隠し味はXXX まだ生焼けの生地の表面に、ほんの小さな気泡が浮いてははじけてふつりと穴を開けていく。鼻先をくすぐるやわらかなあまい匂いに、新堂カイトは上機嫌に目を細めた。
「いいにおいですねえ」
「まだ焼けねえのかよ」
「もー、さっきから何回目ですかそれ」
しっかりと熱されたフライパンの上にあるのはもうじきココア味のホットケーキになる予定の生地で、そろそろ裏返せるかどうかという頃合いだ。
カイトが戯れに投げた言葉に笑いながらそう答えてみせた昴も、台詞とは裏腹に焼き上がりが待ちきれない様子でそわそわとフライ返しで生地の端を構っている。
「ひっくり返すの失敗すんじゃねーぞ、不器用男」
「ちょっ、緊張させないでくださいよ!」
カイトもキッチンではさほど器用なたちとは言えないが、この男ほど不器用ではない。なにせオムライスを作ればケチャップまみれになり、野菜炒めを作れば必ずといっていいほどいくらか豪快に野菜をこぼすような男だ。以前はキッチンで四苦八苦している姿をリビングから眺めることもあったが、結局こうして並び立って他愛のない会話に興じていることが多いのは、どうにも危なっかしさが拭えず目が離せないから、というのが大きな理由のひとつである。
「この前ちゃんと練習したから、大丈夫、だと、思うんですけど……っと、」
そう言いながら、昴は生地の下にフライ返しを差し込んでえいやと思いきりよく裏返す。ぺたん!
「ほら!」
得意げな声が、ホットケーキの焼ける音に重なって軽やかに跳ねる。まるきり子どものようなそれに思わず喉の奥で笑いつつ軽く腰のあたりを叩いてやると、幼さを残したティーブラウンが喜色を滲ませて綻んだ。
くるりと裏返されたホットケーキが、食欲をそそる音を立てて焼けていく。
なるほど、確かに練習してきたらしい。以前気まぐれを起こしたときには無情にもふたつ折りになったホットケーキを無理矢理整えながら焼いたことを思い出せば、相応に感心しても良いところだ。
残りの数枚が焼き上がるのを待つあいだに、カイトは食器棚からナイフとフォーク、それから冷蔵庫で冷やしておいた苺のパックと、たっぷりの生クリームにチョコレートシロップを取り出してトレイに載せる。苺のヘタを取ったあと、ミルクココアを拵えだしたところで隣から「うわぁ……」と小さく慄く声が聞こえてきたので横腹に肘を入れてやった。
「いった!なにするんですか!」
「うるせぇお前のカフェオレもココアにしてやろうか」
「すみませんカンベンしてください」
ふたりぶんのホットケーキを無事に焼き終えた男へ盆を渡し、カイトはホットケーキの重ねられた皿を両方さらってキッチンをあとにした。カチャカチャと、トレイの上の諸々がぶつかるわずかな音が数歩後ろからついてくる。
「……なんか、嬉しそうですねカイトさん」
二月の初旬、今月に入ってはじめてのオフであることを示すカレンダーの横を通り過ぎながら、昴が言った。まっすぐに向けられた声と瞳の温度が心地好い。
「まあな」
男の言うとおり、気分が良いのは確かだ。問いに軽く応えながら、ホットケーキから香るあまい匂いに去年の男の姿を思い出す。ココアやチョコレートの香り自体は子どものころからカイトの生活に深く馴染んでいるものだが、この男とだけ共有するものはカイトがよく知ったそれらとは少しばかり色味が違う。
二月十四日、バレンタインデー。幾らでも例外はあろうが、それでもおよそ一般的には女性から男性へ、義理や情を込めてチョコレートを贈るとされている日のことだ。カイト自身、これまでに数えきれない量の(ファンからのプレゼントなど、スタッフによって回収されてカイトの手に渡らなかったものも当然ながら多くあるから、数えきれないというのは言葉通りの事実である)チョコレートを受け取ってきた。
有名ブランド店のショーウインドウには商戦の命運を賭けた渾身の逸品ともいうべき新作チョコレートがずらりと並び、量販店の催事場にも普段ならば置かれることのない色とりどりのチョコレートが溢れかえる。
そこに含まれた意図がなんであれ、大の甘党である自分には大層都合の良いイベント。とりわけ芸能界に入ってからこちら、新堂カイトにとっての「バレンタイン」がそうした認識の域を出ることはなかった。いまからちょうど季節をひとまわりほど遡り、この男からチョコレートを――それから、宝石箱のような紙箱のなかに押し隠されていたものを受け取るまでは、確かにそうだったのだ。
この男は知らない。
あの日訥々とこぼした「バレンタインじゃない」のひとことが、それを紡いだ声の響きが、どれほどカイトの記憶にあざやかに焼き付いているのかを。この男は、きっと知らない。
陽のひかりの匂いのするあたたかで澄んだものばかりでできていると思っていた男の胸裡には、自分が教えた嫉妬と独占欲が確かに棲んでいる。それを思い返すたび、――どうしようもなく、心がふるえる。
「あれ、イチゴとかのせないんですか?」
運んできたひと揃えをテーブルの上に広げはしたが、それらには少しも手をつけないままホットケーキへナイフを入れようとしたカイトに昴が問う。
「苺はそのへんと一緒にあとで食う」
「へ?」
「これはこのままでいーんだよ」
「……そうなんですか?」
「おう」
「………えーと、じゃあ、これ全部イチゴ食べるためだけに?」
「そーだよ、なんか文句あっか」
「いえ、べつに!」
もとよりそのつもりだったのだ。男の問いにはさらりと応えて、冷める前にと早々にひとくちめを口に運んだ。ホットケーキミックスとココアだけの、やわらかな甘みに歯を立てる。
「バレンタインではない日」が特別なのは、あとにも先にもこの男だけだ。普段なら物足りないと感じるはずの糖度が、いまはひどくあまかった。
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20180204Sun.