二人酒 クレインは思案顔で教会の一室にある机に腰掛けていた。その手には一瓶の葡萄酒が持たれている。
クレインは酒を積極的には飲まない。付き合いで嗜む程度である。これは今回の作戦で知り合った現地の聖職者に貰ったものだった。今年の葡萄酒は出来が良い、という相手の言葉通り、試しに少しだけ飲んだそれはクレインでもわかるくらいに良い品だった。
廃棄するのは申し訳ない。しかし後輩に譲ろうにも彼らは当然ながら聖職者であり、聖職者の酒盛りを推奨するような行為をするのは抵抗があった。また、儀式用に加工しようにもこれをここ東区から中央区まで持ち帰るのには手間がかかる。
――どうしたものか、と悩んでいたクレインの頭にふとある友人の顔が浮かんだ。……彼は聖職者ではなく、多少深酒したところで問題はあるまい。彼に贈ってしまえばよいのでは?
善――かどうかは不明だが――は急げとばかりに、クレインは壁にかけてあった外套を掴むと部屋を後にした。
靴工房レオーネ。東区の一角にあるそれは、当然ながら一般人が営んでいる店ではない。民は漏れなく昏睡し――でなければ自意識を失って――いるこの国で店を構えられる者がいるとしたらそれは聖職者か……悪魔、もしくは天使である。
工房内の作業スペースで靴を仕立てている男の背には白い翼が不格好に生えており、頭上にゆらりと光輪が揺れている。……この工房の主は天使だった。名を、チュスという。
黙々と手を動かしていたチュスは、ふと顔を上げると工房の入り口の方向を見た。少しの間そちらを眺めた後、再び手元へ視線を落とす。その直後、ふわりと空気に溶けるように翼と光輪が消え、
「こんにちは」
工房の入り口から、長身の影が中へと足を踏み入れた。その男は奥の作業スペースが見える場所まで来ると、軽く会釈をする。
「いらっしゃい。……もう駄目にしたのか?」
「いや、今日は靴じゃなくて……これを持ってきた」
男の……クレインの持ち上げた片手には酒瓶が握られている。チュスはそれを見て怪訝そうに眉を寄せてから立ち上がった。
「……葡萄酒か?」
「ええ。貰い物で、どうも良い品らしいんだが……俺はあまり飲まないから。よければ貴方が飲んでくれないか」
作業台の脇を回ってクレインへ歩み寄り瓶を受け取ったチュスは、それを日に透かすなどしてためつすがめつ眺めると、ふむと頷いた。
「確かに品は良さそうだ。ありがたく頂くが、一人で飲むものではないな……折角だから君も飲んで行きなさい」
「俺も?」
戸惑うように瞬きをして、クレインは窓の外を見る。日は沈みつつあり、杯を交わすのに早すぎる時間というわけではない。
「……じゃあ、少しだけ」
その返答を聞いたチュスは、エプロンの紐をほどきながら目線で店の奥を示す。
「それを持って奥の部屋へ行っていてくれ、僕もすぐに行く」
「ん」
クレインは言われるまま酒瓶を持つと奥へと向かった。男独り暮らしの部屋に華やかさなどある筈もなく、シンプルな机の上に瓶を置いてから外套を脱いで無造作に椅子の背へかける。少しして、杯と皿、それからチーズの塊を持ったチュスが姿を見せた。
そうして、ささやかな晩酌が始まった。
……チュスの酒を飲むペースは早く、それに付き合えばそう酒に強くない己は潰されるだろうことを理解しているクレインは、慎重に飲む速度を調整していた。
ナイフで薄く削ぎ取ったチーズをつまみつつ、不用意に杯を空にしないように気を付けながら――空になるとすぐに次の一杯を注がれてしまう――囁くような声で喋るクレイン。自死をはかった際に傷付けてしまった彼の喉は張りのある声を出してはくれない。普段はそれでも努めて声量を上げているが、静かな夜に二人で杯を傾けるだけならその必要はない。
クレインの顔色はほとんど変わっていないが、教会にいる時よりもリラックスした表情をしている。対するチュスも若干表情が柔らかく、会話の合間に時おり小さく笑い声をあげた。
「ああ、そろそろ俺はこの辺で」
……飲み始めてから暫く経った頃、窓の外に月が見え腰を上げかけたクレインを、鳶色の目が不満げに見た。
「もう帰るのか」
拗ねたような、不本意そうな口ぶりで言うチュスに、クレインは少しだけ眉を下げた。
「十分頂いたので」
「そんなに飲んでいないだろう」
「そりゃあ貴方に比べれば」
重ねた杯の差は倍近い。クレインが酒を飲み慣れていないがゆえにかなり控えめに飲んでいたということを差し引いても、チュスの飲酒ペースは早かった。それでも酔い潰れてはいないのだから流石と言うべきか。
……なんだかんだと食い下がりクレインを引き留めようとする様は、明らかに酔いの兆候ではあるが。
「明後日には中央に戻っておきたいので」
「……そうか」
最終的には不承不承ながらも引き下がったチュスを見て、クレインはこめかみのあたりを指で揉みながら何やら考え込むような表情をした。それから口を開いて、
「……わかった、わかりました。また近い内に来るから。その時は時間に余裕持たせて、朝までだろうが何だろうが付き合うから」
それでいいですか、とお伺いをたてたクレインに、チュスはどことなく満足げに頷いた。