雨になる 幸せだ。これ以上何を望めばいいというのだろう。……なんていうのは欺瞞だ、私たちは幸せではあるが、歪んでいる。そんなこと、私たちが一番わかっている。
彼は私を愛している、そこに疑いの余地はない。私に全霊で愛を注いで、愛する喜びを感じてくれている。……問題は、私の愛を、私が差し伸べる手を、彼がやんわりと振り払うという不均衡が起きてしまっていることだ。
拒まれているわけではない。だが、線を引かれている。それに私が気付いて傷付いてしまうことに、彼も気付いてまた傷付いている。不毛だ、こんなことをいつまでも続けているべきではない。
彼を暴きたいわけじゃない、その引いた線も踏みにじりたくない。だけど容、私だってきみを抱き締めて寄り添いたいし、きみを幸せにしたいんだよ。
……ソファでうとうとしてしまっていた。かけっぱなしのCDが何周したかはわからない。あくびを噛み殺しながらCDを停止し、伸びをする。
こうして彼の家で彼を待っている時間が、好きだし、苦手だ。ここにいるとどうしても色々と考えてしまうから。この部屋はまるで彼自身のようで、居心地がよくてきれいで、そこに少しずつ私の物が増えていくのがなんだか落ち着かないけれど嬉しいような照れくさいような気持ちになる。
しんとした部屋を広く感じて、ソファの上で膝を抱えた。残業はなさそうだと連絡が来ていたから、きっともうすぐ彼は帰ってくる。……早く会いたい。色々考えても結局最後はそうなる、私は彼のことが大好きで仕方なくて、だからこそ、このいびつさをどうしたらいいのかもて余しているのだ。
そのとき、チャイムの音が響いた。
途端に気分が上向くのだから私ときたら現金で、思わず笑ってしまう。足早に玄関へと向かって扉の向こうをモニターで確認し、それから開けた。
「おかえり」
ただいま、と告げる彼が笑ってくれるのが嬉しい。差し出された袋を受けとると、中にテイクアウトの総菜類が入っている。少し違和感を覚えて彼を見る。顔色が悪い、ように見えるが指摘してもいいものだろうか。彼は……弱みを晒すのがひどく苦手だ。
ふと、彼が苦笑する。
「今日は、頭痛がひどくてね」
予想外の台詞に、戸惑う。彼が自ら不調を口にした。もしかして余程悪いのか、と思って思わず手が伸びた。そっと頬や髪を撫でる。病院へ連れて行くべきかと迷うが、彼が問題ないと言うからとりあえず保留した。
「……あこや」
私を呼ぶ声が、どこかいつもと響きが違う。そのうえ、彼がそっと私の肩に頭を預けてきた。どうした、と出来る限り穏やかな声を出す。
「私の話を、聞いてくれるか」
彼の言葉に、きゅ、と心臓が震えたような気がした。
「…………聞かせてくれるのか」
聞いて欲しい、と囁く彼の声は震えていて、どちらからともなく私たちは手を繋いだ。
彼がその身の内に飼っていた孤独と傷と悲しみ。私にはずっと隠されていたもの。それを差し出す彼の手は、きっと震えていた。
一人で行かねばならないのだと信じている彼が私へ手を伸ばすには、どれほど勇気がいっただろうか。その胸をどれほどの痛苦が襲っただろうか。
「……私を離すな、容」
一度告げた言葉を、もう一度繰り返す。彼を少し強めに引き寄せて、抱き締める。その手が私の背に回ったことに、泣きたくなるくらい安堵した。感じる鼓動と息遣い、体温、匂い。ここにいる。彼はここで、私の隣で、生きている。
私たちが
刀遣いである限り、傷は増えるだろう。それを隠すことだってあるだろう。悲しみは消えないが、それでも私たちは互いを慈しみ、寄り添い生きていく。こわいゆめを見ないように抱き締めあって、眠りにつくのだ。
私たちの悲しみは雨になる。消えない悲しみを抱いていることは絶望ではなく、抱き締めあう私たちは互いの悲しみごと私たちを愛する。
私たちの悲しみは雨になる。雨は大地を潤し、花を芽吹かせる。咲く花の名前はまだわからないけれど、確かに花は開きかけている。
私たちの悲しみは雨になる。
雨になる。