鳥籠 男は両袖を捲り上げ、露わになった肌に十字架が押し付けられるのを黙って見ていた。
「……問題ありませんね。お入り下さい」
袖を戻しながらその教会へ招き入れられた男は名をクレイン・オールドマンといい、中央区に所属する中堅どころの神父だった。今回訪れた教会は知人が管理しているものであり、そして、とある娘のいる場所でもあった。
……この教会にいる聖職者見習いの娘は、天使と人との子だった。見た目は翼も光輪もない人間の姿でしかなかったが、どこか不思議な目をした娘であった。クレインはひょんなことから彼女と知り合い、それ以来こうしてたまに顔を見に来ている。
この教会の深部に入る際は穢れの確認がされ、一定以上の値を示すと――普段からその身を清らかに保つことに神経質なほど気を使っているクレインは引っかかったことはないが――禊を行わせられる。それは教会を清らかに保つためであり、些か厳しすぎるきらいはあったがクレインはそれを不快に思うたちの人間ではなく、面倒な手順にも嫌な顔ひとつせず従っていた。
「オルガ嬢は元気ですか」
「ええ、変わりありませんよ」
神父と話しながら廊下を歩く。いつ来てもこの教会は静かである。クレインが会いに来た娘がいるであろう部屋の前で神父は足を止め、どうぞと一言告げてから目礼し立ち去った。はじめの頃は毎回立ち会っていたが、最近は仕事がある場合そちらを優先しているようだった。
少しは信用されているらしい、と思いながらクレインは扉をノックした。
……娘の世界は狭く、教会と、時折訪れる父親――こちらが天使である――、たまにある来客が彼女の小さな世界を構成していた。
オルガという名のその娘は、質のよい法衣とヴェールでその身を包み、裸足でぺたりと床に座っている。そしてそのまま壁に向かって絵筆を動かしていた。
壁に、絵が描かれている。
真円が幾つも重なる夜空。大きく翼を広げた天使のような生き物。燃える炎を押し流す大河。
澄んだ目をしたその娘は、黙々と絵筆を動かし続ける。幼子のように、あるいはひとではないかのように無垢な眼差し。緩く瞬きをする度、睫毛がその瞳に影を落とすようだった。
不意に部屋の扉がノックされ、振り返った娘は来訪者の姿を見てぱっと表情を明るくして立ち上がった。
「おじさま! お久し振りです!」
小走りに寄ってきた娘を眩しげに見て、クレインは僅かに微笑んだ。
「元気そうでなによりだよ、オルガ。……これはお土産だ」
気に入ってくれるといいんだが、と差し出された小包を受け取り感謝の言葉を述べた娘は、中を見るように促されるまま小包を開いてきょとんと瞬きをする。
「……? おじさま、これ……」
「絵の具だ」
「私、に?」
「ああ、君は絵を描くだろう」
怪訝そうにクレインを見上げた娘はじわじわと状況を理解したらしく、頬を上気させて花の咲くような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、おじさま!」
娘と語らう時間はあっという間にすぎ、日が傾き始めてきた頃にクレインは教会を辞することにした。
また来て下さいね、と言う娘に返す言葉がいつも曖昧な肯定なのはクレインなりの誠意ではあるが、卑怯さのあらわれでもある。娘に語り聞かせる「外のお話」は自らの体験ではなく知人から仕入れた比較的希望のある優しい話で、己が普段どんなことをしているのかをけして彼女には告げず、……二度と姿を見せなくなる可能性を匂わせないように細心の注意を払っている。
――天使の子に目隠しをしているのはその父親だけではない。
クレインは己の欺瞞を自覚していたが、それが間違いだとは思っていなかった。あの娘を清らかな場所に置き、柔らかな縄で縛ることを是としているのは彼女の父親……つまりは天使の意志なのだから。
教会を出立し、少し歩いてからクレインは振り返る。
優しく冷たい鳥籠が、そこにあった。