眠らぬ咎人をその男はまだ知らない 中央区にある教会の廊下を、一人の男が歩いていた。室内だというのに分厚い外套をその身に纏い、長い足を動かす度それが翻っていた。
クレイン・オールドマン。悪魔討伐に関わり始めて十年以上経つ敬虔な神の戦士であり、中央区に所属する神父である。常に各地を飛び回ってその鎚を振るっている彼はあまりひとところに滞在しないが、こうして今日この教会を訪れていたのには理由があった。
今、クレインの懐には一巻きの書簡がある。手ずから認めた報告書だ。前線での働きに特化した彼は書類仕事を苦手としていたが、毎回のように締め切りぎりぎり――下手をすれば期限切れ――の書類を回している同期の友人に申し訳ないと思う気持ちは一応あり、今回はなんとか不備の無いように仕上げた報告書を直接提出すべくこうして教会を訪れていた。
その毎回迷惑をかけている同期の友人は名をマルコ・スクリフトといい、クレインとは二十年来の付き合いだった。幼馴染というには出会った時期が遅く、親友というほどには距離が近くもなく、「腐れ縁」と呼ぶのが最もしっくりくる間柄である。
そのマルコが仕事をしているであろう部屋へ向かうクレインの片手には紙包みが抱えられている。出向先で手に入れた茶葉である。いつも迷惑をかけている詫びに手土産を持ってくる程度の気遣いは、この無骨な男でも持ち合わせている。
……そう経たないうちにマルコの部屋の前へと到着したクレインは、
「入るぞ」
返事も聞かずに扉を開けた。どうやら着替え中だったらしいマルコが慌てた様子で上着のボタンを止めながらクレインへ背を向けたが、……ふとクレインは違和感を覚えた。一瞬だけ見えた肌に、何か……そう、痣や傷跡の類とは違う、文様のようなものがあった気がしたのだ。
「マルコ、お前入れ墨なんて入れていなかったよな」
「ええ、当たり前でしょう」
その言葉を聞くとクレインは大股にマルコへと距離を詰め――乱暴に机へと紙包みを置き――、徐にその手を相手の襟元に伸ばした。
「ちょっと脱げ」
「は?」
目を瞬かせたマルコは、クレインの手が無造作にボタンを外し始めたのを見てぎょっとした様子でその手を掴んで抵抗した。
「何が悲しくて男に服を脱がされないといけないんですか!」
「だったら自分で脱げ!」
「嫌です!」
マルコよりクレインの方が体格には恵まれているし、そもそも事務職と現役の戦士では体の扱い方への習熟度も違う。マルコは瞬く間に床へと組み敷かれ、その服に手がかけられる。既に襟元ははだけかけており、クレインが引きちぎらんばかりの性急さで残りのボタンを外そうとしたその瞬間、突然その体が吹き飛んだ。
「……ぐ、」
床に転がったクレインは、蹴りを入れられた脇腹を押さえて呻きながら半身を起こす。マルコを庇うように立つ乱入者を見、苦々しげに名を呼んだ。
「……アスール」
「貴方がそんな人だとは思わなかった」
銀色の髪が逆光に煌めくのを、罪人が自らを裁く刃を見るように見上げてクレインは頭を振った。
「違う、俺は」
「ハイネさん違います、我々は喧嘩をしていただけです」
疑わしげに振り返った乱入者、アスール・ハイネという名の聖職者を見るマルコは真面目な顔をしている。
「大体、クレインと私でそういう雰囲気になると思いますか?」
「それは……確かに」
納得したハイネ神父は床の上で苦虫を噛み潰したような顔をしているクレインの元へ近付くと、申し訳なさそうに片手を差し出した。
「すみません、先輩。その……誤解してしまって」
「……いや、紛らわしいことをしていたこちらも悪い」
その手を握って立ち上がり、服の埃を払う様に叩きながらクレインはマルコを見た。睨んだ、と言ってもよい。
「次に会う時までに覚悟しておけ」
それだけ言い放ち踵を返すと、部屋を後にする。残されたマルコとハイネは顔を見合わせたが、大丈夫だとマルコがハイネを送り出す。
「……」
マルコはどこか思い詰めたような顔で、胸元のボタンを押さえた。
中央区が悪魔に襲撃されたのは、それから一月も経たないうちのことだった。
火の手があちらこちらであがる街をクレインは駆けずり回った。避難誘導から悪魔の討伐まで、実働部隊である彼にはやるべき事が山積していた。中央区へ戻っていた筈の同僚たちとも情報が錯綜した結果合流出来ず未熟な新米たちを率いることとなったクレインは、結果だけを述べるなら、それなりの怪我を負ってしばらく療養生活を余儀なくされることとなった。
一方のマルコは襲撃が終わってからが本番だった。滅茶苦茶になってしまった資財の計上、復旧の手配……通常の業務も放っておくわけにはいかないため、時間は幾らあっても足りない有様だった。その状況で仕事以外の用件で他人と会う時間などとれるわけもなく、クレインが負傷したという噂を聞いたところでどうすることも出来なかった。
つまるところ、二人は結局あの一件から――ハイネ神父に誤解されそうになった件から――まともに顔を合わせて話をしてはいなかった。それは、いつでも話は出来るだろうという甘えだったかもしれないし、不穏な予感からの逃避だったかもしれない。いずれにせよ彼らは対話を先送りにしており、……ひどく危ういバランスで関係を維持していた。
おそらくあと一押しで、この平穏は崩れるだろう。