懺悔 ヨハネ・フライシャーがその狭い部屋――中央に薄い壁のような衝立があり、こちら側と向こう側に椅子が一脚ずつある――の中にこもりはじめてから半日ほどがすぎている。
告解室、ゆるしの場所……様々に呼ばれるその部屋で罪の告白を聞く役割は本来ヨハネのものではなかったが、担当する筈だった聖職者の都合が悪くなったため、急遽出番が回ってきたのである。
今となってはここへ訪れるのは――大半の人間は意識を失っている以上――聖職者くらいであり、彼らは人々の希望にならねばならない重圧や信仰への迷いなど、様々な苦悩を抱えている。
「……あわれみ深い父は、御子の死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が務めを通して貴方にゆるしと平和を与えてくださいますように。私は父と子と聖霊の御名によって、『貴方の罪を許します』」
……今日何人目かの信徒を送った後、ヨハネは伸びをひとつした。既に月は高く登っている。告解室から出ようとしたヨハネは、教会の扉が開く音を聞き動きを止めた。足音がこちらへ向かってくるのを聞いて再び椅子へと座り直すと、告解室の中へ何者かが入ってくる気配がした。
椅子に腰かける僅かな軋み。ヨハネは姿勢を正すと祈りの文句を唱えてから、今日一日ですっかり慣れた様子で促しの言葉を口にする。
「……では、回心を呼びかけておられる神の声に心を開き、神の慈しみに信頼して貴方の罪を告白して下さい」
衝立の向こうで身じろぎをする気配がし、低い声がする。
「……私は聖職者の身でありながら、神の愛を疑いました」
ヨハネの目が細められる。懺悔の内容にではない、聞こえてきた声にである。ごくありふれた男性のそれだが、どこか掠れているその声をヨハネはつい最近どこかで聞いたことがあるような気がした。
「私は……年前のあの日から、神ときょうだいの為に尽くしてきました。いと慈しみ深い神は私の罪を許すだろう、神の慈悲深さを信じるべきだと己に言い聞かせてきました。ですが」
そこで声は一度途切れ、なにかを堪えるように長く息を吐く音がした。
「許されるとは、思えない……!」
ちゃり、と鎖が擦れるような音がしたのは、男がロザリオか何かを手繰ったからだろう。声は激情を押し込めたように震え、……その瞬間、ヨハネは背にナイフを当てられたような感覚をおぼえた。
――俺はこの声の主を知っている。
男は……クレイン・オールドマン神父そのひとは、衝立の向こうにいるのが己の後輩であること――こちらの正体に気付いたこと――など知らず、懺悔を続ける。
「天の国の扉は私には開かない。その恐怖が私の魂を腐らせる。神の愛を信じられなくさせる。私は……」
ひゅう、と喉が鳴った。
「神を愛しています。隣人を、きょうだいを愛しています。それなのに……自分は愛されている(ゆるされている)と信じることだけが出来ないのです」
ロザリオを手繰る音は止まない。一度咳払いが聞こえ、再び姿勢を正した気配がする。
「……罪を告白しました。許しを、……許しをお願いします」
「……、……貴方の献身を主は見ておられます。貴方が弱きもののために剣を取り、真摯に務めを果たすことこそ償いとなるでしょう」
ヨハネは乾いた喉へ唾液を送り込み、慎重に言葉を選んで改悛を促そうとした。その言葉に偽りはなく、年嵩の先輩神父ではなく迷える信徒に向けるそれだった。
「待って下さい」
だが、不意にクレインがその言葉を遮る。声はひどく冷えており、ヨハネは体を強張らせた。
「私は、己が『実働部隊』であると言った覚えはありません」
――しまった、とヨハネは内心自分を叱咤したが、平静を装い言葉を続ける。
「……それでは、神の許しを求め、心から悔い改めの祈りを唱えて下さい」
祈りの言葉は聞こえない。衝立の向こうで気配は微動だにしない。時間にしてほんの数秒だろうそれが、ひどく長く感じられる。
「……ヨハネ?」
語尾が上がってはいたものの、ほぼ確信を抱いている問いだった。暫くその場に沈黙が流れ、不意に大きな音が響いた。椅子が蹴倒され、次いで扉が勢いよく開き、大きな足音が遠ざかってゆく。
完全に足音が聞こえなくなってから部屋の外へ出たヨハネは開け放たれたままの教会の扉を厳しい表情で眺め、その手前に落ちていたものに気付いて拾い上げた。
使い込まれた、ロザリオだった。