三日月とお茶 三日月の夜。
そよ風に吹かれながら屋根の上に座っている。
明かりのひとつひとつに人間がいるというのは不思議な光景だ。
街をぼんやり眺めていたら声がかかった。
「春」
返事をしようか少しだけ迷う。
すこし前から見られていたのは気づいていた。強い陽の気は夜の闇でもはっきり感じられる。
「なあに?」
「いい加減降りてこい」
「どうして?」
視線を真下へ移し、暗がりの中、俺を見上げる始を見た。
日中はつけている髪飾りもこの時間は外している。上着を羽織ってはいるが、夜着の始はもう寝るつもりなのだろう。
「ああ。……おやすみ、始」
そういえば寝る前の挨拶はしていなかったね。袖ごと手を振ったらそうじゃないと始が言う。
「寝るんでしょう? だいじょうぶ、君の眠りが安寧であるように見ていてあげるし、なにかあれば俺がどうにかするから安心していいよ」
「春」
とがめるような口調。
どうも始の言いたいことがわからない。
「なぁに?」
「降りてこい」
「どうして」
「良い子は寝る時間だ」
「残念。俺は良い子でもないし、どちらかと言えば悪い子じゃないかな」
「はーる」
「獄族の俺にとっては夜は寝る時間じゃない。……何度も言ったと思うけど」
新月に近づいている今は陰の気に満ちている。
魔物は陰の気が強いほど力を増すのだ、獄族も例外ではない。始だってわかっているはずだ。
始がため息をついた。
「お茶を飲まないか」
急な話題変換。
なるほど、どうやっても俺を屋根から下ろしたいらしい。あれこれと手を変えてくる始は面白い。
彼の淹れるお茶も好きなので頷いた。
「いいよ」
曲げていた膝を伸ばし、爪先にほんのわずか力を込める。それだけで俺の身体は始の前に立っている。
「言いたいことがありそうだ」
始の目を見ると顔をしかめられた。
「そうでもない。行くぞ」
すぐに始が背中へ向ける。
夜風がさらった始のつぶやきは俺の耳へ届いてしまった。
「月ばかり見るな」
そういうことか。俺はようやく理解した。
陰の気に満ちた今夜は獄族にとっては力が溢れるけれど、契約者である始はそれに引きずられたらしい。
あふれるような陽の気を持つ始でもつらいのか。
身体がつらいからやめてくれと言えばいいのにおかしなものだ。始は素直じゃないなぁ。
これだから人間は、始は面白い。
「待ってよ」
俺は始の後を軽やかに追った。