もう見ない夢の話「ただいま」
「お帰り」
玄関先でのキスはいつものことだが、飽きることはない。女にしては長身とはいえ相手より頭ひとつぶんほど背が低いあこやからキスをしようと思うと相手が屈まないといけないのだが、毎回一切のもたつきなくキスは実行されている。
「……? 何を持ってるんだ?」
相手が手を背に回していることに気付いて怪訝そうに瞬きをしたあこやに、彼女の愛しい夫である彼、芹賀谷容はにっこりと微笑んでから手を前に出した。そこには小さな愛らしいピンク色のバラをメインにした花束が握られている。
「今日は記念日だからね」
ぱっと表情を明るくしてそれを受け取ったあこやに、もう一度キスが降ってくる。くすくすと笑い合いながら何度か鼻先をくっつけるようにキスをして、二人はようやくリビングへと向かった。
夕食は馴染みのレストランのテイクアウトで、あこやも今日は“特別なディナー”を意識していたのだろう。酒は用意しておらず、二人は炭酸水で乾杯した。
ゆっくりと夕食を終えた後、ソファであこやを膝の上に座らせてキスをしたり触れたりする容の表情は柔らかい。あこやもまた、愛されている猫のように安心しきった様子で身を預けていた。
三十年。ここに来るまで三十年かかった。出会った頃は十九と二十、二人とも子供だった。無邪気に遊んでいたあの頃、あのまま何の問題もなく想いを実らせていたらこうはならなかっただろう。
過去に想いを馳せることが一切ない、とは言えない、二人とも。あの時ああしていたら……をお互いに抱えていて、傷付いて、それでも“今”に誠実に向き合っている。
今、幸せなのだ、どうしようもなく。怖いくらいに、幸せなのだ。奇跡のような、夢のような日々がここにある。だがこれは夢ではなく、覚めることはないのだと知っている。
「あこや」
容があこやの手を握り、そっと薬指に口付ける。指輪を贈ると決めた時の気持ちも、一緒に選んだ時の気持ちも、忘れたことはない。教会で、幸せそうに微笑んだ彼女が、この世で最も美しいものに見えたことも。
「……容」
あこやが囁くように愛する人の名前を呼んで、頬をすり寄せ、口付ける。これを許される喜びに、何度でも胸が一杯になる。愛することを許されて、愛していることを信じてもらえるのがどれほど嬉しいか。
幸福感に満たされてうとうとし始めたあこやに、容が微笑んだ。頬をそっと撫でてから一旦膝から降ろし、優しく頬に口付けを落としてから囁く。
「もう休むかい」
「うん……」
眠たげに立ち上がろうとしたあこやを軽々と抱き上げ寝室へと運ぶ容。ベッドへ丁寧にお連れして、己も隣に入ると腕の中へ相手を迎え入れる。何やら不明瞭に呟きながら身をすり寄せてくる愛しい猫に、おやすみ、と囁いた。
■■■
──夢を見ている。
気付くと廃墟のような場所に立っていた。人の気配はなく、妖魔の気配もない、と思ったところで苦笑した。夢の中でまで妖魔のことを気にしている。
とりあえず、と歩き始めると周囲の解像度が徐々に上がる。どうやらここは元々は民家だったのだろう、生活感の残る家具が目についた。複数の雰囲気が混在していることから、住んでいたのは単身者ではなく家族ではないかと感じた。
子供が、いたのかもしれない。
直感的にそう思った時、上が気になった。探してみると、ボロボロの階段があった。普段であればこんなところに不用意に足を踏み入れたりはしないが、これは夢だ。私はほとんど迷わず二階へと向かった。
二階は散らかっていて、一番手前にある部屋の扉だけがなんとか開きそうだった。扉を開け、中へと入る。
子供部屋だ。
ただ、置かれているものは無作為というか、統一感がない。ぬいぐるみの横にミニカーがあり、机の上には教科書と漫画。子供の趣味や嗜好が見えてこない。なんだか居心地が悪いような気がして、外に出ようかと思ったところで足が何かを蹴った。“自由帳”と書いてあるノートだった。
拾い上げてページをめくると一ページめに一言、「わからない」とだけ書いてあり、それ以外は白紙だった。
──突然、強い罪悪感に襲われた。
理由のわからない強い感情に、困惑した私は部屋を出た。廃墟の中が、先程より暗くなってきている気がした。外に出よう、と思って階段へ戻ると、階段が途中で消えていた。二階だけ空中に浮かんでいるような状態だ。消えた階段の先は暗く、何もない空間に見える。
どうしたらいいかわからなくて途方にくれかけた私の耳に、声が届いた。
「あこや」
優しい声。いつも聞く、愛しい声。
「こっちだ」
その声は階段の先から聞こえる。階段で立ち尽くしている私を、呼んでいる。
「見えないだけだよ。道はある」
何も見えない、暗いところから聞こえる声。不思議と不安感はなかった。あれは間違いなく彼の声だと思った。
「そこから出ておいで」
途中で消えている階段を見る。その先の暗い空間を見る。それから、ゆっくりと足を空中に踏み出した。足の裏が、確かに地面の感触をとらえたところで、
「ほら、もう大丈夫」
■■■
──夢を見ていた気がする。
目の前には安らかな表情で眠っている夫がいて、あたたかくて、再びあこやは目を閉じた。
大丈夫、と、最後に聞こえた優しい声だけを覚えていた。