あとのまつり 紙袋を持って、天照本部内を歩く。その中に入っているのは丁寧にアイロンをかけたハンカチと、コンビニで買った菓子。先日の任務で借りたハンカチを返しそびれていたため、これから届けに行くのだ。
火曜日は確か彼が当番ではないから、緊急の何かが入っていなければ部屋にいる筈だと目星をつけ、凪鞘班の人間が行き交う棟へと向かう。凪鞘棟へ入るとなんとなく消毒薬のような匂いがすると以前言ったら、多分気のせいだよと笑われたことを思い出して少し口元が緩む。
残業がなければもう終業時間だ。ついでに食事にでも誘おうか。少し気になる店がある。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様。……ん?」
顔見知りの看護師とすれ違い様に挨拶だけしようとして、その手元に巻かれた包帯に気付く。私がそれを見ていることに気付いた相手は、ああ、と頷いた。
「この間、妖刀案件の患者が暴れて死者が出たのはご存じでしょう」
「きみも居合わせていたのか」
話は聞いている、実に痛ましい。確か、看護師が一人と、その患者自身が死亡して……
「ええ。芹賀谷弐段が制圧して下さったので助かりましたが……」
喉がおかしな音をたてそうになるのをなんとか押さえ込んだ。三十年の経験はこんな時でも有効にはたらいた。
──「芹賀谷弐段が制圧して下さった」?
──芹賀谷容が、患者を、殺した?
「……そうか。それは大変だったな」
動揺の最中でも相手が何を言っているかもどう返すべきかもわかったし対応出来たが、この後会う相手にもそれが出来るかについてはまったく自信がなかった。片手に持った紙袋が途端に重くなった気がした。それでも立ち止まらず廊下を歩き続ける。彼のいるだろう部屋まではあと少し。
ああ、私は何をした!
己の患者を手にかけるだなんてこと、医者にとってどんなに辛いことだろう。芹賀谷容という男は鋼のように傷付かない──あるいは柳のように受け流す──心の持ち主だと思われがちだが、そうじゃない。あれだって人間なのだ。傷付かないなんてことがあるだろうか。
私は……私はその男を、まだ傷跡も生々しく塞がっていないだろう男を、「対人戦の可能性がある」任務へ連れていったのだ。妖刀疑いが妖刀事案に移行すれば、妖刀に憑かれた人間との戦闘が発生する可能性はゼロではない。
顔色ひとつ変えずに話を受け入れた彼の表情を思い出す。どこかに違和感はなかったか。気付けるタイミングはなかったか。……恐らくそれはない、彼は本当に隠し事が上手いから。
到着してしまった部屋の前で足を止め、扉にかかっているボードの表示を見る。在室中。ということはもう引き返せない、既に中には気付かれている。恐る恐るノックをすると、どうぞ、と低く落ち着いた声がした。ドアを開き、部屋へと足を踏み入れるとよく知っている香りがした。
「失礼」
「君か。どうした?」
じっと彼の顔を見る。やはりいつもと同じ表情で、そこには何の異変もない。怪訝そうに眉を寄せられたためふいと目を逸らし、紙袋を示す。
「この間借りたハンカチ、返そうと思ってな」
「ああ、気にしなくてもよかったのに。ありがとう」
紙袋を渡し、目的は達成した。あとは、……あとはどうすればいいだろう。
謝る? だが何を? 「きみの傷口に塩を塗るような真似をしてすまなかった」とでも?
謝ったところで傷は消えないし、折角考えないようにしていたことを思い出させるだけかもしれない。自分の罪悪感を少し減らしたいがために、更に彼を傷付けるのか? そんなことは、断じて、するわけにはいかない。
気付けば腕時計を触っていた。典型的な“なだめ行動”だ、彼の目の前でするべきことじゃない。心中で溜め息を吐きながらさりげなく手を離す。それに気付いているのか気付いていないのか、のんびりとした口調で彼が話しかけてくる。
「そうだ、今日はこのまま上がりなんだが、折角だし食事にでも行くかね」
「え」
駄目だ。この状態では余計にボロを出す。
「いや、この後少し用事があるから」
少し突き放すような口振りになってしまっただろうか。罪悪感が判断力を低下させている。
「……すまない」
付け加えた謝罪は一体何に対する謝罪なのか、私自身にもわからなかった。