠たげだったので仕方がない。明かりをつけたままにもできず消灯し、昴はひとり、眠気の訪れを待っていた。
     そのあいだに、今日は楽しかったなあ、と一日の出来事を振り返る。この人数での泊まりがけの旅行はサッカーをやっていたときの合宿以来で、なんとなく懐かしいような、けれども新鮮な心地もして楽しかった。
     ――そういえば明日の朝は何時に集合だったっけ?
     そんな思考を転がしかけたところで、ふいに隣から上がった物音に意識が向いた。
     見れば寝返りをうったらしい彼が掛け布団を抱き枕代わりに巻き込んでなにやらむにゃむにゃと喉を鳴らしている。寝返りをうった拍子に浴衣の裾が豪快に捲れて足がさらけ出されているのに気がついて、小さく笑い布団を掛け直そうと起き上がった。場所が違うからか、普段あまり見ることのない姿が妙にかわいらしく見えてしまう。
     縦に二つ折りにした布団を抱いて寝入っている彼の腕をそろりとほどき、寝はじめたときの状態に戻す。よし、と頷いて自分の布団に戻ろうとしたところで、がしりと手首を掴まれた。
    「へ?」
     油断しきっていた体をそのままぐいと引き倒されて、知った温度に拘束される。
    「ちょ、え、カイトさん……?」
     まさか狸寝入りか、と身構えるも、彼からのいらえはない。十数秒間の観察ののち、彼は眠ったままだと結論づけた昴は、ゆるい息とともに肩の力を抜いた。
     今夜の彼にはどうしても抱き枕の代わりが必要らしい。あたたかいし、――これならやっと眠れそうだ。

    た:体温(午前六時二十八分)


     自宅で愛用している抱き枕を、温泉宿にはさすがに持ち込めなかったから。それがこの状況のたったひとつの理由で原因だ。そういうことにしておきたい。窓の外で遠く雀の声がする早朝、畳の藺草からやわらかく香る青い匂いを知覚しながら、新堂カイトはかすかな酒精の残った頭で考えた。同じベッドに眠る普段ならともかくも、離して敷かれた布団の隙間をものともせずに、脳天気に寝こける男を豪快に抱き枕代わりにしているところなど、カンパニーの面々に見られたら言い逃れのしようがない。誰かが起こしに来る前に目が覚めたのは幸いだが、起き抜けの心臓にはあまりよくない状況である。
     部屋に満ちる畳の香りよりも近くで、いまではすっかり覚えてしまった男の肌の温度とにおいがする。嗅ぎ慣れない旅館のシャンプーだかボディソープだかの匂いと、糊のきいたリネンのそれが混ざっているのが少々落ち着かない。昨晩風呂へ行く前に随分とはしゃぎながら袖を通していた濃紺色の浴衣は、寝ているあいだにすっかり着崩れてしまったらしい。ライムグリーンのタンクトップから剥き出しになった肩と二の腕が、カイトの腕にふれている。――そしてこれがひどく、あたたかくて心地好いので困りものなのだ。
     筋肉質だからか或いは子ども体温というやつなのかこの男はいつも体温が高めで、とりわけ冬の朝には天然湯たんぽとして絶大な温熱効果を発揮する。そしていまは冬の朝だ。とどのつまりは自宅の朝なら到底放す気になれない程度には気持ち好いということなのだけれども、脳内議会の客観性を総動員させて、どうにか離れる案の採択を成功させる。
     時刻は午前六時半を過ぎるかどうかといったころ。酔い覚ましに朝風呂に行くのも悪くはないかと身を起こしかけたところで、くん、と後ろに引かれる感触があった。
    「………………」
     いまなお健やかな寝顔を晒している男の手が、カイトの浴衣の袖を掴んでいる。指先をほどこうと試みるも、放す気配は皆無である。
     たっぷり十数秒間の沈黙のあと、溜息をひとつ。
     再びあたたかな布団に戻り、もう少し日が高くなるのを待つことにした。

    こ:コップと歯ブラシ


     コップと歯ブラシ。
     一週間ほど前に、カイトの自宅の洗面所に増えたものだ。真新しい歯ブラシが、プラスチック製のライムグリーンのコップに立て掛けられているのを見るたび、カイトはなんだかむずがゆいような心地好いような、不思議な気分を持て余すのだった。
     この家へ越してきてからこちら、自宅のどこかに自分以外の誰かの気配を残し続けながら暮らすことなどはじめてで、きっとそのせいだとわかってはいるけれども、原因がわかったところで状態が変わるわけでもない。テレビから流れる天気予報を少し遠くに聞きながら、カイトは自分の歯ブラシをくわえてリビングへ戻る。
     朝から歯切れの良い(それが仕事なのだから当然かもしれないが)女子アナウンサーの声によると、今日は午後から天気が崩れてくるらしい。降水確率は五〇パーセント。傘を持って出たほうが無難だな、と数字を回路の隅に留めつつ、ソファに腰掛けてぼんやりと画面を眺めた。画面の左上端に表示された時刻が、番組が天気予報から星座占いのコーナーへ移る時間を示す。局のタイムテーブル通りぱっと切り替わった液晶には、一位、さそり座の文字。
    「あっ、カイトさん、さそり座一位ですよ!」
     今日の運勢やラッキーアイテムを述べるアナウンサーの声に重ねて、明るい声がキッチンから飛んでくる。ソファに座ったまま振り向けば、朝食に使った皿を流し台で洗っていた男が、見慣れた無邪気な笑みを浮かべていた。
    「よかったですね、なんかいいことあるかもですよ」
    「お前、その歳で星座占いとか信じてんのかよ」
    「あはは、一位だった日くらいはいいじゃないすか」
    「相っ変わらずテキトーだな」
     歯ブラシをくわえたままではどうにも話しづらいので、そこで一旦会話を終えて洗面所へ戻る。口を濯いだその足でキッチンへ顔を出すと、ちょうど洗いものを終えた男がタオルで手を拭いたところだった。オレも歯みがきしてこよー、とすれ違おうとした男の腕を、カイトはぐいと掴んで引き止める。
    「だから、なんでお前はそんなとこに泡飛ばすんだよ」
    「へ?――わ、」
     呆れ混じりに言いながら、男の頬についた洗剤の泡を指先で拭う。オムライスを作ればそこかしこをケチャップまみれにするような男のすることなので、致し方ないのかもしれないが。
     目を細めてくすぐったげに肩を竦める仕草があまりに犬めいており、つい髪をかき混ぜてやりそうになるのをどうにか堪えて手を離す――手ぐせがつきそうなので、この男の頭を撫でるのは基本的にベッドのなかだけと決めている。
     小さく礼を言ってから洗面所へ消えていく広い背中を見送って、リビングへ戻る。万人向けの星座占いの一位より、鏡の前に並んだコップと歯ブラシのほうがよほど気分が良く思えるのは、いまはまだカイトだけの秘密である。

    う:うた


     ニュース番組で映し出された光景がとても綺麗だったから。朝から天気がすこぶるいいから。今日は少し遠くまで出かけたいから。春先の海岸で思いきり駆け回るのは、きっと気持ちが好いだろうから。
     そんないくつかの理由で彼と一緒にやってきた海浜公園はまだ人影もまばらで、波の音と鳥の声がよく聴こえた。靴を脱いで裸足になった足の裏で、濡れた砂のざらざらとした感触とまだ冷たい海の温度を感じながら波際を歩く。散々波を蹴り合って遊んだものだから、昴も彼も服のあちらこちらが濡れているのが可笑しい。降り注ぐやわらかい日差しが、湿った服をじわりじわりと乾かしてゆく。
     雲ひとつない空を見上げると、黒い鳥が大きな円を描きながら青のなかで羽ばたいていた。色からしてかもめではないし、羽を広げた姿はからすよりもやや大きい。ぴいひょろろ、という鳴き声が聞こえて、合点がいった。とんびだ。
    「気持ちよさそーですね」
    「あ?」
     上空を指さして示せば、ああ、と彼も納得したような表情を浮かべる。上を向いていた昴の歩調がゆるんだせいで、彼のほうがほんの数歩先にいる。
    「あんなふうに飛べたら絶対きもちーですよね」
    「そりゃあ、まあな」
     いつもなら呆れ顔が返されるような例え話に、珍しく素直な肯定が返ってきた。チカチカと瞬く波際で笑う彼の横顔がひどくまぶしく見えて、知らずのうちに足を止めていた。
    「?どーした」
    「……あ、いや、なんでもないです!」
     怪訝そうな声に我に返り、歩調を速めてまた隣に並ぶ。
     青空をゆっくりと旋回するとんびの伸びやかな鳴き声が、波の音に紛れて何度も響き渡る。
     歌うような鳥の姿は、どこか彼に似ている。
     あんなふうに自由に、いつまでもこのひとが歌っていられますように。うららかな春の日差しに目を細めながら、祈るようにそう思った。


    ***
    20160731.
    なっぱ(ふたば)▪️通販BOOTH Link Message Mute
    2018/07/08 12:55:48

    クラップ・ユア・ハンズ

    #BLキャスト #カイすば

    コピ本作り遊び用に書いたカイすばショートショート×11本ログ。だいたい平和に仲良くしてます。小ネタ詰め合わせなのでよろしければお中元(?)にどうぞ。

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    ##腐向け ##二次創作  ##Kaito*Subaru

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