刻みたい 契約をする前、春は人間の区別がついていないようだった。
彼曰く、始が魔物の区別がつかないのと同じ、ということらしいが本当かどうかはわからない。
最初は関心がないのだと思っていた。
けれど人の気配には聡かったし、眉間に軽くしわを寄せながら見ようとはしていた。
わからないというのは嘘ではないらしい。
始と契約をして己に名前がついたせいだろうか、誰に対しても名前を聞いて覚えるようになっていた。
誰かと話すことも春は楽しいらしい。
始だけが彼に認識してもらえるというかすかな優越感は失って残念な気持ちもあるが、春が人間の街で馴染んでいる姿を見るのはもっと嬉しかった。
屋敷近くで茶屋を営む葵と夜を始は訪ねる。
「始」
扉を開けると同時に春の声が耳に飛び込んでくる。両腕に笹熊を抱えて座る姿はふわふわとしていてとても最強の種族とは思えない。
けれど始が来るよりずっと前にその存在は感知していたのだろう。
獄族としての鋭敏な感覚ゆえだとわかっていても、悪い気はしなかった。何度同じことを繰り返しても始の気持ちは浮き立つのだ。
「始さん、いらっしゃい」
「皆さんお揃いですよ」
店の奥から出てきた葵と夜が始を迎える。
「ねえ、始」
ハルルと名付けた笹熊を手渡しながら春が呼びかける。
「人と話をするのは楽しいね」
「そうか」
「俺の知らないことがたくさんあるなんて、千年生きていても知らなかったよ」
人間という種族は面白いと笑う春の生きた時間を始は想う。
傍にいることを望みはしたが、春と隣り合っていられる日々は彼のこれから生きるであろう時間よりも短い。
だからこそ始という存在を春の中へ強く刻みつけておきたいと願っている。
未来永劫、その果てさえも飛び越えて。