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    彌騰里児 1.

     その集落へ向かった刀遣いは二人。戻ったのは一人。
     消えた一人の名は、草薙くさなぎあこやといった。

      ※ ※ ※

     立派な平屋建ての屋敷の前に立っているのは二人の刀遣いである。片方は無所属の青年、片方は凪鞘班なぎさやはん所属の年嵩の男だ。それぞれ、あずま久仁昭くにあき芹賀谷せりがやいるるという。
     中肉中背、少し派手ではあるがごくありふれた若者といった風体の東は元緋鍔局ひつばきょく所属であり、その調査能力の高さから今回の任務に抜擢された。失踪した草薙あこやとは親しいというほどではないが良好な関係であり、同じ仕事に関わったこともある。肩にかけた筒型の製図ケースには妖刀が一振り入っており、そこには刀神が宿っているが今は沈黙している。
     一方、日本人離れした長身にシルバーブロンド、彫りの深い顔立ちに髭までたくわえている芹賀谷は見た目通り熟練で、精神科医としての観察眼や交渉能力が選出の理由だろう。彼の妖刀は大振りであるため専用のケース──“駕籠かご”と呼ばれる大型のアタッシュケースに似たそれ──に入れた状態で携帯されていた。
     また、芹賀谷容は草薙あこやの夫でもあり、その仲睦まじさは彼らを知る人間たちの間では周知の事実である。事件当事者の関係者が調査に参加するのは本来であればあり得ず、今回の人選について何らかの意図が働いていることは明白だった。
     ここへ来る道すがら、二人は特に込み入った会話はしなかった。打ち合わせは天照あまてらす本部で既に終えており、特に親しい間柄というわけでもなく、沈黙が苦になるタイプでもなかったからだ。
     ……東はそっと芹賀谷の横顔を盗み見る。落ち着いた、何やら思案しているような表情をしていた。妻の失踪の報を受けた時も動揺した様子はなかったと聞いている。集落から戻った刀遣いに対する面談にも自発的に参加したという。
     その刀遣いは、肉体的にはほぼ無傷だったが精神的にはそうではなかった。“ほうほうのてい”といった様子で戻った彼は、まともに会話が出来るようになるまで半日かかり、会話が出来るようになってからもその発言は要領を得なかった。心身共に頑健たるべき刀遣いにあるまじき憔悴ぶりで、引き出せた情報は僅かだった。
     赤ん坊の泣き声が聞こえる。
     面談の合間にふと沈黙が流れるたびそう訴え取り乱すその刀遣いが精神的に深い傷を負っていることは明らかで、聴取には時間がかかりそうだった。とはいえ聴取が終わるまで調査に着手しないわけにもいかなかった、人間が一人消えているのだ。
     色々な調整の末に芹賀谷と東が捜索任務に投入されたときには、草薙あこやからの連絡が途絶えてからおよそ三十六時間が経っていた。
    「行こうか」
    「あ、はい」
     芹賀谷が屋敷のインターホンを鳴らす。この屋敷が、草薙あこやが最後に向かったとされる場所だった。



    「遠いところご苦労様です」
     芹賀谷たちを出迎えたのは、黒々とした目と白い肌の美しい娘だった。この屋敷で家政婦をしているというその娘は、ほとんど足音のしない動きで二人を部屋まで案内し、主を呼んでくるとその場を辞した。
     部屋の中央にある艶々とした木製の大きな机は勿論一枚板で、年代物だろうが傷や汚れは見られない。欄間には美しい彫刻が施されている。主の趣味が窺い知れる内装をさりげなく確認しているところに足音が聞こえてきたため、二人は姿勢を改めた。
    「ご協力ありがとうございます、天照の芹賀谷です」
    「東です」
    「小布施です、お役に立てるかわかりませんが……」
     屋敷の主である小布施こふせ令二れいじはいかにも地元の名士らしい落ち着いた振る舞いで、刀遣い二人の訪問にも浮き足だった様子はない。芹賀谷はちらと小布施の手元を見てから、口を開いた。
    「早速ですが、草薙と会われた時のことをうかがってもよろしいですか」
    「はい、とはいっても……」
     小布施は少し目を逸らし、困ったように眉を下げる。
    「少しお話をしたくらいですね、三十分もかからなかったと思います」
    「なるほど……」
     そもそも草薙あこやともう一人の刀遣いがこの集落を訪れたのは、この集落でちょっとした事件があったからだった。人間がいつの間にかいなくなり、何日かしてひどく精神的に不安定な状態で戻ってくるという奇妙な事件である。その戻ってきた人々もまた、「赤ん坊の声が聞こえる」と訴えていた。
     こういった怪現象に必ず妖魔が関わっているとは限らないが、可能性がある以上調べないわけにはいかない。事前に察知出来るのは幸運ですらある。事件はまず発生を捕捉しなければ対処も出来ず、知らないものを斬ることは刀遣いにも出来ない。不確かな事件を“妖魔である”と見出だすのが、緋鍔局の仕事である。
     緋鍔局。妖刀を振るい妖魔と戦う天照という組織において、情報という武器を扱う部署。失踪した草薙あこやはその緋鍔局に三十年所属し、その任務に誇りを持っている人物だ。先行調査において、不用意に行動することは考えづらい。
     何かがあったのだ。それを知るために、二人はここに来た。
    「具体的に何を話したかは覚えておられますか」
    「何かこのあたりに言い伝えなどはないかとか、そういったことを。私には心当たりがなくて……」
     柔らかく相槌を打って小布施の話を促しながら、芹賀谷は思考する。
     ──嘘だとは限らないが、彼は少なくとも話すべきことを事前に推敲している。抑揚が安定していて、フィラー……発話の合間に挟み込む「えーと」などの迷い言葉が少ない。
     小布施は芹賀谷のあおい目が己を見ていることに気付いたのか、軽く微笑んだ。天照の職員を前にするのは二度目の筈だが余裕がある。天照職員、特に武器を携帯している刀遣いは民間人に身構えられやすいが、小布施にはそういった様子は見受けられなかった。
     とはいえ他に何かおかしなところがあるわけでもなく、芹賀谷たちはほどほどのところで話を切り上げると小布施邸を辞した。




     2.

    「なんか変な感じですね」
    「ふむ、君はどう感じたんだい」
     小布施邸を出て少し歩いてからそう切り出した東に、芹賀谷は柔らかく相槌を打ち続きを促した。
    「うまく言えないですけど、本当のこと言ってなさそうっていうか……」
     いかにも人懐っこそうな顔立ちの東は、けして人相が良いとは言えない芹賀谷とは対照的だ。あまり影の落ちない顔は若々しく、口振りと相まって幼くさえ見えた。
    「ドラマみたいだなって。言うこと事前に決めてたみたいな」
    「そうだね、その可能性は高い」
    「……もう少し突っ込んだ方がよかったですかね?」
    「あれ以上は出てこないだろう。我々には家宅捜索が出来るわけでもない、他のアプローチを探そう」
     東はなるほどと素直に芹賀谷に従い、だが、なんとなく胸がざわつく気がした。……芹賀谷容は凪鞘班に所属する刀遣いである。純粋に剣術だけを見るなら弐段であり一流だが、調査のプロではない筈だ。こういう状況で主導権を握るような立ち位置ではなく、また──東が知る限りは──他人を引っ張りどんどん先へ進むような人物でもない。
     そっと芹賀谷の横顔を見る。特に違和感はない。妻の失踪で焦っているのかとも思ったが、表情が強張っていたりすることはなく、動揺も見えない。
     “無所属”である東は他人の機微に聡いが、それでも芹賀谷の本心はわからなかった。今まであまり芹賀谷に関わってこなかったからというのもある。冷静で穏やかなベテランの医師、……だが近寄りがたい、というのが東が芹賀谷に抱いている印象である。とはいえ今回の任務では彼の状態も気にかけようと思っていた。なにせ失踪者の夫であり、愛妻家として一部では有名なのだ。
     閑話休題。あこやに同行していた刀遣いから聞き出せたわずかな情報によると、小布施邸にて話を聞いた後は周囲の環境調査をしたらしい。集落は過疎が進み、怪異が発生するような“隙間”が沢山ある。
     元々緋鍔局に所属していた東はその手の勘には優れ、ようやく主導権を取り戻し芹賀谷に指示をすることもあるくらいだったが、結局異常は見付からなかった。二人は畦道で足を止め、思考を巡らせる。
    「きれいなもんですね、“成りかけ”どころか澱みもない」
     妖魔も、妖魔になりかけているものも、妖魔が好むような穢れもない。この集落は静かだ、いっそ不自然なくらいに。
    「おじさんだあれ」
     そこに鈴を転がすような声がする。二人が振り返ると、そこには小学生になったばかりくらいの少女が立っていた。どこか浮世離れした雰囲気をしていて、黒目がちの大きな目が、まっすぐ、じっと芹賀谷を見ていた。
    「こんにちは。おじさんは天照から来た刀遣いだよ」
     芹賀谷は長い足を折り畳むようにしてしゃがむと、出来る限り柔らかく微笑んだ。少女はぱちぱちと瞬きをしてから手をもじもじと遊ばせ、口を開く。
    「おじさん、“いるる”?」
     背後で東が息を飲むのを感じながら、芹賀谷はゆっくりと瞬きをした。
    「そうだよ。誰かに聞いたのかい」
     少女は曖昧に頷くと、まだ舌足らずな口調で説明する。
    「おばさんが、いるるがいたら呼んできてって。これ」
     ごそごそとポケットから何かを取り出し、芹賀谷に差し出す。芹賀谷の掌に乗せられたのは、シンプルな銀色の指輪だった。波間のようなデザインに、控えめにダイヤモンドらしき宝石が光っている。その内側に入れられた刻印を確認して芹賀谷は小さく息を吐いた。
    「おばさんは、どこにいるんだい」
    「あっち」
     少女が指差す方をじっと見てから、振り返って東を見る。何も言葉は交わさなかったが、芹賀谷は改めて少女に向き直るとにっこりと笑いかけた。
    「案内してくれるかい?」
    「うん」
     少女は無造作に芹賀谷の手を引いた。一瞬芹賀谷の指先が震えたが振り払うことはせず、素直に少し前屈みの姿勢のまま少女へとついていく。
     ……幸い、芹賀谷の腰が悲鳴をあげる前に目的地には到着した。少女は人の気配のない空き家風の建物を指差し、ここ、と言う。
    「案内してくれてありがとう。あとはおじさんたちだけで大丈夫だから、遊んでおいで」
     少女は立ち去りかけて、途中で振り返り、芹賀谷を見た。何か言いたげにしているところに芹賀谷が微笑みかけると、小走りに戻ってきて服の裾を引く。
    「なんだい」
    「おばさん、泣いてないよ。だいじょうぶ。だっこしてあげてね」
     それだけ言うと、ぱっと手を離して身を翻し駆けてゆく。その少女の背を見送る芹賀谷は何かを思案している様子だったが、すぐに目を伏せると提げていた“駕籠”を地面に下ろして跪き、ロックを解除した。中から現れたのは黒漆に金の蒔絵が美しい鞘の太刀と、無骨な黒塗りの鞘の脇差だった。そのふた振りを装備し、立ち上がるまでに一分もかからない。
     東も戸惑いながら製図ケースの中から真っ白い脇差を取り出し、用意する。物言いたげなその様子に、芹賀谷のあおい目がそちらを見た。
    「……彼女が、子供を巻き込むことは絶対にない」
     静かに告げる声に迷いはない。
    「じゃあ罠ってことですか」
    「そこまでストレートかはともかく、何者かの意図があることは確かだろう。だが」
     わずかに芹賀谷の目が細められる。すぅ、と東の背が冷たくなった。
    「行ってやろうじゃないか。他に手がかりはないんだ」
     ──狩りをする種類のけものだ。狼とか、豹とか。あるいは鷹かも。これはそういう強くて賢くて効率のよい生き物の持つ気配だ。
     東はこの五十歳を越える男のことを、少しだけ怖いと思った。




     3.

     家の中は殺風景で、家具の類いは一切なかった。ただ外側だけを作ったという印象で、人が住んだことはないだろうと思われた。そして、リビングにあたるだろう部屋の床に大きな穴……地下へ続く階段があった。
    「これを隠すために家を一件建てたのか……」
    「いかにもって感じですね」
     芹賀谷と東は顔を見合わせ、階段へと足を踏み入れた。地下にはかなり広い空間があるようだったが、照明は最低限しかないようで薄暗い。通路の先に扉があり、その前に人影があった。
    「……勝手に入ってくるなんて、少し非常識ではありませんか?」
     小布施邸にいた家政婦である。物腰は穏やかで、邸で会った時と変わらなかったが……その腰に、一振りの刀があった。
    「お帰りください」
    「そういうわけにはいかなくてね」
     ふ、と女は息を吐き、次の瞬間一足飛びに前へ出て放った攻撃を芹賀谷が刀で受け止めた。抜く様はほとんど視認出来なかった。間合いをほぼ変えずに間髪いれず追撃を行うその剣の腕は一流であることが窺えたし、使っている刀は驚くべきことに妖刀──恐らく豊和──であったが、芹賀谷は顔色ひとつ変えず対応していた。そのレベルの高い戦闘に割って入ることは難しく、東はどう動くか迷いながら周囲を見回している。
     剣戟の音が響く。強度の近い妖刀同士──今芹賀谷が抜いているのは己のバディである神が宿った太刀ではなく、豊和である──による戦いであり、この場も特殊な状態ではなく、移動しながらや護衛しながら等他の目的があるわけでもないため、純粋な技術勝負になっていた。
     東は、それを見ていた。冷静に判断した上で下手に手が出せなかったというのもあるが、正直なところ、気圧されてもいた。芹賀谷と女の戦いに隙はなく、刃以外の言葉も交わされていなかった。東にはどちらが上手なのか判断出来なかった。
     ……だが、数分、恐らくは十分もかからないうちに女がふと気迫を散らし間合いから退いて納刀した。芹賀谷がわざとらしく眉を動かす。
    「これ以上やっても無駄でしょう。私ではあなたに勝てないことはわかりました」
    「それでいいのかね」
     女は肩をすくめた。
    「無理なものは無理なので仕方ないですね。命をかけたところで無理そうですし、そこまでする義理もありませんし」
    「では妖刀をそこに置いて。念のため拘束もさせてもらう」
     素直に刀を地面に置き、手を拘束されるのを受け入れる女。芹賀谷はその表情をちらりと確認してから、扉の方を向いた。
    「この先に何があるか聞いても?」
    「儀式をする場所らしいです。捕まえてた女の人を連れてったみたいで、」
     女の言葉が終わる前に、芹賀谷の手が動く。鍵ごと両断した扉を蹴倒し、中へと踏み込んだ。
     ……香が焚かれている。どこからか赤ん坊の泣くような声が聞こえる。部屋の隅の影はちらちらと揺れ、この部屋を照らす光源は電灯ではなく火の類いであることがわかる。広間というには狭いが、一室というには広い。その中央にあるものを見て、芹賀谷がわずかに目を細めた。
     それは手術台のようにも見えたし、生け贄を置く祭壇にも見えた。赤い布が敷かれた台の上に、女が……草薙あこやが横たわって手足を紐で固定されている。襦袢のようなものだけ着せられており、白い布が薄暗い中に浮かび上がり生々しく不吉である。その枕元には刀置きがあり、一振りの短刀が置かれていた。
     ……本来であればすぐにでも駆け寄りたいところだろう芹賀谷の足をその場に留めさせているのは、台のすぐ脇に立っている男の存在だった。
     小布施令二。その男は拳銃を持ち上げたところだった。
    「おやおや」
    「投降しろ」
     小布施は口元だけで笑い、銃口を芹賀谷に向ける。銃口は塞がれておらず、少なくとも合法のモデルガン等ではないようだった。
    「ここまで来るとは思っていなかったな。こうなってはこのまま帰すわけにはいかない」
     どこか芝居がかった、熱に浮かされるような口振りである。……赤ん坊の泣くような声が、している。
    「続けて刀遣いが失踪するなんてことになったら、どちらにしろ大規模な捜査が入る。あんたはもうこの時点で詰んでるよ」
     東がそう言ったところで小布施の振る舞いは変わらない。薄笑いすら浮かべて喋り続ける小布施とは裏腹に、芹賀谷の表情はほとんど動かず、台に縛り付けられているあこやを見ていた。
    「神を作るためだ、なんなら天照だって目を瞑るだろう」
     小布施はあこやの枕元にある短刀を示す。
    「それはもう“成り”かけている。後は最後の一押しだけだ」
     ──赤ん坊の声は、それから聞こえている。
    「“核”を用意しなければならなくてね。大人では成功の気配すらなく失敗したし、子供は惜しいところまでいったがやはり失敗だった。ならば、もっと初期の……胎児の段階でならどうだろうと思っていたんだが」
     小布施の手が、まだ肉付きの薄いあこやの下腹部を撫でる。蛇が這うような動きだった。
    「刀遣いの女、それも妊婦が手に入るとは。神の采配に感謝するよ」
     芹賀谷がわずかに目を見開く。文字通りの意味で“目の色が変わった”。
     次の瞬間何が起きたのか、すぐ近くにいた筈の東にも見えなかった。瞬きをした一瞬の内に芹賀谷が小布施の前に移動し、既に刀を振るった後だった。
    「……!」
     小布施が銃を取り落とし、己の手を握って苦悶の声をあげる。鮮血が床に飛び散って、その中に転がった小さな肉片を──右の親指だ──芹賀谷の靴が無造作に踏んだ。
    「……許しを請うつもりならやめた方がいい、私はお前の神ではない」
     よく手入れされた弦楽器の音に似ていると彼の妻が評するその声が、この時だけ、彼女が聞いたことのないだろう響きをしていた。小布施が何か言う前に蹴り倒し、胸に足を乗せる。言い訳も悪態もその口にすることすら許さず足に体重をかけながら、低い声で告げる。
    「東くん、拘束を」
    「あ、はい!」
     我に返って駆け寄った東が、小布施を拘束する。そこで芹賀谷は漸く足を退け、納刀しながら振り返った。
     炯々と光る、紫に近いようなあおい目。それがあこやを見て、一瞬苦しげに表情を強張らせてから手を伸ばした。
     拘束を解き、ジャケットを脱いで羽織らせ、あの男の流した血が頬に飛んでいることに気付いてハンカチで拭い、それから抱き寄せる。その腕は震えこそしていないものの固く、縋るようだった。
    「あこや」
     消え入りそうな囁き。
    「……あこや」
     肩口に顔を埋めて深呼吸をし、それからもう一度。今度は幾分力のある声だった。
    「痛むところはないかい」
    「ああ、平気だ。どうしてきみがここに……」
    「無理を通した。……無事で、よかった」
     あこやはどこか困惑しているような、驚いているような目で芹賀谷を見ている。彼がこんなところにいる筈がないという驚きは、単純な時間や場所に対してではなく、“芹賀谷容が特定の個人のために規範から外れたり、感情的になる筈がない”という思考によるものだった。
     ──彼は、“みんなのため”に生きている。
     あこやは芹賀谷容の善性と高潔さを愛している。彼が誰に対しても公平で、誠実で、愛情深い人間であることを知っている。自分のことを深く愛してくれていることも事実だが、彼は人間そのものを愛しているから自分を特別扱いすることはない、有事には自分の元へ駆け付けるのではなく無辜のひとびとのために駆けていくのだろうと思っていた。自分には力があり、彼が守るべき弱いものは他にも沢山あるのだから、それが正しい行動だと理解してあきらめていた。
     だが芹賀谷が、“あの”芹賀谷容が他人に対して怒った。恐らくは心の底から。妻に手を出された、というそれこそ神話の時代からあるような原始的な理由で。この状況にあこやは驚き戸惑い、……そんな自分にショックを受けた。愛されているのに、愛されていることを知っているのに、“この男は私のために心を動かさない”と思っていた。これはひどい不実だ。
     あこやは芹賀谷の背に腕を回し、そっと撫でた。自分は愛されているのだと強く感じて苦しいくらいで、細く息を吐いた。
    「帰ろう、あこや」
    「……ああ、」
     当然のような所作であこやを抱いたまま立ち上がった芹賀谷の肩越しに、あこやと東の目が合う。
    「あ、俺のことは気にしなくていいですよ」
    「芹賀谷。歩ける、降ろしてくれ」
    「縛られていたんだ、まだ手足に力が入らないだろう。転んではいけないからね」
    「いや、しかし」
    「医者の言うことは聞きなさい」
    「……ずるいぞ……!」
     結局あこやは抱きかかえられたままその場を脱出し、地上に出てからようやく自分の足で歩くことを許されたのだった。




     4.

     帰投後、精密検査を受けたあこやの体に異常はなかった。睡眠薬を投与された形跡はあったがそれ以外に何か手を加えられた様子もなかった。だが、念のため二日間の入院をすることとなった。
     それを告げる芹賀谷はあこやのベッドの脇に置いた椅子に腰掛け、彼女の手を柔らかく握っていた。
    「容」
    「ああ」
     芹賀谷の手にはほとんど力が込められておらず、表情は穏やかなものだったが、あこやは苦しそうに眉を下げてもう片方の手を伸ばした。
    「ごめん」
    「君のせいではないよ」
    「それでもだ。……容」
     再度呼ばれ、芹賀谷はそうっとあこやの手に頬を寄せた。頭を抱えるようにして抱き寄せられても、抵抗しなかった。そのままあこやの体に腕を回してきつく抱き締め、ゆっくりと息を吸い、吐く。
    「……そうだ」
     体を離し、ポケットから何かを取り出す芹賀谷。指輪である。一度きちんと洗浄し、輝きを増しているようにも見えるそれを、あこやに見せる。
    「返すよ」
     あこやの手を取り、指輪をその指に通す。それからそっと指先に唇を寄せた。
    「……君が望んでくれるなら、私は何だって出来るんだ。あこや、私は君を愛しているし、君のために生きていける」
     本当だよ、と囁くように告げてから芹賀谷はあこやの目を見た。濡れたように光るあおい目に、あこやはなんだか泣きたいような気持ちになって芹賀谷の手を握り返した。
    「ごめん、……ごめんなさい、容、私は」
    「君が謝ることなんて何もない。私の振る舞いが君にそう思わせたのだから」
     ゆるゆると頭を振って、あこやは手から力を抜いた。
    「だって私は知っていたのに、きみが私を愛してくれていることを知っていたのに……諦めるのは、きみへの不実だ……」
    「あこや、大丈夫」
     芹賀谷は優しくあこやの額に口付けて、頬を指の甲で撫でる。
    「私たちは未熟だ。知識や経験ばかり増えて、その癖自分のこころが儘ならない。……それでも私たちは一緒にいられるし、家族になれるって、君が私に教えてくれたんだろう?」
     目尻に、鼻梁に、頬に。幾つも口付けを降らせて、芹賀谷は微笑んだ。
    「……愛しているよ、あこや。君は、どうだい」
     あこやは泣き笑いのような表情で、もう一度芹賀谷の手を握った。
    「愛してる。きみを愛してる、容」
    「……ありがとう」
     額と額をくっつけて、祈るように目を閉じる。ふたつのいびつなオレンジの半分ずつが、懸命にひとつになろうとしていた。



     天照附属病院の待合室で、テレビのニュースを眺めている青年がいた。
    「元天照本部峰柄衆所属・椎名徹元肆段が、廃棄する筈の人工妖刀を一本外部に流出させたとして、業務上横領及び妖刀管理法違反の疑いで起訴、懲戒免職処分を受けました。なお、流出した妖刀については既に回収されているとのことで──」
     途中で興味をなくしたのか青年が立ち去った後、誰もいない待合室でニュースが流れ続ける。
    「──次のニュースです。本日、■■村の空き家で子供の遺体が発見されました。七歳前後の女の子で、死後数週間は経っていると見られ、警察が身元の確認を急いでいます」
    新矢 晋 Link Message Mute
    2023/09/13 14:05:24

    彌騰里児

    #小説 #Twitter企画 ##企画_刀神 ##いるあこ
    ある集落で一人の刀遣いが失踪する話。

    草薙あこや@自分
    東久仁昭@自分
    芹賀谷容@ちゅんさん

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