日々は続く 「彼女」が消えてから少しの月日が経った。めでたしめでたしにはほど遠く、平和も安寧も訪れてはいないが、フロレンツィアは確かに前へと進んでいる。
クレイン・オールドマンは実践派神父として各地を飛び回っていた。四十路も目前となり、全盛期に比べれば肉体は大分衰えているが、経験と知識と意志が彼を支えていた。
――誰かのために戦う。それがクレインの行動の根幹にあるものだ。悪魔はいなくならず、人心は乱れており、クレインのような人間を必要とする場面はまだまだ多い。つまるところ彼は「相変わらず」であった。
「神父さま! 寄ってってよ!」
露店のひとつから飛んできた声にそちらを見たクレインは、小さく苦笑してからそちらへと進行方向を変えた。向かう先にある店先では、まだ幼さの残る青年が果物を売っていた。
「いい感じに熟れてるよ、どう?」
艶々とした新鮮そうなチェリーを差し出され、クレインは僅かに目を細めた。
クレインは市場へ来ていた。かつての賑わいにはまだ遠いが、人々が行き交い大きな声が飛び交う様は長い間見られなかったものだ。チェリーを一袋買ったクレインは、店先を離れながら一粒取り出し隣を見た。
「チュスも食べますか?」
「じゃあ一つもらおうかな」
隣にいるのはクレインより幾らか年上の、落ち着いた雰囲気の中年男性である。暖炉の火にも似たあたたかなバーミリオンの目がクレインを見ている。
……変わらないものはクレインの生き方だけではない。あの動乱の中で築かれたものは、今でも確かに生きている。この二人の友人関係もそうであった。
チュス・レオーネ、地上で暮らすこの天使はその居を一時的にクレインの教会へと移していた。停滞から解放されたフロレンツィアはその揺り戻しも大きく、治安が悪くなってしまった場所も多い。身を守るすべのないチュスを、クレインが自分の教会へと招いたのだ。
放っておくとほとんど出歩かないチュスを、クレインはたまにこうして連れ出した。毒にも薬にもならないような話をしながらぶらつくだけの時間は、クレインにとってとても尊いものだった。
市場の喧騒を抜け出し、少し離れた場所から賑わいを眺めるクレインの横顔は眩しいものを見るような表情をしている。
「ほんとうに……あの頃とは見違えるみたいだ」
「そうだな」
「あの頃は……夜眠る度、明日起きたら皆目覚めていないだろうかと考えていました」
そう囁くように告白してから、クレインはチェリーを口に含んだ。少ししてから種を吐き出し、唇を指で拭う。
「結局次の日も俺は一人で目を覚まして、しんとした、生活の気配なんてまったくしない朝をすごすんですけど……それでも夜にはまた期待してしまう。明日は、明後日は、なにかが変わるかもしれないって」
チュスは黙ってクレインを見ていた。ぽつりぽつりと落とされるクレインの言葉は懺悔に似ていて、俯いた顔は祈る姿に似ていた。
「でも」
くしゃり、とクレインの顔が歪む。それは泣き出しそうにも、笑い出しそうにも見えた。
「今のこの国は『俺たちだけ』じゃないんです。物価は安定しないし治安は悪くなるし外交問題もあるけど、こうして自分の足で歩いて、食べて、喋っているのが俺たちだけじゃない! それがとても……とても……」
クレインは言葉に詰まり、唇を震わせた。……そっと伸ばされたチュスの手がクレインの頭に触れ、子供でも慰めるように撫でる。少し困惑したように身じろぎしたクレインは、その行為がなおも繰り返されるとわずかに眉を下げて笑った。
「君たちが頑張ったから今があるんだ、胸を張って笑っていなさい」
「……ありがとうございます」
年の割に幼げなその笑顔につられたようにチュスも微笑む。クレインは少し気恥ずかしそうに笑みを引っ込めると照れ隠しのようにチェリーを口へと放り込んだ。