救済の後 ――もういい。
俺は十分頑張ったと思うんだ、なあ、もういいだろう。
許してくれたっていいだろう……!
目覚めた瞬間腹部に響いた鈍痛に、クレインは思わず呻き声をもらした。
「クレイン君! ……よかった」
「……チュス? 俺は……どうして、」
クレインは混乱しながらも状況を整理しようと周囲を見回した。……まず、己は冷たい石畳ではなくベッドに横たわっている。屋根と壁がある、つまり屋内である。暖炉には火が入っている。家具の配置には見覚えがあるが見慣れているというほどではなく、クレイン自身の家ではない。ここはそう、友人の家だ。
目の前には二人の人間がいる。一人はチュス・レオーネ、この家の主であり、クレインが命懸けで守り切った友人だ。そしてもう一人は見覚えのない年嵩の男性で、身形からして聖職者と思われた。怪訝そうな視線に気付いたのか、その男性はクレインを安心させるように微笑んだ。
「私は医者です、もう大丈夫ですよオールドマンさん」
チュスに呼ばれてきたのだというその医者は――正確には教会勤めの神父であるが、便宜上こう呼ぶことにする――、医者らしく穏やかで落ち着いた声をしていた。
「加護を賜っていたのが幸いだったのでしょう、穢れはほとんど消えていますし、内臓に損傷もない。貴方の守護天使様に感謝しなければいけませんよ」
「え……あ、はい……?」
――あの時、確かに腹の中身を抉られる感覚があった。考えるまでもなく「これは死ぬ」と確信した。それが今こうして生きているというだけでも不可解だというのに、加護? 加護と言ったのかこの医者は?
クレインは困惑しながらも曖昧に頷いて、そして、視界の端でどこか決まり悪げにこちらから目を逸らしているチュスに気付いて深く眉間に皺を刻む。
もう少し落ち着いたら治療院に移動しましょう、と医者が準備のために一度帰った後、部屋はしんと静まり返った。
「……加護というのは」
低く掠れた声は、不思議とよく部屋に響いた。
「僕だ」
静かに答える声もまた。
「君を……死なせたくなかった」
鳶色の目はどこか怯えるような色をしているようにクレインには見えた。が、すぐにそれは睫毛に遮られわからなくなる。
「……最後に翼を見たような気がしました。気のせいじゃなかった……」
溜息を吐くように呟いたクレインは、ベッドの上で僅かに身じろぎし――響く痛みにクレインが呻くと、チュスが何か声をあげかけてやめた――昏い目で窓の外を見た。すっかり日は暮れており、よく晴れた夜空に星が瞬いている。
「……て、…………なかった」
「……え?」
不意に囁くように、絞り出すように紡がれた言葉があまりにクレインの現状と不釣り合いだったため、チュスは思わず聞き返した。だがその確認によって我に返ったクレインは、はっと息を飲んでから頭を振った。
「いえ、……貴方にお慈悲を賜ったお陰でこうして生きているのですから、感謝しなければいけませんね」
静かな声は、その紡ぐ言葉は、普段のそれとはまったく違う。真っ直ぐ相手の目を見て話すことが多いクレインにしては珍しく伏せられたままの目、暗いそれには常であれば見られない感情……おそれが色濃く滲み出ていた。そしてもう一つ、おそれよりも強い、戸惑いの色。
「……今までのご無礼に謝罪を。知らなかったこととはいえ、」
「必要ない」
どこか硬い声がクレインの言葉を遮る。ベッドの上でクレインの体が強張った。
「隠すつもりはなかった。……ただ僕は、君とは対等な関係でいられると……いや、……残念だ、クレイン・オールドマン」
それは拒絶だった。……正確にはそれは彼の諦めであったのだが、平時の落ち着きと冷静さを取り戻していないクレインにはそれを感じ取ることは出来ず、ただ強く深い断絶だけを感じて拳を握り締め口をつぐんだ。最初に「友人であること」を放棄したような態度を取ったのは己であるというのに、いざ相手に突き放されると腹の奥の辺りが――恐らく傷とは関係なく――痛んだ。
「僕がいてはゆっくり休めないだろう。向こうにいるから、何かあったら呼んでくれ」
そう言い残しさっと踵を返して部屋を出るチュスを、クレインは引き止めることが出来ずにそのまま見送った。喉の奥に何かものが詰まったような、口の中が乾くような感覚。傷の痛みが邪魔をしてうまく頭が働かず、クレインは何もかもが億劫になって目を閉じた。それから両手で顔を覆い、長く息を吐く。
――どうして死なせてくれなかった。
嘆きに似た言葉が、誰にも受け取られないまま部屋をたゆたっていた。
その後クレインは治癒院に移送されたが、十日足らずで退院し中央区へと帰還した。傷の治りは医者が目を瞠るほど早く、加護を授かった際に受けた光力の名残が影響していると思われた。一月後には通常の任務形態へ戻りまた各地を飛び回り始めたクレインは当然東区を訪れることもあったが、チュスの工房へ顔を出すことはなかった。
天使に加護を賜ること自体は聖職者にとって誉れであるし、死ぬところを救われたのだから感謝すべきである。クレインもそれは重々わかっていたが、どうしても気持ちが追い付かなかった。夜、寝室で己の足をさすり、足裏に浮かび上がっている聖痕を指先で探っては物憂げに溜め息を吐く日々が続いた。
――語り合うべき友人か。
――ひれ伏すべき御使いか。
その答えを、クレインはまだ出せずにいる。