よい靴の話 男が走っている。暗い緑色の目をした男である。手入れの行き届いていない荒れた石畳を蹴る足は一切危なげなく、躓きもせず、軽やかに動いていた。とはいえ走り始めてからそこそこの時間が経過しており、男の体力は消耗してきていた。
――しかしそれにしても、と男……クレインは思考する。
走り続けてきた時間を考えると、妙に足が軽い。靴を新調してからというもの、足元の安定感が増した気がするのである。……目の前に迫った壁にひらりと飛びつき足をかけ乗り越える。そのまま壁の向こう側へ張り付いて、クレインは息を整えた。
近付いてくる気配――腐り果てた魂の匂い――に不快げな表情を浮かべ、外套の内側から投擲用のナイフを取り出す。何かの羽ばたく音が頭上へ至り日が翳った瞬間、そのナイフを頭上へ投げた。
「ギィッ!」
鳥のような、赤子のような鳴き声。びたんと地面に落下してきたのは、鳥と猿のあいのこのような生き物であった。その翼にナイフが貫通している。
クレインはその生き物を足で踏んで動きを封じると、翼をむしり取った。ぎゃあぎゃあと不快な鳴き声が響き渡るが気にもとめない。
「爪はなし、風切り羽根は……そのまま。三等以下か」
これは悪魔ですらない、悪魔の腐り果てた魂の欠片から生まれる生き物。単独では存在し得ず、ファミリア(使い魔)として使われることがほとんどである。
クレインは懐から銀の十字架を取り出し、静かに祈りながらそれを足元の生き物へ突き立てた。甲高い悲鳴の後、その生き物はしゅうしゅうと硫黄の匂いのする煙をあげながら朽ち果てた。
――本命はどこにいる?
クレインは再び駆け出した。彼が何より憎むもの、彼が何より呪うものをこの地上から退去させるために。
そんな彼にとってはありふれた日常/地獄から数日後。
「……またか」
その男は呆れたように溜め息を吐いた。クレインは悪びれた様子もなく作業台へ靴を置いて首を傾げた。
ここはクレインがたまに訪れる靴屋であり、男は店主であり職人である。鳶色の目が一度クレインを見てから、手元に――革を打っている――落ちる。
「あんたの靴は消耗が異常に早い。何をしているのかは僕の知ったことじゃあないし興味も無いが、物を雑に扱う奴にろくな人間はいない」
「雑に扱っているわけじゃない。貴方の靴は本当に使いやすくて助かっているし、出来る事なら長く使いたいと思っているが……」
クレインが落とした視線の先、作業台の上に鎮座する靴は明らかにくたびれた様子である。細かな傷と汚れ、減った踵、削れたつま先。
「俺のような人種にとって……いや、俺に限らず靴は生命線だ。人間は裸足で長く走れるようには作られていない。いざという時に靴が駄目になっていて走れないなんて論外だ、だから」
「わかったわかった、直しておく。三日後だ」
「予備にもう一足用意してほしい。そちらはいつでも構わないから」
これで足りるか、と袋から硬貨を取り出し作業台の隅へ並べたのをちらりと見て、男は片手で壁際の椅子を示した。
「新しいものを作るなら採寸も更新する、そこにかけて待っていろ」
「別に前のままで、」
「待っていろ」
静かな、だが有無を言わせない調子の声にクレインは椅子へと向かい、男は採寸道具を取りに奥へと向かった。
……クレインの足はごつごつとしている。土踏まずはきれいに弧を描いており、指もしっかり地面を掴んでいるが、細かな傷が目立つ。男はその足を持ち上げ様々な角度から眺めてから型紙の上におろし、印を打ってゆく。
「また大きな怪我をしたな」
「わかるのか」
「足は人間のすべてを支える場所だ、すぐに歪みが出る」
そういうものか、そういうものだ、というやり取りを最後に店はしんと静まり返る。クレインの目は男の背に一瞬翼を見たが、気のせいだと自分に言い聞かせた。
クレインが店を出た後、作業台の前に座った男は道具を広げ、作業を開始した。
とん、とん、と型に当てた革を叩く。その一打一打が靴へと見えない祝福をかける。いつの間にかその背で翼が、頭上で光輪が揺れていた。
男は職人であり、同時に天使である。後者であることを彼は不本意に思っているが、天使であるからこそ彼の靴には奇跡が宿る。持ち主をほんの少しだけ守る祝福が施される。
彼の手から生まれる靴は祝福なしでも十分に良質なそれだが、祝ぎの力も確かである。走りやすく、疲れにくく、癒えやすく。靴に求められる要素を強化し、少しだけ特別な後押しも乗せる、ただそれだけのことだが……彼はけして手を抜かない。
それが職人としての矜持なのか天使としての慈愛なのかは、誰も知らない。