月を捉える 天気予報によると今夜は快晴。月がよく見えるだろう。
「……これから大雨になると聞いたから」
芹賀谷容に嘘をつく。こんなに無意味なことがあるだろうか。月は明るく、夜空には雲ひとつない。夜の中に浮かび上がる容は、瞬きの拍子にでも消えてしまいそうだった。
「そうか、なら、仕方ないな」
諦めたような答えだった。あこやはぐっと言葉を飲んでから、一歩踏み込んだ。細い手が、容の手を掴む。振り払われない。そのまま手を引いて歩き始めたあこやの後頭部を眺める容の眼差しはどこか迷うように動いた後、そっとうなじのあたりで落ち着いた。
白い。月あかりの下ではその肌は人形のように見えた。だがその女は人形などではなく、少し強すぎるくらいに容の手を握って足を進めているのだ。
車の助手席に容を押し込め、走り出す。運転は丁寧で、車内は静かだった。会話はひとつもなかった。慰めの言葉など無為で、ただそこには月も黙り込むような空気だけがあった。
交差点が近付いてくる。そこで、あこやが静かに口を開く。
「芹賀谷、うちに来ないか。いい酒があるんだ」
ふつうなら、容はこんな誘いには乗らない。
「……それもいいね」
だが返ってきたのは肯定の言葉で、あこやはそっと唇を引き結んでから自宅の方向へハンドルを切った。……彼を乗せたまま自分の家へ向かうのは、初めてだった。
草薙あこやはマンション暮らしである。それなりに立派な、収入に相応しいランクの部屋に住んでいる。その部屋へ招き入れられた容は、反射的に部屋の様子を観察していた。この状態でも、それは彼にとって呼吸をするような行為だった。
物の少ない部屋である。あまり家具にこだわりがある様子には見えないが、そのせいで部屋の一角に立派なレコードプレーヤーとコンポが置いてあるのが目立つ。その近くにある棚にはCDやレコードが納められているようだった。
「今用意するから、そこで待っていてくれ」
「ああ」
勧められるままリビングの机についた容は、自室ではない、他人の部屋の空気に不思議と落ちつかなさを覚えることはなかった。……この部屋は、そう、あこやに似ている。
あこやが持ち出してきたのはウイスキーで、テーブルに形の違うふたつのグラスと瓶を置き、一度戻ってナッツとドライフルーツを持ってくる。いつもと同じ態度で、いつもと同じ声で、いつもとは違う場所で──バーではなく、レストランでもなく、圧倒的にプライベートな空間で──酒を酌み交わす。明らかに領分を踏み越えているのに、それを正す余裕が今の容にはない。
ほどよく酔いが回り、ソファに移動しぽつりぽつりと話しているうちに容の反応が鈍くなり、あこやはそっとその頭を自分の肩にもたれさせた。抵抗はわずかにあったが意味をなしはしなかったし、じきに寝息が聞こえてくる。あこやはそっとその体を抱き寄せて、己の膝で上半身を支えるようにして横たわらせた……それは、慈悲の像に似ていた。
優しく前髪を指で梳いて、その顔に色濃く刻まれた疲労の色に気付いてしまう。なんとはなしに触れた手が、あの時あんなに力強く抱いてくれた手が、こんなに弱々しい。
──私がすべての傷から守ってやれればいいのに、彼はきっとそれを望まない。
──だからせめて、そうだ、「健闘を称える」くらいさせてほしい。
あこやは何年もの時を経て、あの時の容の気持ちを思い知った。
深夜、容は不意に目を覚ました。寝ていたことにすら気付くのが遅れた。ゆっくり起き上がると、知らないにおいに、知らない景色。頭は大分冷えていて、冷静に己を顧みる余裕が出てきていた。体が軋むような心地になりながらソファの上で起き上がるとかけられていたブランケットが滑り落ち、目の前のテーブルにメモが置いてあることに気付く。
──玄関向かって右隣の部屋にいる。
丁寧な文字。彼女の人柄をあらわすようなどこか硬くて教科書のような文字が、容は嫌いではなかった。その記述通りの場所へ向かい、確かに向こう側に人の気配があるその扉を控えめにノックする。すぐにその扉は開かれた。
「芹賀谷、」
「すまない、少し眠ってしまったようだ」
「気にするな。もう今日は遅いし泊まっていくといい」
「いや、帰るよ」
わずかにあこやの眉間に皺が寄る。
「もう終電はないぞ」
「タクシーを呼ぶ」
「容」
何年ぶりか──下手をすると何十年ぶりか──の呼び方で。どこか困ったような顔で。
「……今のきみを帰したくないんだ」
何かに耐えるような声だった。容は少し黙ってから、あこや、と囁き、それから小さく微笑んだ。
「まるで愛されているように思ってしまうよ」
あこやはその言葉に一瞬怯んだように見えたが、引き下がりはしなかった。ただ、瞳の奥にある湖に細波が立った。
「今さら言わないといけないのか?」
「今さら言ってはいけないんだ」
「わかっている癖に」
「……そう怒ってくれるな」
容は緩く眉を下げた。困ったような、あるいは……怯えるような声だった。
「もう君を傷付けたくない」
その言葉はきっと容の本音だった。彼が彼女を愛せないとすれば理由はただそれだけだった。強く、脆い、美しいガラスの彫像。傷付けてしまうというおそれと、手放さなければならないというあせりと、離れたくないというのぞみが彼を引き裂こうとしていた。今までも、何度も。
「手遅れだ」
容のおそれを切り捨てるように厳然とそう言い放ったあこやは、泣くのでもなく、笑うのでもなく、責めるのでもなく、容を見詰めた。
「きみ以外に傷付けられたくない」
容は目をわずかに瞠った。……それから何かを諦めたように、認めたように、苦笑した。
「……とんだ殺し文句だよ、全く」
一方のあこやはと言えば、なにやらごちゃごちゃと“人間が生きていくにあたって傷は避けられないこと”“傷付く傷付かないより重要なのはどう傷付くか、何に傷付くかであること”などを述べているがこれが照れ隠しめいた話題のすり替えだということは容でなくてもわかるだろう。
「あこや、これはシンプルな話なんだ」
噛んで含めるように、落ち着いた口調で。あおい目が、そこでようやくあこやの目を見た。
「私は君を愛している」
ひゅ、とあこやの喉が鳴った。手が落ち着かなげに持ち上げられ、また下がる。それを眺めながら、ただそれだけのことなんだ、と静かな声が夜を揺らす。
「容」
少しだけ、ほんの少しだけその声は震えていた。容を見るあこやの目は期待と不安で揺れている。普段であれば鋭く厳しい目が、容といる時はその光を和らげる目が、今このときだけ不安げに瞬いている。
「……愛してるよ。私だって、どうしようもなく、きみのこと」
返されるのは短い答え。
「知ってるよ」
その言葉を聞いて、あこやはくしゃくしゃと笑った。
「……本当に救いようのないばかだなあ、私も、きみも」
体の力が抜けたのか、扉にもたれかかろうとしたあこやに、容が両腕を広げた。
「あこや」
ゆっくり二度瞬きをしてから、あこやはその腕の中へと静かに収まった。あたたかくて、いいにおいがして、どうしようもなく落ち着いてしまう場所。
「いるる、」
今まで聞いたことがないくらい、甘えるように震えた声。それを聞いた容は目を細め、腕の中にいる愛しい人へ覆い被さるように顔を寄せ、口付けた。
触れるだけのそれを、何度も。最初はおずおずと受け入れるばかりだったあこやも、自ら唇を寄せるようになる。いつしか触れるだけでは足りなくなって、唇が舌で割り開かれる。拒むわけもなく、息遣いが熱を帯びた。
「……あこや」
一度唇を離し、見下ろす。息継ぎがうまく出来なかったのか、それともそれ以外の理由か、呼吸を乱しながら容を見上げるあこやの目は濡れていて、唇はまだ物足りなげに薄く開いている。
「君は美しいよ、愛してる」
なにか答えるより先に再び唇が塞がれた。