St.バレンタインに クレイン・オールドマンは悩んでいた。自分の所属する教会の一室で、机の上をじっと見詰めていた。机の上には小さなブーケが置かれている。……聖ヴァレンタインの祝日の贈り物である。クレインはこういった行事を大事にする性質の人間であり、非常時だからこそ人々のささやかな交流をおろそかにしてはならないと思っていた。
だがこのブーケは「人」のために用意したものではない。「天使」のために用意したものである。
その天使の名はエルダフラウ。クレインがかつてその命を救われた相手である。ただ一度だけ神を呪ったあの日、絶望の中で生を放棄したあの日、自ら絶とうとしたした命を繋ぎ合わせたのがエルダフラウである。その僥倖には伏して感謝すべきであるというのに、クレインはそのとき感謝するどころか、
「……」
過去に巡らせていた思考を中断し、クレインはブーケを手に取り部屋を出た。向かったのは礼拝堂だ。綺麗に整えられてはいるがけして大規模なものではないそこにある祭壇にブーケを置き、その前に跪く。顔を伏せ、瞳を閉じ、そっとロザリオを手繰った。
――天使エルダフラウ。
少年の姿をしたかの天使の名を口にすることは出来ない。彼に捧げる祈りをクレインは持ち合わせていない。病み傷つき弱っているものを繋ぎ止めることこそがエルダフラウの本懐であり、傷付け打ち倒すことを生業とするクレインが呼ぶべき天使ではないのだ。クレインが呼びかけるべきなのは戦場を飛翔する戦士、あるいは信仰の光を携えた導き手である。
それでもクレインは、エルダフラウに捧げるべきブーケの前で静かに祈りの文句を囁き続けた。彼に捧げる祈りを知らずとも、呼ぶ術がなくとも、今日この日に伝えるべき感謝は確かにここにあった。
……どれくらいの時間が経っただろう。一瞬だったかもしれないし、聖体礼儀が終わるくらいの時間だったかもしれない。ふと爽やかな花のような匂いを嗅いだ気がして目を開けたクレインは、肌がひりつくような心地がしてはっと頭上を見上げた。
まず光が見えた。
それから、小柄な人影が見えた。
ふわりと広がる白い花の塊と、赤い腰布。
「……エルダフラウ、さま」
低く掠れた声は僅かに震えている。おそれではない、怯えだ、己の傲慢さと不誠実さと不義理に対する罰を求める魂が、子供のように震えているのだ。
「呼ぶ声が聞こえたから来てみたが、……どうした」
その白い花で作られた翼を動かしながらゆっくりと着地したエルダフラウは、跪いたままそっと顔を伏せたクレインを見下ろした。目は閉ざされているが、その眼差しは確かに感じられる。
クレインは一度深呼吸してから、祭壇に置いていたブーケを取り上げた。
「今日は聖ヴァレンタインの祝日です。……大切な誰かに感謝と愛を表明する日です。ですから……エルダフラウ様」
白くみずみずしい花で作られたその小さなブーケを、クレインはどこか恐る恐る差し出した。
「……貴方に感謝と、謝罪を。かつての私は貴方にひどい……とてもひどいことを言ってしまった」
白く小さな手が――だがけして華奢ではない、それは尊いものを掬い上げる手だ――ブーケを受け取り、まだ若さの残る声が落ち着いた調子で言葉を紡ぐ。
「非常時だった上に、意識も朦朧としていただろう。そこまで気に病まなくても良い」
「ですが! ……ですが、それでもあれは、貴方に言ってはならない言葉だった……!」
――どうして死なせてくれなかった!
「思ってもいないことを口走ったわけじゃあない、あの時そう思ってしまったのは事実です。貴方は私に手を差し伸べてくれたのに、それを打ち払い唾を吐いた私の傲慢さときたら……」
一度服の裾を強く握ってから、クレインは怯えるように伏せていた顔を上げた。
「……貴方があの時私を生かしてくれたから出来ることがあったと、思えるようになったのです。貴方が私を生かしてくれたから、私は大切なものを取りこぼさずにすんだ」
深く暗い緑の目が静かにエルダフラウを見詰めている。囁くような声は真摯で、もう震えてはいない。
「天使エルダフラウ、私はもう、あの時死ななかったことを……今生きていることを後悔したりはしない」
雲が流れたのかふと日差しが窓から差した。眩しげに目を細めてから、クレインは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございました、エルダフラウ様。あの時貴方に救ってもらえて、生き永らえられて、本当によかった」
すう、とエルダフラウが一度息を吸って止めた。閉じたままの目が、その緩やかな曲線が僅かに震える。
「……そうか」
ぽつ、と呟いた声。
「……そうか……よかった、」
――生きることを肯定できるようになったんだな。
胸元に抱いたブーケに鼻先を近付け、すん、と匂いを嗅いでからエルダフラウの唇が綻んだ。