桜の下で 春の嵐は過ぎた後。虫も目覚めているし、天照の敷地内にある桜はもうこぼれ落ちる寸前で、雨でも降れば一気に散ってしまうだろうといった様相だった。近くの芝生やベンチは毎年この時期は休憩や昼食の人気スポットだが、その日はたまたま空いていたので私はカフェオレを片手にベンチへと腰かけた。最近一気に温かくなって、周囲の人間も慌てて衣替えを始めているようだ。私も少し首元が汗ばんでいるのを感じ、溜め息を吐いた。
「あこや」
低く優しい、よく手入れされた楽器のような声。その声を聞いただけで嬉しくなる自分に、少しむずがゆいような笑いたいような気分になる。振り返ると、長身の男がゆったりとした所作でこちらへ歩み寄ってくるところだった。
——私の愛。この世でいちばん美しい生き物。
彼は柔らかく目を細めると、やあ、と私に微笑みかけた。
「花見かい」
「きみもどうだ」
「そうだな、少し付き合おう」
隣に腰かけた彼にもたれかかりたくなるが、休憩中とはいえ職場である。私が少し身動ぎしたことに気付いたのだろう、カフェオレを持っていない方の手、ベンチの上に置いていた方の手の甲を彼の指先が撫でた。婚約指輪を掠め、軽く指を握ってから離す。
「見事だな」
見上げると、桜と目が合うような気持ちになる。桜は下向きに咲くことが多いから、余計にわれわれの目を楽しませるのだろう。薄紅色の花が咲きほこっている様は春を喜んでいるようで、だがこれもじきに散ってしまうだろうことを考えると物寂しくも見える。ひら、と一枚こぼれ落ちたはなびらは涙をこぼす様にも似ているなと思った。
「ああ、綺麗だ」
隣を見ると、彼とも目があった。あおく穏やかな目がこちらを見ている。
「……きれいだ」
もう一度繰り返す彼の声はたっぷりと甘い響きを孕んでいて、私は思わず口ごもるともう一度桜を見上げた。頬にそっと己の手の甲を当てると、彼が小さく笑うのが聞こえた。
不意に、ざあっと風が吹いて、はなびらが降ってくる。思わずぱちぱちと瞬きをして手をかざすと、するりとその手首に彼の指が回った。どうした、と言うより先に軽く引き寄せられ、頬に熱が触れる。口付けられたのだ。
「容」
「なんだい」
「職場だ」
「そうだね」
とても綺麗だったから、と悪びれる様子もなく言う彼を詰ろうにも、嬉しくなってしまっている私も同罪だ。口ごもった私の耳元に擽るように触れてから、彼は立ち上がった。
「私はそろそろ戻るよ」
「そうか。私はもう少しここにいる」
立ち上がった彼は、私を見下ろすと一度瞬きをしてからわずかに首を傾げ指先を持ち上げた。
「花びらがついてる」
「え」
示されたあたりを指で梳くが、取れていないらしく彼はくすりと笑った。すいと伸ばされた手がわずかに私の髪に触れ、少し愛でるように撫でたあと離れてゆく。
「ほら」
長く骨張った指が、薄紅色の小さなはなびらを摘まんでいた。無造作に手放され、ひら、ひら、と地面へと落ちていくそれをなんとなく目で追う。地面に先に落ちていたはなびらたちは踏み荒らされ汚れていて、その上にまだきれいなはなびらが落ちた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
去って行く彼の後ろ姿、揺れる白衣の裾。建物に入っていくのを見送ってから、カフェオレに口をつける。
少し砂糖が少ないな、と思った。